しずく
「この雨で今年の桜もおしまいか」
咲けば散るまではあっという間だ。タイミングよく花見ができるなんてことはしばらくなかったのだが、今年はラッキーだった。
雨に濡れる桜。
花弁につくしずくは、儚くも、美しい。
その姿を見てふと思い出した。
「そうか、10年前じゃなかったな」
10年ぶりに花見ができたと思い込んでいたが、そうじゃない。
5年ほど前にある女性と花見をしたことがある。
完全に記憶から消えていた。いや、意図的に消していたのかもしれない。
男1人で女性2人を相手するのは大変だからと呼ばれた忘年会で出会ったその女性は、美しく、よく飲みよく食べ、よく笑う人だった。
一人暮らしをしているというその人に、離婚歴があると知ったのは2回目に会った時だった。二人の子供は元夫と一緒に暮らしている。
僕にも離婚歴がある。だからその女性の話を全く抵抗なく受け入れられたのかもしれないが、僕には前妻との間に子供はおらず、今は自分の子供と一緒に住んでいる。その点においては、その女性の気持ちを完全に理解しているとは言えず、その必要もないのだがほんの少しだけ申し訳ない気持ちにもなった。
春になり、「お花見に行こうか」と誘ったのは僕の方からだった。彼女の住むマンションから歩いて行ける場所に、桜の綺麗な公園があった。
小さなブルーシートと缶ビールを何本か。”散歩ついで” 程度の装備で僕達は桜の木の下に陣取った。
まだ満開には早かったが、周りを見渡せば、大人数で宴会をしている人達、肩を寄せ合うカップル、たくさんの人達が花見を楽しんでいた。そしてその中には、子供を連れた家族もいた。
「子供、かわいいね」
その女性がつぶやいた。
「そうだね」
一言だけ返し、僕はその会話を続けようとしなかった。コンビニの袋からポテトチップスを出し「はい、どうぞ」と彼女に差し出した。
「ありがとう」
いつも通りの特に意味もない会話。それでよかった。
「あ、雨」
「え?今日は晴れ予報だったのに。さすが雨男だね」
「申し訳ない、こりゃ僕のせいだ(笑) ひどくならない内に移動しようか」
ちょうどいつもの居酒屋が空く時間だった。おばんざいを出すお店で、少しずついろんな料理をつまめるのがその女性のお気に入りだった。
少し酔いが回ってくるとその女性は話し始めた。
「あのね、私の離婚の原因。気になる?」
「んー、別に。それぞれにしかわからない理由があるから」
実際に聞きたくはなかった。聞けば何かを背負ってしまう可能性もある。そして聞いたところで僕には何もできない。
「離婚の原因はね、私の浮気。私ね、好きな人ができちゃったの」
「そっか」
話したい、ということなのだろう。
「浮気性ってわけじゃないのよ。私、結婚してからずっと浮気なんてしたことなかった。でも彼だけは特別だったの」
「特別か。出会ってしまった、ってことだろうね」
「それが夫にバレて。出て行け―って。そりゃそうよね。専業主婦で何不自由ない暮らしをさせてもらったのに、それで浮気するなんて」
「それで即離婚?」
「そう。たまに子供達には会えるんだけどね。でも、街で楽しそうな家族連れを見かけると泣きそうになることもある」
「うん 」
「私、間違えちゃったの」
「何を?」
「ちょっとチヤホヤされてその気になっちゃって。私の離婚後も男の方はいつも通りの生活を続けるだけで、私を守ってくれようともしなかった。彼は結婚してた私がよかったのよ。私はとても大きなものを失い、得たものは何もなかった」
「そっか」
「バカよね。でも。前を向くしかないから」
「そうだね。過去は変えられない。でも。そんな今の君を僕は… 」
店を出ると雨はやんでいた。
雨に濡れる桜。
彼女の閉じたまぶたから流れたしずくは、儚くも、美しかった。
こちらの企画への参加作品です。
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