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花山法皇ゆかりの地をゆく【番外編】~退位後の足取りを考える 前編~

花山法皇ゆかりの地をゆく」という、花山法皇の伝承を残す地を旅して、それをnoteの記事にするという活動を昨年の11月から続けている。

花山法皇は若くして愛妻を亡くし、幼馴染でもある政敵に裏切られて出家をするという波乱万丈の人生を送り41歳で病死した。
その生涯において、朝廷での政治闘争には敗れても、処断されたり自害したりもせずにたくましく生き延びて日本の各地を歩き回り、主に西日本の広い範囲で花山法皇の伝承を残した。
これは、明治天皇より前の天皇在位経験者としては、流罪になったわけでもなければ、戦乱で各地を走り回ったわけでもなく、院政で権力を掌握しつつ自由に振舞ったわけでもないのに、大変珍しい人物であると思われる。

このような花山法皇の人生について、私は少しばかり思い入れを持つようになった。

その一方で、花山法皇は女性には大変モテていたようで、その点は全く支持できないというか、恋愛に関しては全く報われない人生であった私とは遠い存在のようにも思えた。

そのように、私にとっては微妙な花山法皇に対する思い入れができたのに加えて、私はこれまであまり西日本を旅する機会がなかったので、花山法皇の伝承地が西日本に点在しているのに便乗して西日本各地を訪ね歩いてみたいと思い、実際に実行に移した。

当初、花山法皇は水戸黄門よろしく、気の向くまま風の吹くまま自由に平安時代の日本各地を巡礼や御幸という名で漫遊をしていただけだと思っていた。
しかし実際には、天皇を退位したとはいえ法皇の御幸というのは相応にコストがかかり、おまけに治安も現代と比べてはるかによろしくなく、権力のない法皇という身分では気軽に諸国漫遊の旅なんてできるものではないというのも、各地を巡ったり平安時代の事情を調べたりして解ってきた。

また、各地の寺院の歴史に触れると、花山法皇が生きた平安時代中期以降、平安後期から戦国時代までの間に焼き討ちにあって消失してしまった寺院も多く、さらに明治初期の廃仏毀釈で廃寺になってしまった寺院も、日本には多くあるのも調べてみてわかった。
訪問した寺院には、花山法皇の時代から現代の間に戦乱にあって消失し廃寺となってしまい、その後に再興されて現存する寺院が多数あった。
すると、花山法皇ゆかりの寺院は戦乱で廃寺となったまま、花山法皇の伝承ごと失われてしまったものも多いだろうと思われた。

こういう様々な情報や事情に触れつつ、各地に点在する花山法皇の伝承をつなぎ合わせてみると、新たな発見というか妄想の類が生まれてくる。

これは、思いつくままにこれまでの旅行記の中に書いてきた。

しかし、そろそろ断片をつなぎ合わせて、全体を俯瞰してみても良いのではないかと思い、私なりに考えた花山法皇の足取りを記してみたいと思う。
参照した資料もおぼつかないから、所詮は妄想の類と思って読んでいただけたら幸い。
しかし、一般的な学説を無視してでも少ない情報から妄想を広げて楽しむのは、市井の人間の歴史の楽しみ方としては健全な類であると思いたい。

花山法皇は出家後について以下の四つの期間に分けられると思う。

  • 出家初期(986年~989年)

  • 失踪期(989年~992年)

  • 狂乱期(992年~996年)

  • 安定期(996年~1008年)

この前編では、出家初期と失踪期について考察してみたい。



出家初期(986年~989年)

花山天皇は968年(安和元年)に生まれ、984年(永観二年)に天皇に即位をするが、わずか二年後の986年(寛和二年)に退位してしまう。

花山天皇の退位は、寛和の変と呼ばれる陰謀事件によるものだ。
花山法皇の法皇としての歴史はここから始まる。

様々な奇行が伝えられる花山法皇も、退位して出家した直後の数年間については奇行の記録はなく、真面目に仏教の修行をしていたようである。

986年(寛和二年)寛和の変

華頂山 元慶寺 寛和の変の舞台となった

6月22日、花山天皇は藤原道兼の手引きで元慶寺に導かれ、騙されて一人で出家をしてしまう。
厳密な順番は退位をしてから出家なのだろうが、出家をしてしまうと天皇は自動的に退位になるようだ。

花山天皇の出家を受けて、花山天皇の親戚であることを背景に朝廷内で権力をふるっていた藤原惟成、藤原義懐の二名も後を追うように出家し、当時摂関であった藤原頼忠は摂関の地位を失ってしまった。
貴族にとって出家とは、官位や地位や財産・家族も失う事態であるが、同時に政権争いから降りた宣言ともなるから、政敵に対して負けは認めたけど命だけは助けてほしいと明言したようなものだろう。

寛和の変の首謀者は道兼の父の藤原兼家であるが、実行犯である道兼の他にも裏には藤原道兼の兄弟である藤原道隆と藤原道長もおり、三種の神器を確保したり内裏の門を閉めて帰ってこれないようにしたりと、裏方の仕事をしていた。

騙されて出家したとはいえ、一年前の最愛の女御であった藤原忯子の死によって、花山天皇自ら出家を希望する発言を繰り返していたようなので、完全に騙されたというわけでもない。
実行犯の兼家親子サイドとしては、ある意味、優柔不断な花山天皇の背中を押してやったという言い訳だってできる。

平安京内裏と元慶寺と比叡山延暦寺西塔

ところで、寛和の変において首謀者の兼家は、息子で実行犯の道兼も花山天皇と一緒に出家してしまわないかの心配をしていたようであるが、天皇を退位させる陰謀を実行したのであれば、もっと他に心配することがあるだろうと思う。
おまけに、元慶寺の住職である厳久も、寛和の変において兼家とはグルだったのだ。普通に考えれば道兼が出家しようとしても、厳久がよしなにとりはからえたはずである。
むしろ、この陰謀に失敗すれば、比喩ではなく本当に自分の首が危なかったはずだ。

すると、悪役と描かれがちな道兼は案外、兼家が心配するほど花山法皇を本当に慕っていたのではないか、言われているほど出世欲が強いわけではなかったのではないか、という推測もできる。
それで、私なりの道兼の寛和の変実行時の感情を想像で描いた。

そんな道兼はともかく、大鏡によると道兼に騙されたと気付いた花山法皇は嘆いたようであるが、この事件により花山法皇の退位後の波乱に満ちた歴史が始まった。

986年(寛和二年)書写山円教寺微幸

書写山 円教寺

寛和の変からちょうど一カ月後の7月22日、花山法皇は従者を連れて書写山に向けて出発した。

この日は花山天皇に変わって天皇に即位した一条天皇の即位式の日でもあった。
一条天皇の即位式は華々しく行われたであろうに、その裏で花山法皇の従者はわずか十数名とのことなので、御幸というより微幸と呼ばれるものらしい。
ここで花山法皇は、政治闘争に負けた敗残の惨めな気持ちを味わったに違いない。

元慶寺と書写山円教寺

花山法皇の一行は7月27日の深夜に書写山到着、翌7月28日に書写山を登り性空上人と結縁、7月29日には船で帰京したとのことだ。
なお、この微幸出発前日の7月21日、花山法皇の姉である宗子内親王が亡くなっている。

花山法皇研究者の今井源衛によると、この書写山微幸の目的は、藤原北家(藤原兼家の親子と思われる)一派の死の呪いとの戦いのためとあるが、呪詛の恐怖を花山法皇がどのようにとらえていたかはともかく、どうにも花山法皇の前後の発言を見るに、当時の花山法皇がそこまで生に執着していたとも思えない。
むしろ、当時の花山法皇は死にたがっていたくらいで、ここで死ねるなら本望であったのではないか。
では何をしにはるばる6日間もかけて書写山まで行ったかというと、近親のものが次々と亡くなり、天皇としての地位と居場所も騙されて失い、これからの人生の指針を見失った末に、当時の有名人であり、生ける偉人でもあった性空上人に教えを乞いに行ったのではないか。

ここで性空上人は花山法皇にどのような話をしたかはわからないが、再度、性空上人の元を訪れているから、花山法皇にとってもそれなりに有用な話をしたのであろう。
おそらく、ここでの性空上人のアドバイスを受けて、花山法皇は数年後に西国三十三所巡礼を実行したと思われる。

なお、この書写山微幸で花山法皇は円教寺に米百石を寄付していて、それにより円教寺は大講堂を建築したとのことだ。

天皇を退位したとはいえ法皇となると、寺院を訪れたら庶民の様に賽銭箱に小銭を入れてお終いというわけにはいかないのだろうが、百石=百人の1年分の米となると今の価値でも結構な額だろう。
このあたりから、法皇という立場では、そう気軽にあちらこちらを歩き回れるものではないというのがわかる。

ちなみに、この書写山行幸の帰りは船をつかって帰京したとのことだが、その際に、まっすぐ京に帰ったのではなく、潮の流れ次第だが、西の鞆の浦にも寄ったのではないだろうか。
というのも、花山法皇が鞆の浦の南にある阿伏兎観音を祀ったのが986年(寛和二年)とする伝承があるからだ。
仮に、船で姫路から鞆の浦に一度来航して、潮流が変わったのを見てまた大阪方面に帰ったとしたら、阿伏兎岬を近くに見ることは無いだろうから986年(寛和二年)に阿伏兎観音を祀ったとは思えないが、花山法皇の鞆の浦に初来航の年を阿伏兎観音を祀った年として伝承されてしまった可能性はあるのではなかろうか。

986年(寛和二年)比叡山延暦寺で受戒

比叡山 延暦寺 東塔大講堂

仏教では出家をした後、さらに受戒という儀式を経て、ようやく修行生活に入るらしい。

花山法皇の受戒については、寛和の変で花山法皇を追って出家した藤原惟成、藤原義懐の二名も同時に比叡山で受戒したとある。
これにより本格的な仏門修行に入るのだが、受戒の日付はどうにもあやふやであるようだ。
986年(寛和二年)の9月16日とも10月某日とも冬ともある。

ここでは、今井源衛氏の「花山院研究」に従い、986年(寛和二年)9月16日としてよいと思う。
決して広いとは言えない元慶寺に、花山法皇に加えて藤原惟成、藤原義懐の元貴族二人をずっと住まわせておくのも息苦しかっただろうから、早く比叡山に移りたかったはずであるし、比叡山も彼らを受け入れるのであれば、さっそく当日から修行生活をさせただろうから、入山当日に受戒は済ませただろう。

なお、日本史上では何かとお騒がせな比叡山であるが、この時代でも比叡山内では派閥争いがおこっていたらしい。
花山法皇も比叡山に入れば派閥争いの道具扱いにされるだろうというのは、誰でも想像できる。
花山法皇にとって当時の比叡山が清涼な気持ちで修行に励める環境であったかというと大変に怪しく、花山法皇が数年で比叡山から去ってしまったのも仕方なかったように思える。

ところで、この時代の寺院というのは、単純に宗教的な役割だけではなく、現代における学校や病院などの施設を兼ねていただろうし、その後は金融機関や商業施設としての社会的役割もはたした。
それによって私腹を肥やして宗教としては過剰に力を付けた点が、宗教家の在り方として批判されがちだが、学問施設として高度な商業活動や経済活動を社会に率先して導入したのも、日本が文化的に世界に後れを取らなかった点においては重要な役割を果たしたのではないかとは思う。

高度な経済活動が学問組織から発祥するのは、宗教との矛盾はあれど仕方ないようにも思う。

988年(永延二年)比叡山西塔に居住

比叡山 延暦寺 西塔釈迦堂

小右記によると、少なくとも988年(永延二年)10月に花山法皇は比叡山西塔の奥院に居たらしい。
そこから一年後の989年10月の小右記にわずかに、花山法皇の使者の記録があるのみで花山法皇の記録は途絶え、花山法皇は失踪して数年間のあいだ行方不明となる。

ところで、花山法皇と一緒に出家をした藤原惟成、藤原義懐は、出家後の修行態度は二人とも良好であったようだ。これは、出家後もただれた女性関係を持った花山法皇との対比で評価されたように見える。

特に藤原惟成は出家後の修行態度は良好と伝えられてはいるが、それより以前、984年(永観二年)に花山天皇即位によって惟成も出世をすると、それまで清貧で過ごしてきた惟成を支えていた妻を捨ててしまったらしい。
後に、藤原惟成が出家して長楽寺あたりで托鉢をしているところを、捨てた前妻に詰られたというから、人間の業とは罪深いものである。

花山法皇も、少なくとも出家後の数年間、具体的には992年(正暦二年)の那智山千日行を始めて数年程度までは女性との関係も無かったようであるし、奇行の類もなかったようで、藤原惟成、藤原義懐と同じように真面目に修行に励んでいたと思われる。
花山法皇であれば、ここで真面目に比叡山で修行を続けていれば、天台座主になれたろうに、そうはならなかった。

小松市の花山神社、山口県の南原寺の伝承では、花山法皇の従者に惟成、義懐の名前があるので、比叡山での修行だけではなく、その後の西国三十三所巡礼と、その後に続く巡礼というか放浪と潜伏の旅にも、二人は花山法皇について行ったようだ。


失踪期(989年~992年)

花山法皇には失踪して行方不明となった期間がある。

花山法皇を見たという記録は988年10月、花山法皇の使者が来たという記録が989年10月、いずれも小右記の記録を最後に記録が途絶え、次の記録があるのは那智山謄記録の千日行開始の992年(正暦三年)になる。
小右記では993年(正暦四年)4月2日に再登場するほか、992年(正暦三年)の藤原為光(藤原忯子の父)の死去後の歌の贈答の記録があるとのことだ。

少なくとも、989年10月から992年までの3年間は、記録が焼失しただけという可能性もあり得なくはないが、京の人間から見ると行方不明になっていた可能性が高い。

しかし、地方伝承ではこの期間に花山法皇が登場する場所もある。

この989年(永延三年)から992年(正暦三年)の空白期間については、研究者によっては比叡山修行期間であったり、熊野滞在期間であったり、小松市滞在期間とされたりしているが、各地の伝承をつなぎ合わせると、別の足取りが見えてくる。
ここでは、地方伝承をなるべく信じて、花山法皇の足取りを考えてみたい。

989年(永延三年)西国三十三所巡礼

那智山 青岸渡寺
谷汲山 華厳寺

霊符山大陽寺の記録では、989年(永延三年)の三月に西国三十三所巡礼の途中に現在の大陽寺に寄っているので、花山法皇の西国三十三所巡礼は989年の前半に行われたとみてよいだろう。

西国三十三所の公式では、那智山千日行の後に熊野権現の啓示により西国三十三所巡礼を始めたことになっているが、その説に従うと花山法皇の西国三十三所巡礼は995年(正暦六年)前後の実行となる。
これでは他の地域の伝承と矛盾点が多く、信憑性が低い。
ウソとは思わないが、熊野の神々の権威を高めるための方便であろうと思われる。

西国三十三所巡礼の道のりは約1,000km。順調に歩けば2~3カ月程度で完遂できるだろうか。
しかし、現在の大陽寺のある場所で17日間も滞在をしたとあるから、他の場所でもちょくちょく休みや停滞を入れていたとすると、4~6カ月くらいかかったかもしれない。
一方で、私の推測では西国三十三所巡礼後にその足で白山を登ったと思われるので、その白山登山を実現するためには、おそくとも8月までには谷汲山の巡礼を終わらせておく必要がある。

すると、花山法皇の西国三十三所巡礼は989年(永延三年)の2月~8月の期間内で行われたと思われる。

この後、花山法皇は現小松市の厳屋寺を那谷寺と改めるわけだが、その由来は最初の那智山と最後の谷汲山の頭文字であるから、花山法皇の西国三十三所巡礼は那智山から開始して谷汲山で終えたはずだし、三十三所全て回っただろうと思う。
そこで不思議なのは、花山法皇の西国三十三所巡礼には諸説あり、比叡山スタート、京スタート、書写山スタートなどがあるが、いずれのスタート地点でも那智山から三十三所を回るのは非効率なのだ。

西国三十三所

今井源衛氏の「花山院研究」によると、京から紀伊半島西岸経由で熊野に入ったとあるが、それであれば京の各寺院や、二番金剛宝寺、三番粉河寺は先に訪問した方が効率よいではないかと思ってしまう。
あるいは、京から奈良に南下して大陽寺経由で紀伊半島東岸から那智山に入るルートもあり得るが、それであれば六~九番あたりを先に回れたはずだ。

とにかく、どんな非効率な回り方をしてでも那智山から始まり谷汲山で終わったのについては、間違いはないと思われる。
花山法皇が那谷寺を命名した理由は、那谷寺は西国三十三所巡礼をしたのに等しいから、とのことである。
さすがに、法皇とはいえ人様の寺の名前を変えたのだから、那智山スタートの谷汲山フィニッシュで西国三十三所をまわったのには、ウソをついていないだろうと思いたい。

この巡礼は、法皇としての公式な御幸であっただろうから、訪問した各寺には御詠歌を残しただけではなく、書写山微幸のように数十石から数百石の寄付をして回ったはずで、それを三十三の寺院でやれば、従者の数が少なかったとしても旅費を含めると相当な出費になったと思われる。
各寺院に三十石ずつ寄付をして回ったとしても、三十三の寺院に寄付をすればそれだけで約千石になる。
これに、従者が十人いたとしたら、この十一人の数か月分の旅費も加わる。
いくら出家したとはいえ法皇だから、余程のことが無い限りは野宿はしないだろうし、やむを得なければ寺社のお堂に泊まったかもしれないが、基本は費用や謝礼を払ってそれなりの宿泊施設か有力者のお屋敷に泊まっただろう。
個人の財産を持たない法皇にとっては、巡礼資金は朝廷に出してもらうしかないのだろうが、果たして朝廷がすんなりと花山法皇の巡礼費用を出しただろうか。
この当時、花山法皇を退位させた首謀者の藤原兼家が朝廷の実権を握ってたのだから、すんなりこの費用を出したとは思えない。
藤原忯子の父親の藤原為光あたりが個人的に出したのだろうか。

為光は前年の988年(永延二年)に法住寺という、後に後白河法皇の御陵を守ることにもなった立派な寺院を建立しているので、相応の財力はあっただろうし、法住寺建立も為光の妻と忯子の菩提を弔う目的であったから、やはり娘の忯子の死は痛恨であったようだ。
それであれば、花山法皇が忯子を弔うために巡礼に行くと言えば、為光から相応の支援があっても不思議ではない。
一方で、忯子の病死について、為光が花山法皇の過剰な束縛と愛情が原因だと思っていたら、為光も花山法皇の巡礼資金を出すのは渋ったのではないかという推測もできる。

このあたりは記録が無いのだから、いくら考えても答えは無い。
ただし、院政時代の上皇でもない花山法皇が、諸々の活動資金をどこから得たのかを推測するのは、花山法皇の足取りを考察する一つのヒントになるように思える。

989年(永延三年/永祚元年)白山登山

白山ではないが2023年10月の穂高岳中腹
標高も白山山頂と同じ2,600~2,700mくらい
アイゼン等がないと歩行は危険
実際、筆者も下山時に滑って転んだ

白山の標高は2,677m。
那谷寺の伝承によれば、花山法皇は従者三名と白山に登っている。

平安時代中期は気候が温暖であったという説もあるらしいが、それでも10月を過ぎると山頂付近では雪が積もる可能性がある。
現代の登山装備があれば雪山の登山も可能だろうが、平安時代に雪山に入山するのは危険を通り越して無謀であっただろう。
すると、花山法皇が白山に登ったのは9月までと思われる。

那谷寺の伝承によれば、花山法皇は従者三名と小松市を訪れたのちにすぐ白山に登ったとのことだが、ここは西国三十三所巡礼を谷汲山で終わらせた後に濃尾山地を突っ切って、白山を南側から縦走して小松市側に下山した説をとりたい。

谷汲山華厳寺から白山と那谷寺

その方が、那谷寺の名前の「谷」の由来とも合点がいくし、白山の南側には白山中居神社という白山南側登山口の神社があり、そこで最新かつ詳細な登山情報も得られたであろうから、登山の準備の面でも都合が良かっただろう。

おそらく、花山法皇の西国三十三所巡礼の御幸は、三十三所を回ったら京に直帰する予定であり、そのように朝廷には申告していたのではなかろうか。
なぜなら、白山は信仰の山で修行目的だと説明しても、朝廷が許可を出したとは思えないのだ。
天皇在位経験者がそこらで野垂れ死にでもされたら朝廷の権威が毀損するだろうから、本当は長期間となる西国三十三所巡礼だってやってほしくはないだろうし、何とかその西国三十三所巡礼までは許したとしても白山登山までは許可しなかっただろう。

それでも、花山法皇は西国三十三所巡礼を終えても京には帰らず、北に進路を取り白山に登ったと推測したい。
花山法皇の我儘というか、身勝手な行動がここから始まったように見える。

西国三十三所巡礼も、最初は多数の従者がいたのではないか。多数といっても、せいぜい十名程度だと思うが。
しかし、花山法皇が小松市に到着した際の従者は、藤原實定、藤原義懐、藤原惟成の三名と伝えられている。
西国三十三所巡礼と小松市の訪問がつながっている前提で書いているが、仮にこの二つが全く別の御幸であったとしても、小松市の法皇御幸に随行した従者が三名というのは、あまりに数が少なすぎる。
しかも、義懐と惟成は元貴族である。藤原實定は調べても名前が出ないが、藤原姓であるから受領クラスの官僚ではあったのだろう。彼らでは旅中の花山法皇の大した世話などできないばかりか、野盗に襲われたら一巻の終わりであっただろう。

西国三十三所巡礼は途中に京の寺院を挟むから、そこで離脱してしまった従者もいるだろうが、谷汲山で当初予定していた巡礼を終え、本来は京に帰るところを、花山法皇が白山へ行くと言い出して、ほとんどの従者は花山法皇については行かずに京へ帰ってしまったのを、上記三名だけが花山法皇についていったという推測を立てると、この小松市訪問時の従者が極端に少ないのにも合点がいく。

ともあれ、花山法皇が白山に登ったのは間違いないように思われる。
花山法皇は白山の山頂から、飛騨山脈、現在の北アルプスを眺めて、そのはるか向こうにある東国の地に思いを馳せたのかもしれない。

989年(永延三年/永祚元年)現小松市滞在、那谷寺命名

自生山 那谷寺

ここからは、さらに大胆な予想をしていきたい。

小右記には989年(永祚元年)10月に花山法皇が京に滞在していた記録がある。
大した内容ではないから、政治的に捻じ曲げられたものでもなさそうで、実際に花山法皇は白山に登り小松市を訪れたのち、粟津温泉でひとっぷろ浴びたら早々に、一度は京へ帰ったのではないだろうか。

小松市と平安京

それが、989年(永祚元年)10月のこと。

しかし、この京で何かしらの事件が発生し、花山法皇はすぐに小松市まで戻ってきたと予想する。

989年(永祚元年)は藤原惟成が亡くなった年とされている。その後の南原寺の伝承では惟成という従者の名前もあるから、989年(永祚元年)の藤原惟成死亡が事実であるかわからないが、この藤原惟成が何かしら関係があるのかもしれない。
勝手な予測では、長徳の変に準ずるような花山法皇暗殺未遂があったのではないか。
事件の記録がないのは、犯人が見つかることも無く、花山法皇も小松市に逃げてしまったためではなかろうか。
そして、花山法皇は京に帰りたくなくなったか、帰れなくなってしまった。

そこで、花山法皇は少なくとも989年(永祚元年)の冬を、現在の小松市の花山神社のあたりに庵を構えて住んだ。
厳屋寺を那谷寺と改名したのもこの時期だろう。

花山法皇の住居はあり合わせで作ったものだから粗末だったかもしれないが、粟津温泉は近いし、海が近いから海産物だって入手できただろう。
京の内裏での生活には及ばないかもしれないが、案外、快適な生活だったのかもしれない。

990年(正暦元年)松嶽山正法寺開山

庭見山 覚王寺

京に帰れなくなった花山法皇は、小松市での滞在も難しくなり、さらなる遠方へ移動する必要に迫られたと推測する。
東か西かの選択はあったと思われるが、花山法皇は西を選んだ。

もしかすると、花山法皇も仏教徒であるから、単純に西へ進むだけではなく、はるか遠くのチベットやインドなどの仏教の聖地を目指したかったのかもしれない。

そんな花山法皇の思いがあったかどうかはわからないが、花山法皇は小松市から京を避けて鳥取にたどり着き、中国地方の内陸を抜けて鞆の浦までやってきたと推測する。
このあたり移動経路については、根拠が極めて希薄である。
鳥取の覚王寺に花山法皇御幸の記録があるとのことだが、正式な資料は無いし年代もわからない。
高梁市にも花山法皇ゆかりの寺社はあるが、天皇在位中か後年に創建、開山されたものである。
しかし、隠密であったからこそ、詳しい記録が残されていなかったとすることだってできる。

私がこのルートを思いつき、実際にローカル線を乗り継いで辿った旅行記も書いた。

この際に、現在の高梁市の神原で花山法皇の一行が一時潜伏をした際に、地元住民たちに親切にされた返礼として、後に花山法皇は神原の地で深耕寺を開創したのかもしれない。

これらについては、根拠は薄く頼りないのではあるが、現在の小松市から厚狭市まで京を避けて隠密に大移動をしたものとしたい。

小松市から厚狭市までの大移動

そして、船で鞆の浦から当時の長門国、現在の山口県までわたり、そこで上陸して現在の松嶽山正法寺を開山、といえば聞こえが良いが要は山中での生活を始めたと思われる。

松嶽山正法寺から眺めた厚狭の町

もし、花山法皇が朝廷のバックアップを受けて現在の山口県周辺を巡幸していたのであれば、何もない山に新しく正法寺を開山したり、廃寺であった南原寺を再興する理由が見当たらない。
法皇の巡礼であれば、本来であればもっと栄えている寺院を巡礼するだろうし、年単位で何もない山や廃寺に滞在する理由が無い。

そう考えると、花山法皇の正法寺や後の南原寺に滞在していた長門国時代というのは、やはり潜伏をしていた時期とみるのが自然ではないか。
おまけに南原寺にある花山法皇の御陵は、天皇在位歴のある人間の御陵としてはあまりに粗末なものであるのに、実際に人骨が埋まっていたというのだから、他人のフェイクで作られたものとは思えない。

小松市を出立してから、大移動を経て現在の松嶽山正法寺で始まった長門国での生活では、当初は花山法皇は自分が法皇とは名乗らず、出家名の入覚という若僧で通したのではないだろうか。

すると地元の人から見れば、ただの修験者の集団がやってきて、突然無人の山に篭って住みつき始めたことになる。
さぞや不気味だったろうし、この地域を治めていた郡司が黙っていなかっただろう。
花山法皇の一行が、地元民たちとどのように付き合っていたのだろうか。
案外、うまくやれていたようにも思える。

991年(正暦二年)桜山南原寺滞在

桜山南原寺の花山法皇従者の墓

正法寺での生活も長くは続かず、南原寺のWebページに記載されている伝承によれば、花山法皇が長門国に到着して、正法寺を改ざんした後は以下のような軌跡であったようだ。

諸国巡歴の途につかれた花山法皇は従者を連れ正暦1年に厚狭の松嶽山正法寺を開山され、松嶽山出立後しばらく西厚保の沓野に留まり十一面観音を造立、ひばり峠を通り、翌年正暦2年、南原寺に来山され荒廃した寺運を再興されたと伝えられています。

南原寺Webサイト「花山法皇と南原寺」

この伝承に従い、GoogleMapに南原寺の伝承に従い地図にプロットを入れてみると、ひばり峠の場所が遠すぎるように思える。もしかしたら、南原寺の伝承が示すひばり峠はまた違う場所なのかもしれない。正法寺と南原寺の間にある峠というと、現在の中国自動車道の伊佐PAあたりであろうか。
また、平安時代のこの近辺の国家的施設として周防鋳銭司跡というのがあるので、下の地図にはそれもプロットしてみた。花山法皇は、この周防鋳銭司で作られた鋳銭を運ぶ船に便乗して長門国までやってきた可能性はある。

山口県周辺の関連地点

長門国に到着してから年を越して991年(正暦二年)、花山法皇の一行は正法寺から南原寺に移動した。

伝承だけ見ると、まるで正法寺という寺を作って、今度は南原寺の再興に務めたように読めるが、花山法皇は他の地域でこんな活動はしていない。
近いものとして1006年の瑞源山深耕寺の開山だが、この際は正式な御幸として訪問し、田畑と土地の寄進をしている。

南原寺のWebサイトの上記の同ページには以下のような記述もある。

花山法皇の主な従者は、道兼・厳久・義懐・惟成・久光・米久・仏眼と伝えられる。法皇崩御の後、道兼.米久.仏眼は菩提を弔う為、寺に留まり南原寺の護持に勤めた。

南原寺Webサイト「花山法皇と南原寺」

この従者の名前も不思議だ。

「義懐」「惟成」は藤原義懐と藤原惟成と思われるが、上でも書いた通り、藤原惟成は989年(永祚元年)に京の長楽寺辺りで亡くなったとされている。少なくとも、991年(正暦二年)には生きていないはずだ。

また、「道兼」というのは藤原道兼で、「厳久」というのは寛和の変の舞台となった元慶寺の住職で、道兼と一緒に花山法皇に出家を勧めた共犯者である。
これらの名前が従者の名前として残されているのはどういうことだろうか。まさか、彼ら本人が花山法皇に従ってはるか長門国までやってきたとは思えない。
とすると、偽名なのだろうが、従者に自分をだました人間の名前を付けるのは、花山法皇なりのジョークだったのだろうか。

これらの名前に疑問は多いが、伝承に記されている七名の従者は、義懐を除けば小松市からついてきた従者であろうと思われる。すると、やはり小松市にはそれなりの期間を滞在して、現地住民との活発な交流があったのだろう。
また、従者に花山法皇を騙した人間の名前を入れるあたり、やはり花山法皇本人がここにやってきたんだろうというのも想像できる。
赤の他人のフェイクであれば、花山法皇を騙した人間を従者の名前に入れようなんてセンスは、中々ないだろう。

正式な御幸であれば、従者の数が7人なんてことはあり得ないし、従者に偽名を名乗らせることなんて、なおさらあり得ないだろう。
すると、やはりこの花山法皇の長門国訪問と2年にわたる長期滞在は、潜伏生活だったと考えるのが適切なのではないか。

桜山 南原寺 伝花山法皇御陵

実際、南原寺を訪れた際は、花山法皇御陵の雰囲気に圧倒され、旅行記の中で、花山法皇暗殺説を書いた。

また、いかにも好色が伝えられる花山法皇らしいエピソードであるが、以下の南原寺の伝承にあるようなこんなことは、正式な御幸中であれば起こり得ないだろう。

法皇が南原寺に永く留まられた理由として美祢尼の存在があります。美祢尼は豪族の娘で法皇が若い時に亡くなられた皇后引微殿に面影が似通っていたと伝えられていおり、花山法皇と美祢尼の悲話も残されています。花山法皇と美祢尼の間には一人の皇子が誕生しており、後に出家され日置の利生山永福寺に入山されたとも伝えられています。

南原寺Webサイト「花山法皇と南原寺」

「引微殿」というのは藤原忯子のことであるが、正確には皇后ではなく女御だ。

それはともかく、花山法皇が南原寺にも長期滞在をしていたと思われる。しかし、それは法皇という身分を隠してのことではなかったか。
美祢尼とのロマンスが本当にあったかはわからないが、長期滞在をしている若い男であれば、そういうこともあり得るだろう。
それよりも、美祢尼の親が豪族である点に注目したい。
花山法皇が南原寺滞在時に法皇の身分を明かしたかどうかわからないが、現地の有力者と接触をしていたということだ。

いずれにせよ、花山法皇の長門国潜伏時代は翌年の992年(正暦三年)で終わるようである。

その後は後世に伝えられるような、花山法皇の好色・奇行の生活が始まる。


「花山法皇ゆかりの地をゆく【番外編】~退位後の足取りを考える 後編~」へ続く

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