isamu bendsan

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自分を解剖して心があるか確かめたい

# 生きていること自体、疑い得るものであり、ぼくらの人生なんて、それは実態がなく思える、例えば僕らの意識は安いゲームソフトにインストールされていて、太陽系というステージで、幾ばくかのライフを賭している。どうせゲームみたいなもんなんだから、もっと前向きに生きてみるのも、悪くないかなと思う。 # 人と関わることが嫌いで、でもその反面、自分の純血さを自認したい強迫観念がある。それはなんて言うか、そもそも他人との関わりなんて自堕落なもので、濁っていて、意味なんかないもので、ってそん

    • 2番線に列車が参りますが、あなたはどこの誰ですか

      # 力の源、俗に言う異常さは、つまり、欠乏から生じていた。ぼくが失った他者との繋がりは、強い孤独感として、ぼくに色濃く、影を落とした。何者かになりたい、その切なる願いは、さらなる過剰性へと、ぼくを駆り立てた。 全てを捨てて、全ての時間を一点に当て、まっすぐに進んできた。しかしどうやら、ここが行き止まりみたいだ。 # 煩わしさは、しばしば、ぼくにとって人間関係からくるものだった。いつだって、こいつさえいなければ、そうやって呪う、対象がいた。 だから閉ざした。ぼくの身体は、そ

      • 『ただの遊び』

        ひどい! 書くものがなくなってしまった。書くという行為でしか、頭を整理できないというのに。気が付けばノートもない。お気に入りの本もない。ああ全く、この部屋はなんでも食い尽くす。本や服、瓦礫の間は、宇宙空間とでも接しているのではないか。 寝そべったおれの体は重力を全面に浴びて床に伸び切っている。力無く横に垂れたおれの視線は醜く重なる瓦礫の影を見据えていた。 光があった。 久しく娯楽に興じていなかった。だがいま確かにおれは見た。みるみるうちに体に力が漲った。おれの全身は肉食獣

        • メディア論

          メディア論なるものを提唱したい。 メディア論、それは人が生きる目的を説明する理論体系である(理論体系であるべきである) 簡潔に表現しよう。メディア論とは、人は何かを表現するために生きており、表現の媒体の選択は人それぞれ違う、というものだ。 この媒体を深掘りできていないし、体系化できていない。それにこの理論が存在する価値なるものが見出せていない、腹落ちしていない。然るにアイデアの域から逸脱し得るものではない、というのが現状である 僕はこの文章を大阪-京都間を線形に移動する

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        自分を解剖して心があるか確かめたい

          『ポエマー』

          ポエマーたちの巣窟に、おれは足を踏み入れた。 人影は確かにある。だが大体は屍。当然である。 しかしおれは度肝を抜かれている。何故か 大半がスーツを着た初老だったからだ!

          『ポエマー』

          追体験のために

          書くという行為は、その時点における自分の精神状態と、言語能力を、一つのパッケージ化された記録として、保存する、そんな素晴らしい機能を有している。 もちろんプライオリティは現実社会における、実体験としての戦いと、遊びである。否、書くなどという行為は、二の次。 したがって、書く事柄は、簡潔で良い。振り返るのは君自身であり、君がその時点における全てを反芻できたら、それで事足りる。 少し先、あるいは限りなく先の時点にいる君は、この瞬間におけるぼくを、分かることができるだろうか。

          追体験のために

          正義と渦

          君のポジションにおける最大の役割があり、その役割に基づくコアな観点があり、その観点で発言・行動することに、なんら誤りはない。その正義に対して巻き起こる周囲との葛藤は、必要悪であり、健全な苦しみである。弁証法の揺れ動きの中で止揚に収束していくのは美しい摂理である。正義に基づき前に進まぬ者は、組織は、本質に辿り着けない。究極をこの目で見ずして、僕は死にたくない。

          blown out of proportion

          生きててどうせ良いことなんかない意味のないこのクソみたいな世界でせめてもと震える手を伸ばしていく微光に向かって

          blown out of proportion

          シネマと死

          死とはその人間の中で連続していた時間が途切れる瞬間のことであり、それはその人間のストーリーの終幕を表している、よって儚く、死によって大成される美というものが、僕はあると思っている。言い換えれば、死によって終わりを迎える、映画のような進行体が人生である。映画の全体像は俯瞰されてこそ、理解できるものであり、その美しさは、終わることで、完成される

          『メビウス』

          自分の言動や行動によって環境の気流が変わる様を感じる時、そんな有機的な繋がりへの積極参加こそが、生きるということなのではないかと思う。身の回りと有機的に繋がり、温もりを育むこと、その位相で、メビウスの輪のうえを飄々と揺らぐこと、そうやって全てを忘れていこう、忘れることは美しく、それでいて高貴だ。

          『メビウス』

          『微風』

          ジムへ向かう道のり。微風が体の前面を優しいエアバックのように受け止める。それは頑固な衝突を朗らかにする間接としての余白。揺られる木々の声が聞こえる。木漏れ日はキラキラと星のように。白黒と鳥が飛んでいる。世界との有機的な繋がり。一点の集中ではない多様なる注意の分散。大きなうねりとの絡み合い。尊い経験。

          『説教』

          『結局のところポイントは、いつ君のプライドが砕かれるか、というところだね。 君みたいに、顔立ちが整っていて、ある程度知性があり、学生時代からチヤホヤされてきたやつは、プライドが高い。 まったくこれが、拗らせるんだよなあ。 会社っつーのはだね、機能を持った「演劇」なんだよ。ピラミッドの中で各人に与えられた位置があり、君らはその位置で然るべき「役」を全うする。無数の劇の集積としての舞台、会社は、機能として、有機的に成長していく。 おれの力はこんなもんじゃあない。? 困るん

          考察 映画『あのこと』オードレイ・ディバン監督

          2021年、第78回ヴェネツィア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を獲得した本作。勇気ある女性の強さに、深く胸を打たれる作品だ。 “じぶんごと”としての映像体験正方形に近い画面構図で、限りなく狭い視野で撮影された本作。ストーリーが進行していく中で、是が非でも、観客の心身はアンヌのそれと一つになっていく。 そして我々がアンヌと位相を共にした時、待っていたのは地獄の苦痛。中絶の施術である。 一度目の施術は絶望にも失敗に終わり、この施術で走った激痛を、我々はアンヌと共有した。だから

          考察 映画『あのこと』オードレイ・ディバン監督

          『テロリズム』

          体毛が顔に生い茂り、無尽蔵に皰を栽培する。規律と相反するだらしない風体。薄汚れるハリボテに似たベール。 過大解釈に基づく露骨かつ稚拙、まるで一辺倒な感情表現。口を発せば反復音声。複雑な感情体系を説明する知性を持たない、赤子のように未完成で自己分裂的な精神。 淫らな遊園地の出し物のように上下運動を繰り返す不安定な感情。且つそれが絶頂した瞬きに露呈する近視眼的テロリズム。秩序の中に吹き込まれる臭気に塗れた混沌。催される吐き気。 男の戦争を理解しない女は去勢した男と結ばれたら

          『テロリズム』

          『クーラー』

          白い直方体をした電化製品から冷気が滴り落ちる。更に大きな直方体の中で僕は鎮座する。夕刻に近いがまだ明るい。この部屋は少し暗い。僕には何のやる気も想起しない。 このまま地獄にでも引き摺り込まれないものだろうか。

          『クーラー』

          バビロン by デミアン・チャゼル

          デミアン・チャゼルの映画愛は「映画と人間社会の関わり」そのものを肯定するまでに及んでいた。 歴史の一部となった確信に微笑み涙する男は、デミアン・チャゼル、彼自身ではないか。 穢らわしく、然しプラトニックな3時間超。

          バビロン by デミアン・チャゼル