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短編小説「リスク」

 片桐はリスクというものが大嫌いだった。

 危ないこと、よくないことが起きる可能性をことのほか怖れ、自らを「危険恐怖症」と笑うこともしばしばだった。
 
 学生のころから、川のほとりを歩かなかった。一緒にいた友人から理由を問われると真顔で「だって、いつ氾濫するか分からない。危ない」と答えたものだ。
 
 電車も先頭車両には絶対乗らない。万が一衝突事故が起きたときに、危ないからだ。「景色がいい」とか「乗り換えに便利」とかそういったことは、リスクの前にはささいなことだった。
 
 飛行機も嫌いだったし、海水浴や山登りなどの機会も極力避けた。スカイダイビングなんて、もってのほかだ。
 
 当然ギャンブルの類には手を出さない。有名大学を卒業した彼は、就職先として元国営のインフラ企業を選んだ。日本が破産しない限りつぶれない会社だ。
 
 入社してすぐの歓迎会の晩、先輩や上司たちに風俗に連れて行かれた(新入社員を連れて行くならわしだった)。けれど感染症の危険を排除したい片桐は、女性には指一本触れず(そして、触れさせず)、サービスを頑なに拒み続け、部署の笑いぐさとなった。
 
 かといって、とんでもない堅物というわけではない。長身でユーモアにあふれる片桐は女性からよくモテたし、彼も女好きだった。むしろ、こと女性に関してだけは、子どものような奔放さを発揮したといってもいいかもしれない。最終的には、それが命取りとなった。
 
 めったに特定の彼女を作らず、作ったときにも他の女性と遊ぶことをやめたりはしなかった。女たちはみな従順なタイプだったので、騒ぎやもめ事には発展しない。彼なりにそういう安全な女を選んでいたのだ。
 
 ◆
 
 「どうしてこんなことになったんだろう」
 
 片桐はいま腹から大量の血を流して、リビングによこたわり、膝をかかえている。数分前に刺された直後の熱いような痛みは、もう感じない。下半身だけがむやみに寒い。流れた血が絨毯から伝わってきて、頬がべたつく。
 
 ソファの向こうでは、由美子がしくしくと泣いているのが聞こえる。
 
 ◆
 
 片桐は28歳のときに結婚した。相手とは留学先で知り合った。きちんとした育ちの子だし、頭も気だても見た目も申し分のない相手だった。
 
 常々「結婚したら浮気はしない」と公言していた彼は、実際それから女遊びをピタリとやめた。
 
 「たかがセックスだろ? 家庭を失うリスクとセックスの快楽だったら、リスクのほうが大きすぎる。浮気はそもそも”見合わ”ないんだ。見合わないことは、オレはしないよ」
 
 というのが彼の理論だった。実際、彼の自制心は強固なものだった。
 
 ところが結婚して3年目、彼の部署に新人として配属されてきた由美子は、壁を軽々と乗り越え、彼の心に入ってきた。侵入し、揺さぶり、かき乱した。
 
 とりたてていい女だったというわけではない。容貌や内面で言ったら、彼がこれまでつきあってきた女性たちよりも見劣りする。それでもなぜか片桐は由美子にのめり込んだ。関係は2年近く続いた。
 
 ◆
 
 「でも、まあ、そりゃそうだよな」
 
 片桐は思い直す。傷口を押さえている手の感覚も怪しくなってきたが、頭の中は不思議と冷静だ。
 
 これはまさに自業自得というやつだ。由美子と関係を持ったばかりに、オレは平穏な毎日を失い、愛する妻の信頼を失い、愛する息子を失い、そしていま命さえ失おうとしている。意外でもなんでもない。だから言ったろ? 危ないことに近づいちゃダメなんだ。
 
 ◆
 
 最初は「たまに会えるだけでいい」としおらしかった由美子は、次第に「泊まっていって欲しい」「週末も会って欲しい」「奥さんと別れて欲しい」「会社に言う」「一緒に死のう」と要求をエスカレートさせていった。まるで、ガン細胞が転移に転移を重ねるように。まるで、借金の利息が倍々ゲームで増えていくように。
  
 片桐にそれを止める術はなかった。そもそも相手が悪かった(由美子は非常に情熱的な性格だった)し、はまりかけた泥沼から抜け出すスキルを彼は持ち合わせていなかった。彼が元来得意なのは、リスクを避けることだ。
 
 結局、別れ話はこじれにこじれ、逆上した由美子は台所からスイス製の包丁を持ち出し、片桐を数回刺した。5分ほど前のことだ。運悪く急所に命中し、片桐は一歩も動けずにその場に崩れ落ちた。

 ◆
  
 真冬に人混みの中を歩いたら、風邪を引く。花粉症の季節にマスクをしないで出歩けば、くしゃみが止まらない。分かってることだ。なのに人はみすみすそのリスクを冒す。オレは違う。そのはずだった。
 
 死が迫っていることを感じ、少しだけ後悔の念がこみ上げてきた片桐は、しばしわが子のことを思う。4歳になる息子はとても聞き分けがよく、父親である片桐の言いつけにいつも素直にうなずいた。
  
 「車道側を歩いちゃだめだ。轢かれたらどうするんだ」「わかったよ、パパ」
 
 「そんな薄着だと、風邪を引くぞ」「はい、パパ」
 
 「ちゃんと歯を磨きなさい。虫歯になったらいやだろう?」「うん、パパ」
 
 視界が完全に真っ暗になってしまう寸前、片桐には一瞬だけ息子の顔が見えたような気がした。

photo by Patrik Theander

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