「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第六章 犬公方の呪い(その1)
〝将軍の間〟の御簾はおろされていた。なかで綱プーは久作さんたちに見守られ、金襴のペットベッドに臥せっていた。
首に天草四郎を思わせる純白のカラーを巻いており、こちらからは綱プーの表情はうかがえない。
「公方様の容体は悪いんですか?」
狛音とならんでベッドの前に正座し、僕はたずねた。
「公方様は呪をかけられ、重い瘡を患っている」
うなだれる久作さんの横にいた工房さんが説明してくれた。なにを言っているのかよくわからなかったが、重い病気ということだけはわかった。
工房さんにうながされ、綱プーのお腹をのぞきこんだ。黒ずんだ大きな腫瘍がいくつもできている。思わず目をそむけた。
「かつて徳川光圀公が陰陽師に使わせたとされる呪術と同じ兆候があらわれている。
生類憐みの令に批判的だった光圀公は、懇意にしていた陰陽頭の土御門泰福に命じて、中野犬小屋の犬を大量死させたといわれている。その数、2000頭にも及んだとか。公方様はこのままでは危うい」
工房さんの言葉に、久作さんはいっそう肩を落とした。綱プーの顔をうかがうと、僕の靴下をくわえたまま目をつぶっている。不思議と安らかな表情をしていた。
「今朝はやく御匙に診てもらいましたが、現代の獣医学では手に負えないようです。
上様は応急処置をしているあいだも宝物の靴下を噛みしめ、じっと痛みに耐えておられました。いまは鎮静剤で眠っておられます」
綱プーの足もとにいた人間椅子が教えてくれた。
「古文書を読み漁ってどうにかできないんですか? 部屋にいっぱいありましたよね」
綱プーの健気さに胸を打たれ、責めるような口調になっていた。狛音に目をやると、神妙な顔つきで座っていた。
「暢くん、俺は多少の知識はあっても、陰陽師でも呪禁師でもない。なにもしてあげられない」
「もう終わりだ。公方様はお世継の男犬もおられない。これで江戸時代から300年以上つづいた犬守家の伝統もわしの代でしまいだ。先祖になんと顔向けしていいやら……」
工房さんにつづき、久作さんがふるえ声で言った。
綱プーのからだを心配しているのかと思ったら、この嘆きごと。綱プーの命より、犬守家の伝統とやらのほうが大事なのだろうか。
創業100年の味がよそわれた狸の器が思い浮かんだ。久作さんは綱プーを溺愛しているようで、それこそ伝統を受け継ぐための器としてしか見ていないのかもしれない。
「霊媒師でもなんでも呼んでくればいいじゃないですか」
「すでに恐山の高名な巫女に依頼しましたが、遺憾ながらお犬様とあって軽んじられまして……」
手帳をひらいて人間椅子が僕に答えた。「陰陽師もまた同様。この呪詛は並大抵のものでは落とすことができません」
「そもそも誰がそんな呪いかけたんですか?」
と言ったそばから、ゆみ子さんのお百度参りを思い出した。四郎さんによれば、綱プーに災いがあるように願かけしているらしかった。まさかお百度が効いたとでもいうのか。
病床に沈黙が横たわった。呪いをかけた犯人など言わずもがなという空気が流れたが、誰も〝分犬守〟の名を口にしなかった。
「〝夢丸の首輪〟がなくなったのも関係してるかもしれないな」
工房さんがつぶやいた。どさくさにまぎれ、批判の矛先をそらそうとする言い草だった。
ふと、綱吉廟で見かけた紫の布の空箱が頭に浮かんだ。もしかすると、〝夢丸の首輪〟はあの箱に納まっていたのかもしれない。
綱吉廟には歴代の公方様とおぼしき剥製がならんでいたが、目にしたのは和犬の剥製だった。分犬守のツナキチのほうが本物の公方様ではないかと漠然と思った。
そのことを久作さんに確かめたかったが、いぜん綱吉廟に立ち入らぬよう釘を刺されていた。のぞいたことがバレたら殺されかねない。
久作さんは分犬守への憎しみを募らせているのか、金剛力士像のようなものすごい形相をしていた。
その表情を見て、狛音はまた鮪吉くんのことで説教されると思ったのか、そっと席を立った。
「円香さんはどうしたんですか?」
僕は前言を引っこめ、誰にともなく訊いた。
「奥様は医術を信じて、関東じゅうの動物病院に連絡を取りつづけております」
人間椅子はどこか医学を侮蔑するような口ぶりだった。工房さんはじっと腕を組んで、なにを考えているのかわからない。ふたたび沈黙が横たわった。
そのとき、廊下からお手伝いさんに指示を出す円香さんの声が漏れてきた。ふりむくと、狛音が障子をあけていた。
「暢くん、ちょっと」
御簾のむこうで手招きした。綱プーの寝顔を見届けると、僕はお辞儀をして立ちあがり、ふり返りふり返りしながら障子にむかって歩いた。
廊下では円香さんがスマホを手に駆けまわっていた。匙を投げて嘆きごとをいう久作さんとは反対に、少しもあきらめていないようだった。
その姿を見た狛音はなにか感じ入ったように、僕のTシャツのすそをつかんでじっと立っていた。
「暢くん、呪いなんてほんとかな?」
僕の部屋のドアを閉めると、開口一番、狛音が訊いた。僕は椅子の上に置いていたカバンをおろすと、そこに座り、ゆみ子さんのお百度のことを説明した。
「ゆみ子さん、そんなことするんだ……」
ベッドに腰かけた狛音はショックを受けているように見えた。綱プーの病気がお百度のせいかどうかは別にして、ゆみ子さんの執念に打ちのめされるのはよくわかった。
東京に帰るまえに話しそびれていた綱吉廟の剥製のことを切り出そうと、
「綱吉……」
と言ったとたん、狛音の目から大粒の涙があふれた。僕はうろたえて口ごもった。
「パパがあんまり大切にしてるから、公方様のことちょっと憎らしく思ってたときもあるの」
彼女はしゃくりあげながら言った。「焼きもちだと思う。だけど、公方様があんなになっても、家の伝統ばかり気にするパパ見てたら、公方様がかわいそうになってきた。
円香さんだって一生懸命病院さがしてるのに……。パパよりずっとまともだよ」
狛音から「円香さん」なんて言葉、はじめて聞いた。たいてい「新しいママ」か「あの女」のどちらかだった。
「フェアじゃないから本当のこと言うけど、円香さんが生徒に手を出してクビになったっていうの、あたしの作り話だから。
先生同士が結婚したら同じ学校で働けないから、異動のタイミングで辞めただけみたい。デキ婚だったらしいし」
やはりと言うかなんというか……。
「犬彦くんをたぶらかした、っていうのも勘違いなんだ?」
「それは別」
狛音はぷいと横をむいた。まだ意地があるのだろうか。円香さんが犬彦くんと〝綱吉の湯〟に入っていったのも、忘れ物とか別の用事があっただけだろう。
「ヘイ、Siri。犬にかけられた呪いをとける病院を教えて」
すこしでも綱プーの力になりたくてSiriに相談した。今度ばかりは狛音もいやな顔をしなかったが、
「暢くん、ティッシュ」
鼻をかみながらスマホの画面を見て、「近所の動物病院かたっぱしから紹介してるだけじゃん。訊きかたが悪いんだって。OK、グーグル……あれ、反応がない?」
「だからiPhone!」
高校生の僕らにできることなんて、ほんのわずかしかないかもしれない。それでも、なにかせずにはいられなくて、僕らは僕らで綱プーの病院を探した。
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