人を好きになるということ
私にとって「恋愛」とは
19歳から26歳まで続けた「恋愛」は、当時の彼と別れたことをきっかけにその価値観に限界を感じるようになった。
長年連れ添ったのに理解し合えなかった、長年連れ添っても全てを理解し合うことなんてできない、そういう気持ちが常に心の中に引っかかっている。彼のことは大好きで大好きで、家族を含めた誰よりも信頼していて、ずっと彼の側にいたいと思っていて、別れて1年経つ今でも寂しくて泣いてしまう時もある。だけどそんな彼に対してでも分かり合えないことが許せないことが一つだけあって、私はそれを守るために彼と別れることを決めた。
「恋愛」って一人の人との関係しか許されないから、一人の人に多くを求める、相手のために変わる、みたいなことが良しとされていて、その価値観があったから「彼と一緒にいるなら私は変わらないといけないけど、これだけは譲れない。なら別れるしかない」という結論に至ってしまった。
その時、私たち二人の間に「相手の為に変わらなくても良い」という世界線があったら、今どうなっていたんだろうか。
一人の人に全てを求めなくても良いんじゃないの?
彼と付き合っていた当時、日常の小さなことから価値観などの大きなことまで私は彼に多くのことを求めていた。
私は彼のことを愛していて、彼も愛してると言ってくれていて、それならば私の全てを理解してほしいと考えていたし、私も彼の全てを理解したいと考えていた。
彼も精一杯答えてくれようとしていて、大抵のことはお互い理解したり、理解できなくても譲りあったりしてかなり上手くやっていけている自負が私たちにはあった。私はこの人と結婚するんだと当たり前に思っていた。
けれど実は付き合ってすぐからずっと、根本から価値観が合わない、根深い問題があった。
それは
「自分は何を軸に生きることが幸せなのか」
彼にとってそれは「安定」で私にとっては「自分らしくいられる」ことだった。
この問題は私が大学を卒業するタイミングで浮き彫りになった。これまでそうならなかったのは、彼は私が大学を卒業したら「安定」側に舵を切ると考えていて、その間私が「私らしさ」を追い求めることを黙視していたからだ。
そして私はそれを露知らず、大学卒業後に自分のスタンスを変えるなんて考えたことも無かったし、何ならこんなに長く付き合っているのだから彼はすでに理解してくれているとさえ考えていた。
だから彼に、「大学卒業したら安定してくれるよね、だから就職活動するでしょ?」という意志を向けられた時は谷底に突き落とされた様な気持ちになってしまった。ちなみに就職したくなかった訳ではなくて、就職活動をする理由が「みんな新卒で就活するのが普通だから」ではなくて、ちゃんと自分の人生にしっくりくる仕事に対して就職活動をしたいと考えていたのだ。
当時は私もずっと支えてくれた彼をがっかりさせたくなくて、新卒の就職活動をしたけど、やってみたら好きでもない人にラブレターを書かされているような気持ち悪さがあって、「御社のことを愛しています!」という演技をやり切ることができず、ストレスで不眠症になってしまった。
そして結果として長年連れ添っている恋人が不眠症になっている姿をみてもそれを止めようとせず「頑張れ」という彼に多大なる不信感を抱いてしまった。
彼には私が一番生き生きしていられる状態を受け入れて欲しかった。そうして、私はそんな彼との生活に息苦しさを覚え、彼との7年間の関係に終止符を打ったのだ。
この時、理想としては、彼は安定を、私は自分らしさを、「それぞれが追い求める理想の人生」を、一緒にいながらお互いに尊重することができたら良かったと思う。
それができなかったのは、当時の私たちに「恋人」になら全てを求めても良いという価値観があったからだ。彼も私も、相手に自分の人生を求めてしまっていたのだ。
だから今私は、「あなたに全てを捧げます」という「恋愛」の関係に疑問を持っている。
一人の人に自分の全ての価値観を理解してもらうなんてのは到底無理なことで、それよりも色々な価値観ごとに共有する人が複数いる方が健全なのではないかと考えた。
各価値観ごとに、共有しあえる人と共有すれば良い。例えば、それこそ恋愛の価値観はこの人、仕事の価値観はこの人、生きることへの価値観はこの人、という具合に。
私は、私と一緒にいることでその人が自分らしさを失って、生き生きとできなくなってしまうことがとても嫌だ。
私が理解できないその人の価値観があったとき、私に合わせて我慢するのではなく、他の理解できる人と分かち合える場を持つことで、その人らしさを殺さずにいてほしい。
だから、相手にとって大切な人は私一人でなくても良くて、むしろ、その人がその人らしくいられる場所が沢山あってくれたら良いと思う。そしてそれは相手もまた、私にそう接してほしい。
もちろん、「恋愛」をしている人たちを否定する気持ちは一切ない。
私個人ががこの先「恋愛」をすることに限界を感じてしまって、求める先が一人の人ではなくなるのなら必然的に「恋愛」の世界に身を置くことはできなくなるので、新しい関係性を構築しようとしているだけだ。
今構築しようとしている関係性にあえて名前を付けるのなら「(人生の)パートナー」が一番近い気がしている。
パートナーは、お互いにまず自分の人生があって、相手がそれに生き生きと取り組めるように支え合う関係性だ。相手の人生に合わせて自分を変えるのではなく、サポートする。
だけどこれ、子供が生まれたらどうするの?っていうところは、私が結婚願望がないことや子供が欲しいと考えていないこともあり、まだイメージできずにいる。
相手を大切にするということ
私にとって相手を大切にするということ、それは距離を保つことだ。
少し前に、そのことについて知り合いと議論したことがある。
知り合いは「何か価値観に相違があった時、相手を変えることはできないから自分が変わるか、環境を変えるしかない」「それが相手を思う行為だ」と言った。だけど私はそれを聞いて、「てことは、相手にも変わることを求めているってことになりはしないか?求めるまではいかなくても、数%でも相手を変えてしまう可能性が潜んでいるのではないか。」と思った。それって本当にお互いが幸せなの?
私の場合では、相手の価値観を理解できれば「嬉しい、私もそう思う!」と肯定するが、価値観の相違があった時には「あなたはそう考えるのね」と否定もせず肯定もせず、ただ認めるように努めている。
そのことについては少し離れたところから様子を伺いながら相手のやりようを見守っておいて、相手がもし困難に遭遇していそうだった時だけ手を差し伸べる。
そのくらいの距離を持つことが、私にとって相手への最大の敬意の示し方であって、相手を大切にするということなのだ。
好きの境界線
「最近好きな人いるの?」「その人のこと好きなの?」そう聞かれるといつも答えに困る。
「好きだよ」と答えたいが、その質問の意図は「恋愛」として好きなのか、つまり「一線を画した好きなのか」という意図だからそうは答えられない。
私の中で「知り合い」「友達」「恋人」みたいに好きの度合いによってステータスが変わる感覚はない。
「人として好き」の度合いがだんだん濃くなっていくだけだ。
私は「人として好き」だと感じた相手のことをもっと知りたいから一緒にご飯を食べに行ったり、出かけたり、お酒を飲んだりする。
「恋人」になりたい訳ではなくて、その人との「信頼関係」を築きたいのだ。
生物学的に異性、つまり男性で、「人として好き」だと感じた人と何度かご飯に行って、信頼関係も少しずつ築き始めていて、「楽しいなあ、この人のこともっと知りたいな」と思っている時に、「恋人になりたい」とか「性的なことがしたい」とアピールをされると裏切られたような気持ちになってしまう。
そういうことは私にとっては信頼関係が築けた上での結果的なものであって、結果として「よく一緒にいる」とか「スキンシップがある」状態になるということだからだ。
私にとって「女」であることは社会的に割り振られた「表層的な役割」の1つでしかなくて、相手にはそこではなくて「私」という「個人」を見てほしいと思う。
だけど難しいのは、普段はそう思っていても「生物学的な女」として本能で動きたくなる瞬間も全くないわけではない。だけどそれは相手との信頼関係があって、相手がそれを良しとしてくれて初めて受け入れられるべき物で、そうでないと相手を尊重した行動ではなくなってしまうので慎むようにしている。
性的なことについて
私にとって「性的なこと」は手を繋ぐところから始まる。つまり、相手に触れたいと意志を持つことだ。
私は「人として好きな人」と手を繋ぐことがとても好きだ。何ならキスもすごく好きだ。
理由は、非言語的なコミュニケーションができるから。もっと知りたいと思う「人として好きな人」との、温もりや間合い、息遣いを通じてのコミュニケーションはとても心地がいいし、言葉では共有できないものが共有できるような気がするから。
一般的に「性的なこと」は決まった特定の人とするべきものという認識があるが、私は先にあげたコミュニケーションは「人として好きな人」ともっと気軽にしたい。
だけど「性器的なこと」は自分の中でちょっと特殊で、基本のスタンスはしたくない。相手が「人として好きな人」だとしても。
それをした瞬間に相手の中から「私」という個人が消し去られて「女」という記号になってしまうのではという恐怖があるからだ。
そして大抵「手を繋ぐ」とか「キスをする」というコミュニケーションをとると「性器的なこと」に繋がってしまうから、そういったコミュニケーションはしないようにしている。
今の世の中では「性器的なこと」をすることが「性的なこと」のなかで最上位、みたいな雰囲気があるように思う。しかもそこに自分の性別的役割の有用性を示すものみたいなイメージもあるように思う。
「性器的なことができたら男として価値がある」
「性器的なことを求められたら女として価値がある」
「性器的なこと」も結局はただのコミュニケーションの方法であって、それで価値を決める必要性は無いように思う。
そもそも、「男として」とか「女として」自体がナンセンス。もっとその人の「人」の部分に向き合いたい。
様々な「性的なこと」=「非言語コミュニケーション」の種類があって、それぞれ違った良さを持つ色々なコミュニケーションの方法があるってことが広まったら嬉しい。
今後について
人との付き合い方は多様になってきてはいるけど、まだまだ「所謂恋愛」とか「夫婦」とかが一般的とされる固定観念が強くあるように思う。
「恋愛」的でなくてもパートナーの形は人の数だけあっていいと思う。
時々今回みたいな話をすると、人数のこととかを指摘されるけど、結局のところ大切なのは人数がどうとかではなくて相手に対して誠実であることなんじゃないの?
自分のことを大切にしてくれる居場所が沢山あることが悪いことなはずはないし、そういう相手を蔑ろにせずに、誠実にきちんと向き合う。相手との最良の関係性を二人で探る。
これができていなければ、相手が一人だとしても不誠実じゃない?逆を言えば、これができていれば人数は関係なくないか?
色々なパートナーの形や、その可能性がどんどん開かれていくことで、沢山の人が自分らしくいられる居場所を見つけられるといいと思う。
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