随筆(2020/8/30):「ロマンティック・ラブ・イデオロギーがやれないやつは二級市民」というイデオロギーが、むしろ人を不幸にしているのではないか?
1.「何で俺は結婚しようとしているんだろう」
婚活、難航しています。
それはそれとして、ときどき、「何で俺はこんなことをやっているのだろうか?」と混乱することもあります。(当の俺が混乱しとるやんけ)
長期的なパートナーシップを、どうしても真剣に考えることが出来ない。
どちらかというと、強迫観念として、自分の中にある。
「いわゆる、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの呪いが、自分にもかかっているのではないだろうか?」
そういう疑いを、切り捨てることが出来ない。
2.ロマンティック・ラブ・イデオロギーとは何か
ロマンティック・ラブ・イデオロギーとは、
「人格的な結びつきによる愛情」と、
「排他的な性的関係」と、
「永続的な婚姻関係」が不可分に結びついた概念です。
3.「短期的にお付き合いしたい」というナンパなニーズは、二級市民や地下産業の非正規戦術だとされがちだ
「人格的な結びつきによる愛情」
ということは、
「一時の衝動による相手への執着ではない」
ということです。
で、これを真に受けて、そのままやっていると、
「自分の中の衝動や執着を、うまく管理する以前の問題として、そもそも認識出来なくなる」
という、かなり恐ろしい事態になってしまいます。
かなり多くの場合、「あったら忌まわしいもの」と、「あったらおかしいもの」と、「あるはずのないもの」の区別は、よほど解像度の高い人でなければ、かなり難しい要求なのです。
しかし、これが出来なければ、ある程度以上の円滑な処世は、まあ出来まい。
***
「短期的にお付き合いしたい」
というニーズは、ある。
おそらく、男性のみならず、女性でも、
「ひとときを過ごすには魅力的かもしれないが、長期的にお付き合いするということは発想に浮かんで来ない」
タイプのパートナー(やその候補)の顔が、思い浮かぶことがあるだろう。
それは、そういうものです。
戦術が複数あるだけです。
***
ひどくえげつないことを言うかもしれませんが、
「ロマンティック・ラブ・イデオロギーの内面的な動機となる、ロマンティック特大感情は、覚せい剤と同じで、興奮を持続出来ない」
訳です。
人間の神経は、常時ハイレベルで興奮していられるようには、出来てないからな。
快楽に関わる報酬系、A-10神経は、勝手に落ち着く負のフィードバックを持たないが、疲労があったらいずれその興奮は持続出来なくなる。
挙句、その後でギャップで不安で不快になる。禁断症状ですね。
そうならないよう、常に、休み休みやっていくのが肝心。
で。
神経の興奮をもたらす、自分の中のパートナーシップに対する願望が、
「この人と添い遂げて悔いなし」
という、シャブガンギマリ性質のものか、単に
「一緒にいると快い」
という、より普遍的な(長期性を持つとは限らない)ものなのか、そこはちゃんと見極めた方がいいと思います。
前者のガンギマリを自分が保てないなら、前者の話を真に受けない方がいいですよ。
まして、公言もしない方がいいですよ。
あなたに巻き込まれて、それに乗って、真に受けた周囲は、だいぶ迷惑するんだから。
***
もちろん、安定という意味では、長期的なお付き合いの方が「強い」。
だけど、これが当事者の人生をドブに捨てさせるレベルの、そして一部の(今や少なくない)人たちには到底容認しがたいレベルの、べらぼうなコストを強いることも明らかだ。
長期的にはコストは低くなる(生活レベルがよくなる)可能性があり、先行投資という観点からはアリかもしれない。
が、つまりは種銭が要る。そしてそれはべらぼうなコストである。依然何ら変わりがなく。
この一点だけでも、長期的なお付き合いが、短期的なお付き合いを否定するだけの根拠にはなり得ない。
むしろ、ここは、長期的なお付き合いという選択肢を、少なくない人たちが忌避するに足る、極めて大きなデメリットでしょう。
***
もちろん、
「このコストが払えない人は、そもそもこのステージに立たないで欲しいから、これは足切りであり、これでよいのです」
という理屈は当然あるだろう。
会員制の考え方は、コストと成果を考えた時に、ある程度、正しい。
だが、ここに、万人に強いるほどの訴求力、アピールが、果たしてあるだろうか。
例えば、日本における義務教育は、今でこそ受けて当たり前だが、昔は
「自分ではなく子供のために? そんなことをしたら自分も家族も餓死するんだよ」
という理屈で、拒絶されて来たものだ。
(ちなみにこれは、子供を何らかの労働力として扱うためです。
当然、今ではこれは容認出来ないでしょう)
今は、育児そのものが、そうなりつつある。
そんな状況下で、子育てを自明視した態度そのものが、
「こいつら、そういう投資が出来る時代を、うまく泳ぎ切って、つまりは負債から逃げ切ったんだよなあ。
その上で、逃げ切れなかった、当然負債を抱えた自分たちに、こんな言い草をするんだよなあ。
自分で盗人猛々しいと一瞬たりとも疑わなかったのだろうか? 他の世代と話をしているだろうか? こいつらの話、聞く価値、なくない?」
という感情を、ふつうに引き起こす。
***
短期的なお付き合いのニーズを、
「ふしだらだ」
とか、
「長期的に生活を共にする能力がない二級市民のやることだから、報いる値打ちがない」
とか、クソみたいな理由で否認するの、よくないですよ。
「長期的にお付き合いすることを、正規の戦術と見なす。
それ以外のパートナーシップを全て、二級市民の穢れた退廃的な非正規戦術と見なす」
と考えて、あまつさえ、己の動機を、一律、
「この人と長期的に生活を共にしたい」
と偽るの、かなりよくないですよ。
実は、ひとときお付き合いしたいが、継続のコストを不必要に払いたくはない。というのが本心だったなら、最初からその旨お伝えして、出来れば回数や期間を定めた方がいいんじゃないでしょうか。
そして、期間が過ぎたら、延長するか、スパッと別れた方がいいですよ。
そうしないと、これは、どうしようもなく、後腐れが残るよ。
4.性風俗産業を、非正規戦術として、二級市民の地下産業扱いすることの、弊害
主にナンパの話をしてきたが、これと同じく、性風俗産業は、この観点からは
「二級市民のやること」
という扱いになります。
性風俗産業を非難する女性はかなり多いですが、その発言を噛み砕くと、
「この非正規戦術を採るやつは二級市民であり、二級市民の食い物にされる女性は可哀想だ」
という構造を、かなりしばしば持ちます。
この理屈、一見もっともに見えるのですが、言っているのが一級市民(を自認する人たち)だった場合、かなり最悪な性質を帯びます。
「一級市民の私が、二級市民に虐げられている、本来は一級市民と同等であるべき三級市民を、擁護するのだ」
こういう響きです。
この時点で、二級市民扱いされた側(や、三級市民扱いされた側)に、説得など通じる訳がありません。そりゃそうでしょうね。
「こいつらは、自分が二級市民(や三級市民)の生殺与奪の権を握っている、一級市民のつもりである。
つまり、気分で与え、気分で奪う。そういう手合いだ。
こんなやつらに、何の信頼がある?
というか、こいつら、何で自分たちが信頼されると信じた?
耳を貸す気、微塵も起こらんのだが…?」
そのくらいのことは思われても、何一つしょうがないところでしょう。
***
なお、性風俗産業で、刑法レベルの犯罪が起きやすいのは、それはその通りです。
だから、真面目にこの問題を考えている人は、御託はさておいて、まず刑法レベルの犯罪をどうにか解決しようとします。
これをやらないと、まずは何の信頼もありません。だって、要は、救わないんだから。
御託だけで何かしたつもりになるようでは困る。そのくらいのことは、当然思われているでしょうね。
そして、しばしばそういう刑法レベルの犯罪が横行する理由は、根本的には
「性風俗産業が、非正規戦術だと思われているから、二級市民のものだと思われているから、地下産業のものだと思われているから」
というところにあります。
要は、ナメられているからです。
よくある話ですが、大雑把に、場が地下産業になればなるほど、そこにいる人たちの刑法的な水準の人権は、守られなくなります。
警察や福祉相談所や地方法務局等の役所が動くか、NPOだけが動くか、侠客が動くか、問題解決能力のない素人が動く(これではお互いがお互いに巻き込まれているのと同じ)か、誰も動かないか。この順で、事態は普通どんどん悪くなっていく。これはしばしば言われるところです。
そうなると、
「性風俗産業は、非正規戦術、二級市民、地下産業である」
という構造を保存しながら行われる、いかなる働きかけも、全て欺瞞的にならざるを得ない。
「困っているから」ということと「二級市民だから」ということを切り離さず、「困っている二級市民だから」という理由で、つまりはナメながら救おうとするやつ、いる。
まあ、パイを顔に叩きつけたくもなるわい。
ちったあ考えろよな。「二級市民だから」というのは、ふつうに考えたら、「言ってはならない」「言ったら全部終わる」台詞だろうが。『バックトゥザフューチャー』シリーズのマクフライに向かって「チキン(腰抜け)」呼ばわりするのと全く同じ。
救うつもりの相手に、宣戦布告ワードを叩きつける?
ふ……ふざけるなよ……! 戦争だろうが……思ってるうちはまだしも、それを口にしたら……戦争だろうがっ……!
受け手の感情は、かなり気を付けねばならないところの、しかも五本の指に入るくらい大事なところだろうが。下手すると、実利や実害と同じくらいには。
ナメながらもたらした実利を、ナメられた側が査定(アセスメント)の際に、「クソどもから寄越された実利、つまりは『クソでも食らえ』ということである。お断りだ。くたばれ」とマイナスに評価するの、佃煮にするほどよくある、不毛なあれではないか。
こんなことも分からなくなるのか? というか、「こんな了解不能なやつらの、くそだるい機微なんざ、酌む値打ちがない」という態度にとてつもなく見えるが…? じゃあ、話にならねえ。
というか、警察や地方法務局等の役所が、しばしばこれをやるんだよな。
真面目な福祉相談所の人だったら、この問題をかなり真剣に受け止めているはずだが、こういう扱いを全くしていないかというと、まあそうじゃないだろう。
ダメだっつーの。おそろしく雑なことやってんな。
働きかける側は、たいてい、精神的余裕や、特に経済的余裕がそれほどないので(手厚いサービスをやるには、予算は常に足りないからな)、そんなことは百も承知でやってるんだが、まあ、働きかけられる当事者としては、積極的に協力する気になど到底なれないだろうとは思いますよ。そりゃあ。
***
まして、そんなことを百も承知「ですらない」方々を、信頼するの、かなり怖いですよ。
そういう人達の、ときどきある傾向として、救った人を餓鬼道に放り出して達成感の笑みを満面に浮かべるのが好き。というのがあります。
平たく言うと、産業を潰して、再就職の面倒を見ないことがある。再就職まで面倒を見ても、離職したらケツモチしない。
そりゃそうだ。ケツモチはそれ自体、職業安定所がやるレベルの、かなり面倒な仕事なんだもんな。
インディーズの誰かが、それを補完するまでは出来ても、代替するまではふつう出来ない。
当然、餓鬼道に放り出された人たちは、餓死するか、餓死を逃れるためにさらなる地下産業に潜らざるを得なくなるので、メチャクチャ困るんですよね。
檻や鎖から離れられたと思ったら、なんかより大きな檻やより長い鎖がついたままだった。ビガー・ケージズ、ロンガー・チェインズ。そういうのやめろ。
人を檻や鎖から救いたいのなら、「檻や鎖がない」という状況をもたらさなければ意味がない。そういうのが残っていたら、全部台無しになることも、よくある。
そこは、責任を持って、やらねばならないところだろう。
(ますます、行政に主にやらせて、インディーズはその補完をしたり、
「そもそも補完すべき穴がある時点でおかしい。埋めろ。コスト? 税金を上げさせろ。何のためにお前らが仕事していると思ってるんだ」
と行政に迫ったりした方が、効果が高いように思うが…)
5.「ロマンティック・ラブ・イデオロギーがやれないやつは二級市民」というイデオロギーが、むしろ人を不幸にしているのではないか?
そんな訳で、どうにもこうにも、
「「ロマンティック・ラブ・イデオロギーがやれないやつは二級市民」
というイデオロギーが、むしろ人を不幸にしているのではないか?」
という考えが、ずっと頭を離れない訳です。
そういうのが出来れば、そりゃあ、いいことではあるだろうよ。
でも、今、そんな悠長な、しかも種銭の要ることを、やってる場合か?
あげく、そういうことで、精神的余裕経済的余裕のない俺らに、
「やれよ。それが正規の戦術なんだから」
とマウント取るの、本当にやめて欲しいんですけど。
随分と呑気でお金持ちなことだな。
ならば、今すぐ精神的余裕や経済的余裕のない人たちに、精神的余裕や経済的余裕を授けてみせろ。くらいのことしか言いたくないじゃん?
こちらの状況が見えてないか、自分からこちらへの説得が下手か、最悪の場合、自分の自慢話が下手。って話になっちゃうんだよな。
こういうところで横着するやつ、コミュニケーションの観点から見たら、お話にならないんだからな。
さてはて。
お見合い、どうしよう…いつかはうまくいったら嬉しいが…
(いじょうです)
(今回はポリアモリーや離婚の話はしませんでした。いずれ関わってくる可能性もあるが、今ちょっとそこまで考えられねえ)
応援下さいまして、誠に有難うございます! 皆様のご厚志・ご祝儀は、新しい記事や自作wikiや自作小説用のための、科学啓蒙書などの資料を購入する際に、大事に使わせて頂きます。