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【symposium2】(Part2)「クバへ/クバから」第2回座談会(レクチャー2)上演記録「『クバへ/クバから』の写真群と沖縄写真史をめぐって」

(Part1はこちら

元始、写真とはいかなる鉛筆だったか

三野 はい。よろしくおねがいします。まずはみんなで写真を見つつ話そうかなと思っています。その前に、資料をご覧いただいた上で、写真の起源にまつわる歴史から話そうかなと思ってます。

 写真の起源は複数化されているのが特徴的です。フランスでダゲレオタイプを発明したダゲールが知られていますが、今回僕が作品を持ってきた、イギリス人のタルボットもまた、写真の発明者の1人です。初めてネガ(ネガティブフィルム、陰画)を用いた写真製法を考案した人です。ネガを使って作られた写真集を世界で初めて出版したとも言われています。その作品(『自然の鉛筆』)が「赤々舎」から2016年に出版されていて、これは(再版ではなく)初めての日本語訳です。

 今回は沖縄写真史と結びつけるために、『自然の鉛筆』ーー英語タイトルは「the pencil of nature」ーーを参考にしつつ、この後、東松照明の『太陽の鉛筆』の話をしていきます。(写真集をめくりながら)こういう感じで、当時のままの構成が忠実に再現されている写真集なので、僕たちが今後写真集を作る時に、最初期の写真集には、こうやって文章と写真が載せられていたんだと参照できると思います。

鈴木 写真は最初期から記述が付随する媒体として使用されていたわけですね。すくなくとも「写真集」というかたちで公開されたとき、写真はテキストというべつの表現をセットに捉えられていた。

三野 そうです。どちらかというと、写真の芸術性だけが切り取られた形で構成されたのではなくて、当時はカタログ的なものでした。言い換えると、これだけ最先端の技術を使って発明をした結果、こういったものができますよ、という例示として存在した。

 当時は今みたいな形で科学者と芸術家がハッキリ(専門として)分かれていなかったので、理系的かつ化学的な思惑で作られている写真集なのですが、その中で文学的な表現や詩作が出てきたりもしていて、当時の科学と芸術の緩やかな結びつきが窺えます。


鉛筆の主体、擬人化された自然

三野 ここで僕が注目したいのは、鉛筆というものの主体は何なのかということです。それを考える際に、まず注目したいのは、タルボットがこの写真集の緒言で、「芸術家の手を借りずにこれを作ったんだ」と繰り返し強調していることです。

 どういうことかというと、(写真技術が普及するよりも)昔は自然の中に絶対的な美があって、その美を模倣することによって、芸術が生まれるんだと考えられていたわけですね。その中で芸術家は特権的な存在であり、美というものを自然から持って来ることができる職能だと考えられていた。そのためミメーシス(模倣)が、芸術において(概念としても、形式としても)重要だったのですが、タルボットは緒言で、それが芸術家ではなく、自然の側からできてしまうと主張しています。

 つまり、昔は芸術家という主体によって、美というものが表現されていたと考えられていたんだけど、この『自然の鉛筆』では、「自然くん・自然ちゃん」みたいな人が、なんと勝手に、本当の美を表現してくれました、と言っているわけです。よく美術史で、写真が1回絵画を殺して、その後印象派が出てきたと語られますが、まさにその先見的な語りがここに書かれている。
 美術史的に見るとそうなのですが、僕としてはより具体的に、「鉛筆のもつ主体性」が芸術家個人の主体ではなくて、ある種の超越的な主体、「自然くん・自然ちゃん」みたいな擬人化された主体に移り変わっていったことに興味があって、今回これを紹介しました。

笠井 表現の道具としての「鉛筆」が、芸術家の手から、芸術の被写体・表現対象だった「自然」の側に移って行くためのものとして「写真」があったと。今風に言うとイノベーション。

三野 だから当時は、「芸術家なんてもう必要ねえんだ!」みたいな主張が取り沙汰されたということです。

鈴木 ミメーシスの話をすれば、芸術家が自然を模倣する技術が詩であるといわれるけれど、ここでは自然が自然そのものを模倣する技術として写真という技術が捉えられるわけですね。

三野 そうです。

鈴木 だから、人間抜きでも芸術が成立するんだって語り方をしているわけですね。写真は人間抜きで自然の模倣が可能になると。


『太陽の鉛筆』と沖縄返還のジャーナリズム

三野 起源としてそのようなものがあったことを念頭に置いた上で、次にみるのは、2015年に再版された、東松照明の『太陽の鉛筆』です。1975年版と再版された2015年版があるのですが、今日持参したのは2015年版です。

 2015年版には、編者である伊藤俊治さんと今福龍太さんが小論を書かれていたり、それぞれの編者が(『太陽の鉛筆』以降の写真を)編集した別冊も入っています。こちらもすごい良いのですが、今回は東松自身が編集した1975年版をご覧頂きつつ、お話ししようかなと思っています。

笠井 ちなみに東松照明を、初めての方にひと言で説明するとしたら。

三野 なるほど……。

笠井 何年頃の……?

鈴木 30年くらいじゃないですか?

三野 1930年生まれですね。

鈴木 亡くなったのは2000年代?

三野 2012年に亡くなってますね。

山本 (愛知県名古屋市出身で、沖縄や長崎などを積極的に主題として扱った)戦後日本を代表する写真家のひとりです。

三野 「VIVO」という、戦後すぐに生まれた前衛写真集団のメンバーですね。後述する森山大道や中平卓馬らは、東松照明ら「VIVO」の影響を受けた世代に当たりますし、さらにそれ以降の作家にも影響を与えていて、戦後写真史の第一人者の一人です。

 東松は『太陽の鉛筆』を制作するために、沖縄に移住します。最初は1969年にジャーナリストとして取材のために行っていて、沖縄がアメリカから日本に返還される1972年を境に、東松は沖縄に住み始めます。1975年版の写真は白黒で現像されていて、時々、文章が入ってくる構成です。この写真集では移住から数年経ったあと、「アジアに旅立ちます、出発!」みたいなことを書いたあとに、アジア各国に滞在しながら撮影を行うようになった経緯も収録されています。

笠井 一冊の中でパートが分かれている?

三野 分かれています。沖縄でずっと撮影していた時期の作品もあれば、離島に行って撮影した時期も、東南アジア各国の撮影にまで拡大していった時期もある。


国家の占領を越える「琉球の弧」

三野 東松が追求していたテーマを概括すると、彼は「占領」という問題を意識していたんですね。日本がアメリカに負けて占領されてしまった瞬間のことをオブセッショナルに感じていた人で、その後も色々な「占領」の形を考えて、日本各地に追っていた。場所は長崎で撮っていたり、神奈川の厚木基地とか、横須賀でも撮っていたりする。いずれも米軍との関係性だったり、占領との関係性を扱っていて、最終的に行き着いたのが沖縄だったのだと思います。

『太陽の鉛筆』では、それら「占領」の問題から派生して、「琉球弧」という概念がつよく意識されています。「弧」というのは弓でいう「弦」に当たりますが、この写真集は、(国際政治学ではなく)文化人類学的な意味で、沖縄本島だけでなく、東松が旅立った東アジア、東南アジアまで含めて、ひとつの「琉球弧」として意識されるような構成になっている。沖縄「県」と言われるような、近代的な国家の基礎となる「県」の枠組みを逸脱していく意図が読みとれます。

(Part3につづく

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写真家・舞台作家の三野新と、いぬのせなか座による、沖縄の風景のイメージをモチーフとした写真集を共同制作するプロジェクト「クバへ/クバから」…

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