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『なぜ生きづらさを抱えることになったのか』



私は『アダルトチルドレン』です。
多分HSP&エンパス&愛着障害もあります。

アダルトチルドレンとは、
機能不全家庭で育った子供が、
大人になって生きづらさを
抱えてしまう症状を指します。


私が小学生3年生(9歳)の頃、両親は離婚しました。

私はお父さんっ子だったのですが、
弟2人がお母さんっ子だった事もあり、
母親に引き取られました。

父親との最後は『また皆んなで住みたいね』と
書いてある、私と父親とのツーショットの写真を
貰いお別れしました。

それ以降、父親と会うことはありませんでした。

のちに母親には、父親の浮気が原因と聞かされ、なぜあんな写真を?と見捨てられ、
子供騙しに遭ったような気分になりました。

離婚後、母親はアルコール依存症とうつ病を
発症し、毎晩のように泣き、
あらゆるもので自殺を図りました。

自殺の狂気となりそうな刃物や
ロープを隠すこと。

弟2人がまだ小さかったため、
夕飯を作ることが、
学校帰りの私のやるべき事となりました。

当時、私は小学3年生。
まだ9歳で、他の家庭が羨ましく、
運命なんて最悪だと、
何度も死にたくなりました。

でも死ねませんでした。

『子供は親を選べない』だからこそ
稼げるようになるまでは
この家庭で生きていくしかなかったのです。

私は弱く、でも強く生きることを
教えられるかのように、場面場面で色々と学び、
精神は鍛え抜かれていきました。

学校で出された宿題は、
そんなことが日常でしたから、
やる時間もなく毎日先生に怒られる日々。

家で何が起きているかなど、
学校の先生にも話せず、
気付いてもらえずでした。

学校にいれば、眠れぬ夜のせいで授業中は
眠くて当然。友達にも勉強ができないと
馬鹿にされ、転校生だった事もあり、
小さないじめにも遭いました。

そんな私の心の支えは、
素敵な未来を思い描く空想の世界でした。
素敵な人と結婚して、お金に困らず生きて、
子供に同じ思いをさせずに生きてゆくと。
そう小学5.6年で思っていました。


高校生に入り、だんだんと、
母親との関係性が悪化していきました。

私は陸上部でしたが、大会になれば
他のお友達は親が応援に来る。お弁当もある。

でも私は、お弁当をつくってもらったことも
大会を見にきてもらったこともありませんでした。

なぜこんなにも違うのか?
この親を選んで生まれてきた理由はなんなのか?

考えるようになりました。

それが見えない世界への入り口だったのかもしれません。

ある日、また心に深い傷を負う出来事がありました。

『お前なんか産むつもりはなかった。おろそうと言ったけど、父親が産んで欲しいと言ったから産んだ。間違っていたわ。』と言われました。

ひどく傷ついた私は、
そのまま家を飛び出し、隣町にある
以前住んでいた父親の家まで、2時間ほど
泣きながら歩いて行きました。

以前住んでいた家の隣が、
おばあちゃんの家だったので、
まずおばあちゃんの元を訪れました。

『お父さんはもう新しい家庭があって、子供もいるから、お前とは暮らせないよ』と。

そう伝えられ、結局父親にあうこともなく
車で家まで連れ戻され、
1万円だけ渡されました。
結局お金?しかも1万円って。と高校生ながらに、
大人に失望しました。

小さい頃からそんな生活だった私は、
この世の中には光なんてものは無いのかも。
と呆れていました。

泣いて泣いて泣いて泣き崩れました。


→でも、多分私はどん底をみたら、這い上がれるタイプなんだと思います。昔から。

そして近くに仙人みたいな人(いい教師とか、いい先輩とか)が現れて、闇に行かないように導いてくれてたんだと思います。

あとはそこに自然があったから、自然が教えてくれることで学び、ほんの一筋の光を闇の中に見る事ができたんだと思っています。



話は脱線してしまいましたが、、、
(この状況ならグレてもおかしくなかったのですが、高校の担任&部活の顧問の先生が私をグレない道へと導いてくれました。グレている友達とつるんでいるのを発見した途端。『お前の道はそっちじゃない。』と教えてくれ、部活でも無理というと、『無理なんて言葉はない。やれ。』でした笑笑  当時は、全校全員が楽しめる文化祭をつくる!と意気込んでおり、夜遅くまで文化祭企画実行委員長の仕事をする傍ら、部活でも夜遅くまでひたすら練習し、県大会へ進むなど、精神は高みを目指していました。母親の姿を見るたび、私はこうはならない。そう思い反面教師でがんばれていたのかもしれません。私は今28歳でちょうどゆとり世代ですが、強く優しい先生に出会えたことが人生においての宝物だと感じています。また、私もそんな人間として生きてゆきたいと今や憧れになっています。)

しばらくして、
今の現状を受け入れ、次の作戦を考えました。

ではどうしたら、この状況を抜け出せるのだろうかと。

担任と進路の相談になった頃、
母子家庭でお金もなかったので、
働きながら通えて、
学費も安い准看護学校に行くことを決めました。


先生に勧められた職場体験で、
産婦人科の看護体験をすることができました。
たまたまお産を見学することができ、

光などない。そう思っていた私が、
命が生まれる輝かしい職場だ。
そう感じました。

頭は良くなかったので、
助産師は無理だと確信していました。

なので、
『看護師でも産婦人科は、働けますか?』
そう尋ねました。

その助産師さんは、
『ええ、もちろん』そう笑いかけてくれました。


その後、とんとん拍子で進路が決まっていき、
寮のある産婦人科で働きながら、
准看護学校に通うことが決まりました。

その時も何となく見えない流れや、
運命があるのだと。
そう感じました。


この道を進むべき事として、
この出来事が起こったんだと感じました。

今思えば、引き寄せだったのかもしれませんね。

そこから、私は産婦人科に10年勤めました。

一人一人の心に寄り添う看護をすればする程、『ありがとう』と患者様から言ってもらえる。

そのことが、そのことだけが、
私が今ここに存在していていい理由なんだと
思えて、逆に癒されることも多くありました。

私のような思いをする子供が、
大人になって生きづらさを抱えてしまう人が、
減っていくといいなと。

そう思いをこめて仕事をして、
いつも悩むお母さんには

『今は何もできなくて当然。でもこの子がだんだん母親らしくしていってくれますよ。たくさん抱っこして、愛してあげてくださいね。』

そう声をかけている自分がいました。

→(私が思う今必要な育児を書いてるのでよかったら読んで見てください)

自分の深い傷が、人間としての優しさを
生み出し、人の心に寄り添える心を
生み出した。

だから、そんな人間になりたいと
魂が決めてきたから、
この家庭を選んで

お空から降りてきたのだと

そう感じています。


ですが、人に愛されるたび

自分で自分を否定してしまい、

私は愛される価値のない人間なのに。

と人を信じられず

自分の不安な気持ちに蓋をして

大丈夫なフリを続けていたのでした。

不安を抱え込んでしまうのでした。

ですが、自分を深く知ることで

その原因が見捨てられ不安から

きていることにたどり着きました。

(私にとっての不完全さとは、人を信じられない自分でした。この回で詳しく話しています。)

そんなこんなで

今ではいろいろな考えに至り、

見捨てられ不安もなく、過ごすことが

できるようになりました。


これから、日々の考えや感じたことを

書き記していこうと思います。

誰か一人でも

心に響くことがあればと思い

今日も綴ってしまいます。


そして

今の私の夢は、


まず自分の幸せのために今を生きること。


その上で、



人の心を癒せるカウンセラーになることです。



自分の経験から得たものを活かして


人の心の傷によりそい、自分を見つける



お手伝いをしていけたらな。


そんなふうに思っています。




こうして、


2022年春 今日も私を生きています。




そして、最後に絵と詩を書いたので

よかったらみてください🌼


『涙は大切な宝物』



その涙は、肥料となり


強い根を張り巡らせてゆく。

その傷が、いつか人を照らしてゆく。

生きている中で無駄なことなんてきっと一つも

ないんだ。


だから今日も中心に愛を持って生きていくよ。


強く優しい、向日葵のように🌻

お読みいただきありがとうございました♡⃜


Thank you :)


Thanks :)