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自分軸への矢印

どうしても理解できなかった「自分を愛する」こと
長い長い迷走の末、それは突然やってきた


Photo AC

 自分軸とか「自分を愛する」とか。
 それ、わたしには絶対必要。
 と思いつつ、それってどーすりゃいいの? と迷い続けて幾星霜。

 自分を愛するということがすべての基本だとは「理屈では」わかったけど、その「肌感覚」がぜんぜんわからん、という感じ。

 それが「わかった」ときは衝撃でした。

 でも「わかる」(=感覚)ってそういうものかもしれませんね。

 言葉は複雑な概念も伝達できる高機能のものではありますが、とはいえやはり限界はある。
 言葉で説明を聞いて、こうすると良い、こんなふうに考えたら良い、この習慣をやめると良い等々、話を聞くたびになるほどそうかと思い、可能な限り実践もしてきたのですが、「感覚」がどうしてもわからない。

 で、気がつくと結局また、お馴染みの自己否定やセルフネグレクト(精神的な)に陥っていて、そこでまた落ち込む……ということを繰り返していました。

 とはいえ、塵も積もれば……でございまして、山になることはないにしろ、新しい習慣としてちょっとずつ根付いているところはあったんでしょうね。
 最初は「自分を愛する」的な話を聞いても、「………はあ」と気の抜けた返事しかできなかったのが、お話を聞けば「なるほどー」というくらいになってきました。

 こうやって、少し進んで引き戻されてを繰り返すしかないのかな、そうなんだろうなと思っていたのですが。

 以前にもお話ししました「守護龍コーチング」で、「姫ちゃん」の(姫ちゃんさん、というのはおかしいだろうと思うので)コーチングセッション中に「それ」は不意打ちにやってきました。

 仏教にもキリスト教にも、改心とか回心(えしん、とも)とか言われる、
「いきなりそれまでの考え方がガラッと変わって信仰の道が見えるようになる」
 という言葉があります。
 それと同じようなものだったと思います。

「回心」する、大きな何かがあったわけではありません。
 今までと同じ、聞けば「なるほどー」というお話を聞いただけです。

 でも、ほんのひとこと、
「今までは人の顔色をうかがってきた」
 と言われた瞬間、「自分の姿」が見えました。

 物理的現実の自分の姿ではなく、
 自分の「心」がなにをしていたのか——その姿が。

 それは哀れなものでした。

 オドオドして、ビクビクして。
 右を見て、左を見て。
 自分以外の人間が一人でもそこにいれば——全くの通りすがりの赤の他人でさえ、誰かがいれば、自分のことは「無視」して、その人の顔色を窺っている。
 その姿が。

 何かあるごとに
「どうしたらいいんだろう」
「わたしは間違っているんじゃないか?」
「なにか間違ってはいないか?」
 と考えてばかりいたのは、このせいだったのだと「わかり」ました。

 わたしはもうずっと、そんなことをしていたのか——と「わかった」瞬間。
 無数の矢印が現れて、一斉にわたしの方を向きました。

 なんだかあぶねー人みたいな話になってきましたが(笑)、本当にそんな「感覚」だったんだから仕方ない😅
 もちろん実際にその矢印が目に見えていたわけではなく。

 感覚的に、今まで外を向いていた矢印が「すべて」、自分の方を向いたと「感じ」たんですね。

 これだったんだ! と思いました。
 自分軸、(健全な)自己愛、「今ここにいる」感覚って。

 坐禅や瞑想をすると、脳内の自分の声が静かになり、その代わりに、そよぐ風の微かな音、鳥の声など、普段は聞こえていても意識に入ってこない周囲の音や気配に敏感になりますが。
 それとは逆で、自分の注意の全てが「自分」に向き、それは身体的な感覚もそうなるので、毛穴のひとつひとつまでが意識できる気がしました。

 今まで無視して打ち捨てていた自分の身体に、わーっと意識が集中してきた。

 同時に、自分に向いている矢印に従って、何かがわたしの身体に注がれているという感覚もやってきました。

 何かに包まれている、という感覚。

「わたしがここにいる」という「実感」。

 それはもう、凄まじいまでの「回転」でした。
 意識が逆回転し始めたよう。

 でも、何かに自分が包まれている——注意を向けられてもらっている、ちゃんと「見てくれている」と思える安堵感、安定感がありました。

 この感覚はその後3日間ばっちり続きまして。
 その後は自然のうちに、わたしの内心に溶け込んでいった感じです。

 今はそんなに強く矢印を意識することはありませんが、でも必要なら思い出せるようになりました。
 何かちょっとトラブルがあったとき、今までならどうしようと動揺するような場面で、あえて、あの矢印のことを思い出す。
 すると、動揺がふっと落ち着くようになりました。

 あの矢印が自分の方を一斉に向いた瞬間。
 それは飛び上がりたいほどの衝撃の瞬間でしたが、じつはまだセッションの途中だったので、内心で「うわーうわー」と言いながら、その後のやり取りを続けていました。

 たぶん顔には出ていなかったと思うけれど、じつはセッションの終盤、わたしはそんな状態だったのです、姫ちゃん(笑)←私信

 それでもいきなり全てがよくなったということではありません。
 というのは、やはり自己否定の考え方が、骨の髄まで染み込んでいるので、日常的に、あるいは遭遇する場面ごとに、今までの自己否定の考えが浮かび、ついでそれを修正するという作業は延々と続いているので。

 それでも少しずつ、自分で自分を支え、支持し、見守り、励まして「前を向く」、そんなことができるようになってきている。
 
 どうせだったらもっと若いうちにそうなりたかったという思いはあるけど、でも、この感覚を知らないままお亡くなりになっちゃうよりはずっといい。そう思うようにしています(笑)

 自己愛、自己肯定、あるいは自分軸というものを求めながら、努力もしているのに、なかなか実感というところまで落とし込めずに悩んでいる方も多いかと思います。

 たぶん、その「感覚」を掴むためのトリガーは、人それぞれなんだと思うんですよね。

 わたしの場合は「人の顔色をうかがっている自分」を、自分の目で見ること、その自分の姿を見ることがトリガーになりました。

 なぜそれを悟ることが自分軸のトリガーなのか、ということは、考えなくていいと思います。
 自分がもっとも知るべきことがあり、それを掴んだときに、それまでの勉強や努力がドミノ倒しのように一気に繋がり流れていく。
 そういうことなのだろうと思います。

 この話、ピンとこない人には退屈な寝言でしかないでしょうが、それでも、わたしと同じく自己愛への扉を探しているかたには、何らかのヒントになるのではないかと思い、書いてみました。

 そうであることを願いつつ、本日はここまで。m(_ _)m

 退屈な(わけのわからない😅)寝言にお付き合いくださいました皆様、ありがとうございました。

 
 

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