4LDK (2)西山と東子
最近お気に入りの時間の過ごし方がある。
朝早く職場に行き、その分仕事をちょっと早く終えて。夕暮れ時、誰もいない家で一人ワインを飲む。
テレビもつけず、ゆったりとした音楽を聴きながら。一口ずつ、ていねいに、味をたしかめながら。
今日はイタリアの赤ワイン。シチリアのネロ・ダーヴォラを使ったワインだ。
うまい。酸味が強すぎるのは苦手だがこれくらいならちょうどいい。安いワインだが値段なんてどうでもいい。一人で飲むんだ。自分がうまいと感じるなら、それでいい。
iPhoneからはローリング・ストーンズ、窓の向こうは赤い雲が広がっている。
このたおやかに流れる時間が至福の時。
他には何もいらない。十分にしあわせだと感じられる。
だがこうした満ち足りた感覚を感じられるようになったは、ここ数年のことだ。
中国の古典にこんな言葉がある。
人を知る、相手を知る、そうした知識があるというのは頭のいい人であろう。だが、自分を知ることの方が難しい。自分を知っている人こそが本当に知恵があり生きる力が強い人だ。たしかそういう意味だったと記憶している。
30代の頃、ある経営者が中国古典に精通していると知り少しだけ古典をかじったことがある。その時に知った言葉だ。
その時には、なるほど、自分を知るのは難しいことなのだろうなと思っただけでこの言葉の前を素通りしてしまっていたが、それから25年経った今、ようやくその意味がわかりかけてきたような気がする。
自分のことは自分が一番わかっている。そう思っていたけれど。それがあの頃の自分の傲慢さだったのだとなと、最近わかってきた。
たいていの男の子がそうであるように、みんなに好かれる強くてかっこいい人気者、そういう男に憧れた時期があった。
仕事をする歳になっても、その大きい組織のトップに立って、大胆に決定し、たくさんの人を動かし、強く、優しく、かっこよく、チームの中心に君臨する、そんな自分に憧れていた。
だが、そうではなかった。それが最近自分でわかる。自分という人間はそうではなかった。
自分という人間が得意なのは、自分という人間が生かせるのは、自分という人間が向いているのは、チームじゃない。 ” 一人 ” だ。
何か新しいことを発案し、先頭を切って走り、イチかバチかで攻撃的に進めていく。そういう仕事も自分には向いていない。自分が得意な仕事は、自分が生きる仕事は ”ディフェンス "だった。
そう考えるとこれまでのすべてに納得がいく。
自分が成功だと思っていた姿に近づくと、そこには必ず苦しみが待っていた。望んでいた姿だったはずなのに、一瞬の絶頂感のあとは絶景の滝を真っ逆さまに落ちていくような気分になった。
その都度乗り越えたつもりだったが、そうではなかったのかもしれない。まるで迎え酒で二日酔いをごまかすように。環境が新しくなることでごまかせていただけで病巣は体深くでくすぶり続けていたのかもしれない。
それでもなんとかここまで来れたのは、どんな環境でも意識下で持ち前のディフェンス力が効いていたからだと思う。
大きな成功はしない。けれど大きな失敗もしない。口では「デカいことをやりたい。それで失敗するならそれでいい」と言いながらも、いざとなると体が動かなかった。足がすくみ一歩目が出なかった。結果的にはそれがよかったのだと思う。
東子と知り合ったのはまだ若い頃。まだ俺が自分の姿に理想の幻想をあてはめていた頃だった。
東子は地味でおとなしい女だった。美人で派手で遊び上手な女に疲れたあと、正反対の女に惹かれた。好きか嫌いじゃなく、合ってるか合ってないかで選んだのが東子だった。
その時代の表現ではあるが「嫁にするのにはちょうどいい」と思えたのが東子だった。
東子は俺を安心させてくれた。俺が仕事で遅くなっても、一切文句を言う事は無かった。携帯電話のなかった時代、なんの連絡もせず家に帰らなくても、三日間家に帰らなかったときにも、どこに行っていたのかと聞くこともなかった。
ほったらかしにしてくれるのが、俺にとってはちょうどいい距離感だった。
今思う。
自分の妻は東子でよかったと。東子が俺の妻でよかったと。
今だからこそわかる。俺には東子が合っているのだ。俺が一人になりたい時には一人にしてくれ、俺をけしかけることもなくそっと見守ってくれる。
今でも素敵な女性に出会うことはある。正直に言えば、心が惹かれるころもある。だが、俺のこれまでの人生のパートナーは東子で正しかった。
自分で自分の姿がわからずに、叶わぬ理想だけを追いかけていたころに出会った東子だったが、あの時東子を選んだ、その選択だけは、今でも正しかったと思っている。
東子との出会いは偶然だった。だが好きとか嫌いとかではなく、最初からもっと高い次元でのパートナーだったのだと、今は確信を持って言える。
いろいろ変化を続けてきた自分の人生の中で、東子を選んだことは成功だった。それだけは間違いはない。
だが東子の方はどうだったのだろう。
今のこの状態を見ればわかる。
彼女は満足はしていなかったのだ。
それに気付くこともなく、俺は彼女をほったらかした。もし気付いたとしても、変わらなかったような気もする。
土曜も日曜も仕事で、平日も家に帰らず、将来の話もしない。
そして子供をつくる気配もない。結婚当初からずっとセックスレスだった。
そんな夫に、東子は満足していなかったのだ。
あの日の東子の顔は今でも覚えている。
「あのさ」
とても不自然だった。
たった一言の短い言葉に、そこに何か特別で不穏なものを感じた。
いつものように飲んで帰った夜。
酔っている俺に、東子は言った。
「あのさ」
冷蔵庫にあった水のペットボトルをそのまま口をつけながら俺は東子を見ていた。
東子は黙っていた。
「なに?どうした」
「話がある」
わざと面倒くさそうに、さっさと終わらせろと言わんばかりの態度で、ペットボトルを右手に掴んだまま、俺はソファーに座った。
怖かったのだ。
なぜかわからないが、その先に聞かされるであろう言葉に俺は怯えていた。
「なに? どうした」
同じ言葉を使ってもう一度聞いた。
東子が口を開いた。
ゆっくりと、唇が動く。
何が聞こえたのかよくわからなかった。
だが数秒後に、脳がハッキリと、東子の口から発せられたその言葉を捕まえた。
「子供ができた」
そんなはずはない。おかしい。
そんなことが起きるわけがない。そんなはずはない。だって俺たちは…
口を開けてはみたが言葉が見つからない。
だがなんとか振り絞るように、声を出した。
「え?どういうこと?」
東子はもう一度言った。
「子供ができた」
ー つづく ー
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