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学習院大文学部日本史論述答案例

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学習院文学部は大問Ⅴが論述問題です。古代・中世・近世・近代から1つの時代を選び、1問が出題されます。出題される時代に法則性はないので、まんべんなく準備する必要があります。  形式…
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2024年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例
源実朝は源頼朝と北条政子の間に生まれ、兄で2代将軍の源頼家が北条時政らによって廃された後、鎌倉幕府の3代将軍に擁立された。その後、時政の子である北条義時が有力御家人の和田義盛を滅ぼし、政所と侍所の長官を兼ね、執権としての地位を確立する中、成人した実朝は後鳥羽上皇に接近しつつ、将軍権力の強化に努めたが、頼家の子の公暁により、暗殺された。文化面では、後鳥羽上皇の影響で和歌に励み、万葉調の歌を多

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2023年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例
 空海は主に弘仁・貞観文化期に活躍した密教僧である。讃岐国出身の空海は大学などに学び、『三教指帰』の中で、儒教・仏教・道教における仏教の優位を論じた。遣唐使で留学して密教を学んで帰国し、紀伊の高野山に金剛峰寺を建てたほか、嵯峨天皇から平安京に教王護国寺を賜り、真言宗を広め、加持祈祷により現世利益を願う貴族の欲求にこたえた。文化面では、漢詩文に優れ、漢詩文集の『性霊集』や評論の『文鏡秘府論』

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2022年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例①
享保の改革は財政難と江戸の都市問題への対応を主たる目的とした。まず、勘定所の人員を増加し、金銭貸借の訴訟を不受理とする相対済し令を出して、改革を担う勘定所の体制を強化した。財政面では、支出減のため倹約令を発令し、収入増のため一時的に上米を命じたほか、年貢増徴策として商品作物の栽培奨励と畑地を中心とする年貢率の引き上げ、定免法の導入、町人資本による新田開発などを進めた。江戸の都市政策として

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2021年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例
日中戦争は盧溝橋事件を契機に始まり、第2次上海事変により戦線が江南に拡大した。中国は抗日民族統一戦線を結成し、首都南京陥落後も重慶で抵抗を続け、戦争は長期化した。日本では長期戦化を受け、国家総動員法制定など戦時統制が強化される一方、国民政府の要人汪兆銘を脱出させ、南京に傀儡政権を樹立したが、戦争終結には繋がらなかった。その後、日本は東南アジア進出により、援蔣ルートを遮断して戦争の勝利を企図

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2020年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例
 日明貿易は15世紀初頭に足利義満が明に遣使して、開始された。明中心の国際秩序の中、冊封を受けた日本国王が朝貢し、返礼として品物を受け取る形式で貿易は行われ、遣明船は明交付の勘合所持を義務付けられた。日本の輸出品は銅・刀剣、輸入品は明銭・生糸・陶磁器などであった。その後、足利義持は朝貢形式を嫌い中断、足利義教が貿易利益を求め、再開した。幕府の衰退に伴い、15世紀後半以降、博多商人と結ぶ大内

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2019年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例
 桓武天皇は天皇権力の強化を目的に、長岡京ついで平安京に遷都し、天智系の都の造営を進めた。東北地方では桓武の父である光仁天皇の代から戦争状態が続いており、桓武天皇は蝦夷制圧による勢力拡大を目指し、征夷大将軍の坂上田村麻呂を派遣して、北上川上流まで勢力拡大に成功した。桓武天皇の時期の律令国家は一部地域を除いた軍団制廃止と健児の設置、班田の12年一班への変更、雑徭や公出挙の負担軽減などの改革に

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2018年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例①
16世紀末、豊臣政権が明征服を目的として朝鮮出兵を行った影響で、日朝は断交した。17世紀に入り、江戸幕府は対馬の宗氏を仲介にして朝鮮との国交回復交渉を行い、正式な国交が樹立するとともに、通信使が来日した。一方、宗氏は朝鮮と己酉約条を締結し、釜山の倭館での対朝鮮交易を独占した。18世紀に入り、新井白石は、通信使の待遇を簡素化するとともに、将軍の権威向上を目的として、通信使の国書における将軍

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2017年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例①
 近衛文麿内閣は3度、組閣された。第1次近衛内閣は成立直後に発生した日中戦争の拡大を招き、同戦争は長期化した。これへの対応として、企画院を中心に戦時統制を進めたが、同戦争を解決できずに退陣した。その後、第2次世界大戦の影響を受けた新体制運動の中、誕生した第2次近衛内閣は大東亜共栄圏の建設を名目に南進策をとり、日独伊三国同盟を締結したため、アメリカとの関係悪化を招いた。その後、日米交渉の継

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2016年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例
 政治面では鳥羽上皇が亡くなった後、保元の乱で平清盛・源義朝らを動員して崇徳上皇を破り、院政を開始した。平治の乱後、二条天皇との対立から平清盛を重用したが、徐々に清盛と対立し、幽閉された。高倉上皇の死後に復権し、治承・寿永の乱において、平氏が都落ちした後も京都にとどまり、寿永二年十月宣旨を出して源頼朝と提携し、源義仲や平氏を滅ぼした。乱後、源義経を支援して頼朝と対立するが、義経の敗北を受け

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