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自閉症児の癇癪

 連日、こどもの癇癪が酷かった。

 たまたま相性の良くない先生とのやりとりで気分を害してしまったようで、保育園から帰りたくなくて泣きわめく。制止する大人を振りほどいて、常同行動(外から見ると意図がわからない、繰り返しおこなわれる行動)を繰り返し、園の出口に向かってくれない。
 言語の発達が遅れているから、何に対して怒っているのか説明できず余計に癇癪が酷くなる――悪循環を重ね、予定より一時間ほど遅れて帰宅する羽目になった。

 決して我が儘でもなければ、躾不足でこのような事態が引き起こされている訳では無い。脳の仕組みが健常(いわゆる一般的な発育をしている人)のこどもと違うだけ――判っていても、六歳児が耳元で絶叫しながら大泣きするのを、耐えるのは苦しかった。
(叱り飛ばしたり、注意をすると逆効果で一層癇癪は酷くなるため、ひたすら本人の機嫌が治るのを待つか気をそらすしかないのだ)

 六歳といえばもう幼児ではない。立派な児童だ。体も大きい息子の癇癪はなかなかに迫力があり、閑静な住宅街の静寂をざっくざっくと切り裂きまくった。
 私は心の中で周辺住民の方々に土下座をしながら、家へ逃げ帰った。いつもならスマートフォンで好きな動画を見て気分を変える息子も、その時は何をしても駄目で、私自身、我慢の限界が訪れ、冷静な対応ができなかった。
 これ以上こどもの側に居ると自分が平静を保てないと思い、トイレにこもって私自身がクールダウンした。
 
 思わず自分の人生を悲観する。
 どうして自分が。私が何をした。散々苦労したのに。いつも一人で頑張ったのに。誰も信じてくれなかったのをここまで耐えてきたのに。普通の人ならかからない大病だって経験した。こどもの障害だって生まれる前には判らなかった。
 どうして報われないことばかりなのか。これからどうなるのか。私は何の為に生きているのか。
 ぐるぐると頭の中をいろんな思いが駆け巡る。

 そのまま睡眠に逃げ込んでしまいたいと思ったけれど、そうも行かない。ただでさえ息子の側に居らず、不安がらせているのだ。気持ちを静めたらすぐにこどもの待つリビングに戻らなければならない。

 やっとの事で息子の癇癪が収まった頃には、既に日付が変わっていた。
 精神安定剤を飲んでなんとか寝かしつけを終えた後、一人で大泣きしてしまった。
 Youtubeでひたすら明るい結果を流すタロット占いの動画を見まくって、無責任に人生を楽観視しながら、ひたすら絵を描いた。文章を書くとネガティブな思考に引きずられてしまいそうで、書けなかった。認知行動療法もワークも手につかず、ボロボロと涙を零しながら着色を続けた。
 
 人生に悲観し、眠れなくなった。
 夫が話をきいてくれて(共感はしてくれない人だけれども)翌日の家事について何もしなくて良いといってもらえたから、なんとか翌日起き上がれたのだと思う。

 次の日になっても動悸は治まらなくて、相変わらずの情緒不安定さをかかえながら朝のルーティーンをこなした。
 夫の力がなかったら、息子をしかりとばしていたかも知れない。
 そんな私の情緒を推し量ってか、昨日の癇癪を引きずったのか。息子も再び大きな癇癪をおこして、はじめての登園拒否行動をした。
 なんとかバスに乗せ、療育園へ送り出す。

 私自身はもう、限界だった。
 蛍光灯が目に痛いので電気を全て切って、薄暗い室内でやはり絵を描いた。Twitterに出没しすぎて、無駄に壁に向かって呟きを続ける。暗い呟きばかりで幻滅されたろうなと思ったけれど、止められなかった。
 動悸と不安感が酷く、眠れない。無理にでも眠ろうと目をつぶるも、すぐに目が冷めてしまう。
 活字が読めず、文章が書けなかったので、自分の心情を冷静に振り返ることも出来なかった。

 頓服薬をいつもより多めに服用して、しばらく眠って、やっと体が動くようになった。
 息子関係の用事を終わらせ、仕事へ行く。
 
 仕事を終えて迎えに行ってみると、息子はすっかりご機嫌ないつもの様子に戻っていた。
 ほっと胸をなで下ろすも、私まで元通りとはゆかず、家に帰ったらすぐに精神安定剤を服用して、休み休み、息子の一日を終わらせた。

 障害児を育てているお母さんになら、よくある日常かも知れない。まだ、体を休める環境があって幸せだっただろう。理解ある夫がいて幸せだっただろう。
 それでも、今回は堪えた。
「しんどかった」ただそれだけを綴った駄文だが、それも、障害児育児のリアルなのだ。

 生んだお前が悪いと言う人がいるけれど、誰にだって障害の存在は予期できない物だと反論したい。
 自閉症も知的障害も、生前の検査では判らない。育ってしばらくしいないと判断できない。

 それでも、障害のリスクを考えず出産する親に罪があるという人も居る。正気か? と、性格の悪い私は返答する。

 我が子の不幸を願って、不幸な因子を懸念して出産する母親が一体どこにいるものか、と。

 理屈が通じない子育てに邁進する我らが同士が、今日も心身ともに休めていますよう、祈るばかりである。

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