年末のできごとをふりかえる

年末にあったことをふりかえったら、今年出会った、たいせつなことに気づいたはなし。

今回は、ヨガのTTの同期の人たちと久しぶりに集まったことからはじまった。
これまでとこれからの考え方の変化や、じぶんの体質のこととか。
わたしはわたしのままでいいということ。

◯ヨガのひとたちとの集まり

 わたしにとっては、こうして集まること、それじたいが久しぶりだったので、とても刺激的だった。しかも子供の頃からの友人と会うのとはちょっと違う。ヨガ以外で集まることも、初めてだったから、どんな感じになるんだろうとそわそわしていた。けれど、会った瞬間には、もうあたたかい空気で、安心した。ヨガを共に学んだとは、こういうことなんだとも思った。学校とか、仕事とか、今までのコミュニティーとは、そこにいたわたしがちがうからかもしれない。ヨガをするときは、邪念がなくなるような、というか、そうした思いとか、ちょっとちゃんとしよう!とか、外からどう見られているんだろうとか、恥ずかしいとか、ここではこうあるべき、こうありたい、こんな自分でいたい、、、そういうざわざわしたものとか、硬いものを手放していくことだから。
ヨガの学びに取り組んだあの時間は、わたしにとっては、日々の凝り固まった、そういったものをおろしていって、身構えることなく、ぽやんとしたやわらかいまんまるの状態でそこに委ねている時間だった。というより、そうするしかなかった。前代未聞の挑戦に、そんな無防備な状態で、なんにも持たずに、初対面の人たちのところへ飛び込んでいくなんて、わたしにとっては大冒険だった。
わたしは、最後までそれをしてみた。してみるようにした。今までのやり方、ガッと力をいれたり、無理やり身体を動かそうとしたり、あの人のようにと自分のペースを当てはめようとしたり、一夜漬けのような力の使い方とか、これまでのそうやって頑張ってきたのを、変えてみた。そうすると、とても楽しかった。らくだった。
 わたしはわたしの言葉で話した。言いたいことを言いたいタイミングで言った。それでも衝突やケンカなんて、意地悪なんて起きなかった。

 …と、そう書いてみて、自分で驚く。そもそも、ヨガのアーサナをお互いに見合って研究したり、哲学について意見を交わすのだから、そういうバトルするような場ではない。わたしも何か攻撃でもするようなつもりで話したわけでは全くないのだから、そんな心配はいらないのだ。どれほど、わたしが自分の感覚や、言葉を話すときに恐れを持っていたかが分かる。自分の話すことは相手を怒らせたり不快にさせたり迷惑をかけるものだと思い込んでいたかがわかる。
そこから発生した考えは間違った方向へ進んでしまったようだ。思い返せばいつからか、仕事のときや、時には友人との会話でさえ、相手とのこの会話をいかに円滑に進め穏やかに着地するか、に焦点があっていた。相手のトーンや言葉の選び方や雰囲気を伺って、適切なタイミングや言葉を選んでいた。わたしは、空気とか波動を感じやすい体質なので、うっかり無防備にぽやーんとあけたままでいると、無意識に受け取ってしまうのだ。
相手の不機嫌なザワザワや、落ち着かないグラグラや、憤りやイライラ、不快感、、、
急に怒り出したり、怒鳴ったりするなんていうのは大ショックで、多分それは誰しもが不快だろうけれども、それが自分に向かってなくても、そこの近くにいるだけでビリビリとした攻撃の電気が全身に流れるような恐れや、不快感や、虚無感などがある。
 あるとき、接客のしごとで、わたしがお客さんの対応をしているとき、別のスタッフに対して理不尽なお客さんが突然に怒鳴りはじめたことがあった。ひどい言葉や態度がその場に響き渡った途端、全身にビリビリと流れ、頭が真っ白になった。わたしが怒られているかのように、恐怖で手元が震えた。わたしではないと十分にわかっているのに、からだの力がぬけていく。仕事に慣れてきていて、大体のそういった波動があっても、わたしはわたしで集中できるようになっていたにも関わらず、そのときはできなかった。目の前のお客さんも一緒に、あら、いやですね〜みたいなアイコンタクトとかとれたり、共感してから話始められると安心したりするのだが、そのひとは全く気にしないタイプの人だったようで、話し続けていた。やばい、集中せねば、話をちゃんと聞いて進めなければと焦った。もし、万が一、この目の前の人まで、なんで話聞いてないの!と怒りはじめたりしたら大変である。わたしはもう立っていられない。
結局、目の前の人は、そんな人ではなかった。わたしがワンテンポ遅かったり、トレイを落としたり、金額を言い間違えたりと散々な中、不思議そうではあったが、最悪の事態はまぬがれた。
 これは相当おおきめなことで、
そこまで周りの人がわかるほどの大事でなくても、目の前の人の言葉の端端のとげとげしたところや、圧のかかった言い方やその空気のそばにいることにも、からだがさーっと力がぬけたり、あまりにダイレクトに言われたりすると、呼吸が浅くなったり、自分の存在価値まで否定しようとしてしまったりするので大変である。また、攻撃でなくても、スピード勝負だったり、機械的な作業だけであったり、わたしのペースと著しく合わないペースの波動がそこに流れ続けている空間はすごく居心地がわるい。ほとほと、生きづらいな、と思うことばかりだ。
 きっと、そうした中で、傷ついてきた自分の防衛本能が、どんな些細なやり取りにも傷つかないように、世間話であっても、相手の反応や空気の変化に重きをおきはじめたのだろう。

(・・・この体質を、HSPやエンパスという言い方をすることを数年前に教えてもらった。繊細さんという言い方も最近よく聞くけれど、なんだか、読むものや他者の使っていることがじゃあぴったりそれです!とは言い切れない。それによって同じではない違和感がある。それについては研究中である。しかもそこに加えてわたしは小さい頃から言語好きなので、さらに複雑化している。「繊細」という意味では近いものがあると思うけど、それだとなんか弱々しい感じがするから、認めたくない、と思ったりする。本になるほどこんなに繊細HSP人口がいるのならもっとかっこいい言葉でこの体質を言えたらいいのになあ。このことを研究したいし、もっと知りたいけれど、ちがうものとか不快なものにふれるとショックを受けるし、こんな内側のなんともわかりづらいパーソナルな部分に対して、なにか言い切ったら言い切ったでショックだし、そもそもわたしもわたしのことしかわからんっていうことになるし、むずかしい。。・・・)

だからこそ、
ヨガの学びのあの空間で、わたしがわたしでいられたことは、ものすごいことだったんだな。
今、これを書いてみてさらに理解が深まった。漠然とすごいことすばらしい体験だったと思ってはいたけれど、だから、わたしが無防備にそこにいて、言いたいことを言える空間はすごいことだった。すごい出会いだ。

 そこにいるのはここまで研鑽してきたヨギーニたち。ヨガに出会い、深めたいと思って集まった人たち。そうして集まったひとたちは、波動が合うんだと思った。学校の決められたクラスとは訳がちがうのだと、大人になってこんなふうに出会う集まりって、はじめての感覚だった。大学のときも、快適だと思ったけど、もっともっと居心地がいいものなんだな。
 

そんな素晴らしいなかでも、

最後の試験前には、
わたしの内側に大きな揺さぶりが生まれて大変であった。
これまでのやり方の方がいいんじゃないか!新しいこの方法は怠けてるんじゃないか!甘いんじゃないか!もっと頑張らないと足りないんじゃないか!そもそもわたしにはヨガへ取り組むこと自体が無謀だったんじゃないかなどなど、ふるーいわたしの凝り固まった考えたちが、わーっと押し寄せてきたのだった。
そうだったのかもと力をいれてみたり、いやいや、今回はそういうことじゃなくて、乗り越えたいんだから、信じようとか、せめぎ合いがあった。
そういうとき、頑張ろうとか、ふるーい方向へいこうとしてみると、苦しかった。辛かった。重たい荷物を背負っているようだった。しかも、その先は行き止まりだった。
結果的には、らくなんて甘いよ!とふるーい自分が言った、そのらくな道で歩んだヨガは、ちゃんと身についていた。たのしいなあと進んだ道。わたしがわたしのままでいることは悪いことじゃなかった。誰かに怒られたりしなかった。誰かに睨まれたりしなかった。むしろ、踏ん張って苦しんできた道よりも、ずっと豊かでうつくしいものがたくさん手に入った。手に入ったといっても所有ではなく、周りに囲まれている風景。それは個人で所有するよりも、しあわせで安心する感覚。

TTCに参加したことが、ヨガだけでなくたいせつなことに気づける経験となった。

そのさきに、年末にこうして
ヨギーニなかまたちと語り合える場所ができている。
わたしがわたしのままでいられた道のさき。

苦しみと我慢の一夜漬け踏ん張りパワーよ、これまでありがとう!

ここからはわたしがわたしのままでいられる快適エネルギーにのっていこう〜!


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