わたしたちはいつから「心」を置き去りにするようになったのだろう?
子どもの頃からずっと感じていたことがある。電車に乗っている人の、無気力感、とでも言えばいいだろうか。「心、ここにあらず」の人たちが、同じ目的地(少なくとも同じ方面)に向かっている……と、無意識のうちに感じていた。
無論、そこには私自身も含まれる。単純に、電車に乗っている時間そのものが苦痛で仕方がない場合もあるだろうが、自分の感覚を元に考察するならば、彼らが向かおうとしている先にあるものが、おそらく『心躍らない場所』だから、つまらなそうな顔をしているのだろう、と思う。
◇◇◇
物心ついたときには、母親の親戚が集まる新年会に毎年連れて行かれた。人見知りの私は、年に一度しか会わない従姉妹とすらなかなか話せず、その日がやってくるのが苦痛で仕方がなかったうえに、酒宴会場(あえてそう呼ぶことにする)は電車で二時間ほどかかる、都内の伯父のマンション。
当時は携帯ゲーム機などというものもなく、また読書で暇を潰せるほどの読書家でもなかったから、わたしはもっぱら心を無にして道中を乗り越えるしかなかったのだろう。……「だろう」と書いたのは、もはやその時の記憶が残っていないからだが、今でも行列待ちをしている時はぼんやりと、それこそ『心を無』にして過ごせることから、当時もそのようにしていたのだろう、と推察する。
◇◇◇
心を無にするメリットは、目の前の逃れがたい出来事に対処できる点である。そうすることで一応の『役目』や『目的』を果たすことができるというわけだ。
反面、自分の心、すなわち「本当はやりたくない」という気持ちに蓋をするので、『私』は抑え込まれることになる。これを繰り返すと、『私』は本当の気持ちを表に出すことができなくなり、やがて、やりたくなかったはずのことに何の疑問も抱かなくなってしまう。
親戚づきあいはすべき、
会社や学校には行くべき、
電車や車で通勤すべき……
そう、それが『当たり前』になってしまうのだ。
(※感染症の流行を機に、考え方が変わったものもあるのは幸いなことである)
◇◇◇
……いろうたがこのことに気づいたのは五年前。肺炎で入院し『嫌われる勇気』を読んでからだ。
それまでは、様々なことに違和感を覚えながらも、あえて言葉にすることはなかった。相手の顔色を窺いすぎていた。
「こんなことを聞いたら迷惑かな……」
そう思う背景には、周囲から『のけ者』にされるのが怖い、と言う理由があったのだが、それ以降は、『まず自分の声に耳を傾ける』ことを第一とするようにした。そして、時間をかけてようやく「信念」とも呼べる想いを胸に抱けるようになった。つまりは、これまで誰もが当たり前だと思っていたことに疑問を抱き、簡単には同意しない姿勢を示す、と言うことである。
私は幸いにして、自分とじっくり向き合う時間を持つことができるから気づけたが、誰もが同じように、自分の心を取り戻せるかと言えば難しいだろう。
それでも。
この記事を読んでくださったあなたがもし、最近自分の声に耳を傾けられていないな、と感じたなら、ぜひ一人きりになる時間を作って、内なる声を聞いてみてほしい。
あなたが本当に大切にしたいのは、あなた自身?
それとも、あなたの周りにいる人との付き合い?
時間は有限である。その、限られた時間を、私は私自身のために使いたいと思っている。あなたにも、心を無にする時間を減らし、本当にしたいことのためにあなたの時間を使って欲しいと思う。
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