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タバコと宗教

一般常識に則った場合、見えないものの力を信じる様な言及をする際、一般的には前置きが必要になってきます。

例えば「私はアカデミックな人間ですが、この様なご縁は本当に神の計らいだなと思いました」などの前半の部分です。何かの偶然を自分が勝手に神に感謝するのならば、「私はアカデミックだが」、は本来は不要です。それでもやはり人と話す際はその前置きは必要になります。どうしてでしょうか?これは「私はアカデミックという事実に裏付けられたものを対象とする仕事に携わる、物事の分析を極めて公平かつ根拠ととも見極めようとする中立的な人間である」という立場を説明しなければ自分自身が相手に誤解される可能性があるから、または相手の想像する「神」が必ずしも自分の意味するものと異なる場合があるからです。

例えば「私の前世はイギリス人なんだろうと思う。イギリスに行った時、どこか懐かしい感じがしたから。」と唐突に会話の中で発言することのマズさはなんとなくお分かりになると思います。ですからこの様な場合ももし僕だったら後ろに「イングリッシュマフィンも大好きだし」などと付け加えます。少しふざけた感じにすることで深刻なニュワンスが払拭でき、違和感がなくなるからです。「前世」という概念が万国共通でないことを前提とすると、その様に「カドをとる」配慮が社会の中では必要だということです。


先日「イオンを創った女」という本を勧めていただいて、読んだところ少しこの、「イオンを創った」小島千鶴子さんという人が1行ほどなのですが「責任のある人間の身の振り方」に言及している箇所があり、先に述べた様なことを連想しました。人に誤解を与えない配慮は言ってみれば、なんでも良いのですが何かしらの立ち位置から社会的責任を負おうとする場合、必ず携えていなくてはならないとされている感覚の様に思います。だから公人、著名人と呼ばれる人間の発言や行動は、それを欠いたと思われると聞いている人から非難されることがありますし、またそうならない様にその様な人たちが積極的に「カドをとる」様に話していることを見かけるわけですね。その中で喫煙習慣や宗教観、そしてジェンダー、そういった非常に個人的な趣向は外に出ない様に、誤解されない様に、批判されない様に丁寧に取り扱われることになっている様に思います。言い換えるならば、喫煙習慣を隠したり、新興宗教を信仰していることや同性の恋人がいることなどは表に出さない様に、触れない様になっています。


この状態を個人的に興味深く感じる理由は、世の中がオープンになればなるほど、つまり社会の中で公共性が成熟すればするほど、人々は「個」、もしくは「ローカルなもの」を世間に持ち込めなくなるというパラドックスが生じるためです。皆に対して世の中が開かれると我々はその中で得ることのできるある人の情報が一定の深さ以上のところでは実はブロックされていることに気がつきます。ですから公人、著名人といった人たちがいることを知ることはできても、その人たちがどの様な人たちなのかということは深くは知りようがないということが起こります。

しかし先週、車の部品の交換をしていて、オルタネーターと呼ばれる発電機から送られてくる交流を直流に変換して安定させた電圧でバッテリーを充電するレギュレーターという電気系の部品から、ふと一つの仮説が頭に思い浮かびました。世の中の様々な偏見や不寛容、誤解や批判の根本的な原因は受ける側の人間の「レギュレーター(変換装置)」がうまく作動していないことにあるのではないか、という仮説です。

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もしも正常に動く一台の車の様に、送られてくるあらゆる交流電圧をレギュレーターで受け止めることができるなら、他人を否定的に見る必要がなくなりあらゆる人たちと深く、安心の中で関われるのではないか。そしてそれがいつか一般的な常識になった時、本当の意味での公共性の成熟、オープンでグローバルな世の中が出来上がるのではないかと僕は思っています。


( 文・写真 / 西澤伊織 )

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