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人生奇なり妙なり。でも面白いからいいや。

この歳になってみると、何やら歳だけはけていくなあって感じることが多くなっているような気がします。それってきっと、今は昔ほどお腹に息を溜め込んでリキんだ生活をしていないからなのかもで。溜め込むことばかりに集中しないで長く息を吐く心構えというか、自分の人生を諦めて楽しめるようになったからなのかな? なんて。

誤解しないでほしいのは、人生を諦めると言ってもそれは仏教で云うところの「明らかに真実を観る」ということなので。この諦めるという人生のテクニックを身に付けちゃうと、これが実に面白くなってくるのですよ。「人生ってフフフ」みたいなこともね(笑)

真実が見えている分、生きることに無駄なというか余計な力が入らないせいか物事の見え方に余裕が生まれて、面白く捉えることさえできるようになるのよね。ただし真実というのはあくまでも自分にとっての必然的なものであって、万人にとっての共通した唯一の必然性ではないの。
「真実はいつもひとつ!」ってコナン君は言うけど、真実というのは人の数だけあるものなのよ。だから正確に言うと「事実はいつもひとつ!」ってことになるかしら(笑)……コナン君、ゴメンね。

だから諦めるというのは、あくまでも自分のこととして…という大前提があるわけですよ。そこは誤解してほしくないところですね。そういう大前提があるから、ふと気付いてみれば他人のことが原因で自分の心が乱されることもなく、自分の人生を穏やかに柔和な気持ちで生きることができて夕日もニッコリ、なんてこともあるものだから。

PhotoDate 2023.03.14

さて、自分の人生を思い出せるかぎり振り返ってみますとね、子供時代のある時期までは自虐的と言いますか…何処か他人と距離を置くような子供だったなあって思います(笑)他人を避けて一人でいることが正しいことなんだって勝手に自分にそう言い聞かせていて。ある種の強迫観念と言おうか?今思うと、まだ子供なのに結構な暗い闇を抱えていたなあって思いますけどね(汗)
でも高校1年のときに、数少ない仲良くしていた女子生徒から優しい言葉をかけて貰えて、少しずつだったけれど心に閉じていた蓋を開けられるようになったんです。それまではずっと、自分は呪われてるって思って生きてきたから……

4日前に書いた長々とした記事の中で

“母はこのほかにも、もうひとつ大切な秘密を私に隠していましたけれど……それはまた別のお話。”

……と触れましたけど、このことを文字にして書けるようになったのも、自分を直視してやましい部分も隠すことなくエゴを排除して、明らかに真実を歪めることなく観る術が長年の経験などで身についたからなんだろうなと。人生修行のようなもので、一朝一夕に言われて直ぐに身につくようなもんでもないし、急拵えの後付けスキルみたいなにわかな類のものでもないですからね(笑)

話が逸れてしまいましたけど、そのもうひとつの秘密を知ることになったのは小学6年の夏休みで、わが町の年中行事である“新潟まつり”の準備をしていたときのことでした。



その夏はこれから起きる運命の出会い

私は学校の部活動で万代太鼓ばんだいだいこという和太鼓の部活をしていたんです。毎年夏に行われる新潟まつりでは大型トラックの荷台を舞台にて和太鼓を演奏して回る山車だしに参加していまして。

新潟まつり初日 1978.08.22


少し話は逸れるのだけれど、新潟まつりの前身である住吉祭は湊町の歴史ある行事として江戸時代の1726年頃からあって、信濃川河口から住吉様の神輿を水上渡御すいじょうとぎょつまり御座船ござぶねに乗せて海に出て対岸へ渡り海上の安全を祈願するというしきたり・風習がありまして。その際に住吉様に奏上する木遣りといううたいが行われるのも、このお祭りのキモというか見どころで湊町の人々の人気の風物詩でもあったんです。

私はその木遣りで、市内の小学生代表として名手とも御長老とも呼ばれている方とご一緒に、並んで立って音頭(アニ役)を取らせてもらうことになったのでした。それは唄が上手い下手ではなくて遠くまで響きわたる声が出せるということで私が選ばれたわけなんですけれど、そういう選抜基準があることも知らずに、同じ6年生の部員の中には「オレのほうが歌うの上手いはずなのに、アイツ学校の先生の子供だからって贔屓されたんだぜ、ズルいよなそーゆーの!」っていうヤツもいたんです。両親が共に学校の先生だったので。

ホントもうね、親の職業で関係ない子供の自分が差別されるのってウンザリで「あー、俺ってスッゲーくだらんヤツのつまんねぇエゴに巻き込まれてるよなあー」って思って、もぉ勝手にしやがれって勢いで「やってらんねーよクソがあーっ!」って太鼓が破れるくらいにブチ切れたんですよね(笑)……二人分(?)の自我の目覚めみたいな感覚で。

夏休みの前半はほとんどその御長老さんと一緒に厳しい練習の日々でした。実はその御長老さんというのは、私が生まれるときに担当してくれた仲村産婦人科医院の大先生だったんです。
練習の合間に「私はお前さんのことをよーく知っているんだよ。私は医者としてお前さんが生まれるときにお母さんを救けたからねぇ。あれは今でもよく覚えてる」と突然言われて(笑)
確かそのとき、休憩していてサイダーを飲んでいたのだけれど、その突然の告白とも取れそうな言い方にビックリしてシュワシュワにむせ返ったことをハッキリ覚えてるんですよね。

実はそのときに初めて知った出産の事実……

私の双子の兄になるはずだった子は助からなかった。


……何言ってるんだろう?
って、耳に入ってくる言葉の理解が追いつかなくて。突然空気が薄くなったみたいに、意識していた視界全体の色が白っぽくなっていく感じ。自分自身の大っ嫌いな音視という神経障害さえもなかったかのように音のない世界に放り込まれたような……兎にも角にも〝ない〟という感覚だったっけなあ。

家に帰ってから母親のいつものような顔を見て、何かを聞く元気というか質問をする勇気が見つからなくて……そう、元気が出るとか勇気が湧くとかではなくて、“見つからない”という感じだった。その日は何も聞けなくて、数日が経ってようやく恐る恐る言葉が出たという感じで。
「ボクが双子だったこと、なんで教えてくれなかったの?……母子手帳、なんでないの?へその緒って取ってある?お墓に名前ないよね?」

そのときの母は私が知ってしまったこと、秘密にしてきたことを確信のものとして知られてしまったという覚悟をしたような表情だった。そして母は本当のことを話してくれたんです……出生届にも戸籍謄本にも私が双子で生まれてきた痕跡を残さない顛末についてまでも。新潟市中央区にある父方の菩提寺である真宗大谷派 隣陀山勝楽寺にも内緒にしていたなんて。その徹底ぶりに私は子供心に心底怖くなったものでした。
じゃあ遺骨は何処に納骨されたのか?母は遠い親戚のお墓に入れたとだけしか教えてくれなかったけれど、私が高校2年のときに母方の祖母の実家のあった京都の菩提寺(北白川 圓光寺)で眠っていることを教えてくれた。

自分は一人でいるべきだと、義務のように

小学生のころからずっと不思議だったんですよ。自分の中に抗いがたいもう一人の自分がいるような感覚というか。自分の本心だと感じている部分でごく稀に自分ではない誰かがいて〝逆らっちゃいけない〟と囁くような思いが湧いてきたりとか。自分の思っていることが嫌いなのか、あるいはその時々囁いてくる何かが嫌いなのか?とにかく自分の中にイヤだと思う絶対的なものがあって、その何かに支配されているんじゃないかって不安で怖くなる自分自身がおかしいんじゃないかって思うことがあって、それがもっとイヤで。

そんな思いを誰かに知られるのが凄く怖くて、親にも言えなかった。一人っ子で小学校に入学する前は人形とかで一人遊びをして、自分の中にいるもう一人の誰かに言おうとすることを独り言のように、あるいは人形がおしゃべりしているかのように誤魔化して遊んだりしていたのよ。そのときに感じていたドロドロした感情が蘇ることもあったけれど、その小学6年の夏に初めて母から出生の隠されていた本当のことを告げられて、何か漠然と怖かったものが分かった気がして。それで少し楽になった感じだったかな、自分自身との付き合い方が分かったような気がしたんですよね。

PhotoDate 2018.06.22

中学生になってからは少し性格も明るくなってきたのか、小学生時代から知っているクラスの子達から「なんか前より明るくなったね」とか「そんなふうに笑うこともあるんだね。笑顔を見せることが増えたよね」って言われるようにもなってきた(笑)

初めて会った日。そしてお別れ

高校1、2年の頃辺りから感情をコントロールできるようになって、音視による神経障害も上手く付き合えるようになっていました。大学生になって人生で初めての一人旅をしたときに、母には内緒で京都の圓光寺納骨堂で兄の遺骨と初対面をしたんです。不思議なことで信じてもらえないかもですけれど、その納骨堂で兄の骨壷に触れたときに声を感じたのですよ……「やっと会えたね」って。
それまでずっと音視という障害のせいで、普通の感覚を持った人であれば聴くことのない音を私は嫌でも聴いて生きてきたから、特段その声が聞こえたからといって驚くことはなかったんですよね。最初は空耳かとも思ったのだけど、心の中でハッキリした声で感じたというか聞こえたので……

「キミに会えて良かった。やっとボクも次に行けるんだ。ずっといてくれてありがとう。忘れないでいてくれてありがとう。さようなら。……さようなら」

それまで時々心の中で聞くことのあった声。ずっと嫌だと思っていたもう一人の声だったけど。これってもしかしたら魂のお別れなのかもしれないって感じたんですよね。すっごいスピリチュアルなこと言ってますよね?変に思われたら謝ります、ゴメンなさい。そしたらなんだか、ずっと一緒にいた人のような、それでいて嫌いだったはずなのに急に寂しくなって泣いてしまったんです。なんだろう?この感情は何?って、複雑な気持ちでした。

自分を好きになるって自分一人ではムリなのよ

それ以来、心の中で自分の本心とは別の声を聞くことはまったくなくなりましたけど、時々運命のいたずらというか、それまでの私ならば選択しないようなことをしてみたり、私には起こりうるはずのない出来事が何か別物とシンクロするように起こったり。まあそれでタナボタ式に良いことがあったりもしたんですけどね(笑)

小学生のときには、自分の抱え持つ暗い闇のせいで自分は周りの人たちとは違っていて、それが嫌だったり、ドロドロとした感情に支配されて他人に嫌な思いをさせるのではないかという不安とか恐れが強くて、一人でいることをまるで義務かのように自分に強いて他人を無理に拒絶していたんです。そんな時でも実は一人ではなかった。たとえ心の中であったとしても自分に寄り添ってくれているものがあった、いや、いたんですよね……絆という名前で。私は子供ながらにその存在が自分に掛けられた呪いだとばかり思って誤解していたわけなんですけれど(笑)自分で勝手に作り上げた鎖に縛られていたんですよね。

PhotoDate 2018.07.21


それが原因で不登校になったとき、小学校の担任の男の先生から手紙が届けられて。その手紙を読んだ両親は怒り心頭に発して、その手紙を床に叩きつけた父の姿を今も強烈に覚えてますね。その手紙には「あなたが自分のことを好きにならなければ、クラスのみんなもあなたを好きになることなんてできないんですよ。今本当に大切なのは、まずは自分を好きになることです」というようなことが書かれていたんです。

あとになって新潟市教育委員会でもこの手紙が問題視されたんです。教育者たるものが心の傷ついた子供が不登校になっている心理とか、「拠り所が見つからなくて、そんな弱さがバレたりしたらどうしようという恐怖心を抱くこともある」ということを洞察もできないのかと。父は手紙をよこした担任に対して知ったような無意味な言葉で自分の教育理想を子供に押し付けている、と激しい怒りを感じたようです。あまり感情を出さない父でさえ「反吐が出る文面だった」とのちに回顧していたくらいでした。

その当時の私は大人の会話の意味がよく分からなかったけれど、私自身が辛くて苦しかった経験を通して今改めて思うと、〝自分の何がいい所なのか分からないからこそ、そんな自分が嫌なんだ〟って理解できるわけで。
誰かに寄り添ってもらったり、あるいは見守ってもらったりする中で些細なことでも「いいね」と認めてもらえる経験があってこそ子供(あるいは自信のない大人)は自己肯定感が芽生えてきて、何か小さなことでも自分の好きな部分を見つけていけるようになるのであってね。
だからね、自分を好きになるって自分一人ではムリなのよ。「自分を好きになりなさい」なんて言葉、人にはそれぞれ奥にあって触れてほしくないものだってあるのに、それは時と場合だってことをちゃんと理解できてなきゃ安易に使っちゃダメなのよね。

ところでね。私は数奇な人生を送ってきた中で、一人のはずなのに二人分の人生を送っているんじゃないかと思えるような人生のイベントがあったりもしたんです、良いことであったり悪いこともあったりしてね……小説やドラマとかの作りものの中の人生よりも奇妙なことあったし(笑)まあそれはまた別のお話なのだけれど。それって、結局は一人では起こりえないっていう話なのよ。だからこの人生、面白いなって思うし、残りの人生も楽しまなくてはならないよね。まだ人生終わったわけじゃないし、生涯をかけた結果すら出せたわけじゃないけど、私はいま自分のこの人生が気に入ってるかもです。

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