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Essay_s#8 私の担任①本庄先生

私が小学校の教員を志望し始めたのは、おそらく小学校6年生のとき。自宅に保管してあった卒業文集を見たところ、将来の夢を書くところがありそこに3つの夢が書かれていました。その中の第1位となっていたので、当時にそう思っていたという私の記憶は間違いありませんでした。

第1位 小学校の先生
第2位 ゲームを作る人
第3位 Jリーガー

(小学校の卒業文集より)

私が将来の夢の第1位に「小学校の先生」をあげるようになった、その理由は、私が通った小学校の先生たちに大いに影響を受けたからです。
一人は、4・5年生で担任だった本庄先生。
もう一人は6年生の担任だった五十嵐先生です。
この3年間は、とても充実していました。楽しいことばかりではなく、自分自身の課題や弱点と向き合うこともしばしばあったような気もします。だからこそ、様々な成長もあっただろうし、今その3年間が充実していたと感じるのでしょう。

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4年生と5年生の2年間、私は本庄先生という担任の先生と過ごしました。
女性の先生で、当時20代の後半でした。

全校児童が40人程の、過疎の村にあった私の小学校。今考えると、若い先生がいっぱいいましたね。担任の先生方もそうですし、保健室の先生も20代。事務官も20代だったと記憶しています。全国的に同じ傾向なのかは分かりませんが、どうやら採用されたばかりの若い先生方がまず地方で勤務し、年齢を重ねてくるとだんだんと中核都市やその周辺に異動することが多いようです。

本庄先生は、とても情熱的な先生でした。よく笑い、自分達と一緒にたくさん遊んでくれたし、「適当にやる」みたいな緩みを許さない厳しさも持ち合わせていました。どんな教科の勉強も「一生懸命やるよ!」という空気を教室中に満たしてくる先生だったので、私の同学年6名は、みな本庄先生に影響され、何かと頑張っていたような気がします。

4年生か5年生かは忘れましたが、国語の物語教材の中に戦争を題材にしたものがありました。その学習の終わりに、物語に出てきた葉っぱ(物語の中で重要な役割を果たしていた気がします)を教室にもってきてくれたことなどはよく覚えています。そんな簡単に準備できるものでもないだろうなあと、振り返ってみると本庄先生の情熱がより鮮明に実感されるものです。

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私が4年生のときの話です。冬の話です。

同じ学校で、私の一つ上の学年に、Mちゃんという女の子がいました。ものすごく細くて、小柄で、明るく優しい感じの女の子でした。その子は、地域の古い公営アパートに住んでいました。最近その村にお墓参りにいったら、その古いアパートは取り壊され、その場所にはとてもきれいに建て替えられたアパートがありました。今から30年も前の当時、その公営アパートはものすごく古くて、汚い住宅でした。お風呂がないという噂も聞きました。Mちゃんのおうちは貧しい家庭だったのです。そして、お母さんはよく見かけましたが、お父さんの影があまりありませんでした。

5年生だったMちゃんは、普段から年上の6年生たちにいじめられがちでした。

正直に言うと、私もMちゃんのことをよく思っていませんでした。個人的にMちゃんとうまくいかなかったとか、何かされたとかは一切ありません。むしろ、Mちゃんはみんなと仲良く過ごしたいという素直でまっすぐな女の子だったと思います。ですが、私は、学校の中でMちゃんがまわりからいじめられ、Mちゃんのいないところでみんなが彼女の悪口を言い合っているのを見聞きし、どこかで同調していたのです。

思い返せば、本当に情けないし、今親の立場で自分の子どもがそういう考えであったら許せない気持ちになるでしょう。

自分から、Mちゃんに対して、直接的に何かしたことはありません。でも、潜在的な意識の部分で、私は確かに、Mちゃんをいじめる側にいたのです。


ある冬の下校時です。

北海道の中でも雪のよく積もる地域でしたから、いつも帰りながら雪玉をつくっては友達と投げ合って遊びました。

その日、同じ方面に自宅のある10人程が同じタイミングで下校していました。Mちゃんとその学年の子もいたし、その上の6年生もいたし、年下の学年の子たちもいました。

6年生の数名が、Mちゃんに雪玉を投げつけました。一度や二度、という感じではなかったように覚えています。

それを見て、年下の子たちも、同じようにMちゃんに雪玉をぶつけました。

Mちゃんは、初めのうちは笑ってごまかしているようでしたが、しつこく続き段々と悲しそうな表情に変わっていきました。

私は、直接その中には入りませんでした。
別な友達と2人で雪玉を投げ合っていました。
ですが、まわりの子たちがMちゃん一人に対してみんなで雪玉を投げているのは、しっかり見ていました。

それを見て、何も楽しくなかったし、もちろん加勢しようとも思いませんでしたが、それを止めようということも全く頭にはよぎりませんでした。年上に意見を言えるような勇気のある子どもではありませんでした。いや、そもそも、「止めるべきだ」という気持ちは湧き上がっていなかったと思います。「いつものことだ」と思っていたでしょうし、やはり私はこの時点で「いじめる側」です。


翌朝。

登校して、朝の会が始まるので全員自分の席に座っていました。
そこに、本庄先生が教室に入ってきました。
本庄先生は、普段と明らかに様子が違っていました。

その日、朝の会と、1時間目の時間、「いじめ」の話になりました。

昨日の下校中の様子を、近所の人が見ていたようです。そして、その方はあまりに様子がおかしいと思い、学校に電話をしたそうです。放課後、先生方の中で状況が共有され、そしてこの日の朝の学級指導、という流れだったのだと想像できます。



本庄先生が、ほとんど一方的にしゃべる時間でした。我々に意見を求め、黒板に板書をし、内容を整理し、・・・といういわゆる授業然とした感じではなく。本庄先生が、ただただ思いのたけを我々にぶつける時間でした。

本庄先生は泣いていました。
泣きながらずっとしゃべっていました。

いかに昨日の行為がひどいことなのかを。
された側はどれだけ辛い気持ちになったことかを。

みんな、うつむいていました。
小さな小さな小学校です。下校の方面が別の子たちは、昨日の場面には直接かかわってはいません。ですが、誰もが、心当たりがあったのだと思います。当事者だという意識がみなあったのです。

そういう意味では、ちょっとのふざけや、からかいではなかったのです。
Mちゃんの家が貧しく、住んでいるアパートもぼろぼろ。そんなことも見えないところでつながっていたと思います。根深い問題でした。

本庄先生はまくし立てました。

いかに昨日の行為がひどいことなのかを。
された側はどれだけ辛い気持ちになったことかを。
そして、見ているだけの人も、いじめをしているのと同じであることを。

私は、顔を上げることができませんでした。
本庄先生は、私に言っているのだと思いました。


この日、どのクラスでも、同じような指導が行われたようです。
この日から、今回のような問題は起こらなくなりました。
それくらい、本庄先生の指導は本気でした。他のクラスでも同様だったのでしょう。先生方の本気が、我々子どもに突き刺さりました。


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真っ先に思い出す本庄先生とのエピソードが、この話です。

本庄先生と過ごした2年間は、本当に楽しく充実していました。本気で私たちに向き合い、ぶつかってくれた先生だったからこその、充実した2年間だったのだと思います。

じっくり記憶を遡れば、もう少し別のことも出てきました。学芸会で頑張って器楽演奏や劇の練習をしたこと。ディベートという初めての学習をして、顔を真っ赤にさせながら意見を言い合ったこと。本庄先生の自宅にみんなで遊びにいったこと。(昔はこんなことが普通に行われていました。今だとちょっと信じられませんね)

そういった一つ一つの出来事が、今の私を創ってくれていると思うと本当に感慨深いですし、感謝の気持ちが湧きあがります。いつかまた、どこかで会えるといいなと思います。こんな風にnoteで表現していたら、案外何かの何かが何かとつながって、再会があったりして…とほのかに期待をしながら文章を閉じたいと思います。

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