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缶詰部屋(そば工場の思い出)

大学を9月卒業してから4月に大学院が始まるまでのあいだ、私は広島に帰っていた。
一人暮らしの家財道具は東京のレンタル倉庫にあずけ、身ひとつでもどってきたが、実家は建て替え中だった。

仮住まいは近所の賃貸マンションだった。半年間の契約で家賃を安くしてもらったかわりに、部屋の障子はボロボロ。壁には穴も開いていた。

マンションの高層階に住むのは初めてだった。ちょっとコンビニに出かけるだけで、エレベーターを待つのが億劫おっくうだった。

祖母はエレベーターを怖がり、マンションに引っ越すのを嫌がっていたが、私が帰ってきたころには平気な顔で乗っていた。
エレベーターでの挨拶も堂にっていて、長年マンションで暮らしていたかのようだ。

私は個室をあてがわれたが、6畳の和室は箪笥たんすのせいで4畳半になっていた。

となりの祖母の部屋とはふすま1枚でへだてられており、耳が遠い祖母のテレビの音がうるさかった。畳にノートパソコンを置いて小説を書いていたが、ろくに集中できなかった。

私はそば工場でアルバイトをはじめた。毎月のレンタル倉庫の代金7千円を工面しなければならない。
朝、ごみ袋をもって階段を駆けおり、息せき切って自転車で工場にむかう。ギリギリの時間に到着すると、急いでゴムエプロンと長靴に着替えた。

工場はかつお節の香りがする。バイトの私は包装されたそばつゆをケース(コンテナ)に並べるのが仕事だった。
ベテランのおじさんの指導を受けながら作業する。私の身長に合わせて作業台を高くしてくれた。

昼休みの許可をもらい、配膳はいぜん室にうどんセットを取りにいった。アルミ皿にうどんとつゆの袋が乗っている。
中国人女性のKさんが「若いけえ、サービス」と言って、トッピングを全部乗せにしてくれた。調理のため台所のある休憩室にむかうと、部屋をあとにする社長とすれ違った。

午前中、怒られたばかりだった。工場の器具を洗浄するとき冷水を使っていたら、「水道代もバカにならんのんじゃけえ、井戸水を使えや!」と怒鳴られたのだ。
温水はガスで沸かしたものと誤解していて、私としては遠慮えんりょしたつもりだった。

萎縮いしゅくする私をよそに、社長はすれ違いざま、「Kさん、おっぱい大きいじゃろう」と言ってきた。

怒鳴ったことなど忘れているのか、あるいは彼一流のコミュニケーション術なのか。私は愛想笑いをした。

休憩室はおじさんたちでいっぱいだった。競艇と風俗の話ばかりが聞こえてくる。
昼食を終えると、近くの公園に行ってケータイをいじっていた。公衆便所の臭いがベンチのあたりまで漂ってきた。

午後の仕事は、壁のように積まれたそばつゆのケースを、通りを渡ったところにある巨大冷蔵庫に収めることだ。私一人にまかされた。

配送トラックの往来に気をつけながら、台車で冷蔵庫のそばまで運んでいく。そこから山積みになったケースを、冷蔵庫のなかに収めていくのが重労働だった。

そばつゆのつまったケースを2つずつ持ちあげた。中腰のままの作業がつづき、腰を痛めた。しかたなく1つずつ運んでいると、社長が飛んできて尻を蹴られた。

「なにをチンタラやっとんじゃ! しっかり働けえ!!」

ケースを奪いとり、手本を見せはじめた。還暦近いだろうに4ケースも抱えていた。

社長がいなくなると、私はケースを並べるふりをして、冷蔵庫のなかで休んだ。「たいした時給も出しとらんくせに」と、腰をさすりながら恨みごとをいう。

冷蔵庫は密室だった。なにをやっても人の目は届かない。私はケータイを取り出し、小説のアイデアを練りはじめた。30分もつづけると、メモを取る手がかじかんだ。

年末が近づくにつれ、そばつゆの生産量は増加していく。ついに冷蔵庫に収まりきらず、となりの倉庫のなかまでケースの山は連なった。

うす暗い倉庫でケータイを開くと、無数の細かいほこりが浮かび上がる。大量のそばつゆに囲まれながら、私はすきを見て小説を執筆するようになった。

当時、ケータイ小説なるものが流行はやっていたが、まさか自分もケータイで書くとは思わなかった。
ケータイの小さな画面は不便だったが、家とはちがって集中できた。
私はこの缶詰部屋を気に入った。

これまでどんなに苦労して小説を書いても、1円にもならなかった。でも、工場の缶詰部屋で書いていると、その間じゅう時給が発生した。
私はいっぱしの作家になった気がしてうれしかった。工場の仕事がとどこおらない程度に執筆をつづけた。

大みそか、事務所で給料袋をもらうとき、後ろめたかった。中小企業は人件費も水道光熱費もギリギリのところでやっている。

夕方、母から年越しそばを買ってくるように頼まれると、私はスーパーで迷うことなくバイト先のそばをカゴに入れた。

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