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「雨ニモマケズ」宮澤賢治〜太宰くんの解説〜

あめニモマケズ〕

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

わたしのようなるにらない人間にんげんが、このような人間にんげん本質ほんしつ的確てきかく揶揄やゆした素晴すばらしい解説かいせつするとは、なんとも滑稽こっけいはなし

あめにも、かぜにもけず、ゆきなつあつさにもくっしないとは、ああ、なんと崇高すうこう理想りそうであろうか。そんな完璧かんぺき人間にんげん存在そんざいするとでもおおもいなのであろうか。現実げんじつ人間にんげんというものは、ちょっとしたあめでもかさし、かぜつよくなれば外出がいしゅつひかえる。丈夫じょうぶからだよくがない?おこらない?いつもしずかにわらっている?冗談じょうだんじゃない。人間にんげんなんて、風邪かぜひとつで寝込ねこんでしまうし、おこりっぽくて、笑顔えがおつくるのも一苦労ひとくろう人間にんげんという生き物いきものは、欲望よくぼうかたまりでできていることをわすれてはならない。

一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ

現実げんじつにはそんな質素しっそ食事しょくじ満足まんぞくできる人間にんげんなど、そうそういるものではない。玄米げんまい四合よんごう味噌みそ、そしてすこしの野菜やさい、それだけでこころたされるものなどいるはずがない。托鉢たくはつ坊主ぼうずでさえ、このご時世じせい高級こうきゅうにくっているとうのに。人間にんげんは、もっと欲深よくぶかものだということをわすれてはならない。美味おいしいものをもとめ、贅沢ぜいたくたのしみたいとおもうのが世の常よのつねである。実際じっさい、そんな食事しょくじつづけていたら、こころなかなにかがかわいてくるにちがいない。わたしたちは、こころ栄養えいようとしてあまいものや贅沢ぜいたく料理りょうりときにはもとめるもの。それが人間にんげんというものだ。理想りそうかかげるのはいことだが、現実げんじつにそれを実践じっせんするのはむずかしいことだ。

アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

自分じぶん感情かんじょう左右さゆうされずにすべてのことを理解りかいし、そしてわすれない。なんと見習みならいたいかたであろうか。しかし、わたしたち人間にんげん感情かんじょうかたまりで、些細ささいなことでこころみだし、理解りかいができないことだらけである。さらに、人間にんげんというのは大切たいせつなことをすぐにわすれてしまう。そんなおろかなものなのだ。人間にんげん自分じぶん感情かんじょうまわされ、客観的きゃっかんてき物事ものごとることなど、ほとんど不可能ふかのうちかいのだ。すべてを理解りかいし、わすれない?そんな都合つごうあたまった人間にんげんは、機械きかいのようでツマラナイ。わたしたちは理解りかいできないことだらけで、大切たいせつなことさえわすれてしまう。そんな不完全ふかんぜん存在そんざいだからこそいとおしいのだ。

野原ノ松ノ林ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

きよらかなむしこえみみかたむけながら、精神的せいしんてきゆたかさをもとめるかた自然しぜんなか質素しっそらす。現代人げんだいじん理想りそうとする素晴すばらしい考え方かんがえかたである。おおくの人間にんげんは、おおきないえみたいとねがうもの。広々ひろびろとした空間くうかんで、贅沢ぜいたくらしを夢見ゆめみる。ちいさなかやぶきの小屋こやなど、だれ本当ほんとうのぞむものか。しかし、おおきないえれたところで、こころたされることはない。むしろ、ひろ空間くうかんさびしさを際立きわだたせるだけかもしれない。軒下のきしたくキリギリスのこえさえ、こえなくなってしまうことをさびしくおもうかもしれない。結局けっきょくのところ、人間にんげんとは矛盾むじゅんしたものなのだ。理想りそうかかげながら、現実げんじつには欲望よくぼうまわされる。おおきないえみたいとおもいながら、ちいさなかやぶきの小屋こやあこがれる。そんな滑稽こっけい存在そんざいなのである。ああ、なんとあわれなものだろう、わたしたち人間にんげんうものは。しかし、そんな矛盾むじゅんした存在そんざいだからこそ、人間にんげん面白おもしろい。そんな矛盾むじゅんしたかたこそが、人間にんげんらしさなのかもしれない。

東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

東西南北とうざいなんぼく、どこへでもんでって人々ひとびとたすける。活劇かつげき英雄えいゆうにでもなったつもりか。そんな余裕よゆうのある人間にんげんなど、どこにいるとうのか。現実げんじつ人間にんげんは、自分じぶん生活せいかつだけで精一杯せいいっぱい他人たにんのためにはしまわ余裕よゆうなどありゃしない。むしろ、他人たにん不幸ふこうて「自分じぶんじゃなくてよかった」と安堵あんどするのが普通ふつうではなかろうか。そもそも、他人たにん問題もんだいくびんで「つまらないからやめろ」などとったら、とばっちりに合うのがのがせきやまである。人間関係にんげんかんけいというのは、そんなに単純たんじゅんなものではないのだ。

ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ

かんばつのときにはなみだながし、さむさのなつにはおろおろあるく。他人たにんくるしみに共感きょうかんし、異常気象いじょうきしょうにもどうじない。なんと素晴すばらしい人間像にんげんぞう実際じっさい災害さいがいときに、わたしたちは他人たにんのことなどかんがえる余裕よゆうなどあるのだろうか。自分じぶん生活せいかつまもることで精一杯せいいっぱいになるのではないだろうか。なみだなが余裕よゆうもなければ、むしろ「自分じぶんだけは大丈夫だいじょうぶだろうか」と利己的りこてきになるのではないか。さむなつにはオロオロあるく?冗談じょうだんじゃない。オロオロあるくなど、だれがそんな面倒臭めんどうくさいことをするとうのか。かんばつのときさむなつも、結局けっきょく自分じぶんのことであたまがいっぱいである。現代人げんだいじん空調完備くうちょうかんび部屋へやじこもり、かおかくしたSNSで文句もんくうだけ。自分中心じぶんちゅうしんだからこそ他人たにん無慈悲むじひきずつけても平気へいきなのだ。

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ

「でくのぼう」とばれて平気へいきかおをしていられる人間にんげんなど、どこにいるであろう。わたしたちは些細ささい言葉ことばきずつき、だれかにみとめられたいとおもうもの。人間にんげんだれしも、自分じぶん価値かちみとめてもらいたいとおもうものだ。められないどころか、批判ひはんされればみ、自信じしんうしなう。そんなつよ精神せいしんった人間にんげんはいるはずがない。現実げんじつ人間にんげんは、ちょっとした言葉ことばきずつき、ながあいだくるしむ。でくのぼうばれて、表向おもてむきにはわらっていても、こころうちわらえないほどきずついているのだ。

サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

「そういうものになりたい」とおも時点じてんで、あなたはすでにわっている。その理想りそうからかけはなれていることを宣言せんげんしているではないか。理想りそうもとめること自体じたいが、人間にんげんよわさをしめしている。結局けっきょくのところ、この理想りそう人間にんげんよわさを逆説的ぎゃくせきてきりにしているのだ。理想りそうかかげればかかげるほど、現実げんじつ自分じぶんみにくさが際立きわだつ。わたしたちのこころなかにある矛盾むじゅん欲望よくぼう理想りそう現実げんじつゆめ。そんな複雑ふくざつ人間にんげん姿すがたを、宮沢賢治氏みやざわけんじし見事みごとえがしたのである。ああ、わたしたち人間にんげんは、理想りそうもとめながらも、つね失敗しっぱいかえし、現実げんじつ翻弄ほんろうされている。そんな滑稽こっけいもの、それが人間にんげんだということを再確認さいかくにんすることができる。そんな皮肉ひにくである。

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

わったかとおもえば、文末には「南無無辺行菩薩なむむへんぎょうぼさつ」からはじまり「南無安立行菩薩なむあんりゅうぎょうぼさつ」でわる仏教ぶっきょう真言しんごんいている。まるでせいなる呪文じゅもんのようである。りったけ真言しんごんならべて、いままでの人間にんげんたいする皮肉ひにく御和讃ごわさんにするつもりなのか。それとも、これらの言葉ことばとなえれば、なんだかがたいことをっているかのようにえるとでもおもっているのだろうか。人間にんげんくるしみやなやみが、こんな呪文じゅもんのような言葉ことば簡単かんたん解決かいけつされるわけがない。現実げんじつかららし、空虚くうきょ言葉ことばすくいをもとめる。なんと滑稽こっけいなことであろう。わたしたち人間にんげんは。崇高すうこう言葉ことばとなえたとしても、日々ひび生活せいかつでは卑小ひしょう欲望よくぼうまわされながらきている。そんな矛盾むじゅんしたものなのだ。結局けっきょく、これらの言葉ことばとなえることで、自分じぶんよわさやみにくさかられようとしているだけなのだ。しかし、そんな逃避とうひこそが、もっと人間にんげんらしい行為こういなのだ。

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