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これなら読めるぜ!現代語に訳して!「人生」夏目漱石

人生

夏目漱石


「物」とは目に見える存在や形のあるもの、
「事」とは時間の流れの中で起こる出来事や行動を指す。
これらの「物事」と私たちの「心」は密接に結びついている。
外の世界で起こることが私たちの感情や思考に影響を与え、
同時に私たちの心の状態が外の世界の捉え方や行動を決定する。

例えば、美しい景色(物)を見れば心が癒され、
友人との楽しい会話(事)は幸福感をもたらす。
逆に、心が落ち込んでいれば同じ景色も暗く見え、
楽しいはずの会話も退屈に感じるかもしれない。

このように、物事と心は常に相互に影響し合っているのだ。
人生は、この物事と心の相互作用の連続である。
怖いこと、楽しいこと、好きな人との出会い、約束を守ること、
これらすべての経験が私たちの心を形作り、
同時に私たちの心がこれらの経験の意味を決定する。
そして、この相互作用は人それぞれで異なる。
のんびりした人、忙しい人、変わった人、不満を感じる人、勇気のある人、頑固な人、それぞれが自分なりの方法で物事を解釈し、反応する。
同じ出来事でも、人によって全く異なる意味を持つことがあるのだ。

人生は一つ一つ数えると、とても時間がかかるほど複雑だ。
人それぞれの行動は違っていて、与える影響も同じではない。
人を殺すことは一つだが、毒を使うのと刃物を使うのとでは違う。
わざとやったのか、間違えてやったのかでも違う。
これを分けるだけでも大変だ。
国によって言葉が違い、人にも上下関係があるから、同じことでも違う言い方をする。
比べるだけでも怖いが、天皇陛下が亡くなることを「崩御」と呼び、万人が亡くなることを「くたばる」と呼ぶ。鳥は「落ちる」、魚は「上がる」と言うが、結局死ぬことはみな同じだ。
もし人生のすべてを細かく分けられるのなら、空の星や砂浜の砂の数も簡単に数えられるだろう。

 空を劃して居る之を物といひ、時に沿うて起る之を事といふ、事物を離れて心なく、心を離れて事物なし、故に事物の変遷推移を名づけて人生といふ、猶麕身牛尾馬蹄のものを捉へて麟といふが如し、かく定義を下せば、頗る六つかしけれど、是を平仮名にて翻訳すれば、先づ地震、雷、火事、爺の怖きを悟り、砂糖と塩の区別を知り、恋の重荷義理の柵抔といふ意味を合点し、順逆の二境を踏み、禍福の二門をくゞるの謂に過ぎず、但其謂に過ぎずと観ずれば、遭逢百端千差万別、十人に十人の生活あり、百人に百人の生活あり、千百万人亦各千百万人の生涯を有す、故に無事なるものは午砲を聞きて昼飯を食ひ、忙しきものは孔席暖ならず、墨突黔せずとも云ひ、変化の多きは塞翁の馬に※しんにうをかけたるが如く、不平なるは放たれて沢畔に吟じ、壮烈なるは匕首を懐にして不測の秦に入り、頑固なるは首陽山の薇に余命を繋ぎ、世を茶にしたるは竹林に髯を拈り、図太きは南禅寺の山門に昼寝して王法を懼れず、一々数へ来れば日も亦足らず、中々錯雑なものなり、加之個人の一行一為、各其由る所を異にし、其及ぼす所を同じうせず、人を殺すは一なれども、毒を盛るは刃を加ふると等しからず、故意なるは不慮の出来事と云ふを得ず、時には間接ともなり、或は又直接ともなる、之を分類するだに相応の手数はかゝるべし、況まして国に言語の相違あり、人に上下の区別ありて、同一の事物も種々の記号を有して、吾人の面目を燎爛せんとするこそ益面倒なれ、比較するだに畏けれど、万乗には之を崩御といひ、匹夫には之を「クタバル」といひ、鳥には落ちるといひ、魚には上がるといひて、而も死は即一なるが如し、若し人生をとつて銖分縷析するを得ば、天上の星と磯の真砂の数も容易に計算し得べし


小説は、この複雑な人生の一側面を描くものである。
その一側面でさえ単純ではないが、巧みに描かれると、混沌とした事象を統合して一つの哲学的な教訓を示すことができる。
私はエリオットの小説を読んで、生まれながらの悪人はいないことを知った。
また、罪を犯した人でも許せる部分があり、憐れむべきだということも学んだ。
一つ一つの行動が自分の運命に関係していることも理解した。
サッカレーの小説からは、正直者が馬鹿に見えることや、狡猾で悪賢い人が世間で重宝されることを知った。
ブロンテの小説からは、人々の間に感応があることを学んだ。
確かに小説には、環境を描写するもの、性格を描くもの、心理を分析するもの、直感的に人生を見通すものがある。
これらはそれぞれの方面から私たちに何かを教えてくれる。
しかし、人生は心理的な分析だけで理解できるものではないし、直感だけで見通せるものでもない。
私は、人生にはこれら以外にも不可思議なものがあると信じている。
ここで言う不可思議とは、超自然的な現象のことではない。
私が手を振ったり目を動かしたりしても、なぜそうするのかわからないことがある。
因果関係を無視し、自分の意思とは関係なく、突然起こり、急に来るものを指す。世間ではこれを狂気と呼ぶが、そう呼ぶのも間違いではない。
しかし、他人の行動を狂気と呼ぶ前に、自分も狂気に陥ったことがあることを認めるべきだ。
また、誰でもいつでも狂気になる可能性があることを理解すべきだ。

人は自分のことをよく知らないものだ。
人を馬鹿だと言うのは、自分が賢いと思っている時の批評だ。
自分もいつでも馬鹿になる可能性があることに気づかない人の批評だ。
当事者は迷い、傍観者は笑う。
しかし、傍観者が必ずしも上手に対処できるとは限らない。
自分のことをよく知っている人は少ないと言われる。
私は、人間には自己認識の能力がないと断言したい。
ポーの言葉を借りれば、名誉は目の前にあるのに、なぜ人々は自分の本心をそのまま語らないのだろうか。
しかし、思ったままを書こうとすると、筆はすぐに止まり、紙は縮んでしまう。
称賛が得られることを知っていても、誰もそれを実行しないのはこのためだ。

人は夢を見るものだ。思いもよらない夢を見るものだ。
目覚めた後、冷や汗をかき、茫然自失することもある。
夢だからと一笑に付す人は、物事の一面しか知らない人だ。
夢は夜中の寝床だけでなく、晴れた日中でも、大通りの真ん中でも、正装している時でも、突然やってくる。
重要な瞬間に突然現れて私たちを恥じ入らせ、その来る所も去る所もわからない。
しかし、人生の真相は半分この夢の中にあって、はっきりとはしないものだ。
この自分の真の姿を表現することが名誉への近道だが、それは臆病な人類にとって最も難しい課題である。
願わくば、「人は自分のことを知らないのだろうか」などと言う人に、正直に自分の心の歴史を書いてもらいたい。
きっと、自分のことを知らなかったことに驚くだろう。

 小説は此錯雑なる人生の一側面を写すものなり、一側面猶且単純ならず、去れども写して神に入るときは、事物の紛糾乱雑なるものを綜合して一の哲理を数ふるに足る、われ「エリオツト」の小説を読んで天性の悪人なき事を知りぬ、又罪を犯すものの恕すべくして且憐むべきを知りぬ、一挙手一投足わが運命に関係あるを知りぬ、「サツカレー」の小説を読んで正直なるものの馬鹿らしきを知りぬ、狡猾奸佞なるものの世に珍重せらるべきを知りぬ、「ブロンテ」の小説を読んで人に感応あることを知りぬ、蓋し小説に境遇を叙するものあり、品性を写すものあり、心理上の解剖を試むるものあり、直覚的に人世を観破するものあり、四者各其方面に向つて吾人に教ふる所なきにあらず、然れども人生は心理的解剖を以て終結するものにあらず、又直覚を以て観破し了すべきにあらず、われは人生に於て是等以外に一種不可思議のものあるべきを信ず、所謂不可思議とは「カツスル、オフ、オトラントー」の中の出来事にあらず、「タムオーシヤンター」を追懸けたる妖怪にあらず、「マクベス」の眼前に見あらはるゝ幽霊にあらず、「ホーソーン」の文「コルリツヂ」の詩中に入るべき人物の謂にあらず、われ手を振り目を揺かして、而も其の何の故に手を振り目を揺かすかを知らず、因果の大法を蔑にし、自己の意思を離れ、卒然として起り、驀地に来るものを謂ふ、世俗之を名づけて狂気と呼ぶ、狂気と呼ぶ固より不可なし、去れども此種の所為を目して狂気となす者共は、他人に対してかゝる不敬の称号を呈するに先だつて、己等亦曾て狂気せる事あるを自認せざる可べからず、又何時にても狂気し得る資格を有する動物なる事を承知せざるべからず、人豈に自ら知らざらんやとは支那の豪傑の語なり、人々自ら知らば固より文句はなきなり、人を指して馬鹿といふ、是れ己が利口なるの時に於て発するの批評なり、己も亦何時にても馬鹿の仲間入りをするに充分なる可能力を具備するに気が付かぬものの批評なり、局に当る者は迷ひ、傍観するものは嗤ふ、而も傍観者必ずしも棊を能くせざるを如何せん、自ら知るの明あるもの寡なしとは世間にて云ふ事なり、われは人間に自知の明なき事を断言せんとす、之を「ポー」に聞く、曰く、功名眼前にあり、人々何ぞ直ちに自己の胸臆を叙して思ひのまゝを言はざる、去れど人ありて思ひの儘を書かんとして筆を執れば、筆忽ち禿し、紙を展れば紙忽ち縮む、芳声嘉誉の手に唾して得らるべきを知りながら、何人も※躇して果たさざるは是が為なりと、人豈に自ら知らざらんや、「ポー」の言を反覆熟読せば、思半ばに過ぎん、蓋し人は夢を見るものなり、思ひも寄らぬ夢を見るものなり、覚めて後冷汗背に洽く、茫然自失する事あるものなり、夢ならばと一笑に附し去るものは、一を知つて二を知らぬものなり、夢は必ずしも夜中臥床の上にのみ見舞に来るものにあらず、青天にも白日にも来り、大道の真中にても来り、衣冠束帯の折だに容赦なく闥を排して闖入し来る、機微の際忽然として吾人を愧死せしめて、其来る所固より知り得べからず、其去る所亦尋ね難し、而も人生の真相は半ば此夢中にあつて隠約たるものなり、此自己の真相を発揮するは即ち名誉を得るの捷径にして、此捷径に従ふは卑怯なる人類にとりて無上の難関なり、願はくば人豈に自ら知らざらんや抔といふものをして、誠実に其心の歴史を書かしめん、彼必ず自ら知らざるに驚かん


三陸の津波や石川の地震は天災と呼ばれる。
天災とは人間の意思ではどうすることもできないものだ。
人間の行為は通常、良心の制御を受け、意思によって支配される。
一つ一つの行動に責任があるのだ。
確かに洪水や飢饉と同じように論じるべきではないが、良心が常に主権者というわけではない。
体は必ずしも我々の意思通りに動くわけではない。
突然の変化で自分の精神の輝きを失い、奈落の底に落ち、闇の中で跳躍することもある。
そのような時、我々の心身には秩序も系統も思慮も分別もなく、ただ盲目的な衝動に任せるだけだ。
もし津波や地震が人間の意思ではないとするなら、この盲目的な行動も人間の意思ではないだろう。
人を殺す者は死ぬ、というのは世の中の定めだが、自ら死を決意して人を殺す者は少ない。
息が詰まり、刃が光るその瞬間、すでに自分の存在さえ意識できず、どうして敵の存在を認識できようか。
電光石火の中で春風を切るようなこの行為は、人間の意思なのか、それとも天の意思なのか。

詩人は一人部屋に座り、深く思索する。
両頬が火のように赤くなり、喉から声が出る。
文章を書くのに時間がかかり、思考を巡らせる時は大変苦しむ。
しかし、インスピレーションが涌くと大喜びし、衣服を引っ張り、床を歩き回って叫ぶ。
バーンズは詩を作りながら川辺を歩き、うめいたり小声で歌ったりするらしい。突然大声で歌い、涙を流す。
西洋人はこのような行為を「インスピレーション」と呼ぶ。このインスピレーションは人間の意思なのか、それとも天の意思なのだろうか。

 三陸の海嘯濃尾の地震之を称して天災といふ、天災とは人意の如何ともすべからざるもの、人間の行為は良心の制裁を受け、意思の主宰に従ふ、一挙一動皆責任あり、固より洪水飢饉と日を同じうして論ずべきにあらねど、良心は不断の主権者にあらず、四肢必ずしも吾意思の欲する所に従はず、一朝の変俄然として己霊の光輝を失して、奈落に陥落し、闇中に跳躍する事なきにあらず、是時に方つて、わが身心には秩序なく、系統なく、思慮なく、分別なく、只一気の盲動するに任ずるのみ、若し海嘯地震を以て人意にあらずとせば、此盲動的動作亦必ず人意にあらじ、人を殺すものは死すとは天下の定法なり、されども自ら死を決して人を殺すものは寡なし、呼息逼り白刃閃く此刹那、既に身あるを知らず、焉んぞ敵あるを知らんや、電光影裡に春風を斫るものは、人意か将はた天意か青門老圃独り一室の中に坐し、冥思遐捜す、両頬赤を発し火の如く、喉間咯々声あるに至る、稿を属し日を積まざれば出でず、思を構ふるの時に方つて大苦あるものの如し、既に来れば則ち大喜、衣を牽き、床を遶りて狂呼す、「バーンス」詩を作りて河上に徘徊す、或は呻吟し、或は低唱す、忽ちにして大声放歌欷歔涙下る、西人此種の所作をなづけて、「インスピレーション」といふ、「インスピレーション」とは人意か将た天意か


デクインシー曰く、
「世の中には、人の心がどれほど善良で、またどれほど邪悪かを知らずに過ごす者がいる」と。
他人のことならばもちろんそうだろう。
私はデクインシーに問い返したい。
「あなた自身がどれほど善人で、またどれほど悪人であるかを知っているのか」と。
善悪だけでなく、臆病と勇敢、強さと弱さ、高さと低さの区別も、すべてこの反問に含まれるだろう。
平穏な時は天が落ちても地が割れても驚かないと思っていても、いざ何かが起これば、梁の上からネズミの糞が落ちただけでも魂消る種となる。
自分でも情けないと思うが仕方がないのだ。
源氏討伐の命令を受けて、はるばる富士川まで押し寄せた7万余騎の大軍が、水鳥の羽音に驚き、一矢も放たずに逃げ帰ったというのは、平家物語を読む者には馬鹿げたことに思えるだろう。
後世の我々が馬鹿げていると思うだけでなく、当事者である平家の武士たちも翌日はさぞ口惜しく思っただろう。
しかし、彼らは富士川に宿泊した晩に限って、急に揃いも揃って臆病風に吹かれたのだ。
この臆病風は23日の夜中に突然吹き始め、7万余騎の陣中を駆け巡り、翌24日の明け方になってようやく静かに止んだ。
誰がこの風の行方を知る者がいただろうか。

 「デクインシー」曰く、世には人心の如何に善にして、又如何に悪なるかを知らで過ぐるものありと、他人の身の上ならば無論の事なり、われは「デクインシー」に反問せん、君は君自身がどの位の善人にして、又どの位の悪人たるを承知なるかと、豈に啻善悪のみならん、怯勇剛弱高下の分、皆此反問中に入るを得べし、平かなるときは天落ち地欠くるとも驚かじと思へども、一旦事あれば鼠糞梁上より墜てだに消魂の種となる、自ら口惜しと思へど詮せんなし、源氏征討の宣旨を蒙りて、遥々富士川迄押し寄せたる七万余騎の大軍が、水鳥の羽音に一矢も射らで逃げ帰るとは、平家物語を読むものの馬鹿々々しと思ふ処ならん、啻に後代の吾々が馬鹿々々しと思ふのみにあらず、当人たる平家の侍共も翌日は定めて口惜しと思ひつらん、去れども彼等は富士川に宿したる晩に限りて、急に揃ひも揃うて臆病風にかゝりたるなり、此臆病風は二十三日の半夜忽然吹き来りて、七万余騎の陣中を馳け廻り、翌る二十四日の暁天に至りて寂として息やみぬ、誰か此風の行衛を知る者ぞ


犬に吠えられて、自分が泥棒ではないかと結論づける人は、よほどの愚か者か、おっちょこちょいな人だと言える。
しかし、世間では賢者や知者と見なされている人でも、同じような思考に陥ることがあるのだ。
普段は威張っている人が最後に臆病になったり、臆病だと思われていた人が突然勇敢になったりするのは、自分でも説明できない現象だ。
まして他人のことはなおさらわからない。

幾何学では2つの点を知れば直線の方向がわかるが、人生では100の点を知っても方向を定めることはできない。
人生は一つの理屈でまとめられるものではなく、小説は一つの理屈を暗示するに過ぎない。
我々の心の中には、底のない三角形や、二辺が平行な三角形のような、通常の論理では説明できないものがある。
もし人生が数学的に説明でき、与えられた材料から人生が予測できるなら、そして、人間が自分の人生を完全に支配できるなら、はたまた、作家が描いた人生以外に人生がないのなら、人生はずっと便利で、人間はずっと偉大なものだろう。
しかし、予期せぬ変化が外界に起こり、思いがけない心が心の底から出てくる。
それは容赦なく、乱暴に現れる。
津波や地震が三陸や石川だけでなく、我々の心の中にも起こるのだ。
なんと危険なことか。

 犬に吠え付かれて、果ては己は泥棒かしらん、と結論するものは余程の馬鹿者か、非常な狼狽者と勘定するを得べし、去れども世間には賢者を以て自ら居り、智者を以て人より目せらるゝもの、亦此病にかかることあり、大丈夫と威張るものの最後の場に臆したる、卑怯の名を博したるものが、急に猛烈の勢を示せる、皆是れ自ら解釈せんと欲して能はざるの現象なり、況や他人をや、二点を求め得て之を通過する直線の方向を知るとは幾何学上の事、吾人の行為は二点を知り三点を知り、重ねて百点に至るとも、人生の方向を定むるに足らず、人生は一個の理窟に纏め得るものにあらずして、小説は一個の理窟を暗示するに過ぎざる以上は、「サイン」「コサイン」を使用して三角形の高さを測ると一般なり、吾人の心中には底なき三角形あり、二辺並行せる三角形あるを奈何せん、若し人生が数学的に説明し得るならば、若し与へられたる材料よりXなる人生が発見せらるゝならば、若し人間が人間の主宰たるを得るならば、若し詩人文人小説家が記載せる人生の外に人生なくんば、人生は余程便利にして、人間は余程えらきものなり、不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る、容赦なく且乱暴に出で来る、海嘯と震災は、啻に三陸と濃尾に起るのみにあらず、亦自家三寸の丹田中にあり、険呑なる哉



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