見出し画像

雑文(14)「心の在り方」

 世界的に著名な心理学者の男が聴衆に向けて、語った。
「近年の常識ですが、かつてフロイトやユング、アドラーが提唱した心理学は現代ではいささか古い考え方、どちらかと云えば古典、もっと云えば非科学的な夢の物語と云う学者も現に居ますが、それではそれが完全な嘘かと云えば嘘だと完全に否定できる方を私は存じ上げておらず、それほどに魅力的な考え方だから皆さんが知るように広く世界で彼らの考え方は歓迎され、心理学の基礎を築いた御三方であるのを私のような三流の学者が否定できるはずがありません」
 心理学者の男は壇上にある逆さのコップを逆さにし、ペットボトルのフタを開けるとコップに注ぎ、片手で口元を隠して渇いた喉を潤した。
「失敬。で、あるからして、皆さんも中々信じられないでしょうが、事実を申し上げますと、人の心はですね、頭の中、脳みその中にあるわけじゃあないんです」そう言って心理学者の男は自身のこめかみを何度か指先で突き、満足げに笑った。「ではどこにあるのか。その答は簡単でした。身体です」そう言って心理学者の男は生の左腕を上げ、肘を曲げたが、筋肉量が少ないので大して盛り上がらず、というか、講義室の逆最前の席に座る学生たちには、心理学者の男が急に袖を捲って何をしたのか、わからなかった。
「というわけで」心理学者の男は咳き込んだ。「たとえばですね、ペットを飼われた方も、皆さんの中にも飼われた方、飼われている方もいらっしゃるでしょう。であれば挙手願います」バラバラと手が挙がる。どちらかと云えば前方の席で熱心に小型の大学ノートにこまめにメモを取る学生たちが陣取る辺りで挙がった手が多いように見える。満足げに心理学者の男は笑う。
「結構。お下げください。ペットを飼うと心の病によいと云いますが、あれはですね、ペットを飼うとペットの食事を用意したり、散歩したり、何かとペットの面倒をみるのに身体を動かすんです。だから心によい作用があるわけです。よい運動になるから心の不調が治る。同じように近年は引きこもりが社会問題になっていますが、あれにしても精神的に鬱になり、引きこもるんじゃなくて、身体を動かさない、運動しないために心が弱るんです。いじめもそうです。運動なんです。たとえばボクシングジムに通うとか、肉体を鍛えれば精神的に安定し、心の病は治る。部屋に閉じこもり、身体を動かさなければ、どんなに健康な方でも心を害します。だからですね、私は医師ではないんですが、心の病を持つ方々に言いたいのは、晴れた日は公園を散歩しましょう。汗を軽く掻けば、心の病は治癒します。ベッドの上に寝たままとか、部屋の中でごろごろしてたら心は病んでいきます。スポーツ選手だってそうです。怪我をしてスポーツを止めたら、だいたいが心を病みます。肉体の不調が精神を崩すんです。だから食べ物にしても身体が動かなくなるような悪い食事ばかり摂っておれば、直に肉体に作用しますから心を病みます。ですから晴れた日は散歩、それが心の病に最も効く特効薬、市販薬に頼った怠惰は臓器を肉体を害しますから、あまりおすすめしません。とにかく運動です。運動すれば心は健やかに育つんです。肉体労働が減り、デスクワークが増えた昨今だから心の病は増えました」
 心理学者の男が聴衆の反応を盗み見ながら水を飲み、渇いた喉を潤す。マイクが男のその嚥下の音を拾ったが、音を気にせず、コップ底まで飲み干して満足げに笑った。
「で、機械工学の分野でもそうです。知人にその分野の研究者がいるんですが、この前居酒屋で呑んだときにアドバイスして差し上げました。機械に心を宿すには、痛覚を持つ脆い身体を機械に与えるべきだと。人の肉体が心をつくるんだから人の肉体を機械に与えれば、機械に心が宿るだろうと。私はそう言いました。彼は参考にするとだけ言い、山崎のウヰスキーを一口呑んだきり黙ってしまいました。このように、先人たちが開拓した心理学はこんにちでは、その考え方は古くなりました。人の心は頭の中にあるんじゃなくて、ここにあるんです」懲りずに心理学者の男は腕に瘤をつくったが、聴衆は誰も笑わず、笑っているのは心理学者の男だけだ。「で、皆さん散歩してますか? 散歩はよいです。晴れた日に歩いてごらんなさい。ポカポカして気持ちがよいですよ。精神が病んでる場合ではないのです。人生は短い。歩きましょう。心が軽くなります。身体がよくなれば精神は安定し、心はよくなる。だって心の健康は身体の健康に全て依存するのだから」
 会場に盛大な拍手が沸き、心理学者の男は両手を上げ、聴衆の期待に応えた。
 質疑応答のコーナーに移る。
 僕は真っ先に手を挙げた。後方の席だったが、僕の腕は細くて長いので司会の女性は見逃さず、高い声で僕の座る席の位置と僕の性別を合わせて言い、係員の男が腰を屈めて僕に近付き、マイクの電源をオンにし、立ち上がった僕にマイクを手渡した。
「先生にひとつ質問ですが」若干ノイズが出たが、支障はないノイズだ。
 心理学者の男は余裕のある表情を僕に向け、僕のひとつの質問を待つ。
「先生は根拠のない持論を延々語っておりましたが、根拠あっての行動なんでしょうか? 心理学的に。お答え願えますか?」
 最前列の席に座る信者たちは僕に振り返って、僕をにらみ、僕がか弱い鹿なら、ハイエナよろしく、喰らいつく勢いだ。
 心理学者の男は、僕の目を見て、ゆったり言った。
「あります。ご覧のとおり、私は肥えております。歩けばたぷんたぷん音が鳴り、地面だって若干揺れます。そうです。怠惰な肉体が私の心の根を腐らせ、根拠のない持論を皆さんにですね、大いに語ったわけです。これが根拠です。私の心は性根から腐っている。これは全てこの醜い身体のせいなんです」
 会場が拍手に包まれる中、僕は席に着いた。心理学者の男は満足げに笑い、聴衆の期待に応えた。
 僕はガリガリに痩せた色白い腕を見た。青くて細い血管が中を何本か走っており、それは若干盛り上がっていた。
 僕は歓声が沸く中、思った。
 先生に意地悪な質問を投げたのは、全てこの痩せ細った肉体のせいで、心は痩せ細り、先生と違って豊かさがなく、荒んでいるのか。僕は、そう思ってしまった。
 きょうは晴れだった。
 講演が終わったら、駅に向かわず、緑のきれいな公園沿いをたまには歩いてみようか。僕は、そうも思ってしまった。
 僕の意思とは関係なく、身体がなぜか歩きたがり、心がなぜかそれを求めていた。
 根拠なく。心理学的に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?