見出し画像

【symposium2】(Part.3)「クバへ/クバから」_第2回座談会(レクチャー2)上演記録「『クバへ/クバから』の写真群と沖縄写真史をめぐって」

(Part2はこちら

太陽と陰影の島々

笠井 都道府県的な区画の「沖縄」ではなくて、その周辺の島々や、さらに外の――。
三野 そうです。そして、その影響を中平も受けていたりする。ここで大事なのが、『自然の鉛筆』もそうなんだけれども、鉛筆(による表現)の材料(としての道具)は人間が作って、これを改めて自然に――東松だったら太陽ですね――に投げ返そうとする。

 カメラは、その化学的な写真術は、人間が作っている。けどそれが得られるもの、得るものかな、それを表現する主体は、自然や太陽といった超越的なものである、というプロセス(論展開)を踏んでいるわけです。

鈴木 これに対して、東松自身による「自然の鉛筆」への言及はあるんですか?

三野 本文に言及されてはいませんが、タイトルからして明確にありますね。

鈴木 太陽はカメラで撮ることができない対象ですね。

三野 まあフィルターをかませれば撮れるんですけどね。

鈴木 ただ自然にある中で、もっとも……。

笠井 肉眼で直視することができなくて、見ようとすると害のある――。

鈴木 つまり、自然が自然自身を模倣する際に、人間の側による操作がなければ容易に撮れないようなものとして太陽がある。それを考えると、『自然の鉛筆』を受けて『太陽の鉛筆』という題になったのはなかなか示唆的ですね。

三野 折りしも東京都写真美術館で展示をしている「TOPコレクション 琉球弧の写真」に出品されていますが、伊志嶺隆が、写真のイメージの陰影から生まれた『光と陰の島』という作品を作っています。キャプションにも書かれていますが、伊志嶺は「沖縄は光と影の島なんだ」という視点を打ち出している。

 おそらく東松も、写真は光と影を表現するメディアだと考えて、それらをうみ出す根源としての太陽を意識していたんじゃないでしょうか。(日差しの強い)沖縄で暮らすと、日なたにずっといると苦しくなる、つらくて死んでしまいそうになる(熱中症で倒れそうになる)からこそ、できるだけ日陰で生活しようとする。そのような、日と影が生まれる、意識される場所としての沖縄を、伊志嶺隆は(「光と影」という写真表現の本質と対比させて)撮影していた。東松が(おそらく)タルボットを参照しながら、自作を「太陽の鉛筆」と題したと考えるのは筋が通った話だと思いました。


迷いなく、植物図鑑のように撮る

三野 次に、中平卓馬の話をします。僕は彼が提唱する「植物図鑑」としての写真と、沖縄写真史との合流ポイントについて考えています。中平卓馬は『なぜ、植物図鑑か』で、概括すると「写真というのは植物図鑑に載っているようなものがいいんだ」と言ってるんですね。どういうことかと言うと、(動かない無機物としての)石を撮り続けるのでも、(動き続ける生命体としての)動物を撮り続けるのでもなくて、その中間のものとしての「植物」を撮り続ける態度を良しとする考え方です。それを資料的に羅列する美学が「図鑑」に現れるのだと中平は考えていた。この考えは写真史的にはタイポロジーと極めて近しい考え方でもあります。最初に挙げたタルボットにも植物学に傾倒していた時期があって、東松の「太陽の鉛筆」と合わせて、中平が撮影する沖縄の植物の羅列的なイメージも意識されて来ます。中平の『沖縄・奄美・吐噶喇 1974-1978』も、(東松と同じように)沖縄「県」ではなくて、もう少し横断性を持った形で考えていこうする試みですね。

注:中平卓馬は1973年刊行の論集『なぜ、植物図鑑か』で、「アレ・ブレ・ボケ」といった言葉に象徴される自作の傾向をはっきり否定し、「事物が事物であることを明確化することだけで成立する」撮影行為に向かおうとしていた。それは「最終的には写真家であることをやめることを私自身に予告している」(「まったくのゆきあたりばったり――私の読書」『芸術倶楽部』1973年11月号)と振り返られるような、かなりの危機感に迫られたものだったが、ちょうどその年の7月に、彼は沖縄ゼネスト警察官殺害事件の裁判を傍聴するために初めて沖縄を訪れている(この裁判自体、読売新聞が報道した写真のみを証拠に青年が不当逮捕・起訴されたことをめぐるもので、非常に興味深い問題を孕んでいると言えるだろう)。以降、中平は自らの写真家としての危機的状況を、沖縄を通じて打開しようとする。1977年に急性アルコール中毒で倒れ、記憶を失ってからも、彼のなかで沖縄は特権的な場所であり続け、幾度も訪問しては撮影を繰り返した。(執筆:山本)

山本 東松照明との関係で言えば、中平は少し年下ですよね(1938年生まれ、つまり8歳下)。先に沖縄での撮影を始めていた東松からの、おそらくは強い影響(あるいは緊張関係)のなか、「沖縄での撮影」について積極的に取り組み始める。それも、沖縄をただの一被写体としてではなく、「写真とは何か」「撮影行為はどのようにありうるか」といった、自らの抱える大きな問いらが凝縮されたモチーフとして思考し、かなりの数のエッセイも書いている。

 さてその上で、おそらく今日の話において重要なのは、東松照明も中平卓馬も、非沖縄出身者だった、ということだと思います。「琉球弧の写真」展では、沖縄出身、あるいは(沖縄に)強い関係を持っている写真家たちの作品が展示されていますが、東松と中平は、沖縄に外から訪れ、撮影を試みた。つまり、どちらかと言えば三野さんと近い立場だったと言えるわけですね。

三野 そうですね。「琉球弧の写真」は、沖縄アイデンティティを持っている方――沖縄に生まれていたり、かつて生家があったりする作家への眼差しがキュレーションとして意識されているのですが、中平も東松も、そのアイデンティティがまったくない人としてある。

 このあとにまた話す予定だったんですけど、中平も東松も、戦後から、72年の沖縄返還前後の写真構成が、すごく印象的だったことを話しておきたいです。

 撮影行為として見たときに、彼らの作品からは、「撮影する」という身振りに迷いのなさがあると感じました。僕は沖縄の風景を撮って、東京で展示・出版しようとした時にーー第一回の座談会でも話したようにーー心理的な弱さが先立ってしまう。これを出していいのか悩み、迷うんです。だけど、東松や中平の写真には、僕が迷っているような迷いが見えないと感じた。

 もちろん迷っているのかもしれないけれども、そこを見せない形で写真集を構成されているのが印象的でした。


技巧的な日常、ためらいの報道

山本 なるほど。彼らのテキストを読むと、東松や中平にも迷いや躊躇がなかったわけではないと思うのですが、ただ、三野さんからすると、実際の写真(集)を見たとき、その迷いや躊躇が強く感じられないものになっている、ということでしょうか。

三野 そうですね。たぶんそれは、彼らが(撮影を始めた)最初の入り口がジャーナリズムだったからではないかと思います。中平は「朝日ジャーナル」に掲載するための記事で、東松も69年に取材で沖縄に来ている。報道写真との関係の中で、沖縄の風景を見ようとした。それがまず大きな問題としてあったんだなと。

鈴木 報道を目的として写真を撮るなら、そこで撮られた写真はある場所の状況をだれかに伝えること、見せることが優先されますよね。そのときに写真を撮っていいのかどうかみたいな判断は、その写真を見る人たちの側に託されていくような側面があると思います。ジャーナリズムという流通過程に撮影者が組み込まれることを前提とする。だからこそ、倫理的な言説として「その写真を撮るべきだったのか」とか「写真を撮るよりもすべきことがあったのではないか」とか、そういう議論が可能になる。

 三野さんの話を受けて考えたのは、それならジャーナリズムを前提できない視点で写真を撮るというのはどういうことなんだろう、という。ある場所で写真を撮ってそれを見せるとき、その写真を見る視点をあらかじめ期待すること、つまり流通させることに対してためらいが生じる、つまり倫理的な行為が撮る行為のなかにではなく、撮ることと見せることのあいだに生じることがあるとして、ある写真が報道写真であることでその撮影と公開が可能になるとき、可能になってしまうとする主体の判断はどのように写真という媒体と関わるのか、と。

三野 重要な問題だと思います。それを考えるためにも、改めて「琉球弧の写真」を見ていただきたいです。僕が気になったのは、みんなコンセプチュアルというか、技術的な形式によって撮られているな、ということでした。
 どういうことか。なぜ撮影やプリントをコンセプトや技術を背景として行おうとするかと言うと、被写体が撮影者にとって逃れがたく「日常的」だからなんだと考えます。「日常的」すぎて、写真をただ撮っても面白くないと(撮影者心理として)思ってしまう。

 例えば僕が東京の、自分自身にとって関わりの深い場所で写真を撮ろうとしても、はっきり言って、「うーん、何を撮ろう……」と思ってしまう。その写真をどのようにしたら人に見せられる、パブリックなものにできるのか、表現にするのかと考える際に、形式やコンセプトを写真の中に入れ込むことによって構成しようと考えてしまうわけです。

 逆説的に言えば、コンセプトや技術に頼って写真を撮ること自体が、被写体が日常的でプライベートなものだと表現することにもなると僕は考えている節がある。いわゆるジャーナリズムとはまた別のあり方の表現だという感覚があって、それは当然、沖縄にアイデンティティを持つ人たちもそうだし、東松や中平も持っている感覚だと思うんですね。最初はジャーナリズムを志していたんだけど、東松も中平も沖縄の植物ばかり撮るようになり、ジャーナリズム的な身振りはなくなっていく。にも関わらず、彼らが植物ばかり撮る姿勢こそが、外部からやってきた人であることの証左ともなっていく。そのように彼らが抱えた「遠さ」に、自分は「近さ」を感じる。そのことを僕はすごく考えました。

注:ジャーナリズムは、内部性ではなく外部性をこそ志向します。ある時期以降の東松・中平の身振りは、ジャーナリズムではなく、表現としての写真に対する態度であるように思えます。そして、たとえ内部性を志向する作品でも、外部性のある形式を内部にインストールすることで、外部性を担保しようとするわけです。(執筆:三野)


「訪問者による写真史」の先へ

鈴木 山田實のこの写真、一番最初にあったんですけど、これなんか「すげえ構成でかいな」って気持ちから始まりましたね。見ていて。ばちっと決まっていて、見ると、お父さんの右手に握られているカツオの存在感が本当にすごくて。これカツオの写真ですよね。

三野 これカツオなの?

鈴木 カツオかわかんないけど……。

なまけ なんかめっちゃ浮いてるよね。

鈴木 そう、これだけぼやっと浮いているという。それで見るとやっぱり、日常を写しているというよりは、かなり意図的なものを感じるなあと思いますよね。

三野 これ(写真)本当は結構ちっちゃいんですよね。

鈴木 これ(サイズを身振りで示す)くらいですよね。

三野 本当にこんなもん(サイズを身振りで示す)。うーん。情報量が少ないと思っちゃったな。おもしろいんだけど。

笠井 情報量の少なさというと……?

三野 ポロっと感覚的なこと言っちゃった(笑)。

山本 要は、特定のモチーフによって一枚の写真がぐっと圧縮可能な状態になっている、ということですよね。何が撮られているのかが非常にはっきりしているというか。「琉球弧の写真」展の作品はその多くにタイトルがついていますが、それも圧縮に寄与している。例えば平敷兼七「部落の人たちが足のきれいなばあさんだと言っている 今帰仁上運天」を見ると、なるほど中央にどんと写っているおばあさんの組まれた足がすごくきれい(笑)。撮影場所もタイトル内に明記されていて、鑑賞者が迷いづらい。

注:加えれば、基地やデモをとらえた写真も、かなりバチッと構成が決まっているものが多い。一枚一枚の扱おうとしている主題が、かなりシンプルに伝わるように意識されている。言い換えれば、かれらにおいて沖縄は、そのようにそのままに――あるいみ露骨に――撮影可能な対象としてあった。あるいはそのようなかたちで撮影・提示したとしても現在に至るまで有効性が失われないような何かが背後にあるということが、かなり強く示されてしまっているとも言える(もちろんその「何か」は第一に、写真家が社会的に帯びている沖縄との関係性だろうが)。(執筆:山本)

三野 先ほどの話につなげると、一方には思想的な、政治的な運動や身振りがある。70年代の沖縄返還をめぐる、戦後の大きな流れの中での、ジャーナリズム的な身振りと目線。そして他方には、沖縄にアイデンティティを持つのひとたちが表現してきた視線が、併存しながらずっと続いている。

 そう考えると、どうしても、中平・東松みたいな外側からの視点は、そのまま行っちゃうと、すごいやばいものに見えてしまう。僕たちがさんざん言っている「搾取」にも繋がるし、非当事者なのになんでやってるんだ、みたいなツッコミとも繋がる。その当時の視点や態度をそのまま持ってこようとしちゃうと、その当時からの表現のあり方自体も更新できないように感じました。歴史的な系譜を参照した上で、新しい表現を沖縄の外部から行うことができなくなっちゃうから、それをどういう風にやっていくのかを考えられないか。それが今回の座談会で話そうとしていた事でしたし、(プロジェクト名「クバへ/クバから」でいえば)「クバから」という部分においても大事にしたい基本的な考えです。

(Part4につづく

ここから先は

0字
ご購読いただくと、三野新の過去作品や映像アーカイヴ、写真集に収録予定の写真(一部)のほか、レクチャー、シンポジウムの映像・テキストアーカイヴがすべてご覧いただけます。 ワークショップ、展覧会の予約申込もご購読者を優待します。 さらに4ヶ月以上ご購読いただいた方には、写真集1冊(予価:税込5,000円)を贈呈いたします。もちろんプロジェクトメンバーも大喜び。あなたのご参加が、多くのひとにとって、忘れがたい大切な記録になりますように。

写真家・舞台作家の三野新と、いぬのせなか座による、沖縄の風景のイメージをモチーフとした写真集を共同制作するプロジェクト「クバへ/クバから」…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?