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##3 母が繋いだ【命のバトン】 Episode2


サラリーマン起業家のi-proです。
いつも記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。

私は現在、建築不動産の営業マンとして活動する『サラリーマン』と、不動産×教育を軸とした副業法人を立ち上げた『起業家』の2面性を持った『サラリーマン起業家』として活動しております。

私のキャリアを支える人生の軸は、【野球】と【家族】の2本柱で形成されて参りました。別のマガジンにも記事を書いておりますように、私は野球に人生を救われ、野球に恩返しするための夢と目標が明確にあります。

私は、野球に人生を救われた|i-pro_ #note

そんな私は、20代で両親も、金も、帰る家も失くした、正にドン底でした。そんなドン底から、建築不動産の営業マンとして年収を10倍に増やして、サラリーマン起業家としてのキャリアを築き這い上がる根源を、特にキャリアで悩めるたくさんのビジネスマンや学生の皆様に成功や考え方のヒントになればという思いで書いております。

今回は、前回の記事 1、母は【超】苦労人 の続きで、私のキャリアの根源である、母の教えと生き様について書いて行きます。

2、母の教え

私の母の教えは、結論から言うと『自由に生きろ』です。この言葉だけ聞けば、ありきたりな教えですが、この教えを本当に理解したのは、母が亡くなった数年後のことで、とても深く、重たいメッセージなのです。

母は、とても真面目で勤勉で、人に優しく自分に厳しい、お手本のような人間でした。
ルールや規則、時間や約束は必ず守り、私に対しても、必ず約束は守れ、他人に迷惑をかけるな、と常日頃言っていました。
そんな母を見て、『もっと自由に、気楽に生きれば良いのに…』といつも思っていました。

母は、とにかく我慢強い人間でした。人が嫌がることは率先して自分が動き、手を抜かずに黙々と実行しました。
中学校を卒業してすぐに働きに出て就職し、病気を患い目標を捨て、姑の介護や、父の介護、3人の子ども達の習い事や人付き合い、全てを遂行していく母を見て、正直、母のような苦労ずくめの人生は、楽しくないだろうなと子どもながらに思っていました。

母は、そんな我慢強い人柄ゆえに、私には『我慢強く生きろ』と言いそうですが、死ぬ間際に『楽に、自由に生きなさい』とメッセージを残しました。亡くなる2週間前に、死期を悟った母が、私に送ってきた長い文章のメールに、それは記されていました。私にとって、それは本当に意外な一言でした。母の性格を思えば、辛抱強く、忍耐強く生きていきなさいと言いそうなところですが、全く真逆の【自由】と言うメッセージに、私は驚きを隠せませんでした。今思えば、母自身が辛抱強くあることで、子ども達が自由な人生を歩む環境を作りたいという母としてのメッセージだったのではと思います。

私は、母のメッセージの通り、自分のキャリアを自由に選択し、自由な目標を設定して生きています。それは、母が私の選択を尊重し、とことん向き合ってくれたからこそ、サラリーマン起業家という【自由なキャリア】を築けたのだと思います。母と同じ『親』という立場になった今、私の子ども達が自由な生き方を選んでいけるように、母の教えを繋いでいけたらと思っています。

3、母の生き様

母は、49歳のときに、耳に軟骨性骨肉腫を患いました。いわゆる【骨のガン】です。私が高校1年生、16歳の時でした。その時から58歳で亡くなるまでに実に10回ほどは手術を繰り返していました。しかも1回あたりの手術時間が10時間超とくれば、どんなに悪どい病気なのかが想像できます。

その間に、父の方が肺ガンになり、2年間の闘病を母は文句ひとつ弱音ひとつ言わず父を支え続けていました。
父が亡くなり、さあ自分はまた仕事を始めて頑張るぞ!と言う矢先の発病でした。母が56歳の時でした。ソフトボール程度の大きさの骨肉腫が右肺にゴロリと、レントゲンに写っていました。
すぐに右肺を全摘出。綺麗に取れて、良かったと安心していた2ヶ月後、吐血。
検査の結果、左肺への転移が確認されました。

ありえない

絶望でした。左肺しか残されていない母は、全摘出はできません。父と母は、子ども達への教育費と養育費の捻出から生命保険を解約していたため、今で言う先進医療も受けれない、入院費も治療費も捻出できない。家族は、身も心もボロボロでした。

なす術が無くなった私は、毎日泣き崩れていました。しかし、そんな母は、逆に私を毎日励ましていました。自由に、健康に、強く生きろと。自分自身がどんなに苦境に立たされても、母親としての姿勢を崩すことはありませんでした。

母は人工酸素での生活を行い、治療費の捻出のために実家も売却しました。私たちは『帰る家』を失い、母は入院生活となりました。とにかく、必死に生きていく毎日でした。

病室での母。痩せ細り、小さな背中でしたが、
最後まで我慢強い見事な生き様でした。

母は、58歳で亡くなる最後の最後まで、『痛い』『苦しい』『辛い』と言うことはありませんでした。人並よりも短い人生だったかもしれませんが、『男の子3人残せたことが、私の唯一の誇りよ!』と言っていました。

母のゴールは、【子ども達を自由に生かす】でした。本当に見事な生き様だったと思います。若いのに・・・と憐れむ方もいらっしゃいます。私自身も、母が亡くなった数年は、母の運命と病気を恨む毎日でした。しかし、母の我慢強く、辛抱強く生きていた姿を見習い、【自由なキャリア】を築け、35歳にして2棟の自宅を新築して帰る家も取り戻した今、母は命をもって、私たちに『自由に生きろ!』と教えてくれたのだなと思います。

今回は、♯私の学び直しとして、母が繋いでくれた【命のバトン】を書かせていただきました。みなさんも、一番身近な存在であるご両親から学ぶことが、もしかしたら一番の勉強かもしれません。

いつも私の記事をご覧いただき、本当に感謝いたします。またお会いできることを楽しみにしております。



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