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ハルはもうすぐ。

久しぶりにRADWIMPSのアルバム「ラッドウィンプス」を聴いていて、ふと思ったこと。

作品が残るっていいなぁ。その時のその人を閉じ込めてあるタイムカプセルを開けている気分になる。初めて聞いた時、私より年上だった野田さんが作った歌は、今、私より年下の野田さんが作った歌になった。

この記事で、ガラスの壁の話をしている。高く高くそびえているように思えるガラスの壁は、触れたいのに、目の前にあるのに触れられない、そんなもどかしさを感じさせる。

でも、見方を変えると、とても愛おしいものにも思えてくるのだ。時は止まらない。けれど、過去のある一点を閉じ込めて残すことはできる。もうその時のその人は、今のその人の中にでさえいないかもしれない。もうどこにもいない、過去のある一点におけるある人を、ガラスに閉じ込められ、当時の姿のままのその人を受け取ることができるのは、時間を切り取り残すことができるようになったおかげだ。

14歳のあの日聴いていたトアルハルノヒ。気づけば21歳の方が近くなっている。同じ音楽を聴けば、あの日の自分からの手紙を受け取れるだろうか。このnoteも、いつかの自分への手紙になるだろうか。なるといいな。

そんなこんなで、前回に引き続き、時というものについてもう少し考えてみる。

時とは残酷で、刹那的なものだと思う。

昨年20歳になり、10代を卒業した。

ラストティーンは呆気なく終わり、過ぎ去ってから10代の輝きに気づき、眩しさに目を細めている。
トアルハルノヒで思い起こした14歳の自分が、今はとても羨ましい。
中学、高校と冴えない学生時代を過ごし、キラキラとした学生時代だなんて幻だと思っていた。それでも、20歳の私から見た13歳や18歳の私はキラキラしているのだ。冴えない学生生活は大学生の今も変わっていない。インスタのストーリーは滅多に更新しないし、投稿は風景写真やごはん。天地がひっくり返っても自撮りをあげることはないだろう。

それでも、学生時代を終え、社会人となった(と祈っている)私が今の私を見たら、きっとキラキラしていると思う。

青春は、二度と戻れないからこそ尊いのだ。

TikTokに投稿するダンスを踊ることや、体育祭のリレーで活躍すること、文化祭で舞台に立つこと。そんなことが青春だと思い込み、私には青春なんてなかったな、と思いながら高校を卒業した。そんなことはないのだ。ツイッターでテスト前にみんなでわいわい騒いだこととか、体育祭でいかに出場種目を減らすか、同じく運動音痴の友達と知恵を練るだとか、文化祭で体育館の暑さに気が狂いそうになりながら、硬いパイプ椅子に座りひたすらパンフレットで風をつくろうとしていたこととか、全部全部青春なのだ。

…ちょっと強がっているかもしれない。
でも、もう二度とできない経験なのは確か。
10代という区切りから踏み出した私は、もう10代には戻れない。次の区切りは2年後の大学卒業だろうか。就職を考えているので、きちんと私が留年せずに卒論を書き上げられていれば、2年後の私は学生時代という区切りから次の区切りへと踏み出していく。二度と戻れないのだから、後悔は付きものだろうが、それでも少しでもその後悔を減らせるように、少しでも未来の私に今の私を眩しく思ってもらえるように日々を営んでいたい。

20歳になっても私の中身が突然変わることはない。少しは大人になって欲しいものだが、人間はそう簡単に服を脱いだり着たりするように内面を変化させることはできない。できたら面白そうだなぁ、脱皮みたいに、ある時を境に内面が大きく変化するとか。自分ではあまり変化を感じないが、それでも、ふとした時に変化を感じる時がある。

例えば、好きな役者さんについて考える時。
私は、好きな人の年齢と自分の年齢を照らし合わせて考え事をするのが好きだ。あまり良い趣味ではないかもしれないけれど。

ドラマをきちんと見始めたのは中学生の頃で、テレビの中の憧れの「大人」に対して、父親からどうにかチャンネル権をもぎ取ろうと奮闘する私はどこまでも「子ども」だった。
そして、自分と同年代やそれより幼い人たちは「子役」という枠に入れていた。当たり前だが、私が歳を重ねればテレビの向こうの彼らも歳を重ねる。かつて「大人」と認識した女優さんや俳優さんは、今でも「大人」。だが、かつて「子役」と認識した同年代の彼らはもう「子役」ではなくなっている。私は芦田愛菜さんと歳が1つ違うのだが、マルマルモリモリを踊っていた彼女は、今や聡明な美しい女性になっている。

最近見た「カラオケ行こ!」という映画の話をしよう。
前記事の通り、綾野剛さんに釣られた。このタイミングで、綾野剛さんを映画館で見ることができるなんて…!!そんな勢いでチケットをとった。
この映画では、齋藤潤さんという俳優さんが活躍していて、彼は私よりいくつか歳が下だ。見た後、自分より若い人が、子役ではなく俳優として出てくることに、普段はあまり感じない時の流れを感じた。
彼は今、映画公開中に伴い舞台挨拶に各地を回っているようだが、声変わりに悩む中学生だった聡実くんを演じた彼は、今や身長が伸び、声変わりもしたそうだ。もうこの世界のどこにも、映画の中で聡実くんを演じた彼はいない。彼自身ですら、戻れない。
けれど、映画として、映像として切り取られ、残るのだ。青春映画というのはこういうものを言うのだろう。青春は、戻れないからこそ尊くて、きらきらして、せつなくて、温かい。
そんな、刹那的な、でも、大事に大事に抱えていたいかけらが、ガラスによって包まれ、美しく、その時のまま、残っているとしたら。こんなに喜ばしいことはないだろう。もう触れられないからこそ、美しく、愛おしい。

時の流れは残酷で無慈悲で、だからこそその一点を切り取ることに意味があるのだろう。このnoteも、いつかそういう切り取られた一点になると良いなあ。

まずは1年後、21歳の自分へ。20歳の私より。
noteをやっていてよかった、という記事でも書いてください。
2月だというのに暖かい日が続くなあと思う今日この頃であるが、そういえば明後日は立春。20歳のハルはもうすぐそこである。

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