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花山法皇ゆかりの地をゆく⑨〜那谷寺編〜

学校の授業では、歴史も古文も大嫌いだったが、花山法皇のゆかりの地をめぐるようになって、花山法皇についての資料も多少は読むようになった。

現存する花山法皇について記した一次的な資料は、「小右記」「大鏡」「栄華物語」程度のもので、それらを研究した論文として代表的なのは今井源衛の「花山院研究」があるが、これらの資料が描く花山法皇は、女たらしの好色、いたずら好きの奇人、でも芸術関連での才能はあった、程度の人物像しか見えてこない。
花山法皇がモデルの現代小説として、三島由紀夫の「花山院」のほかに、萩耿介著の「炎の帝」があるが、こちらは作者が自由に花山法皇の人格を描いてしまっているようで、そうして描かれた花山法皇像も興味深いのではあるが、真相に迫るものとは違うように思える。

「花山法皇のゆかりの地をゆく」と題してあちらこちらを旅して、さらにその旅行記なんぞを記していて、旅先で眺めた風景から往時の景色を思い浮かべてみたり、訪問地の点と点を線でつなごうと思案してみたりすると、資料や小説からは見えない花山法皇の人格がおぼろげながらに垣間見えることがある。

  • 三条から元慶寺まで藤原道兼に連れられて出家をする花山法皇

  • 出家早々に寄進米をかき集めて書写山へ御幸する花山法皇

  • 慣れない旅先の千里海岸で病に臥せって弱気になる花山法皇

  • 旅の途中で奥伊勢の霊符山に何日も籠る花山法皇

  • 谷汲山で西国三十三所の巡礼を終えて法衣を脱ぎ捨てる花山法皇

  • 鳥取の覚王寺で身を潜める花山法皇

  • 何もない厚狭の松嶽山を新たな住処と決める花山法皇

  • はるか長門国から帰還する最中の阿伏兎岬に観音像を祀る花山法皇

  • 花山院菩提寺の麓に何人もの女官たちを侍らせて隠棲暮らしをする花山法皇

  • 晩年の性空上人の元を大人数の従者を引き連れて訪れる花山法皇

  • 高梁の神原で寺院を開創する花山法皇

現地に赴いてこれらの花山法皇の姿を思い浮かべると、私の勝手な妄想の類には違いないが、花山法皇の人物像が陽炎のようにうっすらと見えてくる。

それは、見えたと思ったらすぐ消える儚いものでもある。

まさに風の色を見るような禅問答にも近い感覚であるのだが、一瞬だけでもちらりと見えてしまうと、その全容をしっかり見たいと思う気持ちが芽生える。
全容を見るために、もっと詳しい情報を、もっと知らない情報を欲しくなる。
これは、ちらりと下着が見えてしまった異性に異性を感じて、ストーカーを始めてしまうモテない童貞男の心理の類かもしれないが、私の相手は千年以上も前に亡くなっている歴史上の人物であるから、それを追っても変態と責められるわけではなく、むしろ高尚な趣味と世間で認識してもらえるのがせめてもの救いだ。

とはいえ、モテない男のストーカーも、歴史上の人物を追うのも、知りたい真相にたどり着けない現実が待っているのは同じだが、ストーカーとは違い罰せられない点だけは異なる。
私はもうすこしだけ、花山法皇を追ってみたい。

今回は石川県小松市の那谷寺を訪ねる。

小松市は、花山法皇に関する郷土研究が盛んな土地であるようだ。
そもそも、小松という名称からして、小松市の公式Webページでは、

小松の名の起こりの一つに、寛和2年(986年)に花山法皇が梯川のほとりに、花園をつくり、松を植えられたという伝承があります。その由来から、市制40年(1980年)を記念して、市の木に「松」が選ばれ、制定されました。

小松市Webサイトより抜粋

とあるように、花山法皇がゆかりとなっている伝承すらある。

花山法皇に縁もゆかりも無ければ興味もない、大多数の人間にとって小松市の名称の由縁などどうでもよいことかもしれないが、花山法皇ゆかりの地を訪れている私にとっては、このような情報を見てしまうと小松市の訪問に際しては、あらためて襟を正さねばならないような気持ちを覚える。

小松市と隣の加賀市には、那谷寺の他にも花山法皇ゆかりの地が何点かあるので、今回はそれらを回っていきたい。
加えて、花山法皇の地方伝承についてもう少し情報を得たいと思っていて、伝承がまとめられている書籍として、山本佐一氏という石川県の研究者が出版した「花山法皇の伝承」という書籍があるので入手したかった。
しかし、この1993年に出版された書籍は新品はもちろん古本でも入手できず、図書館では石川県立図書館、京都府立図書館、ベルリン国立図書館のみに所蔵されているようで、ベルリンに行くのは大変なので今回の旅では石川県立図書館にも寄って、本書を閲覧しておきたいと思った。

石川県立図書館

2024年2月17日土曜日6時16分、東京駅を北陸新幹線かがやき501号は出発した。

土曜日朝の新幹線ホーム かがやき501号も電光掲示板に載っている

これまで何度も東海道新幹線に乗ってきたが、今回は北陸新幹線である。
私は北陸新幹線は長野駅以西は初乗車である。

新幹線電車E7系車両の東京駅入線

北陸新幹線は来月の2024年3月16日には敦賀駅まで延伸するのであるから、それから小松市や那谷寺を訪問すればよかったのであるが、2月であれば雪景色の那谷寺が見れるかもと思いこの日にした。

北陸新幹線の使用車両はJR東日本所有のE7系、あるいはJR西日本所有のW7系であるが、配色と内装が若干異なる以外は同じ車両である。
E7系は12両編成で編成出力は12,000kW、歯車比3.04、営業最高速度275km/h。
参考までにN700系は16両編成で17,080kW、歯車比2.79、営業最高速度300km/h。
E5系は10両編成で9,600kW、歯車比2.645、営業最高速度320km/h。
車輪径と小歯車(車輪側の歯車)径の比率もあるから、歯車比を異なる車種間で比べるのはナンセンスかもしれないが、自動車のトランスミッションと同じように電車も歯車比が高いほど加速重視で最高速度が下がる。
僅差だが営業最高速度320km/hのE5系が一両あたりのパワーは一番少ない。
E7系は碓氷峠の長い上り坂を越えるために登坂力を重視しているから最高速を重視はしておらず、1両あたり1,000kWの出力は300km/hオーバーの高速鉄道車両としては平均的だが、歯車比を現代の新幹線車両としては高めにして加速力重視としている。
N700系は東海道新幹線の過密ダイヤに対応するため加速力を重視しているが、歯車比を上げるのではなくパワーアップで実現している。
ちなみに、新幹線車両の最高速度レコードホルダーであるJR東海の955形電車は6両編成で定格編成出力12,000kW、歯車比2.265で443km/hを記録した。

E7系の車内

そんな知識をWikipediaを見ながらひけらかしてみたものの、実際に乗ってみても車両の加速力の違いなどわからない。
かがやき501号は雲を被った赤城山を右手に見ながら高崎駅を通過すると、上越新幹線と別れ碓氷峠を難なく登っていく。碓氷峠を登り切ると同じく右手に浅間山を見ながら小諸の盆地を走り去り長野駅に止まると、信州地方へと走り始めた。

浅間山
日本海の海岸

今年は暖冬のためか山に雪があるのは見えるが、新幹線の線路にはほとんど雪はない。
北陸新幹線にも大層な雪対策がされているはずだが、今年は出番があったのだろうか。

金沢駅まで走り切ったE7系 かがやき501号

8時43分、金沢駅着。
JR北陸線が信号故障で不通になっているようで、改札を出ると在来線の切符売り場や改札の人混みが激しかった。
私も後でJR北陸線に乗るのだが、まだ2時間以上あるので、その頃には運行が再開されていることを祈って、南口のバスターミナルへ向かう。

金沢駅の例のやつ

まずは石川県立図書館に向かう。
石川県立図書館までバスでおよそ30分。
9時2分、石川県立図書館行のバスは出発した。
駅前の市街地を抜けると、バスは兼六園を通った。今回、兼六園を訪問するつもりはない。金沢に観光で来たのに兼六園を素通りとは勿体無い気はするが、兼六園ならばいつでも行けると思えてしまう。
しかも、冬であれば雪化粧をした兼六園が見たいが、本日はそれも期待できないので、やはりスルーする。

石川県立図書館

9時30分、石川県立図書館着。入館して三階に上がり「花山法皇の伝承」を探すがなかなか見つからない、30分近く探しても見つからず、館内のPCで書架からの取り寄せを頼んでいる間に見つけたので、係員の方に謝辞をする。

石川県立図書館の中 今はやりの格子デザイン

内容をメモして、重要な箇所だけコピーを取って図書館を出ると、帰りのバスの時間がちょうど良くなっていた。

自生山 那谷寺

10時45分、金沢駅行きのバスで金沢駅に戻る。バスは途中から乗客が次々と乗ってきて意外と混んでいる。私は始発から乗ったから座っているが、立ち席も多かった。

11時15分、バスは2分遅れで金沢駅に着いた。
次はJR北陸線で粟津駅へ行くのだが、果たして電車は動いているだろうかという心配は不要であった。

普通列車のJR西日本521系車両 まもなくIRいしかわ鉄道に譲渡されるはず

11時27分、福井行きの北陸線の二両編成の普通列車は予定通りに出発した。
先程まで不通であったためか、普段からこんなものなのか分からないが、電車は意外と混雑していた。私は補助席のようなドア沿いの席に座っていたが、立ち席の乗客も多い。さらに途中から高校生や老人の乗客が乗ってくる。
11時58分、小松駅着。小松駅から那谷寺へのバスがあるので、それに乗っても良いが、今日は天気が良いので粟津駅まで行ってしまおうと思う。

粟津駅
粟津駅の改札 粟津温泉と那谷寺押し

12時4分、粟津駅に到着した。
かつては粟津温泉目当ての観光客で賑わっていたのだろうが、往時の賑わいはなく駅員もいない無人駅のようで寂しい。しかし、私と一緒に降りた乗客も何名かいた。
地下道を降りて、無人の改札を抜けて駅の外に出る。

粟津駅のレンタサイクルステーション

トイレを済ませて、駅前のレンタサイクルを使う。
しかし、私のレンタサイクルの利用は初めてではなかったのだが、どうにもアプリがうまく動かず、中々自転車の開解錠ができず戸惑う。
どうにか、開錠も成功して、レンタサイクルに乗り那谷寺を目指す。

こんな道を自転車で走ります
広角レンズなのでわかり辛いけど、奥には白山らしき山も見えます

国道305号と新幹線の高架を越えると、南方の山脈が見える。
手前の低山の奥に見える、雪を被った山々が白山連峰だろう。雪山が見えると、季節はやはり冬だと思い出させられる。

自転車をひたすら漕ぐ。電動アシスト機能はあるが、確か電動アシストは15km/hを越えるとトルクが弱くなり、20km/hでアシストが切れると聞いたことがある。速度計を見るとちょうど20km/h。アシストがかかっていないのではと思い、走りながら電源を切ると、微かにペダルが重くなった。

花山亭

12時40分、那谷寺前に到着。
那谷寺の入口前には、花山亭といういかにもなお土産屋と食堂を兼ねた店があり、外から見ると店員のおばさんが店内で踊っていたので、踊り止むタイミングを見はからかって入店、そこで昼食を食べた。
那谷そば1,000円。

那谷そば 要は山菜そばwithゴマ豆腐

食事を終えると、那谷寺に入る。参拝料1,000円。
那谷寺の参拝が1,000円に見合うかどうかはわからないが、奇岩と苔むした地面は風情があって良いのだと思う。
本堂は小さいし、多数の修行僧が住まう禅寺というわけではないのだろう。
どちらかと言えば、昔から粟津温泉とセットで観光客を受け入れるための行楽施設だったのではなかろうか。

那谷寺の山門
那谷寺の奇岩 よく階段を削り出したものだ
奇岩は立ち入り禁止
本堂に続く階段

花山法皇が那谷寺で西国三十三所に回る価値があると言ったからかどうかわからないが、敷地の裏には観音様の石像が三十三体あって、それを回って西国三十三所回りとするアトラクションもある。
しかし、今はそこは立ち入り禁止。冬の積雪を見越してのことか、もう一般客を歩かせるつもりはないのかわからないが、遠目に見えるものだけ眺めておいた。

本堂を斜めのアングルで撮ってみた
本堂の彫刻

本堂内は撮影禁止になっていたが、花山法皇関連のものもあった。
花山法皇について、何か新たな情報はなかったし、なぜ花山法皇が小松市に滞在したのかもわからないが、奇岩を眺めて温泉に浸かれるのならば、まあ居心地は良かっただろう。
海が近いから、海産物も楽しめただろうし。

奇岩を上から眺める 花粉が辛い
鎮守堂
何かよくわからない東屋 でも周囲の苔も合わさって風情がある
金堂華王殿 中に巨大な観音像があるが撮影禁止だった
鐘楼 鐘が見えない

一通り見終わって、花山亭に止めていたレンタサイクルで次の目的に向かって出発した。

法皇山横穴古墳群

那谷寺をでると、国道305号を南西へレンタサイクルを走らせ、小松市を抜け加賀市に入る。
次は法皇山横穴古墳群へ向かう。
まさか、花山法皇がこの古墳に埋葬されているわけではないが、法皇と名がつくからには花山法皇にゆかりがあるのだろう。

法皇山横穴群の展示館 しかし、開館は4月から11月までとのことで入口には鍵が閉められていた
横穴
古墳に登って眺めた風景
古墳の上にはなぜか池があった
古墳の山頂らしき場所

花山神社

法皇山横穴古墳群から那谷寺方面に引き返す。
しかし、那谷寺を再訪するのではなく、那谷寺から南方の山あいの谷間にある菩提町と言う集落の外れにある花山神社を訪ねる。
花山神社は、花山法皇が現在の小松市に滞在していた際の滞在地とされていて、後に神社ができた。花山神社という名前になったのは明治に入ってからとのことだが、小松市の中ではもっとも花山法皇のゆかりが強いのではなかろうか。

小松市訪問時の従者三名は藤原實定、藤原義懐、藤原惟成の三名とのことだが、藤原實定ってだれ?しかも、藤原惟成って989年に京の長楽寺で亡くなっているらしいが、本当に小松市まで花山法皇についてきたのか
花山神社の本堂 雪対策のためかガラス戸でおおわれているが、中に入ることもできた
花山神社のある菩薩町
花山神社から法皇ヶ岳らしき山を眺める

花山神社の正面にある法皇ヶ岳は、花山法皇が亡くなったらあの山に埋めてほしいと言っていたらしい。
花山法皇が小松市に滞在していた当時は、出家をした後に比叡山で何年か修行生活を行い、さらに西国三十三所の巡礼も終えていたと思われるが、西国三十三所巡礼の修行を経てもなお、まだそんなことを周囲に漏らしていたのかとあきれてしまう。
しかし、たった数年の仏教の修行を経た程度では、そう簡単に愛妻の死去や政治上の裏切りで負った傷心をいやせるものではなかったのだろう。

法皇ヶ岳に登る道と目星をつけていた場所は、入口に関係者以外立ち入り禁止のロープが張られていた。
無理に越えて登るのも憚られるので、法皇ヶ岳の訪問はあきらめた。

時刻は15時を過ぎていた。自転車で風を受けると冷たい。
レンタサイクルで粟津温泉にある本日の宿泊地に向かうことにした。

法師旅館

今回は宿泊する旅館「法師」にも、花山法皇のゆかりがある。

法師旅館 これが元世界最古の旅館だ

法師は2011年まで世界最古の旅館とされていたが、山梨県の西山温泉に世界最古の座を奪われた。
相変わらず世界最古が日本にあるだけでもすごいが、トップを奪われたとはいえ法師の歴史は1300年。北陸地方に世界最古の旅館があるのは知っていたが、わざわざ自分が泊まりに行くとは思っていなかった。
もし、亡妻が1300年続く世界最古の旅館が北陸にあると知ったら、きっと私以上に行きたいとせがんだだろう。亡妻はこういうスペックに弱かったのを思い出す。

法師は花山法皇の時代にも存在しており、花山法皇が利用した記録もあるとのことだから、花山法皇ゆかりの地に違いない。
当然、当時は現代の旅館のような形式ではなく湯治場のようなものであっただろうから、花山法皇の追体験はできないだろうが、それでもこの地で花山法皇が温泉に浸かったと思うと、少しは身が引き締まる思いもある。
しかし、それ以上に、本格的な温泉旅館に泊まるのが久しぶりなので、そちらの方で楽しみにしていた。

抹茶室 要はチェックインまでの控室

そもそも、「花山法皇ゆかりの地をゆく」を始めた当初から、那谷寺へ行くのであれば法師に泊まりたいと思っていた。
しかし、昨年の法師では週末の一人宿泊の予約を受け付けてはいなかった。

諦めかけて、そろそろ那谷寺の訪問も考えねばならず、宿泊は小松駅周辺のビジネスホテルの宿泊とするか日帰りで妥協するかと思っていたところ、今年の1月にもう一度ダメもとで調べたら、一人客での予約ができるようになっていた。
これ幸いと予約に成功し、どうにかこの2月17日に念願の法師への宿泊実現となった。

法師の館内案内図 渡り廊下が長い

一人客を受け付けるようになったのは、能登半島の地震の影響で、客が減少したからだろうか?
それにしては、法師の駐車場は満杯のようだし、閑古鳥が鳴いている様子はない。であれば、運が良かったのだろうと思う。

チェックインの待ち時間に出される抹茶
通された客室は12畳の部屋だった 一人にはもったいないほど広い

チェックインを済ませると、白髪の年の過ぎた女中さんに部屋まで案内された。
いまどき、部屋まで案内をしてくれる旅館も珍しい。
おもえば、入口ではチェックインカウンターの係のほかに、番頭さんが何名もいて出迎えてくれた。
これだけの係員がいて、この旅館の経営は大丈夫なのかと心配するが、実際、この法師は2017年に経営難で会社分割し、2020年には特別清算開始命令を受けている。
法師の経営は厳しいのだろう。
それでも、どうにか合理化一辺倒のこの時代には難しいのかもしれないが、このスタイルで頑張ってほしいと願うばかりだ。

大浴場の入口
エノキアン協会の資料や有名人のサインなど
法師の庭園
池に橋があるあたり凝っている

風呂を浴びて部屋に戻ると、夕食まで多少の時間があった。
コンビニで買っておいたビールを片手に、花山法皇関連の資料を眺める。
花山法皇が訪ねたとする温泉宿で、花山法皇の資料を読むとは何と贅沢な時間だろうかと悦に入り、内容はあまり覚えていなかった。

夕食のお品書き
前菜
刺身と椀
和牛しゃぶしゃぶとのどぐろ寿司
目鯛の朴葉焼き
最近思うんだけど、日本旅館のこういう固形燃料で客に食事を焼かせるのって、あまりいい文化ではないような気がする
本当においしいものは料理人に最後まで調理してほしいと思うのは私だけだろうか
ご飯と吸い物
ご飯の炊き加減が絶妙で、ご飯をおかずにご飯を食べらるのではと思うほどうまい

食事後、部屋でまどろんだ後、再度風呂に浸かって寝た。
羽毛布団が信じられないくらい軽かったが、布団にもぐると暑すぎるくらいに温かかった。

翌朝、6時に起きて朝風呂を浴びたのち、7時から朝食をいただいた。

朝食 なんかイラスト付きの紙が被さっている
紙を取るとこんな感じ

朝食を終えると、部屋に戻り歯磨きを済ませチェックアウトした。
せっかくの高級旅館なんだからチェックアウトギリギリまでのんびりしたかったが、本日の予定ができてしまったので、仕方ない。
そもそも、部屋が広すぎて落ち着かなかったのもある。

8時ちょうど、旅館のマイクロバスで粟津駅に戻る。
バス出発前の旅館の入口では、バスに乗ろうとする子供たちに、番頭さんが話し相手をしていた。
ほのぼのとした良い風景だと思った。
マイクロバスには私のほかにも、子供は成人していると思われる親子連れの4人家族、女性二人と子供二人の4人組、それに初老の夫婦の10人がいた。
きょうび、温泉に訪れるのなんて自家用車ばかりかと思ったが、意外と鉄道利用者もいるのだなと関心した。

朝日をバックに法師旅館の入口

粟津駅では20分ほどまって、金沢行きの普通列車に乗る。

粟津駅 窓口はあるが閉められていて無人だった

2024年2月18日8時30分、金沢行き普通列車は粟津駅を出発した。
粟津駅からの乗客は思いのほか多かった。粟津駅前は静まり返っていて待合室の乗客も少なかったのに、どこからこんなに乗客が集まってきたのかと少し意外にも思う。
乗客は観光客より学生や老人が多い。地元の方々にとって、いまでも鉄道は無くてはならない交通手段なのだろう。
それも、来月にはJR西日本から切り離されて、IRいしかわ鉄道になる。

北陸線特急しらさぎ

8時35分、小松駅で下車。
このまま金沢まで行ってすぐに新幹線に乗り換えれば昼には東京に着くし、金沢の兼六園を訪ねても良いのだが、今回はそれをしない。
新幹線が敦賀まで延伸にともない、金沢と敦賀間の在来線特急が廃止になる。
廃止になる前の北陸線特急に乗っておきたいと思ったのだ。

そんな私の計画と思いをよそに、小松駅は来月開業の新幹線の方ばかりに盛り上がっていた。
本日は新幹線の試乗会があるらしく、その受付で新幹線改札口は賑わっている。
マッカーサーの「老兵は死なず、去り行くのみ(Old soldiers never die, They just fade away.)」という言葉を思い出した。

小松駅の南口 来月には新幹線駅になる
小松駅の内部 やはり今はやりの木目格子デザイン
駅前にコマツの展示館があったが週末は休館
新幹線試乗会の入口

特急しらさぎの到着時刻が迫ってきたので、ホームに入る。

ホームの頭上には、優等列車のドアを示した乗車札が柱に埋め込まれていた。
これは懐かしい。
昔、新幹線開通前の在来線の上野駅ホームには、特急や急行の乗車口を示す札がワイヤーに吊るされてたくさんかけられていた。
行先は新潟、仙台、山形、盛岡、青森など子供のころには行きたくても行けないはるか遠くの駅名が載っていた。
それらを見て、子供心にはるか遠くへ向かう夢のような列車が、今立っているこのホームから旅立っているのだと興奮したものだった。
もちろん、これらの札は乗客に乗り場を案内するための実用的なもので、本来はロマンもくそもないのだろうが、私はホームでこれを見ると少し興奮する。
しかし、このような乗車口の札も、時が過ぎて新幹線が開通する度になくなって見られなくなった。
しかし、北陸本線では、まだ大阪行きと米原・名古屋行きの特急がやって来るからだろうか、昔からの慣習で残っているのだろう。

しかし、それも北陸新幹線が敦賀まで開通する来月になれば、金沢まで走っていた特急サンダーバードも特急しらさぎも敦賀止まりとなるので、全て無くなる。

9時5分、特急しらさぎ56号は定刻通りに小松駅を出発した。

乗り場を示す乗車札 昔はこれに青森まで行く白鳥や日本海、札幌まで行くトワイライトエクスプレスの札もあったのだろう
特急しらさぎの特急券と乗車券

特急しらさぎは、小松駅を出ると間もなく最高速度の130km/hに近い速度で快走した。まるで、新幹線などに負けてたまるか、まだまだ俺はやれるんだと言わんばかりである。
先週乗車した381系のやくも号と違い、乗り心地も良く車両のガタも少ない。

北陸本線を特急電車がこのように快走できるまでには、関係者の方々の長年の努力があったはずである。
車両の開発はもちろん、トンネルによる短絡化、線形の改良、綿密な保線等々、一朝一夕でできるものではない。それも、北陸新幹線が敦賀まで開通すれば終わりである。

しかし、当の北陸本線を運営しているJR西日本としては、北陸本線の特急運用廃止と営業の切り離しは、JR発足当初からの悲願だったであろう。

なぜなら、この北陸本線はJR西日本では唯一の交流電化区間だからだ。

鉄道の電源方式には直流方式と交流方式がある。
一般に、直流方式は運行頻度が高い区間向けとされていて地上設備が高コストなのに対して車両コストが低い。反対に交流方式は運行頻度が低い区間や高速鉄道向けで、地上設備のコストが低いのに対して車両が高コストになる。
交流方式の「車両が高コスト」は鉄道会社にとっては本当にネックで、JR西日本の発足当初、この北陸本線向けの普通列車の車両を十分には用意できず、しばらくの間、国鉄時代の古い特急車両や急行車両を改造して運用していた。
たまにしか乗らないマニアからすれば、面白い車両ということになるのだろうが、普段利用する乗客や運用する鉄道会社からすれば、こういう古い特殊な車両は厄介でしかない。
今でも一部の交流電化区間では、主に普通列車は高コストの交流用電車を用意せず、さりとて国鉄時代の車両は古くてもう使えないから、レールの軌間さえ合えばどこでも走れるディーゼルカーで運用しているらしい。
直江津から金沢を通って敦賀までの北陸本線には、最近(といっても15年以上前だけど)になって普通列車にも交流電源用の新型車両が配備されはじめたが、この車両を開発・製造するのだって、全く採算に見合っていなかったはずである。

JR西日本としては、北陸新幹線の金沢と敦賀間の開通で、ようやくコストのかかる目の上のたん瘤のようなこの北陸本線の面倒を見ずに済むと、ほくほく顔だろう。
現在、北陸本線を走っている普通列車用の521系車両はIRいしかわ鉄道に譲渡するし、敦賀止まりとなる特急用車両の681系と683系は、まもなく不要となった高価な交流用設備を取り外され、本当に旧北陸本線を走れなくなるのだろう。

特急しらさぎ56号に使われていた車両は681系2000番台だった
かつては北越急行所有で特急はくたかとして越後湯沢と金沢を結んでいた車両だ
特急しらさぎの車内からの車窓

特急しらさぎは敦賀駅を出ると、速度を落として米原駅まで走った。この区間は、カーブも多く特急を高速で走らせるための設備が整っていないのだろう。

しかし、来月からはこの敦賀までの区間だけ特急の運行が残される。

米原駅に到着

10時45分、特急しらさぎ56号は米原駅に到着した。
特急しらさぎは本来、名古屋と金沢を結ぶための特急であるが、この特急しらさぎ56号は米原駅が終点である。今では特急しらさぎの半分は米原までしか運行していない。

ここですぐに東海道新幹線に乗り換えれば、やはり昼過ぎに東京へ帰れるが、米原に寄ったのであれば寄りたい場所があるので、観光を続けることにした。

浅香山 誓安寺

滋賀県にある誓安寺は、花山法皇が開創とされている。

米原駅から道のりで30kmほど南に位置している。
おそらく開創については花山法皇の天皇時代に名前貸しをしただけであろうが、西国三十三所巡礼の三十二番である観音正寺から少し南に逸れれば訪ねられる位置にあるから、記録にはなくても花山法皇が訪問をしていたのかもしれない。
特に、西国三十三所巡礼の最後の三十三番谷汲山華厳寺の巡礼を終えた後をどうするか、従者と議論を交わした可能性はあるし、ここで花山法皇と別れて京や比叡山に帰ってしまった従者もいたのではなかろうか。

その誓安寺を訪ねることにする。

米原駅から誓安寺までは、近江鉄道という地方私鉄線に乗り、1時間以上かけて桜川駅まで行き、桜川駅を下車して徒歩20分とのことだが、いかんせん、特急しらさぎと近江鉄道の乗り継ぎが悪かった。
米原駅で40分以上の待ち時間があり、1時間以上かけて桜川駅までいき、1時間半後の桜川駅発米原駅の電車で戻ってくると、時刻は15時過ぎ。
米原発のぼり方面のひかり号は、毎時57分発であるから、またここで40分以上の待ちになる。

特に観光地でもない誓安寺訪問のためだけに5時間をかけるのは、やりすぎである。
地方私鉄に乗るのは好きだが、さすがにこれは非効率が過ぎる。
しかも、せっかく米原周辺を観光するのであれば彦根城にだって行きたい。

仕方ないので、本日の朝、米原駅前のレンタカーを予約しておいたので、米原駅を出ると予約通りレンタカーの手続きをして、米原駅前のレンタカー屋を11時過ぎに出発した。

名神高速を走り11時40分頃、誓安寺に到着した。
近江鉄道を使っていたら、やっと米原駅を出発した時刻である。
誓安寺は農村の中にある平凡なお寺、としか言いようのない寺であった。
遠目には田んぼの真ん中に浮いているようにすら見えた。
本堂には賽銭箱も無いので、賽銭も納められない。
写真を撮って手を合わせ、早々に退却した。

誓安寺の山門
誓安寺の案内版
山門を道を挟んで遠目に撮る
誓安寺本堂 奥には住職の住居と思われる住宅が二棟あった
観音像 写真が下手ですまん

彦根城

名神高速で来た道を戻り、彦根ICで降りて彦根城を目指す。
彦根城は、耐震工事中とのことで天守閣には入れないらしい。
それは残念だが、せっかく訪れたのであるから、駐車場代1,000円、入場料800円を払い、彦根城を散策することにした。

彦根城の入口
天秤櫓
太鼓門
天守閣をバックに梅の花
彦根城の石垣
彦根城のお堀
西の三重櫓から眺めた琵琶湖

彦根城の駐車場を13時に出た。
近江鉄道を使っていたら、やっと誓安寺に到着した頃だろうか。
新幹線は14時57分発のひかり号を予約していたが、このまま米原駅前でレンタカーを返すのであれば、一本早い便でもよさそうである。
米原駅13時57分発のひかり652号に予約を変更した。

先週の鳥取と高梁の旅に続き、二週連続の旅となったため、疲労感がすごい。
今回は贅沢をして、割引でもないのにグリーン車を使った。

米原駅新幹線の電光掲示板 ひかり652号は10分後の出発である

ひかり652号は名古屋駅で抜かれるのぞみ号の遅れで、7分遅れで名古屋駅を出発した。
グリーン車に乗って快適なシートに身を埋めていると、列車の遅れもありがたい。
名古屋駅からひかり号は遅延を回復させようと、頑張って走っていたはずであるが、早々に眠りに落ちてしまった。
目が覚めると小田原駅を通過していた。
新横浜駅には4分遅れでの到着とのことだった。

旅を終えた帰りの新幹線で飲むビールは格別だ

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