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「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第八章 大団円(その6)

どのくらい時間が経っただろう? 夜の海を漂っているように、あたりはひっそりとしていた。
ずっとつま先立ちで足がつりそうだった。僕は失禁しており、ロッカーのなかには臭いが立ちこめていた。

恐れていた2学期の影が実体となって現れた。犬彦くんのように掃除ロッカーに監禁され、首を吊るされていた。

犬彦くんの二の舞はごめんだった。あのころのように狛音は助けにきてくれない。自分ひとりで乗り越えなければならなかった。
僕は強くならなければならない。狛音にヒーローだと言ってもらったのだから。

首輪を両手でつかんだ。ありたけの力をふりしぼり、懸垂をするように足を持ちあげる。バランスを崩さないよう、両足で同時にバケツのふちに着地した。首に余裕ができ、ひと息つけた。

生命の危機が去ると、跳び箱のトラウマがよみがえり、息が苦しくなってくる。駕籠かごの格子窓のような通気口は消え、まっ暗な箱のなかに閉じこめられていた。
首輪を握りしめると、すこし落ち着いてきた。そばに綱プーがいてくれているような気がした。

そのとき、ズボンのポケットがブルブルとふるえた。スマホは机の上に置いてあるカバンのなかに入っているはずだ。
ポケットから取り出すと、岡田のスマホのようだった。画面の時刻は20時19分。唯野から電話がかかってきており、切れるのを待った。

ロックがかかっていなかったので、写真アプリをのぞいてみた。掃除ロッカーのなかに吊るされている僕の動画があった。

岡田と一緒に閉じこめられたとき、彼の手からすべり落ちたスマホが、たまたま僕のズボンのポケットに入ったのだろう。いままで必死で気づかなかった。

動画を観ていると泣けてきた。この画面に映っているみじめな少年は、ほかならぬ自分自身なのだ。
もし赤の他人だったら、この少年はそのあと自殺したと聞いてもあまりおどろかないかもしれない。それほど悲惨ひさんで痛々しい姿だった。

動画をネットにアップして、いじめを告発しようかとも思ったが、恥の意識のほうが勝った。こんな姿を不特定多数の人間に観られるなんて耐えられない。

保存されている動画は、ロケット花火の打ち合いなど他愛のないものばかりだったが、なかにひとつ度がすぎる悪ふざけの動画を見つけた。
それは〝狩り〟と称して、唯野が下校中の小学生をつけ狙い、ランドセルめがけてダーツを投げるものだった。

不審な高校生に気づいて泣きながら逃げる男の子や、すみれ色のランドセルに何本もダーツが刺さっている女の子が映っていた。
ダーツが的をはずれ、ランドセルにぶら下げた給食袋に突き刺さり、あやうく怪我しそうな子もいた。

唯野たちが動画の投稿をはじめたことを思い出し、ユーチューブをひらいた。チャンネル名は「唯我独尊TVオフィシャル」で、登録者は47人だった。
「小学生狩り」というタイトルをつけ、ダーツの動画を投稿した。念願だった10万再生も夢ではないだろう。

頭の悪そうなチャンネル名を見て、恐竜人間のことを思い出した。鮪吉くんの図鑑によると、恐竜の脳は巨大な図体に比べてとても小さく、ワニくらいの知能だったらしい。

でもなかには、ワニよりずっと大きな脳をもつ恐竜もいて、もしその恐竜が順調に進化していたら、恐竜人間が生まれていたかもしれないという。

遠くから足音が聞こえてきた。うろたえてロッカーの奈落にスマホを落としてしまった。こんな時間に誰だろう? スマホの光がぼんやりとチリトリを照らしていた。
足音は大きくなり、ドアをあけるような音がした。教室に入ってくるようだ。

足音はこちらに近づいてきた。まさか早くも投稿したことがバレたのだろうか。心臓をバクバクさせながら、息をひそめていると、足音はとまり、背後でノックの音がした。

「光村、まだいんのか?」

岡田の声だった。動揺してひじがあたり、立てかけてあったモップが倒れ、スチールの音がひびいた。

「待ってろ」

岡田はそう言うと、鈍い音を立てながらロッカーを動かしはじめた。

大きな揺れが断続的にやってくる。僕は急カーブを曲がる電車に乗っているように、両手で首輪にしがみついていた。「待ってろ」という言葉に小さな希望を感じながら。
時間をかけてロッカーの向きを変えると、扉をあけてくれた。

彼は目が合うと、死体でも直視したみたいに顔をしかめた。視線をそらし、鼻に手をあてる。
僕が首輪から手を離すと、気まずそうに口のテープを剥がしてくれた。いちおう助けにきてくれたようだ。腰をかがめ、僕の足もとを探りながら、

「あー、あった。俺のスマホ」

彼はうわずった声でそらぞらしく言った。スマホを拾いあげると、「……すまん」と声にならない声でつぶやいた。

岡田は背のびしながら、ふるえる手で首輪をはずしてくれた。首輪を僕に返すと、背中を差し出した。
僕はベースボールTシャツの背中に身をあずけた。僕の制服のズボンは濡れ、においが鼻をついたが、彼はなにも言わなかった。

暗幕をおろしたように、窓のむこうには闇がひろがっていた。教室はロッカーのなかの延長のようだった。

岡田は僕をおろすと、バケツのかげから絵具ケースを取り出した。「これ」とだけ言って、床に座りこんでいた僕に手渡した。探していたアクリル絵具セットだ。

誘導灯の緑の光を照り返すリノリウムの床を見ながら、僕らは無人の廊下を歩いた。夜の校舎は僕を安心させる。ここには僕を傷つけ、孤独にさせる他人の目はなかった。

岡田は僕のペースに合わせ、ときどき立ちどまってくれた。会話はなく、靴のなかのおしっこがチャプチャプと鳴っていた。

「お前の絵に落書きしたの俺なんだ」

校門の前で別れるとき、岡田は言った。彼は自転車にまたがっており、ハンドルのあたりを見つめていた。「唯野にやらされて」

鈴虫のんだ声が聞こえてくる。校門のなかに目をむけると、外灯が校舎の壁を青白く染めていた。

「お前の絵が学級旗に選ばれたらいいって思ってたんだけど、ごめんな」

岡田は太股ふともものあいだに手をはさんで言った。外の空気はすこし肌寒い。胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

「じゃあな」

頼りないライトの光で暗い道を照らしながら、自転車は走り去っていった。彼もまた弱い自分と戦っているのかもしれない。

夜空をあおぐと、水彩画のような淡い月が浮かんでいた。

一夜にして、「小学生狩り」の動画は炎上した。あっという間に唯野は身元を特定され、顔写真とともに学校や住所、家族構成までネット上にまとめられた。
翌朝、学校には抗議の電話が殺到し、警察にも通報があいついだ。

僕が炎上のことを知ったのは、予備のローファーを履いて登校してからだ。
教室は動画の話題で持ちきりだった。となりの席で女子たちが話しているのが耳に入り、ネットを見てようやく状況を把握した。

窓際に目をむけると、唯野の席はからっぽだった。机の上にカバンを置くなり、職員室に呼び出されたらしい。結局、1日じゅう姿を見せなかった。

唯野の退学処分が決まったのは、その4日後だった。

動画を撮影した岡田も停学になった。

休み時間、トイレから教室にもどろうと廊下を歩いていると、教室からカバンを持って出てきた岡田と鉢合わせした。思わず顔をふせ、すれ違おうとしたとき、声をかけられた。

「あの動画、俺のスマホからお前が投稿したんだろ」

全身の毛が逆立った。停学になった仕返しをされるかもしれない……。こわごわ顔をあげると、

「サンキューな」

なぜか感謝された。もしかして、岡田はわざと僕にスマホを置いていったのだろうか。いや、そんな余裕はなかったはず。自問自答していると、

「そういや、光村んちって犬飼ってんだよな?」

「……なんで?」

「なんでって、犬の首輪もってたから」

彼が不器用に僕の首からはずした首輪は、いまもお守りがわりにズボンのポケットに入れていた。小次郎の首輪ではなかったが、

「うん、飼ってる」

「俺んちも飼うことになったんだけど、今度いっしょに見に行ってくんない?」

話の意図がよくのみこめなかった。

「誰と?」

「俺と」

岡田は苦笑いして、強調した。「今度、俺と・・犬を見に行ってくんない?」

思わぬ誘いに、言葉を失った。階段室から担任の話す声がひびいてくる。

「いいよ。平日の昼とかじゃなければ」

僕が笑って言うと、

「お前、言うなあ」

岡田も笑った。僕らはその場でLINEを交換した。

「じゃあ、あとでな」

カバンを肩にかけなおすと、岡田は階段のほうに歩いていった。

LINEを交換したということは、友達になったということだろうか。僕はスキップしそうになる足を抑えながら教室にむかった。

ダイヤルをまわして家のポストをあけると、僕宛てのはがきが入っていた。館林にいたころ四郎さんに送った残暑見舞いの返事がきたようだ。ここの住所は狛音に訊いたのだろう。
一緒に入っていたチラシをわきにはさみ、さっそく読んだ。

残暑見舞い申し上げます。
ゆみ子のことを気にかけてくれてありがとう。返事遅くなってごめんね。
ゆみ子は調子を取りもどして元気にやってるよ。鮪吉が綱吉様のティックトックを始めたら、けっこう人気でね。観光協会からCMのお話をいただいたよ。
まだ暑さがつづきそうだから、ワンさんのお散歩のときには熱中症に気をつけてね。それでは、小次郎さんによろしく。

ツナキチもインスタで人気のぽんちゃんみたいなアイドル犬になって、分犬守の借金を無事返せたらいいなと思った。

鮪吉くんは東京に行く四郎さんを引きとめようと誘拐騒ぎまで起こしたが、そうなれば、家族いっしょに館林で暮らすことができるかもしれない。

「ただいま、小次郎」

玄関のドアをあけると、小次郎がゲートから身を乗り出して吠えていた。玄関マットの上にはスヌーピーのスリッパが置いてある。僕はゲートをまたぎ、廊下を通ってリビングに入った。

キッチンに行って、冷蔵庫から麦茶を出して飲んでいると、小次郎が制服のズボンのすそを噛んで引っぱった。
グラスを置いてズボンから引き離すと、小次郎は歯をいてわめき立てた。散歩を催促しているようだ。

「待てッ!」

目を見て、毅然きぜんと指示を出すと、小次郎は黙りこんだ。しばらくにらみ合いがつづく。そのままあとずさりして2階へあがったが、背中を見せても鳴き声は聞こえてこなかった。

部屋にカバンを置いてもどってくると、小次郎はおとなしく待っていた。頭をなでてみたが、噛まれなかった。
玄関に一緒にいき、棚からハーネスを出してつけてやると、興奮した小次郎に鼻をなめられた。こんな素直な小次郎はひさしぶりだ。

家を出ると、小次郎は尻尾をふりながら僕をぐいぐいと引っぱった。雲ひとつない空の下、住宅街のなかを歩くいつもの散歩コースをたどった。

陽射しはやわらかくなり、清々しい空気に包まれていた。
小次郎は路面をぎまわり、歩道の街路樹の根もとに鼻を突っこんだ。まわりに生えている草の上に寝転がり、気持ちよさそうにからだを擦りつけている。

ずっと兄弟がほしかったが、こんなかわいい弟が足もとにいた。犬だって血のつながりのない家族。僕は頼れるお兄さんになれるだろうか。

ポケットには綱プーの形見の首輪が入っていた。綱プーからもらった愛情は小次郎に返そうと思った。

リードを引いて歩き出そうとしたとき、スマホがふるえた。ポケットから取り出すと、狛音からのLINEの通知だった。
アプリをひらくと、母犬のおっぱいを吸う子犬の写真が目に入った。まだ目も開いていない生まれたての子犬だ。

〈公方様の赤ちゃんが生まれたよ。双子の女の子だった〉

〈おめでとう。新しい公方様は女の子になるんだね〉

正面からカラカラという車輪の音が聞こえてくる。道の端に寄ってすぐに返信した。

狛音が犬守家の跡継ぎになったように、犬公方も新しい時代を迎えたようだ。双子の場合、先に生まれた子犬が公方様になるのだろうか。

〈あたしもそう思ってたんだけど、パパが将軍家と家臣の家は別だって〉

〈じゃあ、どうするの?〉

〈徳川家400年の伝統を壊すくらいなら、分犬守の綱吉様を養子にするって。暢くん、早くうちにきて! 一緒にパパをとめて〉

ベビーカーを押すお母さんがそばを通りすぎた。いつまでも動こうとしない僕を、小次郎がつぶらな瞳で見あげていた。


(了)


謝辞

2カ月弱のあいだ、お付き合いいただきありがとうございました! みなさまのおかげで無事連載を終えることができました😆

タイトルの「うやまわんわん」は、「くらい(食らい/位)つく 犬とぞかねてしるならば みな世の人の 敬わんわん」という江戸時代の狂歌からとったものです。もしよろしければ、コメントをいただけるとうれしいです😊

次回の更新は明日20日、エッセイの更新となります。よろしくお願いします🙇

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