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またねと種 - 気づけない最後 -

祖父が救急車で病院へと運ばれたのは、2019年の末のことだった。末期の大腸がんで倒れ、歩行もままならず、要介護の認定を受けた。
「また会いに行くね」
退院後、施設で暮らすことになった祖父に、私は電話をした。

またね、という言葉には、水分が含まれていると思う。次回がある、という確信や期待。
またね、に含まれる水分量は、相手との関係性によって変わる。その相手に対して、次回を期待する気持ちが大きければ大きいほど、またね、で心はうるおう。心のなかで水を欲していた種は、待ってましたとばかりに水分を吸収しにかかる。でも、芽吹いたところで、日光(次回)がなければ育つことはできない。

2020年に入るとすぐに、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、人との接触を避けなければならなくなった。祖父が入居する施設は、面会の禁止を決めた。少しの我慢。そう思っていたけれど、あっという間に2年半が過ぎた。
その間に私は、2人目の子どもを授かった。出産中の立ちあいも、入院中の面会も、感染拡大防止の観点から叶わなかった。産後、病院のベッドで横になりながら、なんとなくスマホのアルバムを見返していた私。ふと目にとまったのは、祖父が上の子を抱っこしている写真だった。生まれて10時間も経っていなかったのではないだろうか。初曾孫の誕生を知るなり病院へとかけつけ、ゆるんだ口元を引き締めることもせず、「ふにゃふにゃで怖いわぁ」と、恐る恐る抱いていたところだった。このときは元気やったなぁ、いまどうしてるんかなぁ。ほんの数日の入院でも感じる孤独のなかで、祖父の生活を思った。
2022年、4本目の新型コロナウイルスのワクチンを打ったという祖父との面会は、まだできないままだった。こんなにも長く家族と会えないなんて、心を病んでしまうのではないか、と案じたが、認知症も患っていたため、もうどのくらい家族のことを覚えているのか、定かではなくなっていた。
その年の10月、祖父は誤嚥性肺炎になり、再び入院した。余命1週間だと医師から連絡があった。あと1週間なのかと慌てる家族の、準備と覚悟を待ってくれるかのように、祖父は持ちこたえた。
でも、面会の規制が撤廃されるよりも先に、祖父の体力は尽きた。死に目はおろか、3年間会うことができないままだった。それでも、故人の顔を見られるのだから、よいほうだと聞いた。もしも祖父が新型コロナウイルスに感染していた場合、火葬を済ませて遺骨だけが渡されることになっていたそうだ。
祖父の遺体は一旦、祖母が暮らす家へと帰った。私は下の子を連れ、その誕生すら知らずに逝ってしまった祖父の棺をのぞきこんだ。
「会いにきたで?」
なんの返事もなく、目を閉じたままの祖父に、それ以上の言葉は出なかった。

初めてハイハイをした日、初めて出会った日、初めての1人で旅した日。初めては人生に一度しかない。
そんな貴重な体験の裏で、こっそりと終わっていくものがある。またできるよね、またあるよね、と思っていたことが、なくなってしまうことがある。
そのきっかけは、子どもの成長かもしれない、突然の別れかもしれない、衰えかもしれない。最後に抱っこした日はいつだっただろう、最後に好きと言った日はいつだっただろう、最後にやりたいことができた日はいつだっただろう。
私たちは、事前に最後を知ることができない。終わりが分かりやすいものもあれば、分かりにくいものもある。知らないうちに貴重な最後が連なって、毎日がつくられている。
そして、たまに思い返す。気づき忘れてしまった、最後を探して。

私は祖父の心に、またね、の水を与えた。でも、芽吹いたであろう種に、日光を浴びせることができなかった。
追悼の意を込めて。
これから出会うさまざまな、またね、から芽吹いた種が、たくさんの日の光を浴びて、素敵な花を咲かせますように。

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