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「大変」なのは、ぼくではなく、社会だ。

コロナが蔓延し、ぼくは「大変」になった。

浪人をして大学に入学、アメリカに留学をして休学、帰国と同時にコロナが蔓延。アメリカにいて就職情報など微塵もなかったぼくは、周りに遅れをとり4月からスタートを切った。2歳も歳が違うのに、やけに大人びている就活生に囲まれながら、合同説明会というものに参加をした。1度だけ。

「これからまだまだあるから大丈夫っすよ」と部活の後輩に教えてもらい、そいうものなのかと申し込みだけを終えた。

ピコンっ、とメールが入る。

「コロナウイルスの感染拡大により合同説明会を延期します」

それから数日後、ピコンっ、とメールが再び入る。

「コロナウイルスの感染拡大により合同説明会を中止します」

4月にスタートを切った就職活動は、一度限りの合同説明会を境に、一気にぼくを窮地に立たせた。対面で会うことができなくなり、会社の雰囲気はよくわからず、手にした情報はパソコンから得られる情報のみ。
攻撃力は1、 防御力は0.01、 ハードな戦いの始りだった。

ゴミのような武器を片手に数々の企業に戦いを挑むも、あっけなく敗戦の日々。だいたい40社40連敗くらいだろう。防御力が0.01なのに、全回復の薬を39回も飲んだ。身体的にというより、精神的に相当疲弊した。

さすがに周りも内定が出て、ぼくは「大変」になった。

「大変」になったぼくは就職活動を休止した。
なぜなら「大変」だったからだ。
「大変」を抜け出したぼくは「大変」ではなくなった。

しかし、周りからかけられる言葉は決まってこうだ。
「大変だね」

「大変」ではない。「大変、大変」と言っているのは、ぼく以外の人であって、ぼくではないし、本当に「大変」なのは社会だ。

ぼくが就職できたからといって、この混沌とした日常が変わるわけでもない。もし変わるとすれば、「大変だね」が「大変だったね」という言葉に変わることくらいだろう。

たとえぼくが就職したとしても、就職できなかったとしても、ぼくが「大変」だと思わなければ、何事も「大変」ではない。

この世のいろいろは、言葉でできている。

誰かが「大変」だと言って、幾人かの人たちが「大変、大変」と言えば、それは「大変」になってしまう。

何人の人たちが「大変、大変」と言ったとしても、それでも、ぼくが「大変」だと思わなければ、なにも「大変」ではない。

「大変」なのは、ぼくではなく、いつも社会だ。

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