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TVアニメ『アクダマドライブ』が暴く大阪のセルフオリエンタリズム:関西弁・お笑い・維新政治の連関

はじめに

何をもって「大阪らしさ」と言うかは難しいところです。しかし、対談をしてわかったことのひとつは、漠然としたイメージだとしても、その「大阪らしさ」というものが、どんどん失われつつあるのではないかということでした。古ければいいというものではありませんが、一度壊れてしまった「大阪らしさ」という文化を再構築することは極めて困難でしょう。
(仲野徹『仲野教授のそろそろ大阪の話をしよう』ちいさいミシマ社、2019年、324頁)

 2020年12月に放送が終了したTVアニメ『アクダマドライブ』はクライム・アクションの秀作であった。本作は「カントウ」との戦争に敗北を喫し、カントウの属国となった「カンサイ」を舞台に、「アクダマ」と呼ばれる凶悪犯罪者が権力に立ち向かう姿を描いたオリジナルアニメ作品だ。本稿は、本作が日本における東西の相克を下敷きにして、大阪のセルフオリエンタリズムを暴いた作品だという解釈を提示するものである。また、本作は日本維新の会(以下、維新と呼称)による政治の本質をえぐり出したと言うこともできるため、その点についても言及する。

アクダマか、処刑課か:プリズムとしての維新政治

 まずは、本作の舞台設定を確認しておこう。かつてカントウとカンサイの間に戦争が起こり、カントウの落とした新型爆弾によってカンサイは灰燼に帰した。敗戦後、カンサイはカントウの属国となり、カンサイの中心市街はカントウの資金で華々しい復興を遂げたが、その周辺には爆弾の被害で廃棄された旧市街が残っている。さらにその外部には、「絶対隔離領域」と呼ばれる汚染された爆心地が広がっており、「シンカンセン」に乗車しない限りカントウへ行くことはできない状態になっている。しかし、カンサイの人々はカントウとの往来を許されておらず、カントウの実情を見知る者はいない。
 カンサイの人々はカントウの標準語を操るようになっており、カントウの洗脳番組を繰り返し放送するメディアによって統制されている。また、彼らはカントウ直属の実験研究施設である「キュウシュウプラント」で製造され、シンカンセンで輸送される「カントウ製」と呼ばれる製品を消費して生活している。それゆえ、シンカンセンは彼らの信仰の対象となっており、彼らはシンカンセンが通過するたびに手を合わせるのであった。
 そして、カンサイ内部も犯罪ばかりのバラック街が広がる南部(ミナミ)、中産階級の人々が暮らす中央、富裕層が住まう高級住宅街や大企業のオフィスが立ち並ぶ北部(キタ)の各地域に分断されており、南部ではアクダマによる犯罪や抗争が跡を絶たない。これに対して、カンサイ警察はアクダマに対処するために「処刑課」という精鋭チームを組織している。処刑課は刑事から裁判官まで兼ねるエリート集団であって、独自の捜査権を持ち、アクダマに対してその場で量刑を決め、時には死刑執行も認められている。なお、アクダマ認定の権限はカンサイ警察が握っており、たとえ一般市民であっても、ある日突然処刑の対象になることはありうる。
 このように、本作は峻厳な監視・洗脳社会を描いたディストピア作品でもある。そして、ディストピア作品は常に受け手自身の置かれた現下の体制を映す鏡として鑑賞するのが作法となっている。それでは、2021年2月末時点の日本では、本作における権力、すなわちカンサイ警察は何の隠喩と解釈されうるのだろうか。言うまでもなく、大阪で一大勢力を築いている維新が直ちに想起されることだろう。
 ただ、本作の巧みなところは、維新に対する政治的な評価に関わらず、視聴者に清涼感を与えるところである。維新の支持者からすると、本作の主人公たちはカントウに支配されたカンサイを解放するレジスタンスなのであって、維新の「志士」に重なって見える。維新議員の粗野な振る舞いはまさにアクダマ的であり、彼らは下品で空虚な言行を見せれば見せるほど、認知の歪んだ人々から「世直し」を行うダークヒーローのように支持を集めてしまう。また、内実はともかく、維新が大阪市廃止・特別区設置を「都構想」と呼ぶとき、何がライバルとして示唆されているのかを考えてみれば、アクダマの側に維新を見て取ることも不可能ではないことが分かるだろう。
 他方で、維新の反対者・批判者からすると、本作の舞台設定と表象は維新政治への揶揄に満ちたものに見える。まず、自らの匙加減一つで一般市民をアクダマ認定・処刑する権能を持つカンサイ警察は、維新政治という暴政の表象と見ることができる。カンサイ警察はカントウからの「勅令」に従って動いており、カントウの洗脳番組を通じて民衆を統制下に置いているが、この点は維新の実態が東の補完勢力であることを示唆している。現実問題として、維新は政権与党である自民党の別働隊と言っても差し支えなく、安倍晋三や菅義偉とは蜜月関係にある。自民党(もとい安倍晋三)は大阪の森友学園に便宜を図るため、近畿財務局への支配を強めたが、当然この時期の大阪府政・市政は維新が握っていたことを忘れてはならない。籠池泰典の証人喚問で明らかになった通り、森友学園問題において、維新は自民党の縁故主義をアシストする立場にあった。また、「都構想」や感染症対策についても、維新は在阪メディアを支配することで自らの「功績」を日々アピールすることに余念がない。このような現実政治の状況に鑑みて、維新政治に支配された大阪を戯画化したものとして本作を見ることには、一定の妥当性が認められるだろう。
 また、本作におけるカンサイの派手な街並みは、Osaka Metro Groupが「地下空間への大規模改革及び夢洲開発への参画について」という資料(2018年12月20日公表)の中で提示した「近未来」的・テキスタイルの地下空間を煮詰めたような悪趣味で品のないものであり、2025年大阪万博やIR(統合型リゾート)誘致を推進する維新が大阪をイメージ戦略だけの街に変えようとしていることを思わせる。

 浅薄な大阪イメージが反映されているのは、カンサイの街並みだけではない。本作は道頓堀グリコサイン、こなもん、ビリケンといった「コテコテ」の大阪イメージで塗り固められており、これは維新が大阪の歴史・伝統への反旗を翻していることを思い起こさせる。実際に維新が文楽協会への補助金を減らして、伝統芸能を弾圧したことは記憶に新しい。こうした伝統の軽視・敵視を踏まえると、本作においてカンサイの地下に広がる「バンパクパーク」の存在が民衆から忘れ去られているのは悪意が感じられて面白い。バンパクパークは戦争前のカンサイの文化・文明を保存して後世に資料として残す試みと説明されているが、上方文化の古層でも何でもない万博の記憶すら風化しているとは、いやはや、伝統の軽視どころでは済まない反知性主義こそが「大阪らしさ」なのだと言わんばかりである。それはまた、2025年大阪万博もやがて忘却の彼方に消えゆくということ、今をときめく維新も盛者必衰の理から逃れることはできないということを示唆しており、一部の視聴者には痛快な維新批判として映ることだろう。なお、バンパクパークについては「金に糸目をつけないカンサイ」ともコメントされており、拝金主義の「がめつい」大阪イメージも前面に押し出されている。
 以上から明らかなように、これまで縷々述べてきた「コテコテ」の大阪イメージは極めて表層的な「東京向け」の大阪イメージに過ぎないのであって、ここに固執してしまう姿勢は大阪のセルフオリエンタリズムと言わざるを得ない。しかし、いっそう重要なのは、本作では「東京向け」の大阪イメージに欠かせない二大要素がオミットされているということだ。それは関西弁とお笑いである。「東京向け」の大阪イメージの中核を占めている二大要素が描かれなかった意義については、節を改めて論じることにする。

東西の相克:アイデンティティか、セルフオリエンタリズムか

 日本が東西に分断されるという設定は特段目新しいものではない。分断国家となった日本を描いた先行事例としては、矢作俊彦『あ・じゃ・ぱん』(新潮社、1997年;角川文庫、2009年)という歴史改変小説が名高い。本節では、『あ・じゃ・ぱん』と『アクダマドライブ』の比較を通じて、本作から関西弁とお笑いがオミットされた意義を明らかにする。
 『あ・じゃ・ぱん』は、第二次世界大戦末期にアメリカの原爆で富士山を吹き飛ばされ、東経139度線沿いに築かれた壁(通称「千里の長城」)によって東西に分断された日本を舞台として、東西統一や富士山再建を巡って諸勢力が暗躍する様子を、執拗で時に衒学的な筆致で描いている。この小説の中では、大阪を首都とする「西日本」は資本主義陣営、東京を首都とする「東日本」は共産主義陣営に与することになっており、この構想のモチーフがドイツの東西分断であることは明らかだが、ここで言語の面に着目すると、単に冷戦構造を反映させただけではない、興味深い点が見えてくる。なんと、『あ・じゃ・ぱん』が描く西日本では、かつての標準語は「東京官話」と呼ばれるマイナー方言に堕し、近畿の方言を再編した「関西弁」が標準語となっているのだ。
 それにとどまらず、作中の西日本は吉本一族に支配されている。敗戦後、対GHQ交渉にあたったのは、その当時外務省条約局長だった林正之助(吉本せいの弟、現実には吉本興業株式会社の初代社長)という設定になっている。林正之助は1960年から9年間、西日本の首相も務め、「戦後の名宰相」として吉本一族の西日本支配の礎を築くことになる。1970年代半ば、東日本で中曽根康弘政権が成立すると、時を同じくして、西日本では吉本潁右(吉本せいの息子、林正之助の甥)が首相の座に就く。吉本潁右政権のもとで西日本経済は急速に膨張するが、吉本潁右は二期目の任期満了を待つことなく病死してしまう。すると、未亡人の吉本シヅ子(笠置シヅ子、現実には潁右の夭折により結婚は叶わず、戦後は「ブギの女王」として人気を博した)が1979年に夫の選挙区を引き継いで初当選を果たし、1990年には首班指名を受けて日本最初の女性宰相となるに至っている。
 また、吉本潁右は公共事業の徹底的な民営化と官公庁の営業化を推進したとされている。例えば、公立学校は公文、ゴミ収集と道路清掃はダスキン、郵便はアートとサカイに払い下げられた。吉本シヅ子も夫の施政方針を引き継いで、「自力更生、自助自得」をスローガンに掲げている。作中の「現代」においては、大阪の官公庁は商業ビルと一体化して、デパートやレストランなどを経営しているのである。そして、最終的にこの小説は「吉本興行」という会社が環太平洋地域のメディアを買収する結末に至るが、この会社の社長は林正之助の娘婿である杉本高文という人物が務めているという設定だ。なお、読者の便宜のために書いておくと、杉本高文とは明石家さんまの本名である。
 このように、『あ・じゃ・ぱん』の文芸史上の意義は、西日本の特徴として関西弁と吉本を引き合いに出した上で、結果的に劣化版サッチャリズムとしての維新政治を言い当てる恰好になった点に見出される(前述のOsaka Metroも大阪市営地下鉄の民営化である)。関西人がいかに独特のアクセントとイントネーション、そして芸人文化にこだわりを持っているかについては、仲野徹『仲野教授のそろそろ大阪の話をしよう』(ちいさいミシマ社、2019年)の中でも言及されている。この本は病理学者で自称「お笑い系研究者」の仲野徹が、自身の専門から離れて、大阪の歴史や文化に詳しい12人と行った連続対談を書籍化したものだが、その中で国語学者の金水敏(役割語研究の権威)は次のように述べている。

金水 関西では東京に対抗しようとするモーメントが常に働きますから、完全に標準語化することはないと思いますけどね。芸人文化や、阪神タイガースがあるかぎりは、絶対になくならないはずです。
仲野 阪神は強くなくてもいいんですね?
金水 あればいいんです。それらがあるかぎりは、関西人のセルフアイデンティティも存続しうるので。言葉は、そういうアイデンティティによって成り立ってる部分が大きいと思います。
(仲野徹『仲野教授のそろそろ大阪の話をしよう』、58頁)

 金水はこのように述べて、芸人文化(すなわちお笑い)を「関西人のセルフアイデンティティ」の核に据えた上で、そのあらわれとして関西弁を位置づける。確かに、関西弁はテレビ番組を通じて、お笑いのコードとして日本中に刷り込まれてきた。しかし、ここで注目すべきは、金水が「東京に対抗しようとするモーメント」とも言っているということだろう。いわば「大阪の心」とされる関西弁とお笑いは、常に東京の側からの奇異なまなざしに晒されており、もはやそこから完全に解き放たれた状態ではいられなくなっている。アイデンティティとセルフオリエンタリズムの境界は極めて曖昧であり、ある種の「地元愛」は容易にセルフオリエンタリズムへと転化しうる。このモーメントはツーリズムと結びついて、関西人が東京もんの視線を意識してサービス精神旺盛に振る舞ってしまう、がらっぱちながらも人情味溢れる「キャラ」を演じてしまうという事態を引き起こす。そして、アイデンティティとセルフオリエンタリズムの狭間で揺れる関西人の心に対して、維新の掲げる「グレーター大阪」構想が大きな訴求力を持ちうるのは想像に難くない。
 以上述べたように、『あ・じゃ・ぱん』は、関西人の関西弁と吉本に対する愛着が維新の勢力拡大の橋頭堡となっている事実を結果的に言い当てた。これに対して、『アクダマドライブ』は関西弁とお笑いをカンサイから取り去ることで、維新政治の本質をえぐり出したと言える。つまり、維新は「コテコテ」の関西弁と吉本的なものに頼って、東の補完勢力としての性格を隠蔽しているため、取り繕った上辺を引き剥がしてやれば、その実態を露わにできるということだ。
 2019年4月20日、安倍晋三が大阪府訪問のさなか、現役の首相として初めて吉本新喜劇に出演したことは記憶に新しい。安倍はなんばグランド花月の壇上で、次のように語っていた。

 G20について、ちょっと短くお話をさせていただきます。世界の首脳が集まって、地球的な課題、特に経済について話をします。貿易摩擦の問題や、第四次産業革命の問題や、格差の問題や、あるいは地球温暖化の問題についてですね、みんなが集まって解決策を見出す。まあそういう会議なんです。あのトランプ大統領や、習近平主席、あるいはプーチン大統領なんかもですね、世界中から大阪に首脳が集まって、相当真剣勝負をするんですが、大阪ならではのですね、解決方法もありますし、雰囲気、やっぱ食べ物も美味しいし、人情もいいし、笑いの文化もありますよね。四角い仁鶴がまぁ~るくおさめますけど、そういう形でですね、なんとか解決策を見出したいと思ってます。……そして、このG20を成功させればですね、2025年はいよいよ大阪で万国博覧会が開催されます。どうかみんなで成功させたい。

 文字に起こして一読すれば明らかなように、この話は前半と後半がうまく噛み合っていない上に、大阪のセルフオリエンタリズムを内面化した有権者に対するリップサービスを多分に含んでいる。既に述べた通り、2025年大阪万博を推進しているのは維新であり、ここには首相官邸・吉本・維新の連関が透けて見える。
 繰り返しになるが、本作の中でカンサイはカントウの属国となり、関西弁は失われた言語となり、カンサイの人々は処刑課の強権的な支配とメディア統制によって陰に陽に虐げられている。こうしたカンサイのディストピア的光景は、大阪を舞台としたアニメ映画『ジョゼと虎と魚たち』(2020年12月25日劇場公開)に倣って言えば、いわばまさに「虎」が暴れ回るケージの中を現実政治に即して図式化したものだと評価できるだろう。今後も、大阪を食い物にする東の補完勢力が話題にのぼるたびに、折に触れて本作が参照されることを期待したい。

(補論)アクダマ・処刑課紹介:本作の出演者について

 本作の出演者についても、簡単に触れておくことにする。主演の黒沢ともよは、アクダマの犯罪に巻きこまれただけの「一般人」役を演じる。(「一般人」なので当然だが)アクダマリストに記載がないことを咎められた彼女は、とっさに自分が「詐欺師」であり、「詐欺師」のテクニックでカンサイ警察を欺いているのだと嘘をつく。本作は「詐欺師」のふりをする「一般人」が正真正銘のアクダマの「詐欺師」として処刑されるまでを描くが、重要なのは彼女が自分の気持ちにだけは嘘をつかないことである。最後まで信念を貫くこの役柄は「アニメ声優」というよりも「役者」モードの黒沢ともよによって説得力を与えられている。「演技」とは程度の差こそあれ、視聴者/観客を騙す営みに他ならないが、役者自身が自分を欺いてしまっては「演技」は成立しない。これは役者の「知性」にも関わる問題だが、役者が役柄との同一化を避ける努力を怠れば、役柄における虚実は途端に反転してしまう。我々は少なくとも、本作の黒沢ともよになら全力で騙されて構わないだろう。なお、この観点は「嘘をつく生き物」=スパイを描くTVアニメ『プリンセス・プリンシパル』(2017年7月期)を鑑賞する際にも鍵になると思われる。
 アクダマチームについては、「運び屋」役に梅原裕一郎、「喧嘩屋」役に武内駿輔、「ハッカー」役に堀江瞬、「医者」役に緒方恵美、「チンピラ」役に木村昴、「殺人鬼」役に櫻井孝宏が配されている。全体的に「それらしく聞こえる」安定した布陣となっており、音声面でクライム・アクションのスピード感への没入を邪魔しないのは及第点である。ただ、緒方恵美の露悪的な使い方には食傷している。「ゲイなの?」「フェミニストも大概にした方がいいんじゃないの?」といった辟易する台詞を緒方恵美に言わせる手法にはいまさら驚かないが、「いかにも感」で胸焼けして仕方ないので、心ある声優ファンにおいては脚本側に対して低カロリーを要望する声を上げてほしいところである。
 処刑課チームについては、師匠役・弟子役に大塚明夫・花守ゆみりのペア、ボス役に榊原良子が配されている。処刑課チームは全体的に「さすがに感」に溢れているが、特に大塚明夫がくどくなくて良い。処刑課はボスも含めて中間管理職以上のものではなく、正義を執行すると言ったところで、それは組織・体制側の論理に縛られた硬直的なものでしかない。逸脱や変節が許されない雁字搦めの役柄だからこそ、それをあっさりとこなしてみせるベテラン声優の風格が光る。はやる気持ちに実力が追いつかない弟子役を演じた花守ゆみりも、「シニアの品格」を際立たせる上で適任の若手だったと言えよう。
 そして、物語の鍵を握る謎の兄妹役を演じるのは、内田真礼市ノ瀬加那の二人だ。両名には無理をした澄まし顔がよく似合う。この役柄に限ってはくどくどと説明するのは野暮なので、是非とも実際に本作に触れて、浮世離れした黒幕から無力な子供への落差を楽しんでほしいとだけ言っておこう。

おわりに

 維新は2012年から2014年にかけて、自党の英語名としてJapan Restoration Partyを掲げていた。辞書を引けば明らかだが、restorationには「王政復古」という意味もある。明治維新=Meiji Restorationという表現からの借用だとしても、同党は2年余りにわたって実にお粗末な翻訳を世界中に晒していたと言わざるを得ない。しかし、ここで本作におけるカンサイ警察がカントウからの「勅令」に従って動いていたことを思い出すと、restorationという言葉の選択は現実との奇妙な符号を示し始める。「勅令」と言うからには、姿こそ見えないがカントウには天皇がいる様子である。そうだとすると、restorationとはカントウの「勅令」に従う狗、すなわち東の補完勢力にはお似合いの名称だったと言うべきなのかもしれない。
 本作は最終的に、暴徒化した民衆がアクダマとともにカンサイ警察署を襲撃・破壊する幕切れを迎える。暫定的ではあれ、暴政は市民の手で打ち倒されるのである。全12話を通じて描かれたアクダマと処刑課の激戦は、市民による戦い、デモンストレーションの一つと看做すことができる。なぜなら、アクダマ認定の権限がカンサイ警察に握られている以上、市民とアクダマは体制側から見れば表裏一体なのであって、アクダマとはまさに安倍晋三の言うような「こんな人たち」に過ぎないのだから。とはいえ、市民側も無傷ではいられなかった。「一般人」もとい「詐欺師」を含む七人のアクダマは全滅し、恣意的にアクダマ認定された大勢の市民たちも殺戮の憂き目に遭った。本作は、為政者が感染症の拡大の中で棄民政策を隠そうともしなくなった今こそ鑑賞されるべき作品ではないだろうか。現実政治における戦いは、まだ終わっていない。

参考文献(2022年1月12日追記)

仲野徹『仲野教授のそろそろ大阪の話をしよう』ちいさいミシマ社、2019年。

矢作俊彦『あ・じゃ・ぱん』(上・下)、角川文庫、2009年。

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