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バナナハンター;グラニースミスの思い出

市場でバナナなんかが売っていたりすると、「もし自分が店員だったら、傷んでいるバナナをどこに置き、まだ日持ちしそうなバナナをどこに隠すだろう?」なんてコトをついつい考えてしまい、ひな壇4段くらいに渡ってディスプレイされている無口なバナナたちをジロジロと見てしまう。

この時もちろん、発見したいと思っているのは日持ちするバナナだ。これは今現在、家族と離れて一人で暮らしているために、食材の消費のスピードが遅いからという理由が挙げられる。

一方で、一人で暮らしたにも関わらず、アメリカでは僕の野菜、果物を選ぶ目線は今現在バナナに持つそれとは違っていた。日本の消費者がよく野菜や果物の「カタチにうるさい」なんて言われたりするが、それがまだまだ可愛いく思えるくらい、あちらでは「ツヤツヤで形がよくキレイなもの」から容赦なくどんどん無くなっていく。補充されることがなければバスケットの中に残るのはまさに日本でオイシックスが逆転の発想でかつてヒットさせた「ふぞろい野菜」の部類に入るものばかりとなる。そしてその光景を一度でもご覧になると、きっとあなたも、「このふぞろい野菜は、さすがに助けるべきだろうな」と、大勢の人の一般的な価値観と真逆の選択を時にするのではないかと思う。

アメリカの思い出を振り返ってみたいのだが、ある日同じようにスーパーで買い物をしていたら、同世代と思われる女性が、まだ選択肢の中に「見栄えのいい」リンゴが他にたくさんあるにも関わらず、「必ずしもキレイではない」リンゴを敢えて選んだように三つ、買い物かごに入れたのを見た。

(この人は何をしているんだろう?キレイなリンゴが目の前にあるのに。)そう思って相手は赤の他人であったのだが「どうしてあえて売れ残りそうなリンゴを選んでいるの?」と尋ねると、彼女はこちらを振り返り;「だって多分、売れ残るから」と僕に言ったのである。

「驚いたな。実は僕も今日食べるとわかっていて、明後日の鮮度を期待する必要がないものはいつも売れ残りそうなものを選んでいるんだよ」と言うと、「えっ、あなたもそういうコトを考えるの?自分だけだと思っていたわ」と、結構それで彼女と話が弾み、以後街で偶然出くわすたびに少しずつ立ち話する時間が長くなり、アメリカにいた間、彼女と僕は互いに良い友人となった。今でもまだ付き合いが続いている。

「追伸:たまにはとってもツヤツヤなリンゴを子供達に食べさせてやったほうがいいよ」

と僕たちは今も時々送り合って笑っているが、それは正直なところ本心ではない。僕たちを友人たらしめる繋がりの始まりは、たとえ国籍は違えど、スーパーのバスケットから遠い農家の作り手の働く姿を心に描く、その想いにあったのだから。


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