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(後編)「書くことで求められたい─出発する私」公募インタビュー#22

(ユミさん 2020年10月初旬)

・・・前編からの続きです・・・

コロナ禍により、人と接する仕事を休業せざるを得なかった海外在住のユミさん(以下、ユ)。これからの生き方を考え、ずっと好きだった「書くこと」で求められるようになるべく、ライティングを学んだりインタビュー記事を書いたりと行動し始めたそうです。
そんな中インタビュアー田中を見つけ、インタビューされる側も経験してみたいということで応募してくださいました。

言葉に移しかえる難しさ

──ユミさんはモヤモヤを書くことで整理されるということでしたが、モヤモヤを言語化するのは難しいことのような気がしますが、そんなことはない?

ユ ずっとしつこくやっているからだと思います(笑)。小学校の時から日記を書いてたんですよね。大学時代に留学した時、状況を伝えるために、最初はお手紙を個別に書いていたんですが、ブログを始めて。ずーっとなんらかの形で自分の気持ちを書くことをやってきたから自然とサイクルになって、モヤ・書く、モヤ・書く、みたいな(笑)。だからですかね。

──言葉にすることで逃げていっちゃう部分もありませんか?

ユ それはあると思います、すごく。きっと、言葉にできる範囲に矮小化されちゃうこともありますよね。本を読んだり映画を見たりして、じっくりじっくりためてく方がよさそうなことも、Twitterを始めてからぱぱっと書いちゃったりして、そうやって書くことで矮小化しちゃって熟成していかないみたいな面はあるんだろうなって思います。怒りなんかの強い感情だと、時間が経たないとわからないこともありますし。

 人のことを書く時にもそれがありそうで怖いなって今思いました。人って、表情とかしゃべり方とか視線とか服の選び方とか全部でその人で、特に会った時にはそれら全部から印象を受けとるんだと思うんですけど、印象を文章に移しかえるって相当高度ですよね。それは服装の描写だったり、いろいろだと思うんですけど、人物像がなんらかの形で伝わってくる、みたいな……。

 私がいいなと思う作家の人はできている感じがするんですが、一部しか書けていない文章を読んだ時、浅いなって思うんです。かと言って自分がインタビュー記事を書く時、いっぱい(インタビュイーから)受けとっているはずなのに全然書けないじゃないかみたいな。友人からの指摘の後怖くなっちゃったのはそういうのもあるかもしれません。

 あと、誰が見ても魅力的って人はほっといてもいいかもしれないけど、言葉に出すのが苦手な人、絶対いっぱいいますよね。(内面が)すごく豊かなんだけど、言葉になってないかもしれない。例えばアーティストだったらそれを絵にしたり作品にしたりできるけど、ただとどまっている人もたくさんいると思うんですよ。だけど私は自分の中で言葉の能力が強いから、これまで人を言葉の範囲、外に出てるものだけでとらえてしまっていたなと。自分が人を見てきた目はどうなんだろうということも最近考えています。

「見出す力」

ユ 優れているインタビュアーって、その人をつかむ能力っていうか、ぐっと人の中に一緒に入っていくみたいな能力がすごく高いんだろうなと思います。カウンセリングなんかにも共通するものがあるんじゃないかなと。カウンセリングはその後に解決に導く部分があるんだろうと思いますが。

 村上春樹がよく“井戸に潜る”と言ってるのもおんなじことなのかもしれません。人を深くぐっと見られる人じゃないと、小説でも何でも、人について文章を書いた時に浅く見えちゃうのかな、となんとなくイメージしています。
 温かくその人を見て、その人の光みたいなものを見出している感じが、自分がいいなと思う文章には共通している気がします。

 私は村上春樹の『アンダーグラウンド』※にとても影響を受けていて、いつかああいったことができたらという気持ちを持っているのですが、あの本には、事件の被害者など関わったかたの体験を通して事件像を考えるという意義とともに、著者のインタビュアーとしての力にも私は感銘を受けました。

 (インタビュイーは)おそらくこれまでインタビューを受けたことのないかたが大半で、話すのが上手・上手じゃないとかまったく関係なくしゃべってると思うんですけど、読むとみんなとっても魅力的で、特別なことをしてるわけじゃないんだけどすごく共感するし、好意を抱くんですね。
 
 それは、どんな人でもいいところってあるはずで、そういうものを見出して言葉にするっていう、書いてる側の力もあると思います。「見出す力」、それがすごく、インタビューをしていくんだったら大事だろうという気がしています。

※村上春樹『アンダーグラウンド』 1995年の地下鉄サリン事件について、村上春樹が関係者にインタビューを重ね書き下ろしたノンフィクション。

──具体的には、例えば、その人を広くとらえられるような質問をできるようになりたいということでしょうか?

ユ すごく単純な言い方をしちゃうと、インタビューする時の姿勢だと思ってて。その時間だけでも相手を心底知ろうとするとか、理想的には好きになるとか、そういう、本当に向き合う姿勢を持つ。
 (知りたいことを)奪いにいくんじゃなくて、その人を知ろうとする、安心して話してもらえるような姿勢がすごく大事で、そういった姿勢があったら、(インタビュイーは)何か出そうとしてくれるんじゃないかなと、今のところ想像しています。

書くことで求められたい

──書くことについてたくさん学ばれていますね。

ユ 書く文脈で求められる人になりたいって思ってるんですけど、どうしたらそうなれるかがわからなくて、だから、とりあえず書くことを学びつつ考えてみようみたいな感じです。

 書き手のかたがたから、書くこととか姿勢とかをずっと学んでるんですけど、それをどうやって仕事にしていくかってまた全然別のレイヤーだし、どうやったらバズるか!みたいなのを売りにしてるような講座もありますけど、そういうのはあんまり好きじゃないっていうか(笑)。みんなそれぞれやり方がちがうんでしょうけど、どう仕事にしていくかはまったく見えてないですね。

 書く仕事って一言で言っても、広すぎますよね(笑)。特に今、ウェブのライターを含めると色々ありすぎて。(自分はこれから)どういうところでやっていきたいかイメージを明確にして、売り込みとかするのかな。

──求められたいというのは、それで収入を得たいというのとイコール?

ユ うーん……それもあるんですけど、まず単純に、旅行が好きだから紀行文に憧れるし、仕事でもあり自分も楽しくあるということに憧れる気持ちもあるけれども、書かれたものがすごく好きだから、なんだろう、仲間がほしいのかもしれないですね(笑)。そういう世界に入りたいっていう気持ちが強い気がします。

 読むのがもともと大好きで、結局一行も書けなかったけど小説家になりたいって気持ちだけ持ってたこともあって(笑)、世界を作れることはすごいなと思うし、自分で書きたいという気持ちはずっとあります。
 私、歌とかダンスとか、他の表現方法は何もできないけど、文章は読むのも書くのも好きだし、自分の方法は文章だなって思います。だから書きたい、文章で伝えたい、という欲がずっとあります。 

自分への視線と矛盾

ユ あと、最近、自分が何かしてないといけないんじゃないかっていう気持ちになっちゃってて。例えば自分が惹かれる人って、いい文章を書いてたりとか、意義がある活動をしている人なんですが、「その人自身」と「やっていること」がつながっているような人にとても魅力を感じるんですね。

 そして魅力を感じる相手に自分も魅力的に思ってもらうためには、自分が大事と思ってることで何かなさねばならんというプレッシャーを勝手に持ってるのかもしれない(笑)。単純に仕事したいっていうよりは。…ああ…また(考える方向が)嫌な感じですね(笑)。

 これも、とあるセッションを受けた時に指摘されました。私はどんな人にでもいいところがあると思いたいって言ってるのに、自分は何かしないと魅力的に思ってもらえないって矛盾してますよね?って(笑)。

何者かにならねばという思い

ユ その指摘があって、いつから自分が何者かにならなくちゃいけないと思い始めたか考えました。私は小学生の息子がいるんですけど、まだ全然、ただぼけーっとしてて楽しそうな感じで(笑)、自己否定とかあんまりないんですよね。私も子供の時からそんなに自分にネガティブなわけないから、どっかからきたはずで。

 まずは、地元の小学校では勉強もできたしクラスの中心にいた自覚もあって、いわゆるお山の大将だったんですが、東京の私立の中学校に入ったとたん目立たなくなって、自信がなくなった時。
 その次は高校に入って、ライブに行ったりお笑いを見に行ったりしている人たちがいるサブカルっぽいグループに入ったら、好きなものがはっきりしてるのがかっこよくて、「変」なことがヒエラルキー(の上位)だったんですよ(笑)。そこで自分に何かないと承認を得られない、みたいにきっと思ったんでしょうね。
 傷ついたり、自分を見てもらえない不安とか怖さから来ている気持ちができていって、今もきっと一緒なのかなって思います。

 そのことも最近思い出して(ブログに)書きながら、そういう気持ちって強くなりすぎるとへこんじゃうからよくないんですけど、ある程度は自分を駆り立てる力にもなるなとも思いました。
 傷ついた気持ちだけでわーってならないで、ちょっと距離を置いて、その感情を観察できるぐらいの視点を持てたらいいなと思うし、そのためには自分にとって「書く」ってことがとても役に立ってくれてる気はしますね。

編集者がつく書き手に─本の向こうにある真剣勝負

ユ 先日、プロの書き手のかたの添削を受けて、初めて自分の文章をしっかり見てもらったんです。その時、編集者さんについてもらって書いたらこういう感じなのかもしれないというのを体感したんですね

 プロのかたが、私が伝えたいことを文章を通して真摯に読みとろうとしてくれるという経験を通して、プロ同士のやりとりはいつでも真剣勝負なんだろうなと想像できたし、私がこれまで読んできた文章や本の向こうにもそれがあったんだな……と。
 背筋が伸びるような感じがして、自分自身も文章を書くこと、一つ一つの言葉遣いや表現を選ぶことにもっと真摯でありたいと思いました。

 以前、プロの書き手の知人が、究極的には一字一句どうしてこの言葉、表現じゃないといけないか説明できなくちゃいけない、そのために本の校正をする時にはかなり細かく見て直す、と話してくれたことがあって、そのすごさをじわじわと実感したというか。

 私も編集者さんと一緒にそういう緊張感の中で書いてみたいし、そういう真剣勝負を通して、もっと文章を書けるようになりたい、と思いました。

インタビューを受けてみて

──今回、インタビューされる側になっていかがでしたか?

ユ 1時間半自分のことを聞いてもらう機会はないから新鮮だし、やっぱり聞かれるといろいろ考えますね。今自分が一番大事に思ってやってることを聞いてもらえて、私は整理になったし、矛盾に気付いたり発見がありましたけど、これでよかったのかな?って思いました。

 インタビューした友達から言われたことを自分も感じるんだと思ったんですけど、インタビューされる側にも不安があるっていうのを実感しました(笑)。なんか私、わけわかんないことばっかりずっと言ってた気がして。
 
 この話をどうやって文章にするのかな、しづらそうで申し訳ないなというのと、私が書くことについて悩んでる話を誰が聞きたいんだろう(笑)というのも思いました。みんな、こういう気持ちだったんですね(笑)。
 でもどうなんでしょう、話し終えて、「あー話した」「いい記事になるね」みたいなインタビュイーっているんですかね。みんなどう思うのがスタンダードなんだかもわからないんですけど(笑)。
 
 私、何かを成し遂げて、インタビューをもっと受けたいですね。そしてインタビュアーを観察してみたい。インタビューする人を観察して、結果として自分のインタビュイーとしての姿勢を見たいです(笑)。

聞き取り:インタビュアー田中

(終わり)

←(前編)はこちら
書くこと
とあるインタビューで
 伝えたい
 書くという覚悟
 承認欲からの解放
友人からの指摘
なぜインタビューなのか

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