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第1話 外資系大手を辞めて、会社をつくることにした。

2022年の2月末に現職を辞めて、会社をつくることにした。
起業なんかしたことないから正直どうなるかは分からない。
けど、なんとなくイケそうな気がする。

このnoteは会社をつくり、育てていく、そんな自分自身の物語。
完全ノンフィクション、リアルタイムで物事が進んでいく。

どれだけの人が読んでくれるか分からないけれども、自分自身の備忘録として、いつか会社が大きくなったときの創業の記録として、そして似たような道を歩もうとしている方の道標として、定期的に更新していこうと思う。
皆さんの暇つぶしにでもなってくれたら嬉しい。

※2022年2月末の退職に伴い、一部加筆。

主人公は30歳男性、ナイスガイの僕。

さて、まずは物語の主人公である僕について紹介しよう。
まだ現職を辞めていないから、肝心なところだけは伏せておくが、基本的にはすべて事実。
ここは読み飛ばしていただいて構わない。

新実 拓/Taku Niinomi
1991年生まれ、30歳。東京在住。

「新実」
と書いて、読み方は「にいのみ」
文京区に生まれ、3歳から6歳までの4年間をロンドンで過ごす。
東京生まれ、ロンドン育ち。
悪そうなやつからは大概目を合わさずに生きてきた。
小学校に入学する前に帰国し、日本に染まる。英語はすぐに忘れた。
その後、中高一貫校に入学。しかも大学までのエスカレーター付き。
6年間男子校の地獄に耐え、大学入学目前の高3の11月、何を血迷ったか大学直結のエスカレーターから飛び降り、受験を決意。
無事、現役で某大学の経済学部に合格。かわいい女の子がたくさんいた。
大学生活は最高だった。一丁前にうぇーい\(^o^)/ってやってた。在学中は、遊びとバイトとサークル(遊び)に打ち込む。あと麻雀にも打ち込んだ。ついでにひっそりと株をはじめる。

大学卒業後は証券会社に就職。浜松勤務。2週に1回は東京に帰還。経済や株についてちゃんと勉強する。
証券会社にいたままだと自分では投資できない&専門的な”手に職”がほしい&何より東京で働きたい!と思った僕は、書くことを仕事にしたいと考え、東京の編集プロダクションに転職。これが人生の転機に。

編集者、ライター、プランナー、クリエイティブディレクターとしてさまざまな媒体を制作。特に企業の広報ツールなんかを担当。これがひたすらに面白い。そして眠れぬ地獄の日々。激務&激務。当然投資する時間などない。
急性胃腸炎で入院したタイミングでステップアップを決意。現場の作り手ではなく、より上流からコミュニケーションに携わりたいと考え、外資系総合コンサル企業の広報的なポジションに転職した。



当たり前だが、自分自身のことなので、設定はとてもよく練られている。
性格は、思いやりのあふれるいいやつ。ナイスガイ。
ただ、周りの人からは適当でめんどくさがり、性格の悪いズルいやつとよく言われる。
まぁ僕の友人は見る目がないポンコツばかりだから、誤った評価をするのも仕方がない。


会社を辞める理由は、より"ワクワク"することを見つけてしまったから

では、そんな僕がなぜ会社を辞めようと思ったのか、そしてなぜ転職ではなく起業しようと思ったのか。

それは実はものすごくシンプルな理由で、会社をつくる"ワクワク感"が、今の会社に居続ける"ワクワク感"を遥かに超えてしまったからに他ならない。

(1)外資系企業での日々

編集プロダクションから外資系大手に転職した僕は、いわゆる広報部のような部署で、主に社内のコミュニケーションを担当するようになった。

CEOや経営陣のスポークスマンとして記事を書いたり、社内イベントの企画・運営をしたり、グローバル戦略をローカルに落とし込み社内に浸透するお手伝いをしたり。会社として初めてのテレビCMなんかも作ったりした。

企業としてさまざまな変革を続けている真っ只中にあり、また経営層の優秀な方たちに直接話を聞ける立場だったことから、実は結構楽しんで働いていた

パーパスであったり、ダイバーシティであったり、サステナビリティであったり、巷で話題になっているようなことを、いち早く経営の課題として議論しているのを間近で見ていたので、学ぶこともとても多かった。

一方で会社に対するネガティブな感情がなかったというと嘘になる。

外資系企業といえど、母体は日本有数の監査法人。
過渡期にあった会社には、開放的で柔軟なグローバルの空気感と、いわゆる"日本の大企業"特有の空気感が悪い意味で混じり合い、どこか閉塞感が漂っていた。

特に広報含むバックオフィス部門がその領域の専門家として認められるには、古い体質が足を引っ張り、まだまだ組織として成熟に時間がかかりそうな印象があった。

そしてまた、副業や兼業に対する制度も育ってはいなかった。
ありがたいことに前職時代に僕を可愛がってくれていたお客さんが、定期的に仕事の話を持ってきてくれるのだが、副業が認められていない以上、真っ当に引き受けることはできなかったのである。

前述のとおり、今まさに会社は過渡期。前述したネガティブな側面は確実に変わりつつある。

しかし残念ながら30歳になりたての僕には、会社が成熟するのを指を咥えて待っているほどの堪え性もなければ、閉塞感を打破すべく自ら立ち上がるほどの気概も持ち合わせていなかったのだ。

(2)2020年1月、渋谷のお好み焼き屋にて

そんなこんなで、自分の人生どうしたものかと悩んでいた2021年夏。僕はある決心を下すことになる。

いつ何がきっかけでそうなったかは覚えていないが、とある友人に僕は言った。

「2022年春までに、会社立ち上げるか」

その友人こそがみなさんご存知、友井翔太である(誰?w)。
僕と友井は、僕が立ち上げたバレーボールチームの代表と副代表の関係で、もう5年くらいの付き合いになる。
関係性の話は長くなるので次回に回そうと思うが、自分にないものをたくさん持っている彼とはウマが合い、バレーや麻雀を通して親交を深めていた。

その友井に僕は会社を立ち上げる旨を伝えた。

……と、これだけ言うと、僕が友井を巻き込んで起業するみたいだが、実はそうではない。

僕に起業という選択肢を与えてくれたのは何を隠そう友井であり、最初に誘ってくれたのも彼だったのだ。

それは僕が転職して数カ月が経った、2020年1月。
渋谷のお好み焼き屋で、友井から「一緒に会社やらない?」と誘われた。

転職したばかりで会社を辞めるイメージも、ましてや会社を立ち上げているイメージもなかった当時の僕は、「いいね、近いうちにやるか」とはぐらかした。
我ながら100点満点の思わせぶりな回答である。

ところがその後も友井はめげることなく、ほどよい距離感でずっと僕にジャブを打ち続けた。
「いつ」というワードは出さないままに、事業の骨子についてさまざまな意見をぶつけてきた。

そしてまた僕自身も、彼の意見を打ち返していくうちに、友井と会社を築き上げていくイメージを徐々に確立していったのである。

お好み焼き屋で一緒にブレストして導き出した"あるビジネスモデル"にその後も可能性を抱き続けていたことも、後押ししてくれたと思う。

ーーそして、さきほどのセリフに戻る。
「翔太。2022年春までに、会社立ち上げるか」


こうして僕たちの物語は始まった。

リアルタイムの創業物語。
成功するかどうかは自分たち次第。責任も全部、自分たち。こういうヒリヒリとした環境下で、僕らはどうなっていくのか。
ここからはもう進むしかない。

第2話では、友井について話していこうと思う。

TN

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