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はじめての人へ、私のこと

ここでは「おおまゆうすけ」という人間は何者なのか?
はじめて出会う人に向けて、簡単にどのような道を歩んできて、今何をしていて、どこに向かっているのか(?)
が分かるようなモノにできたらと思って、日々更新を重ねつつ、まとめて行くことにしました。つまり、私のことを数分で理解できるところ(にしたいと考えて頑張って更新しています)です。

by 2024.3.17(最終更新日)

きっかけと目的・コンセプト

インターネット上に文章コンテンツをアウトプットする = SEO という、デジタルマーケティングのど真ん中を歩んできた私にとって、SEOではなく単純に自分自身との対話の場を築こうと、考えた結果ここにしました。
自分のサイトへブログを設置して書くことは今までも散々してきたけれども、それとは違うんだ!という小さな宣言のような意味も込めて、noteです。
ちなみに、ここで書こうと考えていることは、仕事とプライベート(こちらが多め)の2つが中心で、ここしばらく学習してきた人間の成長・発達に関することにも触れますが、更新は不定期です。

  • 日々のこと

  • ビジネス方面のこと

    • プロジェクトマネージメントに関すること

    • デジタルマーケティングに関すること

    • ECなどのオンライン販売に関すること

    • 経営に関すること

  • 人間の成長・発達方面のこと

    • 乳児期に関すること

    • 幼児期に関すること

    • 児童期に関すること

X(旧Twitter)や、Instagramなどしない私にとって、
ここは唯一のアウトプットの場です。

いままで

簡単に、私の歩んできた道をザーッとご紹介。
表でまとめようと思ったのだけれども、noteでは表が使えない!ということで、いきなり詰みました。なので読みづらいですが勘弁ください。

誕生:青森

1979年、誕生してしまう

幼児期(保育園):青森

田園風景の中、自由奔放に育つ
※ ドリフターズのテレビが大好きだった記憶がある

児童期:青森

夜遅くまで練習の野球少年。
片道徒歩45分は学校まで時間がかかるため、学校と野球部の活動で1日がほぼ終わっていた。ファミリーコンピュータが流行っていたが、する時間などなかった。

10代:青森→宮城

〜 中学生頃 〜
担任の先生が学校へパソコンを持ってきており、そこで自作のゲームで遊ばせてもらったのがパソコンとの出会い(パソコンという存在を知る)。
※ スラムダンクが流行した頃

〜 高校生頃 〜
そこそこの成績、誰よりも早く校門を出るのが生きがいな日々。
将来的にパソコンを活用する職種への進路を相談しても、田舎では誰にも理解されない(知識のある人がいない)。成績はそこそこ優秀だったため、大学進学をすすめる教師と、貧乏だったために高卒で就職しろと圧力をかけてくる親を押し切って、専門学校へ進学することに決める(その時の費用は、亡くなったおばあちゃんが出してくれた、感謝してもしきれない)。

〜 とにかくパソコンに触れたい!専門学校の頃 〜
選んだのは仙台の専門学校でCG学科、あまりにもこの分野向いていなく、円柱の柱をただ上下に動かすだけの金の斧・銀の斧のCG動画を作るが、みんなアートな才能がすごかった。完全に落ちこぼれで挫折する。確かにパソコンを使う学校ではあったが、パソコンを使って何をするかまでは描ききれておらず、完全に将来を見失う。が、Macintoshを使いDTPに関することなど、パソコンという物の内部的な構造含め学べたおかげで、今の基盤となったのは間違いない。昔はよく出たApple製お約束の爆弾マークをたくさん出したのはよい思い出。
ただこの頃、インターネットを通して海外の人と交流する(今で言うチャット的なモノ)ことが楽しく、それだけを目的に朝起きて学食を食べに行き、インターネットルームに直行していた。ホームページを作り交流するという方法を知り、学校が終わると共に、自宅へ戻って自分のホームページファイルを更新し(MOディスクでデータを管理)、翌日インターネットルームからアップロードして自分のホームページを更新するという毎日を過ごす。この頃にホームページというモノに出会い、人生の歯車は大きく動き出した気がする。
この頃のインターネットは、常時接続なんてできなかった(ダイヤルアップで繋いだ時間だけ接続料金がかかった)ので、常時接続できる学校のインターネットルームが楽園だった。朝から学校が閉まるまでいつも居たので、それだけは皆勤賞で授業にいなければここに居ると、先生も理解していた。きっと接続費用だけで学費はペイしていたと思う。
※ ちなみに髪の毛の色は7色に変化した(今では想像できないですよね)。
学歴云々はさておき、熱中できることを発見出来たと言うだけで、進路選択として大成功だった気がする。

20代:宮城→青森→神奈川→千葉

〜 地元に帰り、バイトの日々 〜
完全に学生気分そのままで、色々な就職先はあったにもかかわらず、全く就職活動をせず地元に戻りバイトをする。バイトの面接にことごとく落ちたが、運良く拾ってもらったドラッグストアでバイトをする。自宅ではテレホーダイ(23時〜8時頃のネット使い放題)が活動の中心時間で、昼夜逆転。自宅でプログラムを作って自分のホームページでフリー配布などをしながら、遊ぶ(Photoshop2とかの頃かな確か…)。Yahoo!にも登録されアクセス数もそれなりにあり、自前の掲示板&チャットに人が集まり、夜な夜な遊ぶが、CGIサーバーの負荷などで頻繁にレンタルサーバーの移動を迫られたのは良き思い出。

〜 パソコンは使いこなせる 〜
そろそろ真面目に働くべきだろうと思い、職安で仕事を探す。
パソコンが使えるだけで、氷河期世代に関わらず競争に勝ち残り就職成功。
田舎なので、パソコンを使えるだけで即戦力だった。
いつの間にかたくさんのアルバイトの方を従えて、大きめの公共事業のプロジェクトを動かすようになっていたが、月の手取りは10万円を超えない…。

〜 パソコンスクールに習いに行ったのに、先生になる 〜
この先を考えると何かを変えなければいけないと感じていたので、とりあえずスキルアップをしようと思い、地元のパソコンスクールに通うことにしたが、自分より詳しい人がおらず、習いに行ったのに、先生としてスカウトされWEB系スクールの先生に何故か引き抜かれる(※ 給料は倍になった)。
人に教える面白さを感じつつも、自分で作る方がやっぱり楽しいな…と思うが、今居る場所での限界を感じたため、東京に出るしかスキルアップの道はなさそうだと感じ、(手持ちのお金を全額使って)上京する。
この頃、教えていたおばあちゃんのECサイトの立ち上げをし、軌道に乗せ、インターネット上で遠方の方に物を販売する楽しさや、自分なりの仕事での貢献の仕方というのが少しずつ見えた気がする。フリーランスになる芽が見え始めた頃だと思う。Yahoo!のディレクトリ検索全盛期の頃で、おすすめのメガネマークが付いたのはちょっとした自信になった。それなりに、WEB系の仕事でやっていこうと決意した頃でもある。22歳頃だった気がする。

〜 上京 〜
手持ちのお金がなかったので、青森から面接応募をし、東京へ行った日に、数社受け、仕事を決め部屋を決め、戻る!と言う弾丸スケジュールを決行した。
そして入社(中途採用ですね)、いきなり上場企業のWEBサイトのプロジェクトに入れられる。誰も助けてくれる仲間はおらず、自力で頑張るしかないが、なんとかしてしまう力はあった。
引き続き、管理していたECサイトは大きくなり、週末の空いた時間は自分で管理しているサイトの運用・更新作業、平日は会社の仕事というそんな日々を過ごしていたら、もう少し自由に、一人で出来るんじゃないだろうかということに、薄々気づき始めるが、会社では落ちこぼれ扱いだったので、デザイナーという肩書きはもらいつつ、振られる仕事は捨て案向けデザインの制作とサイト更新作業だけだった(つまらない)。
スキルアップにもあまり繋がらない上に、精神衛生的にもよくないなと感じ、空いた時間に自分のポートフォリオ(実験サイト)を作ったらそれが楽しかった。なんとかなるんじゃないかという勢いで退職することを伝える(案の定、上司らにはお前には無理だと烙印を押される!)。フリーランスになってからの算段が付いていたわけではないが、なんとなくやれる自信はあった。薄給だったのでもちろん貯金はない。
とりあえず退職の意向を伝えて、給料が払われるまでの間に、なんとか一つくらい翌月分くらいの食いぶちになる仕事を見つけようと(ダメながらティッシュ配りでもしようと思っていた)、ポートフォリオ経由で声をかけてもらった人からのお仕事を受けたりするうちに、自分で作ったサイトが色んなメディアに取り上げられ、私の退職の日を待ってくださる方が増え、退職後翌日からのスケジュールは綺麗に埋まった(ラッキー)。収入も務めていた頃の3倍くらい増える。

〜 独立 〜
仕事は途切れず、務めていた頃より激務となっていた。
企画から制作まで、大・中・小さまざまな案件に関わらせてもらうが、超激務。ほとんどが代理店からの仕事だったので、案件・単価はとにかく大きかった。
ただ、下請けで出来ることにも限界を感じつつあったし、この世界でも上には上の人がいると言うのもよくわかっていたし、インターネットは中小企業こそ、活用して欲しいという思いもあったので、少しずつ直接取引する企業が増えるように代理店の仕事を減らしつつ、営業するようにした。ありがたいことに、直接の取引企業は増え、一人だと抱えられなくなってきたので、人を雇うために法人化を決意する。

30代:千葉→茨城→東京

〜 30代前半、法人化 〜
結論:私に法人化は早すぎた。大きな挫折。
会社の売り上げは大きくなり、スタッフの数も着実に増えていく。
抱えているプロジェクトの数も多く、規模も大きくなり、さらに激務。
いつの間にか、会社を回すことに奔走され迷走し出す。(= あれ?こういうことしたかったんだっけ?)そして、子供が産まれる!

〜 30代中盤、いろいろ終わる 〜
ここまで、比較的順風満帆な感じで来たが、精神的にも体力的にも、自分自身の能力的にも経営者としては限界を感じ、会社を縮小することにする。
プライベートでもいろいろ終わる。

〜 30代後半へ向けて、子供向けEC事業を行う 〜
クライアントの事業のお手伝いをする(しつつ経験や体験を積み重ねる)というスタンスでの仕事ばかりだったことに限界を感じ、自分で実行してみるという手段としてEC運営を選ぶ。自分でするのは違う!というのを身をもって知る。
子供の生活環境に関わる仕事に携わることが何故か多く、これからさらにデジタル化が進んでいく中で、幼少期にどのような遊びの環境が必要になるのか?人間の成長・発達を考える上で、幼少期の大切さを強く感じたので、そのあたりの研究もあわせて、子供向けのジャンルで頑張ってみることにした。

今までしてこなかったことにチャレンジをしたり、
40代以降に向けての充電期間と腹を括る。

40代:東京

〜 ECは順調に成長も、課題だらけ 〜
乳幼児期・児童期の人間の成長・発達に関する知識もずいぶんつき、流通で必要なことも経験できた。ただ医師ではないし、保育士でもない。もちろんそういった大学を選考し学んでいたと言うこともない。あるといえば、父として子供に接してきた経験と、専門家の方々に関わる機会が多いということや、子供たち(&ご家族)のいる場に呼んでいただいてそこで一緒に過ごしたくらい。専門的な知識が付けばつくほどの限界ということも同様に感じるようになってくるし、この分野では少し充電をしてジャンプすることが必要だろうなと感じ、少しペースを落としている(今に至る → ECサイトは息子にバトンを渡す準備をしている)。

〜 マネージメントの仕事が多くなる 〜
店長としてEC側の運営をしつつも、事業活動に関する様々な相談は日々寄せられるので、それにこたえるうちに、クライアントの規模は大・中・小あれど、人と人の間に入り、プロジェクトをしっかり回すという仕事の現場に入ることが増える。
以前までのWEBといえば、WEBサイト系(作る・グロースさせるなど)の仕事が多かったけれども、アプリ・IoT・DX化と製品側もWEBに近づいていることから、WEBサイトとプロダクトの距離も非常に近くなったのを感じている。現にアプリ(WEBインターフェース)を通してプロダクトを操作する時代が来ていてとても面白い。今はこういった仕事に携わることが多い。

特にプロジェクトマネージメントという仕事は、自身の視点や意思決定側から求められることの違いで、プロジェクトへの向き合い方・貢献度・役割は大きく変わるし、自分より優れた人達の協力があって達成されることがほとんどで、メンバーへの感謝も強く感じる、日々学びのある味わい深い仕事だと感じる。個人的には、プロジェクトマネージャーは、プロジェクトの中において編集長にとても近い働きをしているような気がしている。

これについては、でも書いている。

以上、それぞれの細かい出来事や学んだこと・経験したことは、別のページにまとめようと思っています。なので、ここに書いたのはその一片ということで。

これから

フリーランスとして独立し、その後法人化、挫折。
大きな浮き沈みも金銭的な苦悩もしてきましたので、実体験で学んだこと・感じたことを少し言語化・資料化して、これからそれらの点を線で繋ぐことをしようとも思い始めているし、ついでにそれが誰かの役に立つかもしれないので、ここはそんな場にできれば良いと感じて、少しずつ書き起こしていきます。

また、これからデジタル化していく世界の中で、幼少時代にどのような環境が必要なのか人間の成長・発達について学びが深まるのは楽しいので、それを自分の中で整理する場として、そして、フリーランスのようにプロジェクト単位で参加するような今の仕事をする中で、この場を借りながら自分自身と対話して、考えをまとめる場にしようと。

そんな今です。

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