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読書感想文におすすめ!小中学生こそ読むべき太宰治! 現代語訳「畜犬談」太宰治

畜犬談ちくけんだん

伊馬いま鵜平うへいくんあたえる―
太宰だざいおさむ


わたし太宰だざい
いぬかんして、だれよりも"自信じしん"がある。
なんの"自信じしん"かとうと、
かならまれるであろう』という"自信じしん"だ。
わたしは、いつかきっとこのいぬまれるにちがいないとおもっている。
その"自信じしん"があるのだ。
これまで一度いちどまれずにきてこれたことが不思議ふしぎにさえおもえる。

 私は、犬については自信がある。いつの日か、かならず喰いつかれるであろうという自信である。私は、きっと噛まれるにちがいない。自信があるのである。よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過してきたものだと不思議な気さえしているのである。


諸君しょくん
いぬ猛獣もうじゅうである!
うまたおし、たまにライオンとたたかってったりするとかいうではないか。
あのいぬの、するどきばるがよい。ただものではないのがわかるだろう。

諸君、犬は猛獣である。馬を斃し、たまさかには獅子と戦ってさえこれを征服するとかいうではないか。さもありなんと私はひとり淋しく首肯しているのだ。あの犬の、鋭い牙を見るがよい。ただものではない。


いまは、あんなかんじでなにもかんがえていないかのようにい、ごみばこなんかをのぞきまわっているようにせているが、実際じっさいうまたおすほどの猛獣もうじゅうなのである。

いまは、あのように街路で無心のふうを装い、とるに足らぬもののごとくみずから卑下して、芥箱を覗のぞきまわったりなどしてみせているが、もともと馬を斃すほどの猛獣である。


いつどこでいかくるって、その本性ほんしょうすか、わかったもんじゃはない。
いぬかならくさりしばりつけておくべきである。
すこしの油断ゆだんもあってはならないのだ。

いつなんどき、怒り狂い、その本性を暴露するか、わかったものではない。犬はかならず鎖に固くしばりつけておくべきである。少しの油断もあってはならぬ。


おおくの飼い主かいぬしは、みずからこのおそろしい猛獣もうじゅうって、これに毎日まいにちエサをあたえている。
まったくこの猛獣もうじゅうこころをゆるし、やれ「シロ」や「チビ」などとって気軽きがるせ、さながら家族かぞく一員いちいんのようにしている。
三歳さんさいがその猛獣もうじゅうみみっぱって大笑おおわらいしている様子ようすていると、ゾっとして、じたくなってしまう。

世の多くの飼い主は、みずから恐ろしき猛獣を養い、これに日々わずかの残飯を与えているという理由だけにて、まったくこの猛獣に心をゆるし、エスやエスやなど、気楽に呼んで、さながら家族の一員のごとく身辺に近づかしめ、三歳のわが愛子をして、その猛獣の耳をぐいと引っぱらせて大笑いしている図にいたっては、戦慄、眼を蓋わざるを得ないのである。


もし不意ふいにワンといってまれたら、どうするつもりだろう。
ぬしでさえむかもしれない猛獣もうじゅうを、はないにしておくとは、どんなものであろうか。
ぬしだからといって、絶対ぜったいまれないというのは、おろかな迷信めいしんにすぎない。あのおそろしいきばがある以上いじょうかならむにまっている。けっしてまないという保証ほしょう科学的かがくてき証明しょうめいできるはずはないのである。

不意に、わんといって喰いついたら、どうする気だろう。気をつけなければならぬ。飼い主でさえ、噛みつかれぬとは保証できがたい猛獣を、(飼い主だから、絶対に喰いつかれぬということは愚かな気のいい迷信にすぎない。あの恐ろしい牙のある以上、かならず噛む。けっして噛まないということは、科学的に証明できるはずはないのである)その猛獣を、放し飼いにして、往来をうろうろ徘徊させておくとは、どんなものであろうか。


去年きょねんあきわたし友人ゆうじんが、ついにこの猛獣もうじゅう被害ひがいにあった。
いたましい犠牲者ぎせいしゃである。

友人ゆうじんはなしによると、友人ゆうじんなにもせずに横丁よこちょうをぶらぶらとあるいていると、いぬみちすわっていたとか。
友人ゆうじんは、やはりなにもせず、そのいぬのそばをとおると、いぬ横目よこめていたらしい。
何事なにごともなくとおりすぎた、とおもったら、ワンといって友人ゆうじん右脚みぎあしみついたという。

昨年の晩秋、私の友人が、ついにこれの被害を受けた。いたましい犠牲者である。友人の話によると、友人は何もせず横丁を懐手してぶらぶら歩いていると、犬が道路上にちゃんと坐っていた。友人は、やはり何もせず、その犬の傍を通った。犬はその時、いやな横目を使ったという。何事もなく通りすぎた、とたん、わんといって右の脚に喰いついたという。


災難さいなんである。
瞬殺しゅんさつである。
友人ゆうじんは、ぼうぜんとしてしまったという。
しばらくして、くやしなみだがあふれてきた。
そのとおり、とおもってわたしはうなずいた。
そうなってしまったら、後悔こうかいさきたず、である。

災難である。一瞬のことである。友人は、呆然自失したという。ややあって、くやし涙が沸いて出た。さもありなん、と私は、やはり淋しく首肯している。そうなってしまったら、ほんとうに、どうしようも、ないではないか。


友人ゆうじんは、いたあしをひきずって病院びょういんき、手当てあてけた。
それから二十一日にじゅういちにちかん病院びょういんかよったのである。
三週間さんしゅうかんである。
あしきずがなおっても、体内たいないに"キョウケンビョウ"という恐ろしい病気びょうきどくがいるかもしれないという心配しんぱいから、その予防よぼう注射ちゅうしゃをしてもらわなければならないのである。

友人は、痛む脚をひきずって病院へ行き手当を受けた。それから二十一日間、病院へ通ったのである。三週間である。脚の傷がなおっても、体内に恐水病といういまわしい病気の毒が、あるいは注入されてあるかもしれぬという懸念から、その防毒の注射をしてもらわなければならぬのである。


飼い主かいぬし交渉こうしょうするなど、気弱きよわ友人ゆうじんには、とてもできないことで。じっと我慢がまんして、おのれの不運ふうんにためいきをついているだけなのである。
しかも、注射ちゅうしゃだいだってけっこうたかいし、余裕よゆうだってあるはずもなく、きっとこまったにちがいない。
とにかくこれは、ひどい災難さいなんである。
大災難だいさいなんである。

飼い主に談判するなど、その友人の弱気をもってしては、とてもできぬことである。じっと堪えて、おのれの不運に溜息ついているだけなのである。しかも、注射代などけっして安いものではなく、そのような余分の貯えは失礼ながら友人にあるはずもなく、いずれは苦しい算段をしたにちがいないので、とにかくこれは、ひどい災難である。大災難である。


うっかり注射ちゅうしゃをサボったら、"キョウケンビョウ"という、ねつくるしむ病気びょうきになってしまうかもしれない。
その"キョウケンビョウ"というのは、かおいぬてきて、つんばいになって、ただワンワンとしかえなくなってしまう病気びょうきらしい。
そんなこわ病気びょうきになるかもしれないということだ。

また、うっかり注射でも怠ろうものなら、恐水病といって、発熱悩乱の苦しみあって、果ては貌が犬に似てきて、四つ這いになり、ただわんわんと吠ゆるばかりだという、そんな凄惨な病気になるかもしれないということなのである。


その注射ちゅうしゃけた友人ゆうじん心情しんじょうはどんなだっただろう。さぞかし不安ふあんだっただろう。友人ゆうじん苦労人くろうにんで、ちゃんとしてるひとだから、みにくくとりみだすこともなく、一週間いっしゅうかん、いや三週間さんしゅうかん病院びょういんかよい、注射ちゅうしゃつづけて、いまは元気げんきはたらいている。
でもこれがわたしだったら、どうだろう。
そのいぬかしておかけるだろうか。

注射を受けながらの、友人の憂慮、不安は、どんなだったろう。友人は苦労人で、ちゃんとできた人であるから、醜くとり乱すこともなく、三七、二十一日病院に通い、注射を受けて、いまは元気に立ち働いているが、もしこれが私だったら、その犬、生かしておかないだろう。


わたしは、ひと三倍さんばい四倍よんばい復讐心ふくしゅうしんつよおとこだ。
また、そうなるとひと五倍ごばい六倍ろくばい残忍ざんにんになってしまうおとこでもある。
だから、そのいぬあたまを、めちゃめちゃにこわして、をくりき、ぐしゃぐしゃにんで、べっとてて、それでもりずに近所きんじょっているいぬをことごとくどくころしてしまうだろう。

私は、人の三倍も四倍も復讐心の強い男なのであるから、また、そうなると人の五倍も六倍も残忍性を発揮してしまう男なのであるから、たちどころにその犬の頭蓋骨を、めちゃめちゃに粉砕し、眼玉をくり抜き、ぐしゃぐしゃに噛んで、べっと吐き捨て、それでも足りずに近所近辺の飼い犬ことごとく毒殺してしまうであろう。


こちらがなにもしていないのに、突然とつぜんワンといってみつくとはなんという無礼者ぶれいもの
動物どうぶつとはいえゆるしがたい。動物どうぶつがかわいそうだからといって、ひとはこれをあまやかしているからいけないのだ。
なさ容赦ようしゃなく一番いちばんおもばつでこらしめるべきである。
去年きょねんあき友人ゆうじん受難じゅなんいて、わたし飼い犬かいいぬたいするごろのにくしみは、その限界限界たっした。
あおほのおがるほどの、おもいつめたるにくしみである。

こちらが何もせぬのに、突然わんといって噛みつくとはなんという無礼、狂暴の仕草であろう。いかに畜生といえども許しがたい。畜生ふびんのゆえをもって、人はこれを甘やかしているからいけないのだ。容赦なく酷刑に処すべきである。昨秋、友人の遭難を聞いて、私の畜犬に対する日ごろの憎悪は、その極点に達した。青い焔が燃え上るほどの、思いつめたる憎悪である。


ことしの正月しょうがつ山梨県やまなしけん甲府こうふまちのはずれにちいさないえり、こっそりかくれるように下手へた小説しょうせつをせっせといていたのである。
しかし、この甲府こうふというまちは、どこへってもいぬがいる。とてもおおいのである。

 ことしの正月、山梨県、甲府のまちはずれに八畳、三畳、一畳という草庵を借り、こっそり隠れるように住みこみ、下手な小説あくせく書きすすめていたのであるが、この甲府のまち、どこへ行っても犬がいる。おびただしいのである。


みちばたに、まっていたり、そべったり、はしったり、きばせてえたかとおもえば、空地あきちつけてそこを野犬やけんのようにして、一緒いっしょ格闘かくとう練習れんしゅうをしている。よるにはだれもいないみち悪者わるものグループのように大勢おおぜいかぜのように縦横無尽じゅうおうむじんはしりまわっている。

往来に、あるいは佇み、あるいはながながと寝そべり、あるいは疾駆し、あるいは牙を光らせて吠えたて、ちょっとした空地でもあるとかならずそこは野犬の巣のごとく、組んずほぐれつ格闘の稽古にふけり、夜など無人の街路を風のごとく、野盗のごとくぞろぞろ大群をなして縦横に駈け廻っている。


甲府こうふいえごと、いえごと、すくなくとも二匹にひきくらいずつっているのではないかとおもうほど、とてもおおいのである。
山梨県やまなしけんは、もともと甲斐犬かいけん産地さんちとしてられているようであるが、みちかけるいぬ姿すがたは、けっしてそんな純血種じゅんけつしゅのものではない。あかいムクいぬもっとおおい。やくたない駄目犬だめいぬばかりなのだ。

甲府の家ごと、家ごと、少くとも二匹くらいずつ養っているのではないかと思われるほどに、おびただしい数である。山梨県は、もともと甲斐犬の産地として知られているようであるが、街頭で見かける犬の姿は、けっしてそんな純血種のものではない。赤いムク犬が最も多い。採るところなきあさはかな駄犬ばかりである。


もう気付きづいている読者どくしゃもいるだろうが、わたしいぬきらいである。

友人ゆうじんいぬおそわれたはなしいてから、さらにいぬきらいになった。つねをつけていたのだが、どこのみちにもこんなにたくさんのいぬがいて、たりねたりするので、用心ようじんしきれるものではなかった。

もとより私は畜犬に対しては含むところがあり、また友人の遭難以来いっそう嫌悪の念を増し、警戒おさおさ怠るものではなかったのであるが、こんなに犬がうようよいて、どこの横丁にでも跳梁し、あるいはとぐろを巻いて悠然と寝ているのでは、とても用心しきれるものでなかった。


やつらに対抗たいこうするためにこれまで大変たいへんおもいをしてきた。できることなら、すねて、うでて、そしてかぶとをかぶってまちあるきたい。でも、そんな格好かっこうをしていたら、とてもへんであり、みんなにられてずかしい。
だから、わたしべつ方法ほうほうをとらなければならなかった。

私はじつに苦心をした。できることなら、すね当て、こて当、かぶとをかぶって街を歩きたく思ったのである。けれども、そのような姿は、いかにも異様であり、風紀上からいっても、けっして許されるものではないのだから、私は別の手段をとらなければならぬ。


わたしは、真剣しんけんに、対策たいさくかんがえた。わたしはまずいぬ気持きもちを研究けんきゅうすることにした。人間にんげんについては、わたしもいくらかっているつもりなので、たまには人間にんげん行動こうどうてることもできる。しかし、いぬ気持きもちとなると、それを推測すいそくすることは、なかなかむずかしいのだ。

私は、まじめに、真剣に、対策を考えた。私はまず犬の心理を研究した。人間については、私もいささか心得があり、たまには的確に、あやまたず指定できたことなどもあったのであるが、犬の心理は、なかなかむずかしい。


人間にんげんにとって、言葉ことば気持きもちをつたえるためにどれだけ重要じゅうようか、それが一番いちばん問題もんだいである。
言葉ことばやくたないとすれば、おたがいのうごきやかお表情ひょうじょうるしかない。
しっぽのうごきでいぬ気持きもちがわかるらしいが、注意ちゅういしてていても、なかなか複雑ふくざつ簡単かんたんにわかるものではないのだ。

人の言葉が、犬と人との感情交流にどれだけ役立つものか、それが第一の難問である。言葉が役に立たぬとすれば、お互いの素振り、表情を読み取るよりほかにない。しっぽの動きなどは、重大である。けれども、この、しっぽの動きも、注意して見ているとなかなかに複雑で、容易に読みきれるものではない。


わたしは、ほとんどあきらめていた。でも、すごくろくでもない方法ほうほうかんがえてしまった。それは、どうしようもないときにおもいついた最後さいご手段しゅだんだった。

私は、ほとんど絶望した。そうして、はなはだ拙劣な、無能きわまる一法を案出した。あわれな窮余の一策である。


わたしは、とにかくいぬったら、かおいっぱいに笑顔えがおせて、しもわる気持きもちがないということをつたえることにした。
よるは、その笑顔えがおえないかもしれないので、無邪気むじゃき童謡どうようくちずさんで、やさしい人間にんげんだとおもわせる努力どりょくをしてみることにした。

私は、とにかく、犬に出逢うと、満面に微笑を湛えて、いささかも害心のないことを示すことにした。夜は、その微笑が見えないかもしれないから、無邪気に童謡を口ずさみ、やさしい人間であることを知らせようと努めた。


この方法ほうほうは、多少たしょうなり効果こうかがあったようながする。
なぜなら、いぬはまだわたしびかかってこない。
しかし、油断ゆだん禁物きんもつである。
いぬのそばをとおるときは、どんなにこわくても絶対ぜったいはしってはいけない。
ニコニコといぬびるような笑顔えがおかべて、無邪気むじゃきくびり、ゆっくり、ゆっくりとおるのである。
こころなかでは背中せなか毛虫けむし十匹じゅっぴきくらいいまわっているような、窒息ちっそくしそうな気持きもわるさにおそわれながらも。

これらは、多少、効果があったような気がする。犬は私に、いまだ飛びかかってこない。けれどもあくまで油断は禁物である。犬の傍を通る時は、どんなに恐ろしくても、絶対に走ってはならぬ。にこにこ卑しい追従笑を浮べて、無心そうに首を振り、ゆっくり、ゆっくり、内心、背中に毛虫が十匹這っているような窒息せんばかりの悪寒にやられながらも、ゆっくりゆっくり通るのである。


こんなことをしていると、自分じぶん卑屈ひくつさが本当ほんとういやになる。きたいほど自己嫌悪じこけんおおちいるが、これをしないとすぐにまれるがして、わたしは、すべてのいぬにこの馬鹿ばかげた仕草しぐさかえす。

つくづく自身の卑屈がいやになる。泣きたいほどの自己嫌悪を覚えるのであるが、これを行わないと、たちまち噛みつかれるような気がして、私は、あらゆる犬にあわれな挨拶を試みる。


かみばしていると、外国人がいこくじん間違まちがえられてえられるかもしれないので、あれほどいやだった床屋とこやにも頑張がんばってくことにした。
また、ステッキをってあるくと、いぬがそれを武器ぶき勘違かんちがいして、反抗的はんこうてきになるかもしれないので、ステッキは永遠えいえん使つかわないことにした。

髪をあまりに長く伸ばしていると、あるいはウロンの者として吠えられるかもしれないから、あれほどいやだった床屋へも精出してゆくことにした。ステッキなど持って歩くと、犬のほうで威嚇の武器と勘かんちがいして、反抗心を起すようなことがあってはならぬから、ステッキは永遠に廃棄することにした。


こうしていぬのご機嫌きげんっているうちに、おもいがけないことがこった。

わたしは、いぬたちにかれてしまったのである。

しっぽをって、ゾロゾロとわたしあといてくるではないか。

犬の心理を計りかねて、ただ行き当りばったり、むやみやたらに御機嫌とっているうちに、ここに意外の現象が現われた。私は、犬に好かれてしまったのである。尾を振って、ぞろぞろ後についてくる。


わたしは、じだんだをんだ。じつに皮肉ひにくなことである。
以前いぜんからこころよくおもっていなかったうえに、最近さいきんではにくしみの限界げんかいまでたっしている。
そのいぬかれるくらいなら、いっそのことんだほうがマシである。

私は、じだんだ踏んだ。じつに皮肉である。かねがね私の、こころよからず思い、また最近にいたっては憎悪の極点にまで達している、その当の畜犬に好かれるくらいならば、いっそ私は駱駝に慕われたいほどである。


「どんなにいやひとでも、女性じょせいならかれていや気持きもちがしない」というかんがえは、いやひとかれることがどれほど不快ふかいつらいかをまるでわかっていない。わたしには、プライドもあるし、むしかないこともある。それをどうしてもれられないことだってあるのだ。我慢がまんができないのである。

どんな悪女にでも、好かれて気持の悪いはずはない、というのはそれは浅薄の想定である。プライドが、虫が、どうしてもそれを許容できない場合がある。堪忍ならぬのである。


わたしは、いぬきらいだ。

いぬがとても凶暴きょうぼうこわ猛獣もうじゅうだとはやくからわかっていたから。
いぬは、エサをもらうために、ともだちを裏切うらぎったり、つまわかれたり、自分じぶんだけいえ軒下のきしたごしたりする。
忠義ちゅうぎのふりをしてむかしともだちにえたり、兄弟きょうだい両親りょうしんをすぐにわすれたりする。
そして、ぬし顔色かおいろうかがい、へつらうことをずかしくおもうこともなく、たたかれても尻尾しっぽっておとなしくし、いえひとわらわせる。
いぬのそんないやしいこころは、本当ほんとうに「犬畜生いぬちくしょう」という言葉ことばがぴったりだ。
いぬ一日いちにちにほぼ40キロもらくはしれる脚力きゃくりょくち、ライオンもたおせるようなするどきばっている。
なのに、おどけていやしい性格せいかくゆえ、ほこりもなく、人間にんげん世界せかいしたがい、おないぬ同士どうし敵対てきたいして、かおわせるとったりったりしながらも、人間にんげん機嫌きげんろうとしている。


私は、犬をきらいなのである。早くからその狂暴の猛獣性を看破し、こころよからず思っているのである。たかだか日に一度や二度の残飯の投与にあずからんがために、友を売り、妻を離別し、おのれの身ひとつ、家の軒下に横たえ、忠義顔して、かつての友に吠え、兄弟、父母をも、けろりと忘却し、ただひたすらに飼主の顔色を伺い、阿諛追従てんとして恥じず、ぶたれても、きゃんといい尻尾まいて閉口してみせて、家人を笑わせ、その精神の卑劣、醜怪、犬畜生とはよくもいった。日に十里を楽々と走破しうる健脚を有し、獅子をも斃す白光鋭利の牙を持ちながら、懶惰無頼の腐りはてたいやしい根性をはばからず発揮し、一片の矜持なく、てもなく人間界に屈服し、隷属し、同族互いに敵視して、顔つきあわせると吠えあい、噛みあい、もって人間の御機嫌をとり結ぼうと努めている。


すずめてみろ。
よわ小鳥ことりなのになに武器ぶきたずに、自由じゆうまわり、人間にんげん世界せかいとはちがちいさな社会しゃかいつくって、仲間なかまなかよくしながら、まずしい毎日まいにちたのしんでいる。
かんがえればかんがえるほど、いぬ不潔ふけつかんじる。いぬいやだ。なんだか自分じぶんているところがあるようながして、ますますいやだ。どうにも我慢がまんができないのだ。

雀を見よ。何ひとつ武器を持たぬ繊弱の小禽ながら、自由を確保し、人間界とはまったく別個の小社会を営み、同類相親しみ、欣然日々の貧しい生活を歌い楽しんでいるではないか。思えば、思うほど、犬は不潔だ。犬はいやだ。なんだか自分に似ているところさえあるような気がして、いよいよ、いやだ。たまらないのである。


そのいぬが、わたし尻尾しっぽって親愛しんあい気持きもちをあらわしてくると、混乱こんらんというか無念むねんというか、もうなんいようがない気持きもちになってしまう。
いぬ凶暴きょうぼうさをおそれて過剰かじょうびたわらいをりまきながらあるいたため、いぬわたしり合《あ》いだと勘違かんちがいし、わたし仲間なかまにしやすいと判断はんだんして、このようななさけない結果けっかになったのだろう。
どんなことでも、物事ものごとには「加減かげん」というものが大切たいせつだ。わたしは、いまだにその「加減かげん」とやらの調節ちょうせつができないようだ。

その犬が、私を特に好んで、尾を振って親愛の情を表明してくるに及んでは、狼狽とも、無念とも、なんとも、いいようがない。あまりに犬の猛獣性を畏敬し、買いかぶり節度もなく媚笑を撒まきちらして歩いたゆえ、犬は、かえって知己を得たものと誤解し、私を組みしやすしとみてとって、このような情ない結果に立ちいたったのであろうが、何事によらず、ものには節度が大切である。私は、いまだに、どうも、節度を知らぬ。


あるはる夕食ゆうしょくすこまえに、わたし近所きんじょ散歩さんぽかけた。
すると、三匹さんびきいぬわたしあとをついてきた。そのときわたしいまにもあしをガブリとやられるのではないかと、きた心地ここちがしなかった。
毎度まいどのことなのであきらめつつ、平静へいせいよそおい、ぶらりぶらりとあるいた。
いますぐにでもウサギのようにげ出したい、という衝動しょうどう懸命けんめいおさえながら。

 早春のこと。夕食の少しまえに、私はすぐ近くの四十九聯隊の練兵場へ散歩に出て、二、三の犬が私のあとについてきて、いまにも踵をがぶりとやられはせぬかと生きた気もせず、けれども毎度のことであり、観念して無心平生を装い、ぱっと脱兎のごとく逃げたい衝動を懸命に抑え、抑え、ぶらりぶらり歩いた。


いぬわたしあといながら、みちすがら喧嘩けんかはじめた。
わたしはわざとかえらず、らないふりをしてあるいていたが、内心ないしんではとてもこまっていた。
もしピストルがあれば、ためらわずにドカンとちたい気持きもちであった。
いぬは、わたし外見がいけんほとけのようにせて、内心ないしんでは悪意あくいっているとはらずに、どこまでもついてくる。

犬は私についてきながら、みちみちお互いに喧嘩などはじめて、私は、わざと振りかえって見もせず、知らぬふりして歩いているのだが、内心、じつに閉口であった。ピストルでもあったなら、躊躇せずドカンドカンと射殺してしまいたい気持であった。犬は、私にそのような、外面如菩薩、内心如夜叉的の奸佞の害心があるとも知らず、どこまでもついてくる。


近所きんじょをぐるりと一周いっしゅうして、わたしはやはりいぬかれながらかえることとなった。
いつもは、いえかえるまでに背後はいごいぬどもはどこかへえてしまうものだったが、そのとくにしつこくれしい一匹いっぴきがいた。それはくろ小犬こいぬで、非常ひじょうちいさく、どうながさは千円札せんえんさつおなじくらいのかんじだ。しかし、ちいさいからといって油断ゆだんはできない。はもうちゃんとそろっているはずだし、これにまれたら病院びょういんさんしち二十一日間にじゅういちにちかんかよわなければならないだろう。
それに、このようなおさないぬには常識じょうしきがなくまぐれだから、さらに用心ようじん必要ひつようだ。

練兵場をぐるりと一廻りして、私はやはり犬に慕われながら帰途についた。家へ帰りつくまでには、背後の犬もどこかへ雲散霧消しているのが、これまでの、しきたりであったのだが、その日に限って、ひどく執拗で馴れ馴れしいのが一匹いた。真黒の、見るかげもない小犬である。ずいぶん小さい。胴の長さ五寸の感じである。けれども、小さいからといって油断はできない。歯は、すでにちゃんと生えそろっているはずである。噛まれたら病院に三、七、二十一日間通わなければならぬ。それにこのような幼少なものには常識がないから、したがって気まぐれである。いっそう用心をしなければならぬ。


小犬こいぬわたしまえったりうしろにもどったりしながら、わたしかお見上みあげてよたよたとはしり、とうとうわたしいえ玄関げんかんまでついてきた。
「おい、へんなものがついてきたよ」
「おや、かわいい」
「かわいくなんかないよ。ぱらってくれ。手荒てあらくするとみつくから、お菓子かしでもやって」
結局けっきょくいつもの腰抜こしぬ外交がいこうてしまう。
小犬こいぬはすぐにわたし内心ないしんおそれを見抜みぬき、それにつけんで、図々ずうずうしくもそのままわたしいえいてしまった。
そうしてこのいぬは、三月さんがつ四月しがつ五月ごがつ六月ろくがつ七月しちがつ八月はちがつ秋風あきかぜはじめた現在げんざいいたるまで、わたしいえにいるのだ。

小犬は後になり、さきになり、私の顔を振り仰ぎ、よたよた走って、とうとう私の家の玄関まで、ついてきた。
「おい。へんなものが、ついてきたよ」
「おや、可愛い」
「可愛いもんか。追っ払ってくれ、手荒くすると喰いつくぜ、お菓子でもやって」
れいの軟弱外交である。小犬は、たちまち私の内心畏怖の情を見抜き、それにつけこみ、ずうずうしくもそれから、ずるずる私の家に住みこんでしまった。そうしてこの犬は、三月、四月、五月、六、七、八、そろそろ秋風吹きはじめてきた現在にいたるまで、私の家にいるのである。


わたしはこのいぬ幾度いくどとなくかされてきた。
どうにも決着けっちゃくがつかないので、仕方しかたなく「ポチ」などとんでいる。
しかし、半年はんとし一緒いっしょんでいるのに、まだこのポチを家族かぞく一員いちいんとはおもえない。
他人たにんのようにかんじるのだ。
しっくりこない。気持きもちのちがいがつづいている。
たがいが相手あいて心理しんりって火花ひばならしながらたたかっている。
だからどうしても、たがいにこころからわらうことができないのだ。


私は、この犬には、幾度泣かされたかわからない。どうにも始末ができないのである。私はしかたなく、この犬を、ポチなどと呼んでいるのであるが、半年もともに住んでいながら、いまだに私は、このポチを、一家のものとは思えない。他人の気がするのである。しっくりゆかない。不和である。お互い心理の読みあいに火花を散らして戦っている。そうしてお互い、どうしても釈然と笑いあうことができないのである。


最初さいしょにこのいえにやってきたころは、まだ子犬こいぬで、地面じめんのアリを不思議ふしぎそうに観察かんさつしたり、カエルにおどろいて悲鳴ひめいげたりしていた。
その様子ようすにはわたしおもわずわらってしまうことがあり、にくいヤツではあったが、もしかしたら神様かみさま御心みこころでこのいえおくまれてきたのかもしれないとおもうようになり、えんした寝床ねどこつくってやり、もの乳幼児にゅうようじけにやわらかくあたえ、ノミりのくすりなどをからだりかけてやったものだ。

 はじめこの家にやってきたころは、まだ子供で、地べたの蟻を不審そうに観察したり、蝦蟇を恐れて悲鳴を挙げたり、その様には私も思わず失笑することがあって、憎いやつであるが、これも神様の御心によってこの家へ迷いこんでくることになったのかもしれぬと、縁の下に寝床を作ってやったし、食い物も乳幼児むきに軟らかく煮て与えてやったし、蚤取粉などからだに振りかけてやったものだ。


けれども、ひとつきつと、もう駄目だめだった。
徐々じょじょ駄目犬だめいぬ本領ほんりょう発揮はっきはじめたのだ。
いやしい性格せいかくで、もともとこのいぬてられていたのにちがいない。
わたし散歩さんぽからかえときに、まとわりついてきて、そのときかげもなくせこけ、けていて、おしり部分ぶぶんはほとんどハゲていた。

けれども、ひとつき経つと、もういけない。そろそろ駄犬の本領を発揮してきた。いやしい。もともと、この犬は練兵場の隅に捨てられてあったものにちがいない。私のあの散歩の帰途、私にまつわりつくようにしてついてきて、その時は、見るかげもなく痩せこけて、毛も抜けていてお尻の部分は、ほとんど全部禿ていた。


わたしだからこそ、こんないぬ菓子かしあたえ、おかゆをつくり、あら言葉ことばひとつかけずに、ものるかのように丁重ていちょうにもてなしてあげたのだ。
ほかひとだったら、あしってはらってしまったにちがいない。
わたしのその親切心しんせつしんも、じついぬへの愛情あいじょうからではなく、いぬたいする根深ねぶかにくしみと恐怖きょうふからまれたズルがしこきにすぎない。
しかし、わたしのおかげでこのポチは毛並けなみみもととのい、どうにか一人前いちにんまえいぬ成長せいちょうできたのではないか。

私だからこそ、これに菓子を与え、おかゆを作り、荒い言葉一つかけるではなし、腫れものにさわるように鄭重にもてなしてあげたのだ。ほかの人だったら、足蹴にして追い散らしてしまったにちがいない。私のそんな親切なもてなしも、内実は、犬に対する愛情からではなく、犬に対する先天的な憎悪と恐怖から発した老獪な駈け引きにすぎないのであるが、けれども私のおかげで、このポチは、毛並もととのい、どうやら一人まえの男の犬に成長することを得たのではないか。


おんまったくない。
しかし、すこしくらいわたしにもなにたのしみをあたえてくれてもよさそうにおもう。
やはりいぬ駄目だめなものだ。
大食おおぐいし、食後しょくご運動うんどうのつもりだろうか、下駄げたみちぎり、にわしてある洗濯物せんたくものきずりおろしたかとおもうと、どろまみれにする。

私は恩を売る気はもうとうないけれども、少しは私たちにも何か楽しみを与えてくれてもよさそうに思われるのであるが、やはり捨犬はだめなものである。大めし食って、食後の運動のつもりであろうか、下駄をおもちゃにして無残に噛み破り、庭に干してある洗濯物を要いらぬ世話して引きずりおろし、泥まみれにする。


「こういう冗談じょうだんはやめておくれ。本当ほんとうこまるんだ。だれきみに、こんなことをたのんだのか?今日きょうのごはんだけじゃりなかったのか?下駄げたうまいか?」
などと、わたし内心ないしんイラ立ちをふくんだ言葉ことばをできるだけやさしく嫌味いやみめてうこともあるが、いぬはきょろりとうごかし、嫌味いやみっているわたしにじゃれついてくる。
なんてあまえた精神せいしんなのだろう。
このいぬ図々ずうずうしさには、はなはあきれて、軽蔑けいべつさえしてしまう。

「こういう冗談はしないでおくれ。じつに、困るのだ。誰が君に、こんなことをしてくれとたのみましたか?」
と、私は、内に針を含んだ言葉を、精いっぱい優しく、いや味をきかせて言ってやることもあるのだが、犬は、きょろりと眼を動かし、いや味を言い聞かせている当の私にじゃれかかる。なんという甘ったれた精神であろう。私はこの犬の鉄面皮には、ひそかに呆れ、これを軽蔑さえしたのである。


おおきくなるにつれて、このいぬ無能むのうっぷりがあきらかになってきた。
まず、わるい。
おさなころすこしは均整きんせいのとれた姿すがたで、もしかしたらすぐれたざっているのかもしれないとおもわせるほどだったが、それはまったくの勘違かんちがいだった。
胴体どうたいだけがどんどんながくなって、手足てあし極端きょくたんみじかい。まるでかめのようで、られたものではない。
そんなにみにく姿すがたをして、わたし外出がいしゅつするとかならかげのようについてきて、少年少女しょうねんしょうじょまでが「やあ、へんいぬだ」とゆびさしてわらうこともあり、多少たしょう見栄張みえっぱりのわたしは、どんなにすましてあるいても無駄むだだった。
いっそ他人たにんのふりをしようと早足はやあしあるいてみても、ポチはわたしのそばをはなれず、わたしかおあおいではついてくるので、どうしたって二人ふたり他人たにんにはえるわけがない。気心きごころったぬしいぬにしかえなかった。
おかげでわたし外出がいしゅつするたびに、ずいぶんくら憂鬱ゆううつ気持きもちにさせられた。
いい修行しゅぎょうになったのである。

長ずるに及んで、いよいよこの犬の無能が暴露された。だいいち、形がよくない。幼少のころには、も少し形の均斉もとれていて、あるいは優れた血が雑まじっているのかもしれぬと思わせるところあったのであるが、それは真赤ないつわりであった。胴だけが、にょきにょき長く伸びて、手足がいちじるしく短い。亀のようである。見られたものでなかった。そのような醜い形をして、私が外出すればかならず影のごとくちゃんと私につき従い、少年少女までが、やあ、へんてこな犬じゃと指さして笑うこともあり、多少見栄坊の私は、いくらすまして歩いても、なんにもならなくなるのである。いっそ他人のふりをしようと早足に歩いてみても、ポチは私の傍を離れず、私の顔を振り仰ぎ振り仰ぎ、あとになり、さきになり、からみつくようにしてついてくるのだから、どうしたって二人は他人のようには見えまい。気心の合った主従としか見えまい。おかげで私は外出のたびごとに、ずいぶん暗い憂欝な気持にさせられた。いい修行になったのである。


ただ、そうしてついてあるいていたころは、まだよかった。
そのうちにいよいよかくしいた猛獣もうじゅう本性ほんしょうをあらわにしてきたのだ。
喧嘩けんかこのむようになったのである。
わたしのおともをしてまちあるくと、出会であいぬ出会であいぬ、すべてに挨拶あいさつしてとおるのである。
つまり、かたはしから喧嘩けんかしてまわるのである。

ただ、そうして、ついて歩いていたころは、まだよかった。そのうちにいよいよ隠してあった猛獣の本性を暴露してきた。喧嘩格闘を好むようになったのである。私のお伴をして、まちを歩いて行きあう犬、行きあう犬、すべてに挨拶して通るのである。つまりかたっぱしから喧嘩して通るのである。


ポチはあしみじかく、まだわかいのに喧嘩けんかがかなりつよいようである。
いぬみこんで、一度いちど五匹ごひきいぬ相手あいてたたかったときはさすがにあぶなそうだったが、たくみにをかわしてなんとかけた。
とても自信じしんがあり、どんないぬにでもびかかっていく。たまにいきおけして、えながらじりじり退しりぞくこともある。こえ悲鳴ひめいちかくなり、くろかお青黒あおぐろくなってくる。

ポチは足も短く、若年でありながら、喧嘩は相当強いようである。空地の犬の巣に踏みこんで、一時に五匹の犬を相手に戦ったときはさすがに危く見えたが、それでも巧みに身をかわして難を避けた。非常な自信をもって、どんな犬にでも飛びかかってゆく。たまには勢負いして、吠えながらじりじり退却することもある。声が悲鳴に近くなり、真黒い顔が蒼黒くなってくる。


一度いちど小牛こうしのようなシェパードにびかかっていったときは、わたしあおざめた。結果的けっかてきにはひとたまりもなかった。シェパードは前足まえあしポチぽちをおもちゃにして、本気ほんき相手あいてをしなかったので、ポチぽちいのちたすかった。
いぬは、一度いちどでもあんなひどいうと、大変たいへん意気地いくじがなくなるらしい。ポチは、それからえて、喧嘩けんかけるようになった。
わたし喧嘩けんかきではない。いや、きではないどころか、街中まちなか野獣やじゅうのようなあらそいを放置ほうちしているのは、文明国ぶんめいこく恥辱ちじょくだとしんじている。
あのみみろうするようないぬのけんけんごうごう、きゃんきゃんという野蛮やばんなわめきごえには、ころしてもなおりないほどのつよいかりとにくしみをかんじている。

いちど小牛のようなシェパアドに飛びかかっていって、あのときは、私が蒼くなった。はたして、ひとたまりもなかった。前足でころころポチをおもちゃにして、本気につきあってくれなかったのでポチも命が助かった。犬は、いちどあんなひどいめに逢うと、大へん意気地がなくなるものらしい。ポチは、それからは眼に見えて、喧嘩を避けるようになった。それに私は、喧嘩を好まず、否、好まぬどころではない、往来で野獣の組打ちを放置し許容しているなどは、文明国の恥辱と信じているので、かの耳を聾せんばかりのけんけんごうごう、きゃんきゃんの犬の野蛮のわめき声には、殺してもなおあき足らない憤怒と憎悪を感じているのである。


わたしはポチをあいしていない。
むしろおそれ、にくんでいる。すこしもあいしていない。んでくれたらとおもっている。
ポチはわたしについてきて、それがぬししたが義務ぎむだとでもおもっているのか、みち出会であいぬ出会であいぬかならはげしくえかかる。そのたび、わたし主人しゅじんとしてどれほど恐怖きょうふふるえているか。くるまめて、ドアをバタンとじ、一目散いちもくさんりたい気持きもちになる。
犬同士いぬどうし喧嘩けんかむならまだいいが、もし相手あいていぬ錯乱さくらんして、ポチの主人しゅじんであるわたしびかかってきたら、どうする?それがないとはれない。
かれらはえた猛獣もうじゅうだ。
なにをするかわからない。わたし無惨むざんにもかれ、さんしち二十一日間にじゅういちにちかん病院びょういんかよわなければならない。いぬ喧嘩けんかは、まさに地獄じごくだ。わたし機会きかいがあるたびにポチにこうかせてきた。

私はポチを愛してはいない。恐れ、憎んでこそいるが、みじんも愛しては、いない。死んでくれたらいいと思っている。私にのこのこついてきて、何かそれが飼われているものの義務とでも思っているのか、途で逢う犬、逢う犬、かならず凄惨に吠えあって、主人としての私は、そのときどんなに恐怖にわななき震えていることか。自動車呼びとめて、それに乗ってドアをばたんと閉じ、一目散に逃げ去りたい気持なのである。犬同士の組打ちで終るべきものなら、まだしも、もし敵の犬が血迷って、ポチの主人の私に飛びかかってくるようなことがあったら、どうする。ないとは言わせぬ。血に飢えたる猛獣である。何をするか、わかったものでない。私はむごたらしく噛み裂かれ、三、七、二十一日間病院に通わなければならぬ。犬の喧嘩は、地獄である。私は、機会あるごとにポチに言い聞かせた。


「ポチ、喧嘩けんかをしては、いけないよ。喧嘩けんかするなら、ぼくからはなれたところでしてもらいたい。ぼくは、おまえなんかきじゃないんだから。」

「喧嘩しては、いけないよ。喧嘩するなら、僕からはるか離れたところで、してもらいたい。僕は、おまえを好いてはいないんだ」


すこしポチにもわかるらしいのである。そうわれると多少たしょうしょげて見せるのだ。なおのことわたしいぬを、薄気味うすきみわるいものにおもった。そのわたしかえかえった忠告ちゅうこくこうそうしたのか、あるいは、かのシェパードとの一戦いっせんにぶざまな惨敗ざんぱいきっしたせいか、ポチは、卑屈ひくつなほど、ひよわ態度たいどをとりはじめた。わたしといっしょにみちあるいて、ほかいぬがポチにえかけると、ポチは、
「ああ、いやだ、いやだ。野蛮やばんですねえ」
わんばかり、ひたすらわたしられようと上品じょうひんぶって、ぶるっとどうふるわせたり、相手あいていぬを、「しかたのないやつだね」とさもさもあわれむようにながたりしている。そうして、わたし顔色かおいろうかがい、へっへっへっといやしくご機嫌取ごきげんとりをするかのような態度たいどは、いやらしいったらなかった。
ひとつも、いいところないじゃないか、こいつは。ひとの顔色かおいろばかりうかがっていやがる」
「あなたが、あまり、へんかまうからですよ」と、家内かないは、はじめからポチに無関心むかんしんであった。
洗濯物せんたくものなどよごされたときはぶつぶつうが、あとはケロリとして、ポチポチとんで、めしをわせたりなどしている。
「ポチの本性ほんしょうくなっちゃったんじゃないかしら」とわらっている。
ぬしに、てきたというわけかね」と皮肉ひにくい、わたしは、いよいよ、いや気持きもちになった。

少し、ポチにもわかるらしいのである。そう言われると多少しょげる。いよいよ私は犬を、薄気味わるいものに思った。その私の繰り返し繰り返し言った忠告が効を奏したのか、あるいは、かのシェパアドとの一戦にぶざまな惨敗を喫したせいか、ポチは、卑屈なほど柔弱な態度をとりはじめた。私といっしょに路を歩いて、他の犬がポチに吠えかけると、ポチは、
「ああ、いやだ、いやだ。野蛮ですねえ」
と言わんばかり、ひたすら私の気に入られようと上品ぶって、ぶるっと胴震いさせたり、相手の犬を、しかたのないやつだね、とさもさも憐れむように流し目で見て、そうして、私の顔色を伺い、へっへっへっと卑しい追従笑いするかのごとく、その様子のいやらしいったらなかった。
「一つも、いいところないじゃないか、こいつは。ひとの顔色ばかり伺っていやがる」
「あなたが、あまり、へんにかまうからですよ」家内は、はじめからポチに無関心であった。洗濯物など汚されたときはぶつぶつ言うが、あとはけろりとして、ポチポチと呼んで、めしを食わせたりなどしている。「性格が破産しちゃったんじゃないかしら」と笑っている。
「飼い主に、似てきたというわけかね」私は、いよいよ、にがにがしく思った。


 七月しちがつはいり、状況じょうきょうわった。わたしたちは、やっと、東京とうきょう三鷹みたかてているちいさないえつけることができ、いえができ次第しだいつき24えんりることにした。それですこしずつしの準備じゅんびをはじめたのだ。いえができあがると、家主やぬしかららせがることになっていた。ポチはもちろん、そこにはれてかずにいてゆくつもりだったのである。

 七月にはいって、異変が起った。私たちは、やっと、東京の三鷹村に、建築最中の小さい家を見つけることができて、それの完成しだい、一か月二十四円で貸してもらえるように、家主と契約の証書交して、そろそろ移転の仕度をはじめた。家ができ上ると、家主から速達で通知が来ることになっていたのである。ポチは、もちろん、捨ててゆかれることになっていたのである。

れていったって、いいのに」
家内かないは、やはりポチをあまり問題もんだいにしていない。どちらでもいいのである。
「だめだ。ぼくは、可愛かわいいからやしなっているんじゃないんだよ。いぬ復讐ふくしゅうされるのが、こわいから、しかたなくそっとしておいてやっているのだ。わからんかね」
「でも、ちょっとポチがえなくなると、ポチはどこった、どこった、と大騒おおさわぎするじゃないの」
「いなくなると、いっそう薄気味うすぎみわるいからさ、ぼくかくれて、ひそかに仲間なかまあつめているのかもしれない。あいつは、ぼく軽蔑けいべつされていることをっているんだ。復讐心ふくしゅうしんつよいそうだからなあ、いぬは」
いまこそ絶好ぜっこう機会きかいであるとおもっていた。このいぬをこのままわすれたふりして、ここへいて、さっさと汽車きしゃって東京とうきょうってしまえば、まさかいぬも、笹子峠ささごとうげえて三鷹みたかまでいかけてくることはなかろう。
わたしたちは、ポチをてたのではない。まったくうっかりしてれてゆくことをわすれたのである。つみにはならない。またポチにうらまれる筋合すじあいもない。復讐ふくしゅうされる理由りゆういもない。

「連れていったって、いいのに」家内は、やはりポチをあまり問題にしていない。どちらでもいいのである。
「だめだ。僕は、可愛いから養っているんじゃないんだよ。犬に復讐されるのが、こわいから、しかたなくそっとしておいてやっているのだ。わからんかね」
「でも、ちょっとポチが見えなくなると、ポチはどこへ行ったろう、どこへ行ったろう、と大騒ぎじゃないの」
「いなくなると、いっそう薄気味が悪いからさ、僕に隠れて、ひそかに同志を糾合しているのかもわからない。あいつは、僕に軽蔑されていることを知っているんだ。復讐心が強いそうだからなあ、犬は」
いまこそ絶好の機会であると思っていた。この犬をこのまま忘れたふりして、ここへ置いて、さっさと汽車に乗って東京へ行ってしまえば、まさか犬も、笹子峠を越えて三鷹村まで追いかけてくることはなかろう。私たちは、ポチを捨てたのではない。まったくうっかりして連れてゆくことを忘れたのである。罪にはならない。またポチに恨まれる筋合もない。復讐されるわけはない。


「だいじょうぶだろうね。いていったりしておなかいたり、さびしくなったりしないだろうね。あまりにさびしくてんじゃったら、たたりということもあるからね」
大丈夫だいじょうぶですよ、ウサギじゃあるまいし。もともと、いぬだったんですもの」と家内かないすこ不安ふあんになった様子ようすである。とおもう。
「そうだね。にすることはないだろう。なんとか、うまくやってゆくだろう。あんないぬ東京とうきょうれていったら、ぼく友人ゆうじんたいしてずかしくてたまらない。どうながぎるし、みっともない」

「だいじょうぶだろうね。置いていっても、飢え死するようなことはないだろうね。死霊の祟りということもあるからね」
「もともと、捨犬だったんですもの」家内も、少し不安になった様子である。
「そうだね。飢え死することはないだろう。なんとか、うまくやってゆくだろう。あんな犬、東京へ連れていったんじゃ、僕は友人に対して恥ずかしいんだ。胴が長すぎる。みっともないねえ」


ポチは、やはりいてかれることになった。
するとここで異変いへんきた。
ポチが皮膚病ひふびょうにやられたのである。これがまたひどいのだ。さすがに形容けいようはしないが、惨状さんじょうをそむけるものがあった。おりからの炎天下えんてんかとともに、ただならぬ悪臭あくしゅうはなつようになったのだ。
すると家内かないが、まいってしまって、「ご近所きんじょわるいわ。ころしてください」
おんなは、こうなるとおとこよりも冷酷れいこくで、度胸どきょうがいい。
ころすのか・・・」わたしは、ギョっとした。
ころすのは、もうすこったほうがいいんじゃないか」
わたしたちは、三鷹みたか家主やぬしからの速達そくたつ一心いっしんっていた。七月末しちがつすえには、できるでしょうという家主やぬし言葉ことばであったのだが、七月しちがつもそろそろおしまいになりかけて、今日きょう明日あすかと、引越ひっこしの荷物にもつをまとめて待機たいきしていたのであったが、なかなか、通知つうちないのである。いあわせの手紙てがみしたりなどしているときに、ポチの皮膚病ひふびょうはじまったのである。

ポチは、やはり置いてゆかれることに、確定した。すると、ここに異変が起った。ポチが、皮膚病にやられちゃった。これが、またひどいのである。さすがに形容をはばかるが、惨状、眼をそむけしむるものがあったのである。おりからの炎熱とともに、ただならぬ悪臭を放つようになった。こんどは家内が、まいってしまった。
「ご近所にわるいわ。殺してください」女は、こうなると男よりも冷酷で、度胸がいい。
「殺すのか」私は、ぎょっとした。「もう少しの我慢じゃないか」
私たちは、三鷹の家主からの速達を一心に待っていた。七月末には、できるでしょうという家主の言葉であったのだが、七月もそろそろおしまいになりかけて、きょうか明日かと、引越しの荷物もまとめてしまって待機していたのであったが、なかなか、通知が来ないのである。問いあわせの手紙を出したりなどしている時に、ポチの皮膚病がはじまったのである。


ればるほど、きわめていたましい状態じょうたいである。
ポチも、いまはさすがに自分じぶんみにく姿すがたじている様子ようすで、暗闇くらやみ場所ばしょこのむようになり、たまに玄関げんかん日当ひあたりがいい敷石しきいしうえでぐったりそべっていることもある。
わたしがそれをつけて、「わあ、ひでえなあ」とはげしくののしると、いそいでがりくびげ、こまったようにこそこそとえんしたにもぐりこんでしまうのである。
それでもわたし外出がいしゅつするときには、どこからともなく足音あしおとしのばせてわたしについてこようとする。
こんなものみたいなものに、ついてこられてたまるものかと、その都度つどわたしは、だまってポチをつめてやる。
軽蔑けいべつわらいをはっきり口元くちもとかべて、いくらでもポチをつめてやる。
これは大変たいへんがあった。ポチは、自分じぶんみにく姿すがたをハッとおもしたかのように、くびげ、しおしおとどこかへ姿すがたかくす。

見れば、見るほど、酸鼻の極である。ポチも、いまはさすがに、おのれの醜い姿を恥じている様子で、とかく暗闇の場所を好むようになり、たまに玄関の日当りのいい敷石の上で、ぐったり寝そべっていることがあっても、私が、それを見つけて、
「わあ、ひでえなあ」と罵倒すると、いそいで立ち上って首を垂れ、閉口したようにこそこそ縁の下にもぐりこんでしまうのである。
それでも私が外出するときには、どこからともなく足音忍ばせて出てきて、私についてこようとする。こんな化け物みたいなものに、ついてこられて、たまるものか、とその都度、私は、だまってポチを見つめてやる。あざけりの笑いを口角にまざまざと浮べて、なんぼでも、ポチを見つめてやる。これは大へんききめがあった。ポチは、おのれの醜い姿にハッと思い当る様子で、首を垂れ、しおしおどこかへ姿を隠す。


家内かないは、ときどきわたしにこうはなす。
「とっても我慢がまんができないの。わたしまでむずがゆくなって。なるべくないようにつとめているんだけれど、一度いちどちゃったら、もうだめね。ゆめなかにまでてくるんだもの」
「まあ、もうすこしの我慢がまんだ」
我慢がまんするしかないとおもった。
たとえんでいるとはいっても、相手あいて一種いっしゅ猛獣もうじゅうである。下手へたさわったらみつかれる。
明日あしたにでも、三鷹みたかから返事へんじるだろう、引越ひっこしてしまったら、それっきりじゃないか」

「とっても、我慢ができないの。私まで、むず痒くなって」家内は、ときどき私に相談する。「なるべく見ないように努めているんだけれど、いちど見ちゃったら、もうだめね。夢の中にまで出てくるんだもの」
「まあ、もうすこしの我慢だ」我慢するよりほかはないと思った。たとえ病んでいるとはいっても、相手は一種の猛獣である。下手に触ったら噛みつかれる。「明日にでも、三鷹から、返事が来るだろう、引越してしまったら、それっきりじゃないか」


 三鷹みたか家主やぬしから返事へんじた。んで、がっかりした。
あめつづいてかべかわかず、また人手不足ひとでぶそく完成かんせいまでには、あと10日とおかくらいかかる見込みこみだというのであった。うんざりした。ポチからがれるためだけでも、はや引越ひっこしをしてしまいたかったのだ。

 三鷹の家主から返事が来た。読んで、がっかりした。雨が降りつづいて壁が乾かず、また人手も不足で完成までには、もう十日くらいかかる見こみ、というのであった。うんざりした。ポチから逃のがれるためだけでも、早く、引越してしまいたかったのだ。


わたしは、へんにイライラした気持きもちになって、仕事しごとにつかず、雑誌ざっしんだり、さけんだりした。ポチの皮膚病ひふびょうひどくなっていき、わたし皮膚ひふまでもがなんだかかゆくなってきた。深夜しんやそとでポチが、バタバタとかゆさにもだえている物音ものおとに、何度なんどゾっとさせられたかわからない。いっそひとおもいに、狂暴きょうぼう発作ほっさられることも、しばしばあった。

私は、へんな焦躁感で、仕事も手につかず、雑誌を読んだり、酒を呑んだりした。ポチの皮膚病は一日一日ひどくなっていって、私の皮膚も、なんだか、しきりに痒くなってきた。深夜、戸外でポチが、ばたばたばた痒さに身悶えしている物音に、幾度ぞっとさせられたかわからない。たまらない気がした。いっそひと思いにと、狂暴な発作に駆かられることも、しばしばあった。


家主やぬしから「さらに20日はつかて」と手紙てがみとどいた。
わたしのモヤモヤした苛立いらだちが、身近みぢかなポチにむけけられた。
「こいつのせいで、すべてがうまくいかないのだ」と、なにもかもわるいことはみなポチのせいのようにかんがえてしまい、奇妙きみょうにポチをのろうようになった。
あるよるわたし寝巻ねまきいぬのみついていることを発見はっけんしたとき、それまでこらえにこらえてきたいかりが爆発ばくはつし、わたしはひそかに重大じゅうだい決意けついをした。

ころそうとおもったのである。

家主からは、さらに二十日待て、と手紙が来て、私のごちゃごちゃの忿懣が、たちまち手近のポチに結びついて、こいつあるがために、このように諸事円滑にすすまないのだ、と何もかも悪いことは皆、ポチのせいみたいに考えられ、奇妙にポチを呪咀し、ある夜、私の寝巻に犬の蚤が伝播されてあることを発見するに及んで、ついにそれまで堪えに堪えてきた怒りが爆発し、私はひそかに重大の決意をした。
殺そうと思ったのである。


相手あいておそろしい猛獣もうじゅうである。
普段ふだんわたしなら、こんな乱暴らんぼう判断はんだんは、逆立さかだちをしてもおもいつかないだろうが、山梨やまなし甲府こうふという盆地ぼんち特有とくゆう酷暑こくしょで、すこあたまへんになっていた矢先やさきであったし、また、毎日まいにちなにもせず、ただポカンと家主やぬしからの速達そくたつっていて、ぬほど退屈たいくつ日々ひびごしていた、ムシャクシャやイライラ、そして、おまけに不眠ふみん手伝てつだって発狂状態はっきょうじょうたいだったのだからしようがない。
そのいぬのみ発見はっけんしたよるただちに家内かない牛肉ぎゅうにくかたまりいにかせ、わたし薬局やっきょくき、あるしゅ薬品やくひん少量しょうりょうってきた。
これで用意よういはできた。家内かないすくなからず興奮こうふんしていた。
わたしたち鬼夫婦おにふうふは、そのよるひそかに小声こごえ計画けいかくをたてた。

相手は恐るべき猛獣である。常の私だったら、こんな乱暴な決意は、逆立ちしたってなしえなかったところのものなのであったが、盆地特有の酷暑で、少しへんになっていた矢先であったし、また、毎日、何もせず、ただぽかんと家主からの速達を待っていて、死ぬほど退屈な日々を送って、むしゃくしゃいらいら、おまけに不眠も手伝って発狂状態であったのだから、たまらない。その犬の蚤を発見した夜、ただちに家内をして牛肉の大片を買いに走らせ、私は、薬屋に行きある種の薬品を少量、買い求めた。これで用意はできた。家内は少なからず興奮していた。私たち鬼夫婦は、その夜、鳩首して小声で相談した。


よくあさ四時よじわたしきた。
目覚時計めざましどけいけておいたのであるが、それがまえめてしまった。
朝空あさぞら白々しらじらけていた。肌寒はだざむいほどであった。
わたしたけ皮包かわづつみにくれてそとた。
最期さいごまでていないですぐおかえりになるといいわ」
家内かない玄関げんかんってわたし見送みおくり、いていた。
「わかってる。ポチ、い!」
ポチは尻尾しっぽってえんしたからてきた。
い、い!」わたしは、さっさとあるきだした。
今日きょうは、あんな意地悪いじわるくポチの姿すがたつめるようなことはしない。ポチも自身じしんみにくさをわすれて、いそいそとわたしについてきた。
きりふかい。まちはひっそりとねむっている。
わたしは、はらっぱへいそいだ。途中とちゅうおそろしくおおきな赤毛あかげいぬが、ポチにって猛烈もうれつえたてた。ポチは、例によって上品じょうひんぶった態度たいどしめし、なにさわいでいるのかね、とでもいたげに軽蔑けいべつしたをチラリとその赤毛あかげいぬにくれただけで、さっさとそのいぬ眼の前めのまえ通過つうかした。赤毛あかげは、卑怯ひきょうである。ポチの背後はいごから、かぜのごとくおそいかかり、ポチのさむしげな股間こかんねらった。ポチは、とっさにくるりといたが、ちょっと躊躇ちゅうちょし、わたし顔色かおいろをそっとうかがった。
「やれ!」わたし大声おおごえ命令めいれいした。
赤毛あかげ卑怯ひきょうだ! おも存分ぞんぶんやれ!」
ゆるしがたのでポチは、ぶるんとひとおおきく胴震どうぶるいして、弾丸だんがんのごとく赤犬あかいぬのふところにびこんだ。たちまち、喧々囂々けんけんごうごう二匹にひきひとつの手毬てまりみたいになって、格闘かくとうした。赤毛あかげは、ポチのばいほどもおおきい図体ずうたいをしていたが、駄目だめだった。ほどなく、キャンキャンと悲鳴ひめいげて敗退はいたいした。おまけにポチの皮膚病ひふびょうまでうつされたかもわからない。バカなやつだ。

 翌る朝、四時に私は起きた。目覚時計を掛けておいたのであるが、それの鳴りださぬうちに、眼が覚めてしまった。しらじらと明けていた。肌寒いほどであった。私は竹の皮包をさげて外へ出た。
「おしまいまで見ていないですぐお帰りになるといいわ」家内は玄関の式台に立って見送り、落ち着いていた。
「心得ている。ポチ、来い!」
ポチは尾を振って縁の下から出てきた。
「来い、来い!」私は、さっさと歩きだした。きょうは、あんな、意地悪くポチの姿を見つめるようなことはしないので、ポチも自身の醜さを忘れて、いそいそ私についてきた。霧が深い。まちはひっそり眠っている。私は、練兵場へいそいだ。途中、おそろしく大きい赤毛の犬が、ポチに向って猛烈に吠えたてた。ポチは、れいによって上品ぶった態度を示し、何を騒いでいるのかね、とでも言いたげな蔑視をちらとその赤毛の犬にくれただけで、さっさとその面前を通過した。赤毛は、卑劣である。無法にもポチの背後から、風のごとく襲いかかり、ポチの寒しげな睾丸をねらった。ポチは、咄嗟にくるりと向きなおったが、ちょっと躊躇し、私の顔色をそっと伺った。
「やれ!」私は大声で命令した。
「赤毛は卑怯だ! 思う存分やれ!」
 ゆるしが出たのでポチは、ぶるんと一つ大きく胴震いして、弾丸のごとく赤犬のふところに飛びこんだ。たちまち、けんけんごうごう、二匹は一つの手毬みたいになって、格闘した。赤毛は、ポチの倍ほども大きい図体をしていたが、だめであった。ほどなく、きゃんきゃん悲鳴を挙げて敗退した。おまけにポチの皮膚病までうつされたかもわからない。ばかなやつだ。


喧嘩けんかわり、わたしはホッとした。
文字通もじどおあせしてながめていたのである。
一時いちじ二匹にひきいぬ格闘かくとうきこまれて、わたしともぬようなさえしていた。
まえころされたっていいんだ。ポチよ、おも存分ぞんぶん喧嘩けんかをしろ!と異様いようりきんでいたのであった。
ポチは、げてゆく赤毛あかげすこいかけ、ちどまってわたし顔色かおいろをチラリとうかがい、きゅうにしょげて、くびげすごすごわたしほうかえしてきた。
「よし! つよいぞ」と、めてやり、わたしあるきだし、はしをカタカタとわたった。ここはもうはらっぱである。

 喧嘩が終って、私は、ほっとした。文字どおり手に汗して眺めていたのである。一時は二匹の犬の格闘に巻きこまれて、私もともに死ぬるような気さえしていた。おれは噛み殺されたっていいんだ。ポチよ、思う存分、喧嘩をしろ! と異様に力んでいたのであった。ポチは、逃げてゆく赤毛を少し追いかけ、立ちどまって、私の顔色をちらと伺い、きゅうにしょげて、首を垂れすごすご私のほうへ引返してきた。
「よし! 強いぞ」ほめてやって私は歩きだし、橋をかたかた渡って、ここはもう練兵場である。


むかし、ポチは、このはらっぱにてられていた。だからいま、また、このはらっぱへかえってきたのだ。
おまえの故郷ふるさとぬがよい。
わたしまり、「ポチ、え」とって、ボトりと牛肉ぎゅうにくかたまりあしもとへとした。
わたしはポチをたくなかった。ぼんやりそこにったまま、ペチャペチャとべているおといている。
一分いっぷんたぬうちにぬはずだ。

 むかしポチは、この練兵場に捨てられた。だからいま、また、この練兵場へ帰ってきたのだ。おまえのふるさとで死ぬがよい。
 私は立ちどまり、ぼとりと牛肉の大片を私の足もとへ落として、
「ポチ、食え」私はポチを見たくなかった。ぼんやりそこに立ったまま、「ポチ、食え」足もとで、ぺちゃぺちゃ食べている音がする。一分たたぬうちに死ぬはずだ。


しばらくって、わたしおも足取あしどりで猫背ねこぜになりながら、ノロノロとあるいていた。
きりあたりをふかつつみ、ほんのちかくのやまが、ぼんやりとくろかげとしていた。みなみアルプスも、富士山ふじさんも、まるで存在そんざいしるようだった。
朝露あさつゆ下駄げたがびしょれである。
わたしはいっそうふか背中せなかまるめ、おも足取あしどりで帰路きろについた。

はしわたり、中学校ちゅうがっこうまえまでて、ふとうしろをくと、
ポチがっていた。
わたしはすぐに事態じたい把握はあくした。
薬品やくひんかなかったのである。

もうわけなさそうにくびげ、健気けなげわたし視線しせんをそっとそらすポチ。
それはまるで「ぼく一緒いっしょかえってもいい?」とわんばかりだった。
わたしは、うなずきながらすべてを理解りかいし、最初さいしょからやりなお覚悟かくごをして、いえかえった。

いえくなり、いままでこころつかえていたものがはずれたかのように言葉ことばいてた。
駄目だめだった。くすりかなかった。でも、これは運命うんめいかもしれない。ポチをゆるしてやろう。あいつにつみなんかかったんだ。ぼく芸術家げいじゅつかたるものは、よわもの味方みかたであるべきなんだ!」

わたしはさらにつづけた。
弱者じゃくしゃともこそが芸術家げいじゅつか原点げんてん。これが出発点しゅっぱつてんで、最高さいこう目的もくてきなんだ。こんな単純たんじゅんなことをわすれていた。いや、ぼくだけじゃない、みなわすれてるんだ!」
「ポチを東京とうきょうれてこうとおもう。だれかがポチの姿すがたわらったら、容赦ようしゃなくぶんなぐってやる。」

と、興奮こうふんしてかたわたしに、家内かない戸惑とまどいの表情ひょうじょうかべていた。
たまごはあるかい?ポチに全部ぜんぶやろう。皮膚病ひふびょうなんて、あいがあればすぐなおるさ!」
家内かない困惑こんわくしながらも、微笑ほほえみをかべていた。
「ええ、たまごはありますよ。でも、本当ほんとうにいいんですか?」

当然とうぜんだよ、あたらしい人生じんせいはじまりじゃないか。ポチと一緒いっしょに、ぼくたちもわるんだ!」

すると、ポチもあまりのうれしさに興奮こうふんし、わたしびかかるやいなや、
わたしをガブリとんでいた。

 私は猫背になって、のろのろ歩いた。霧が深い。ほんのちかくの山が、ぼんやり黒く見えるだけだ。南アルプス連峰も、富士山も、何も見えない。朝露で、下駄がびしょぬれである。私はいっそうひどい猫背になって、のろのろ帰途についた。橋を渡り、中学校のまえまで来て、振り向くとポチが、ちゃんといた。面目なげに、首を垂れ、私の視線をそっとそらした。
 私も、もう大人である。いたずらな感傷はなかった。すぐ事態を察知した。薬品が効かなかったのだ。うなずいて、もうすでに私は、白紙還元である。家へ帰って、

「だめだよ。薬が効かないのだ。ゆるしてやろうよ。あいつには、罪がなかったんだぜ。芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ」私は、途中で考えてきたことをそのまま言ってみた。「弱者の友なんだ。芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ。こんな単純なこと、僕は忘れていた。僕だけじゃない。みんなが、忘れているんだ。僕は、ポチを東京へ連れてゆこうと思うよ。友がもしポチの恰好を笑ったら、ぶん殴ってやる。卵あるかい?」
「ええ」家内は、浮かぬ顔をしていた。
「ポチにやれ、二つあるなら、二つやれ。おまえも我慢しろ。皮膚病なんてのは、すぐなおるよ」
「ええ」家内は、やはり浮かぬ顔をしていた。

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