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SS【帰還】
男はかれこれ三時間も、学校の廊下ほどの高さと幅のある暗い通路を歩き続けていた。
歩くたびに水の跳ねる音が辺りに響きわたる。
どうやらそこは暗渠(あんきょ)のようだ。
ところどころ地下水路の天井から細い光が差しこみ水面を照らしている。
その光景は、まるで雲間から差す光のように幻想的な美しさを演出していた。
ライトで足元を照らしながら不安げな表情で水路の奥へと進む男。
自分がなぜそこにいるか理解できず、戸惑いを隠しきれないような様子だ。
いくどとなく角を曲がり、水路は徐々に地下深くへと潜っていく。
「何も思い出せない」
男はそうつぶやいた。
男は失われた記憶と迷宮の出口を探していた。
途中で何度か、人間を丸呑みにできそうなくらいの巨大なカエルが通路を塞いでいた。
そのたびに引き返し、違う通路を探した。
幸いカエルが襲ってくることはなかった。
それはエサとして認識できる距離に到達していなかっただけかもしれない。
男は下に降りる階段を見つけた。
地上からは遠ざかる一方で、それでも男は何かに惹きつけられるように階段を降りた。
新たな水路に出ると、どこからか猛獣のような雄叫びが聞こえた。
その雄叫びに反応するように近くで何か生き物の動く気配がする。
人の頭ほどの大きさのクモがゆっくりと男に近づいてくる。
男は引き返さず、くるぶしくらいまで浸かった水を跳ね上げながら必死に前方へと駆け抜けた。
クモは追ってこない。
男が壁にもたれかかり息を整えていると、前方の暗闇から近づいてくる何者かの足音と荒い息づかいが聞こえた。
男のすぐ目の前で立ち止まったのは、三メートル近い高さの天井にもう少しで頭が届きそうな大男。
ライトで照らすと人間ではないことがすぐに分かった。
大きな弧を描き、突けば刺さりそうな立派なツノをもった牛の頭。
非常によく発達した筋肉と無駄のない引き締まった巨体。
分厚い胸板や腹筋は、素手の人間ではとてもダメージを与えられそうにない。
人間など一捻りしそうな大きな手にしっかりと握られていたのは巨大な鋼の斧だった。
一目で規格外の重量感が伝わってくる。
下半身は闘牛のようなたくましい脚と、その先には鉄のように硬そうなヒヅメがついている。
男は思わずつぶやいた。
「ミノタウロス!」
ミノタウロスは男を認識すると、雄叫びを上げて鋼の斧を砲丸でも投げるように振り回し投げつけてきた。
巨大な斧は風を切りながら男の頭上をかすめ、天井に衝突すると天井は音を立てて大きく崩れ落ちた。
男は背水の陣となった。
男は恐怖で金縛りにあったようになったが、次の瞬間、ドン!! と強烈な衝撃が男の身体を襲った。
それはミノタウロスの攻撃によるものではなく、違う衝撃だった。
男の頭の中に誰かの声が響く。
「戻ってこい! ダメだ。もう一回!」
男の身体にふたたび強い衝撃が走る。
「戻ってこい!!」
男は雷に打たれたかのような衝撃で倒れ込んだ。
だが、男の中で何かが頭をもたげたらしく目は死んでいない。男はミノタウロスをまっすぐに見つめたままゆっくりと立ち上がった。
ミノタウロスが背中を向けて迷宮の奥へと帰っていく。
男が目覚めると、そこは手術台の上だった。
飛び降り自殺をはかり、数日の間、生死の境をさまよっていた男は、ついに失われた記憶とともに帰還した。
「よし!! よく戻ってきた」
男のそばには医師や看護師、そして家族の姿があった。
暗い地下へと潜ろうとした男。
そんな中でも光は差しこんでいた。
完全に光の届かない世界に堕ちる前に、男は奇跡的に帰還できたのだ。
その後、失ったものを少しずつ取りもどすかのように、時間とともに男の身体の傷も癒えていった。
「戻ってこい・・・・・・か」
男は病室のベッドで横になりながら、窓から見えるどす黒い雨雲と、その雲間から光の差す幻想的な空を見つめながらそうつぶやいた。
終
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