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「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第五章 東京(その3)

犬守家は綱プーの体調のことで朝からてんてこ舞いだった。
久作さんは急きょ会社を休み、獣医さんと〝将軍の間〟にこもりきりで、円香さんや人間椅子も一緒なのか見かけない。虫江さんは僕の朝食を忘れているようだ。

食堂にひとりぽつんと座っていた。屋敷全体が僕になど構っていられないといった雰囲気で、小走りのお手伝いさんに声をかけ、ようやくクロワッサンとオレンジジュースを出してもらった。
お手伝いさんによると、綱プーは軽い下痢だというが、それにしては騒ぎすぎだ。

「公方様に会わせてほしいって頼んだら、面会謝絶とかで断られた」

僕の部屋に顔を見せた狛音に話すと、

「綱吉様と一緒で夏バテみたい。犬は毛で覆われてるから暑さに弱いんだって」

獣医さんからなにか聞いたのか、彼女は落ち着いた様子で言った。「面会謝絶とか大げさだよ」

たしかに、犬の散歩に大名駕籠かごを使ったり、子作りのために犬奥をつくったり、死んだら剥製にして綱吉びょうに祭るだとか、犬守家のやることはいつも大げさだ。
彼らにとっては夏バテでも〝将軍様の一大事〟なのだろう。

「迷惑かけるから、俺いったん東京に帰るよ。あんまり長居しても親が心配するだろうし」

エアコンのジーという音が聞こえた。すこし間があってから、

「せっかく遊びに来てくれたのに、悪かったね。バタバタしちゃって」

狛音はなんでもないふうを装うように言った。

「きのうの部屋のことなんだけど……」

蝋燭ろうそくの灯りのなか、整然とならんだ犬の剥製を思い出し、きのうはなかなか眠れなかった。

館林を離れる前に、久作さんから聞いた綱吉廟の習わしのことを話そうと思ったが、僕が切り出すと、彼女は気まずそうな、恥ずかしそうな、なんともいえない表情をした。

「……いや、なんでもない」

狛音の目がさびしそうだったので、その日のうちに帰るのはやめたが、彼女は昼と夜とがらんとした食堂で羽をのばしているようにも見えた。
家族が綱プーにかかりきりになったことで、しばらく距離をおけるようになったことに、どこかほっとしているようだった。

綱プーの容体は変わらないようだったので、翌朝、僕は犬守家を発った。

綱プーがよくなるようにお祈りしようと、駅にむかう途中で長良ながら神社に立ち寄ることにした。

屋敷から10分ほど歩いたところに小学校があり、その塀に沿って進むと、突きあたりに神社の石柱が見える。
道を抜けると左手に石の鳥居があり、裸足の男が参道を走っているのが目にとまった。

石柱のかげから観察すると、男は拝殿と鳥居のあいだを往復して何度も参拝しているようだ。僕はおずおずと境内に足を踏み入れた。

「あっ、四郎さん。館林に帰ってたんですね」

なんと裸足の男は分犬守のご主人の四郎さんだった。首にタオルをかけたジャージ姿で、苦しそうに八の字眉をしかめている。「なにしてるんですか?」

「ごめん……いま、ちょっとアレだから……あとで」

四郎さんは手をあげ、とぎれとぎれに答えて前を走りすぎた。

僕はとまどいながら参道のはずれを歩き、手水舎ちょうずやで手と口をすすぐと、拝殿前の石段をあがった。
賽銭さいせんを入れ、鈴を鳴らして手をたたく。――綱プーがはやく元気になりますように。二学期はいじめられませんように。

参拝を終えてふりむくと、四郎さんはまだ走っていた。石段の下までくると手を合わせ、またとんぼ返りする。石段に座ってしばらく待っていると、

「光村くん、おまたせ」

ふらつきながら四郎さんがやってきて、となりに腰をおろした。タオルで汗をぬぐって息を整えてから、「たまに休みの日にお百度をしてるんだ」

「お百度って、あのお百度ですか?」

お百度参りなんて本当にやっている人をはじめて見た。ドラマのなかだけの話だと思っていた。

「恥ずかしい話、借金で首がまわらなくてね」

四郎さんは足の裏についた砂を手で払いながら言った。「そのことで、ゆみ子にも怒られちゃって」

「なんのお願いですか?」

石段のすみに水筒と丸めた靴下を入れたスニーカーを見つけ、四郎さんに渡しながら訊いた。訊いてから、借金のことに決まっていると気づいた。

「願いごとかい? 気楽なワンさんになれますように、ってね」

そう言うと、四郎さんは水筒の中身をぐびぐびと飲んだ。

犬になれるように!?

「ほら、古典落語の『元犬』って話、知らない? 白い犬は人間に近いから信心すれば人間に生まれ変われるって聞いた、白犬のシロが八幡はちまん様でお百度を踏んで、満願の日に人間の姿になるっていう話。
人間の僕は反対に、お百度をしたらワンさんになれるかもしれないと思ってね」

冗談を言っているのかと思ったが、その目は本気だった。ゆみ子さんどころではない天然記念物級の変わり者だ。

「……ゆみ子さんは知ってるんですか?」

「ここは館林の氏神様だから、ゆみ子ともお百度にくるよ。ただ言いにくいんだけど、ゆみ子は本家の公方様に災いがありますように、って願かけしてるみたいなんだ」

綱プーの体調のことが頭をよぎり、カチンときた。偶然の一致にすぎないが、不愉快だ。腰をあげると、

「僕、帰ります」

ふりむくことなく石畳の参道を歩いていき、鳥居をくぐると、そのまま館林をあとにした。

犬になれるようにお百度参り? 綱プーに災いがあるように願かけ?
ゆみ子さんといい、鮪吉くんといい、四郎さんといい、分犬守の人たちにも、僕はこれ以上ついていけそうにない。

練馬駅に着いたときには12時半をすぎていた。西口の階段をおり、高架下を出ると、頭上から太陽がさんさんと降りそそいだ。
以前よりやわらかく感じたのは、館林の陽射しに慣れたせいかもしれない。

家が近づくにつれ、少しどきどきした。こんなに長いあいだ家を離れるのは初めての経験だった。連絡もしないで帰ってきたが、母はどんな反応をするだろう?

顔を輝かせながら僕を迎えると、館林の話を聞きたがるにちがいない。
でも、まだ僕が昼ごはんを食べていないことを知ると、大あわてで支度に取りかかるだろう。ごはんをつくってくれる母に、「おいしい」と言ってあげなくちゃならない。

ひさしぶりに見るわが家はどこか他人行儀だった。ひと呼吸おいて、胸のどきどきを静める。

玄関の前に立っても、小次郎の鳴き声は聞こえてこなかった。いつもなら僕の気配を察知して、めったやたらに吠えまくるのに。
僕のことを忘れてしまったのか、たんに散歩中というだけだろうか。

「おかえり」

リビングに入ると、母はソファにいて、思いつめた表情で小次郎をなでていた。小次郎は膝の上でぐったりしており、首にエリマキトカゲのような透明のカラーを巻いていた。

「どうしたのそれ?」

「小次郎を公園に連れてって、ベンチで休憩してたら、とつぜん黒い大型犬に襲われたのよ。飼い主ったらリードをはずしておいて、『ダメよ、ラブちゃん』だって。なにあれ」

小次郎は胸の毛を剃られており、巨大な絆創膏ばんそうこうを貼られていた。動物病院で消毒してもらい、傷口をなめないようカラーをつけられたそうだ。
小次郎は大きなカラーに不自由しながら、うつろな目で僕を見あげた。

「悲鳴がしてふりむいたら、小次郎が噛みつかれてて、あわてて足で引き離したの。胸から血も流れてて、夢中で抱いて病院に行ったから、治療費も請求できなかったわ」

母は涙ぐんでいた。息子がひさしぶりに帰ってきたというのに、館林の話や昼食のことも訊かず、小次郎のことで頭がいっぱいのようだった。

「そんな事故があったなら、連絡してくれてもよかったのに」

「あんた、いつも小次郎に冷たいから、嫌ってるのかと思って」

まさかの僕が悪者……。僕じゃなくて、小次郎のほうが僕をバカにしているのだ。
はじめて学校を無断欠席したとき、いじめの被害者である僕を不良扱いした両親の言い草を思い出した。この人はなにもわかってくれない。頭に血がのぼり、階段を黙って駆けあがった。

部屋に入ってドアを閉めると、カバンが肩からずり落ち、とろけるチーズのように床にへたった。エアコンのスイッチを入れ、リモコンをベッドに投げつけた。

犬に冷たいだなんて言いがかりだ。犬守家では、いつもうす暗い屋敷のなかでかわいそうだったので、こっそり綱プーを外に連れ出したこともあった。

小次郎にそっけなく見えたとしたら、わけあってのこと。小次郎が思いどおりにならないと、僕に噛みつくからだ。家でも学校でも見下されてうんざりだった。

僕がすぐになめられるのは、見るからに気の弱そうな見た目が原因かもしれない。
カバンから100円ショップで買ったコンパクトミラーを取り出し、眉間にしわを寄せてみたが、新聞を読むおじいちゃんのようだった。

思わず目をそらすと、鏡の裏のプリクラに気づいた。それは東武動物公園で撮ったホワイトタイガーのプリクラで、狛音がいたずらで貼ったようだ。

白と黒のしま模様のホワイトタイガーはスタイリッシュで、どこか近寄りがたいオーラがあった。なめられないためには、まず見た目から変える必要がありそうだ。

伊勢丹の紳士服売り場は本館の裏のメンズ館にあった。
むかし祖母にもらった2万円ぶんの商品券があったので、池袋のパルコで服を買おうと思ったが、パルコではデパートの商品券を使えなかった。

伊勢丹メンズ館に一歩踏みこむと、全方位からスタイリッシュが襲ってきた。
人も内装もみんなおしゃれで、洗いざらしのTシャツの僕ひとりが浮いていた。伊勢丹に買い物に行くには、まずはそのための武装が必要だったのだ。

どこでなにを買っていいかわからずエスカレーターで足踏みしていた。
じりじりと頂上にのぼっていくジェットコースターに乗っているようで、心臓がバクバクした。カバンのなかの商品券をなんども確認しながら怯えていた。

頂上が近づいてきたのでテキトーな階でおりると、見渡すかぎりスタイリッシュに包囲されていた。
ガラスに映る自分がひどくみすぼらしく見える。どこからか店員のせせら笑う声が聞こえた気がした。ここは僕がくるような場所じゃない。

フロアを1周して帰ろうと歩いていると、細身のスーツできめた店員が通路でお見送りをしていた。虹色のストライプの紙袋をお客に手渡し、丁寧にお辞儀をしている。

「光村じゃん、ひさしぶり」

ハタヨウが虹色の紙袋をさげて立っていた。みぞおちにバスケットボールを食らったみたいに、たちまち息が苦しくなる。小学生のころ僕を跳び箱に閉じこめた張本人なのだ。
僕が呆然とするなか、店員が静かに引きさがった。

ハタヨウは大人びてイケメンになっていた。髪にワックスをつけ、毛束感を出しており、眼鏡はコンタクトに変わっていた。
さすがの狛音も恥じらって、もう電気あんまはできないだろう。

「懐かしいなあ。小学校以来だよね。どこの高校?」

とっさに「青学」と嘘をついた。おしゃれな空気にのまれたせいだ。

「そうなんだ。俺、青学にも友達いるよ。コバケンって、知ってる?」

知らないと答えた。これ以上、話題がひろがらないよう全力で帰りたいオーラを出していると、

「小学生のころ、よく一緒に遊んだね」

彼はくったくのない笑顔で言った。よく一緒に遊んだ・・・? 僕にはいじめられた記憶しかないが、この男は自分に都合がいいように記憶を改変しているのだろうか。

「ああ、そうだ」

彼は背中のボディバッグから小さな革のケースを取り出した。渡された名刺には「漫画家 はた陽平」と書いてある。

「俺、漫画の新人賞とってデビューが決まったんだ。きょうは賞金で買い物に来たところ」

店の壁には筆記体で「Paul Smith」と書いてあった。イケメンが店の空気になじんでいた。

「これから出版社で編集さんと打ち合わせだから、俺もう行くよ。よかったら連絡ちょうだい。また、あのころみたいに仲良くしよう」

彼はニコッと笑うと、スタイリッシュな背景に溶けこんでいった。黒いボディバッグが背負ったライフルのように見えた。
残された名刺には、携帯番号とメールアドレス、ツイッターのIDが書いてあった。

完敗だった。あいつはいじめのことなんてとっくに忘れて、新しい人生を歩んでいるのに、僕はいじめを引きずって、いまだにもがき苦しんでいた。バカみたいだし、なんて理不尽だ。
しかも漫画家デビュー!? うまいことやりやがって……。名刺を握りつぶしていた。

帰りの地下鉄のなか、僕はユニクロの紙袋を股にはさんで座っていた。膝の上のカバンはショルダーベルトを尻尾のように巻いている。
短パンのポケットからスマホを取り出し、ハタヨウの漫画を検索してみた。『新鏡にいかがみ』というタイトルらしい。

150歳の老人がかつて存在した人類について語り出すところから始まるという。なんでも2028年、NASAにより18年後、地球に巨大彗星すいせいが衝突することが明らかになる。

人類滅亡危機対策会議が開かれ、各国で「アーク」と呼ばれる空中浮遊都市の建設がはじまる。2046年、予測どおり地球に彗星が衝突し、多くの生物が死滅した。

物語の舞台は2062年。アークの建設にまつわる闇の案件を処理する政府の特殊任務部隊「アートマン」の養成学校に強制入学させられた、少年少女の視点から描かれるという。
――あらすじはこんなところだ。

「アーク」「アートマン」といった宗教的なモチーフ、『大鏡』などの「四鏡」を模したと思われるタイトルと構成……「中二病」てんこ盛りの設定だった。

ありきたりなSF漫画にすぎないが、早くも「イケメン高校生漫画家」とチヤホヤされており、インタビューでは芸能人きどりのキメ顔で得意げに語っていた。

僕はそっとスマホを仕舞った。足のあいだの紙袋が地下鉄の振動でふるえている。視線をあげると、むかいの暗い窓ガラスに鉄道自殺者の亡霊のような歪んだ顔が映っていた。

その夜、脱衣場で短パンを脱いだとき、ポケットからくしゃくしゃになった名刺が出てきた。
ツイッターのIDが書いてあったのを思い出し、風呂から上がると、ベッドに寝転がってハタヨウのアカウントをのぞいてみた。絶賛、炎上中だった。

彼はプライベートの別アカウントと間違えて、仕事用のアカウントで投稿してしまったようだ。

〈オワコン〉〈絵が劣化した〉〈祝・アニメ打ち切り〉と、人気漫画家の悪口を投稿し、信者に血祭にあげられていた。
ツイートの下には、〈ぶっ殺すぞ!〉といった物騒なリプライが連なっている。

なにが「イケメン高校生漫画家」だ。調子に乗ってるから自爆するんだ。
いくら外面がよくても、あいつの性根が腐っていることは僕がよく知っている。ツイッターが炎上したのは、それが世間にバレただけだ。

「ざまあみろ」

声に出すとすっきりした。スマホに充電ケーブルを挿し、電気を消した。

うす暗い檻のなかで体育座りをしていた。低い天井が頭にのしかかり、壁に囲まれて身動きできなかった。

壁には横方向の光の筋がいくつも走っており、そとで黒い影が動くと、せまい檻のなかで光が乱反射した。剣刺しマジックの箱のなかにいるようで恐怖に怯えていた。

体育倉庫の跳び箱のなかに僕は監禁されていた。気まぐれに動く影はあいつの足で、跳び箱に座って上から押さえつけているのだ。
薄ら笑いをしながら、あいつがかかとでカツンカツンと音を立てると、死神が鎌をかざしているようで怖くて声も出なかった。

バーカ。

声と同時に、周囲の壁がはげしくゆれた。飽きたおもちゃを放り出すように、あいつが跳び箱から降りたのだ。

足音が遠のいていくのを、息を殺して待っていた。やがて鈍い金属音が反響し、体育倉庫の重い扉が閉ざされたのがわかった。
完全な暗闇に包まれると、羊水に浸る胎児のように、生温かい安堵あんどのなかに浸っていた。

僕は失禁していた。狛音はついに助けにきてくれなかった。

ベッドから跳ね起きると汗だくだった。あせって確認したが、シーツは濡れていなかった。
スマホを見ると、2時17分。小学校時代の夢を見ていたようだ。現実とちがって狛音は助けにあらわれなかった。無性に彼女に会いたくなった。

狛音からLINEが来ていないか、チェックしようとしたとき、青い鳥のアイコンが目に入った。寝るまえに見ていたツイッターのアイコンだ。
たちまち、館林で悩んでいた犬彦くんのツイートのことで、点と点が線でつながるようにアイデアがひらめいた。

〝犬守犬彦〟のアカウントとは別に裏のアカウントがあり、安部公房を引用した2つのツイートは、裏アカウントで投稿するつもりが、誤って本アカウントで投稿してしまったのではないか。
まさにあいつが誤投稿して炎上したように。

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