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学習院大文学部日本史論述答案例

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学習院文学部は大問Ⅴが論述問題です。古代・中世・近世・近代から1つの時代を選び、1問が出題されます。出題される時代に法則性はないので、まんべんなく準備する必要があります。  形式…
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2021年11月の記事一覧

2021年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例
日中戦争は盧溝橋事件を契機に始まり、第2次上海事変により戦線が江南に拡大した。中国は抗日民族統一戦線を結成し、首都南京陥落後も重慶で抵抗を続け、戦争は長期化した。日本では長期戦化を受け、国家総動員法制定など戦時統制が強化される一方、国民政府の要人汪兆銘を脱出させ、南京に傀儡政権を樹立したが、戦争終結には繋がらなかった。その後、日本は東南アジア進出により、援蔣ルートを遮断して戦争の勝利を企図

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2020年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例
 日明貿易は15世紀初頭に足利義満が明に遣使して、開始された。明中心の国際秩序の中、冊封を受けた日本国王が朝貢し、返礼として品物を受け取る形式で貿易は行われ、遣明船は明交付の勘合所持を義務付けられた。日本の輸出品は銅・刀剣、輸入品は明銭・生糸・陶磁器などであった。その後、足利義持は朝貢形式を嫌い中断、足利義教が貿易利益を求め、再開した。幕府の衰退に伴い、15世紀後半以降、博多商人と結ぶ大内

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2019年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例
 桓武天皇は天皇権力の強化を目的に、長岡京ついで平安京に遷都し、天智系の都の造営を進めた。東北地方では桓武の父である光仁天皇の代から戦争状態が続いており、桓武天皇は蝦夷制圧による勢力拡大を目指し、征夷大将軍の坂上田村麻呂を派遣して、北上川上流まで勢力拡大に成功した。桓武天皇の時期の律令国家は一部地域を除いた軍団制廃止と健児の設置、班田の12年一班への変更、雑徭や公出挙の負担軽減などの改革に

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2018年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例①
16世紀末、豊臣政権が明征服を目的として朝鮮出兵を行った影響で、日朝は断交した。17世紀に入り、江戸幕府は対馬の宗氏を仲介にして朝鮮との国交回復交渉を行い、正式な国交が樹立するとともに、通信使が来日した。一方、宗氏は朝鮮と己酉約条を締結し、釜山の倭館での対朝鮮交易を独占した。18世紀に入り、新井白石は、通信使の待遇を簡素化するとともに、将軍の権威向上を目的として、通信使の国書における将軍

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2017年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例①
 近衛文麿内閣は3度、組閣された。第1次近衛内閣は成立直後に発生した日中戦争の拡大を招き、同戦争は長期化した。これへの対応として、企画院を中心に戦時統制を進めたが、同戦争を解決できずに退陣した。その後、第2次世界大戦の影響を受けた新体制運動の中、誕生した第2次近衛内閣は大東亜共栄圏の建設を名目に南進策をとり、日独伊三国同盟を締結したため、アメリカとの関係悪化を招いた。その後、日米交渉の継

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2016年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例
 政治面では鳥羽上皇が亡くなった後、保元の乱で平清盛・源義朝らを動員して崇徳上皇を破り、院政を開始した。平治の乱後、二条天皇との対立から平清盛を重用したが、徐々に清盛と対立し、幽閉された。高倉上皇の死後に復権し、治承・寿永の乱において、平氏が都落ちした後も京都にとどまり、寿永二年十月宣旨を出して源頼朝と提携し、源義仲や平氏を滅ぼした。乱後、源義経を支援して頼朝と対立するが、義経の敗北を受け

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2015年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例
 大御所徳川家斉の死後、将軍徳川家慶の下、老中水野忠邦が改革を主導した。外交面では、アヘン戦争での清の劣勢を背景に、戦争回避のため、異国船打払令を改めて薪水給与令を出す一方、軍備強化策として西洋砲術家の高島秋帆を起用し、江戸への物資供給路確保のため、印旛沼開削を命じた。内政面では、天保の飢饉からの復興策として、無宿の帰村を強制する人返しの法、都市の物価対策として株仲間解散令や倹約令を発令し

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2014年学習院大学文学部日本史論述答案

答案例
 北条時頼は鎌倉幕府の5代執権である。政治面では宮騒動で九条道家・頼経父子を失脚させ、宝治合戦で有力御家人の三浦泰村を滅ぼして、北条氏の幕府における地位を確立し、執権退任後も権力を保持した。増大する所領紛争の裁判への対策として、判決の原案作成を担当する引付を設置し、裁判の迅速・公平化をはかった。朝幕関係では親幕派の後嵯峨上皇に院評定衆の設置を求めるなど、幕府優位の関係を維持しつつ、宗尊親王

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