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随筆(2020/9/28):発達障害者には『的外れでも死なない』のマインドがとても大事(1.意図と遠慮)
1.発達障害者のおやつ時
3日前から行っていたMCTオイルダイエットですが、数日後に栄養士の方とサプリの飲み方の打ち合わせを行おうと思いますので、それまでいつも通りに過ごします。
たぶん影響の大きい糖質制限もそれまで中止。
という話を母に伝えました。
で、その後。
(おそらく)定型発達者の母が、作業中の発達障害者(俺)に、だいたい15-16時頃に、
「お茶とお菓子は各自食べたい時に食べればいいよ」
と言いに来たんですね。
言われた側の俺は、それはどういう意味か、まあ考えるじゃないですか。
ここで、発達障害者はしばしば
「ああ、お茶とお菓子は各自食べたい時に食べればいいんだな。
じゃあまた作業が終わった後で食おう」
という素直な解釈をします。
これが恐るべきトラブルの元であることは言うまでもありません。
というか、今までこれで何度もメチャクチャ痛い目見ています。
「ああ、母は、ダイエットを当面保留した俺と、おやつのお茶会をしたかったけど、遠慮する能力のある定型発達者なので、俺の作業を見たから、遠慮した。という可能性があるな。
今まで体験したパターンだと、この可能性は、高い。
じゃあ、もし母が、遠慮しているが本当はお茶会をやりたいような雰囲気を見せたなら、遠慮していようがあえてお茶会を承ろう。
ここで俺が作業を止めなかったらどうなる? 塩対応を取ったのと同じ意味になる。これは家庭内の人間関係にかなり悪く効く。この手の引っかかりを、出来るだけ生じさせるべきではない」
今回はこのような判断をしました。
これが後で失敗につながるのですが…(その話は、またはるか後でします)
2.発達障害者が定型発達者のコミュニケーションを模倣する時に何を考えているか
定型発達者に寄せた考え方だと、相手の意図というのは非常に重要になっていく訳です。
共感や、相手の意図の理解(心の理論)が出来ていないと、社会生活は極端に円滑さを欠き、というかほとんど不可能になります。
発達障害の外形的な症状とは別に、機序(メカニズム)として、しばしばこの不具合があります。私にもある。困る。
そして、相手の意図が、話の流れや人間関係次第では、しばしば相手の遠慮によって見えづらくなることも、よくあることです。
そりゃあそうだ。人の意図を見ない人と、それなりの深さのある付き合いをする。というの、大変ですよ。
誰しも、こういうのを、出来ればやりたくない。何を言うか考えて長々と説明するより、遠慮して会話を切り上げた方が、はるかに疲れない。
これに比べれば、意図が見える多くの定型発達者と、それなりの深さのある付き合いをするのは、定型発達者にとっては圧倒的に容易い。
で、遠慮されたが最後、発達障害者はお手上げになります。
定型発達者の発言を真に受けて、しかも意図を隠されている訳だからな。
もし、その発達障害者が、意図を読む能力を欠いていたら、そりゃあこの時点でジエンドです。どうにもならない。というか、なる訳ないじゃん。
***
外に出した実際の発言に、意図ごと殉じきれるかと言うと、人はしばしば殉じきれない訳です。
外形的な発言が、意図を反映していない場合、発言の方をどんだけ見ても、そこに発言者は自分の責任をしばしば持てない。
意図が反映されていないんだから、
「こんなのやりたくねえし、発言に責任なんか負うの、やなこったですよ」
としか言いたくないんですよね。
これ、誠実さの徳からすれば、およそ最悪の話をしていますね。
でも、よくある話じゃないですか。
こういうところで「不誠実」と憤る発達障害者も、かなりいます。
する側の気持ちはともかく、される側がされていることを考えれば、まあやむを得ないところでしょう。
で、残念ながら、そういう筋を通す、マジモンの善人は、少ない。
ふつうの人は、筋者(スジモン)じゃないんだからな。
というか、そういうことを期待すること自体が論外なんですよ。
「相手に対して、理想化された善人や、どう殴ってもいい悪人として、決め打ちで向き合うな。
そうではなく、善人とも悪人ともつかない、ふつうの人として扱え。
それこそが相手への、人としての権利への、尊重ということの、重要な根幹である」
とは、よく言われることでしょう。
で、ふつうの人の言うことがコロコロ変わるの、ごくありふれた話ではないですか。
何で「理想的な筋に現実世界の人間が殉じて当然」だと思う? 何一つ当然ではない。
ここで怒る人は、信頼ということの基盤を、主張や、その背景にある人格の、一貫性に置いているのかもしれない。
が、冷静に考えて欲しい。「そんなものがある」と、なぜ信じたのか?
たいてい、人の言うことや考えることの一貫性は、都合のいい時は筋を保っているが、都合が悪くなったら愚図愚図と、しかし最終的には無造作に打擲されるものだ。
その程度の一貫性しかないし、その限りではその一貫性は信頼できるので、その範囲内でのみ、信頼すればよい。そこから外のことは(まだ確認してないし、場合によっては確認する必要性もないので)分からん。それだけの話でしょう。
あくまで一貫性を保つ、現実世界の匂いのない、理想的な筋者(スジモン)は、そもそもはみ出し者の侠客(スジモン)扱いされていることがよくある。
繰り返すが、ふつうの人は、筋者(スジモン)ではない。
***
じゃあ、発達障害者が、定型発達者と、コミュニケーションをしたり、人間関係をやっていかねばならない時に、いったい何をどうすればいいのか。
という話を、次回からします。
(続く)
(あらかじめお伝えしますが、めたくた長くなってしまっています)
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