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随筆(2020/4/21):他者の了解不可能性を突き詰めると、不信感に至るが、そんなことでは約束事は成り立たない

プログラマのときも、地方公僕のときも、それぞれの理由で、人間に対する甘い信頼を持てなくなっていった。


他人を理解したと思ってはならない。忖度は避けられない。

しかもその忖度はしばしば間違っている。間違っていて当然のものだ。自分と他人は違うんだから。

他人を理解したという驕りは、他人を理解しようとする努力を、かなり露骨に損なう。

相手のことが少しは分かった、という感覚は、実際にはあまり信用できないのだが、仮に信じたということにして、砂上の楼閣に屋上屋を架してバベルの塔を建て、相手への梯子とする。

バベルの塔は崩れる。土台さえ残っていればよい。残ったところは信頼出来る。そうした土台に基づく、仮初めの他者理解の増築部分を増やしたバベルの塔を、また建てる。それは、また、崩れるだろうが、残る土台はどんどん大きく、堅牢になる。いつか、崩れていない塔が残る。それでいい。その程度に考える。


どんなに相手に前提を確認しても、その前提が確実だという話にはならない。

共通言語があるから理解できる情報が伝えてもらえて当たり前、という感覚、捨てた方がいい。

自分の解像度も、相手の説明力も、有限に決まってるんだから。

それ以上を得ようとしたら、自分の解像度や相手の説明力は破壊される。自分に。

たいていその努力はしつこいものになる。それで人間関係を構築しようとしたら、お互い嫌になる。これで何度も失敗している。


残った土台は信用できるが、崩れた部分は全部疑ってかかるし、どこが脆弱だったのかも丁寧に吟味しなければならない。

見ないし反省しないと、試行錯誤や長期戦でメチャクチャ弱くなるからだ。


不信感こそが見る目のリアルな厳しさを養う。

だが、それでは他人のものの見え方や、信頼に基づく約束事は、何も見えなくなっていくのではないか。

他人を、もっと、信じたらどうだ。

俺の不信感は、そういうリスク対策としてはごく当たり前だが、実際にはリスクでも何でもない人にしてみたら、俺は相手に不当な嫌疑をかけている不愉快なおっさんだ。

不信感で備えれば備えるほど、相手は当然こちらを信じなくなる。そんなことばかりしてるからダメなんだよな…

(本質的な話に踏み入ろうとしているのは明らかだが、かなり参ってるねお前)

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