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90年代中盤あたりであらゆる成熟が止まってしまったのち惰性で生き続けているだけの人間が自身の作品内容や表題として意味ありげに使いたがる語のランキング:ベスト10

(本稿は筆者の Patreon 有料サポーター限定の記事として用意されたが、どう考えても同アカウントに次々とアップされている記事が日本語圏の漫筆として最高の水準を備えているとしか思えないため、新たなサポーターへの呼びかけも兼ねてここに単一記事として全体公開されるものである。もちろん試験的な公開であるため、いつ削除されるかはあくまで気分次第となる。)

1:最果て
2:明晰夢
3:アリス
4:(任意の元素:最も頻度が高いのは「酸素」)
5:幻想
6:境界(線)
7:レゾナンス
8:調律
9:確率
10:(任意の臓器:最も頻度が高いのは「心臓」)


 各項への言及は敢えて行わないが、それにしても「レゾナンス」の使われっぷりはすごい。「繊細さは手放したくないがそれでも理系っぽい怜悧な煌めきも見せたい」という欲望が透けて見える輩がどれほど多用していることかこの語。歌詞やタイトルの中に「レゾナンス」が含まれる(日本国内発表の)楽曲はすべて駄作だと断言してよいが、しかし KARAKURI の『Re:SONANCE』だけは例外だ。『Winning Day』を頂点として KARAKURI の曲にはひとつもハズレがないが、『Re:SONANCE』も作曲・編曲・作詞・ミキシング・マスタリングすべてにケチのつけようがない端正さが迸った名曲である(もっとも、 Tokyo 7th Sisters には少年的と呼びうるほどの無遠慮かつ端ない『エヴァ』モチーフの模倣が鏤められているので、当作の総監督であった茂木伸太郎は典型的な「90年代中盤あたりであらゆる成熟が止まってしまったのち惰性で生き続けているだけの人間」の一例を示していることは言うまでもない)。が、 とある(Tokyo 7th Sisters とは別の、しかし同種の傾向を共有している)アイドル系アプリゲームには、1番サビの冒頭が「Ignite(動詞)」であるにも拘らず2番同箇所が「Resonance(名詞)」になっている=品詞が揃っていないうえに韻すらバラバラになっているという凄まじく低劣な仕上がりの楽曲があり、その詞・曲を分析すれば当該アプリゲームのクリエイターおよびユーザーの双方が「90年代中盤あたりであらゆる成熟が止まってしまったのち惰性で生き続けているだけの人間」のエートスを共有している事実を根拠づけることができるが、このように言及を継いでゆくと際限がなくなるのですべて割愛する。

 ここで踏まえておくべきなのは、我々は各自の言語的矜持に基づいて「言葉狩り」を行うことができなくてはならない、ということである。以下、山下洋輔氏が複数の著作や寄稿で述べておられた内容から引用しよう。〝ドイツ暮らしが長かったフルート奏者の天田透さんと、日本語の話になって、どうも変な日本語の使い方があるということで一致した。チェックリストをつくって2人で独自の「言葉狩り」をやっている。たとえば、テレビのコメントや雑誌や新聞によく出てくる「思い」という言葉も、単なる気取りやあいまい狙いの変な使い方が多くて、チェックリスト入りが多発する。”・〝「思い」という言葉の安易な使用は国を滅ぼすと言っているのに、新首相はますます得意げに使う。メディアも無自覚でもはや「思い星人」の日本侵略は完了寸前だ。天田透氏と共に地球防衛軍に参加している者としては、最後の一人になるまで戦うしかない。”この「言葉狩り」は何も山下氏や天田氏がアーティストであるがゆえの座興などではなく、有文字社会に生きるすべての人間が果たすべき義務だと私は考える。もちろん政府あたりが狩猟対象を定めたリストを携行するのではなく、各々が自らの正義に基づいて有害な言語表現を決め、その対象の使用が確認されたなら即座に撲滅する「言葉狩り」。これによっても所謂「表現の自由」は侵されないばかりか、この世界における「表現」はますます澄明に洗練されうる。西暦2023年春の現在とは、己のフェティシズムから分泌される体液の横溢と、己に課せられた禁止をそのままに負って生きる規範意識の不在、これら両方の極端な過剰/貧困による心的荒廃が結託して公の言語観を破壊し尽くしている時世である。一丁前に身体だけは大きくなった成人ども(性別問わず)が、慢性化させた幼児性のゆえに保育園の外へは一歩も出ようとせず、それでもオトナっぽいところは見せたいがために相互的なフェチシズムの発表会によって朝から夜まで体液を垂れ流しまくる * * * が、何を恐れてか生殖行為だけは一向に行われる気配がなく、万が一誰かが孕んでしまったとしても助産する技術と能力の持ち主がいないために母胎ごと流産させる以外の手立てが無い、そんな自涜児保育園のフランチャイズ展開が(少なくとも日本国内においては)隅々まで根付いてしまった環境なのだ。私はこの「助産師不在の世界において孕んでしまった者」としての精神的・身体的苦痛を、『χορός』執筆完了直後から見込みのある出版社または編集者を探すまでの過程において強かに味わった。懐胎から分娩までの過程をすべて自力で成し遂げられる者であったから死産だけは免れたが、私と同程度に真摯な言語観を持った新進作家たちが汚染された市場の殷賑に絶望し未発表の作品と心中してしまった例がいったい幾つあったろうと、そう思うだに慄然とする。
 前段落で明らかにした不毛も、元はといえば「表現の自由」の錯誤により超自我を融解させ、リビドーと電力を世界規模で濫費させ、それによって際限なしの汚言を嘔吐させ続けるための体制を(これが最悪なのだが)とくに言語表現の鍛錬も積んでいない者どもが外部機器の接続による万能感の享受(つまりシャブ漬け)により一斉に支持し始めたことに直接の原因を持つ。その人為的災害に後始末をつけ生活可能な地を回復するためにも、「言葉狩り」を行う士の存在は不可欠なのだ。「語彙力」とはそもそも「どれほど多くの言葉を知っているか」ではなく、「無尽蔵の言語表現の中から価値の優劣を峻別し、『これだけは絶対に遣わない』と自らに課した禁則をどれほど堅く維持できているか」によって判断される能力である。本文の読者には「これだけは絶対に遣わない」と決めている言語表現があるだろうか?(←このような「形式だけの疑問文」も絶対に避けたほうがよい文章表現の典型例である。これをやってしまえば、映画やゲーム系のポータルサイトに提灯記事を納品して日銭を稼いでいる賤しいフリーライター以下の品性に身を落としかねない。「皆さんは金沢市と聞いてまず何を思い浮かべますか?」、「最近よく耳にするようになった『ユビキュタス』、あなたは正しい意味を理解していますか?/辞書で引くとこのような説明が出てきます。/〔以下、 Weblio からの引用を掲載〕」などと自分でやってみたらと考えるだけで吐き気がする。「ものを知らないくせに教師面」というのはネット賢者の晒す醜態の中でも最悪の部類だ) 私は常時更新される「絶対に遣わない言語表現」のリストを身体内に備えており、そこに挙げられた語たちは(実際の使用が観測された際に目の前の発話者に加える制裁の内容として)「厳重注意」・「身体的懲戒」・「死刑」の3つのグレードに分けられている。(本文の汚染を避けるために)当該リストからの直接引用などしないが、その中でも近年とくに猖獗をきわめている表現は「関西出身・在住ですらない者が遣う関西弁」 * * * である。制裁グレードはもちろん「死刑」だ。現状の日本国はせっかく死刑制度を備えているのだから、自らの由来を定礎する地域性や歴史性すら安っぽい気取りで溶かし尽くしてしまう(=他所の訛りを──それも実際の発話ではなくお手軽な文字入力によって──勝手に使って憚らない)輩どもなど、次々と縛首にしてしまえばよいのである。

 このようにして、世界には常にふたつの群れが存在する。人の生きうる世界を汚染する者らと、まだ生きうる世界を回復せんと努める者らである。いつの世においても前者が多数で後者が少数であることは言うまでもない。が、前者のような大衆的愚昧性の持ち主たちは、常に少数の先駆者たちによって「変えられた」世界をしか生きることができないのであって、その先駆者たちの行いを我が身に正しく引き受けることができず安易に流れてしまった輩の末路こそが汚染者たちの正体だと謂いうる。そのような輩どもが大手を振って歩く濁世において理性[ratio]の比率[ratio]を再調整するには、「言葉狩り」の士たちの存在が不可欠なのである。我々は各々の正義に基づき、言語的生麦事件や言語的薩英戦争などを次々と引き起こし、その都度歓ばしい闘争と変革の種を蒔き続けなくてはならない。先述のとおり、言語は肉体と違い、殺したところで腐臭や疫病の原因となりうる有機的屍体は生産されない。どころか、低劣な表現を間引くたびに言語の衛生状態は改善の一途を辿るのだ。次の一文は誰の筆によるものか失念したが引用しよう、〝優れた論文が持つ最良の効能は、その存在によって愚かな論文たちが書かれる必要が無くなることだ”。私が奨励する「言葉狩り」の正当性も、少数の優れた表現の存在によって多数の劣った表現の繁茂を前もって食い止める、思想的エコロジーとでも呼びうる理念に根差している。

 最後に、名著『ウィトゲンシュタインのウィーン』から特に忘れがたい箇所を引用して結びに代えよう。〝彼は、「人間に役立つ」仕事──特に筋肉労働──だけが、尊厳と価値をもつという意見をトルストイから学んだ。”・〝知的世界の、不潔きわまる馬小屋を誰かが洗い落とさねばならなかったのであり、この知の下水処理という課題を遂行する運命にあったのが、たまたま彼だったのである。”私は、哲学者のみならず全ての(有文字社会に生きる)人間が彼と同様の課題を遂行すべきであり、かつ成し遂げうると信じる。言語使用者としてゴミを捨て続けるか? それともドブ川の掃除を引き受けるか? この2択を与えられて前者を選んでしまうような観光客アティテュードの持ち主は、いずれその浮薄な態度によって母国語すら扱えなくなってしまうであろうので、既に言語使用者としての死は運命づけられている。結局、連中が汚染しているのは自分自身なのだ(「自涜」とはなんと正確な表現であろうか)。そのような安易に流れることができなかった者、言語表現の徹底によって知の下水処理にあたる者、そして何より音声でもあり絵画でもあり文字でもある言語という謎の道具の駆使によって如何様にも新たな美を到来させることができると技術的にも感性的にも知っている者。それらの者どもにより常に言語は再検討され、鋭利な刃のように洗練されざるを得ない。その業物によって言語冒涜者=世界汚染者どもの首が刎ねられるたび、この地上における表現たちは以前よりも深く自らを戒めるようになり、だらしなくフェチシズムに纏綿するのでも無力な童児として超自我に屈服するのでもない態度で技を磨くための気運が生まれ続け、その営みの只中で「人間の仕業」たちは高みを目指す。狩ることもできず狩られるにすら値しない劣った表現たちは己の無力感を慢性化させ、その一方で旺盛なものたちはまた新たに斬り結ぶ。言葉は殺されるほど生き延びる。そして歓ばしい狩りあいを遠くに眺めながら、幼い表現たちは覚束ない手つきで初めての刃を執る。まずは自分自身を刈り込み、加工し、ひとまず仕立てられた姿で巷に入り、溢れかえった定型句への「否」を通して大いなる「然り」を言うことになる日を見据えながら。そうして表現の鉄火場に金打声は絶えることなく、敢えて言葉の業を示しに来た人間どもの声音は、ますます澄み渡ってゆかざるを得ないのだ。


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