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灰色の街、灰色の命




 

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眠りに落ちる前、人の悲鳴を聞いた。女のものか男のものか、大人か子供かもわからなかった。大勢の悲鳴だと思った。黄色と群青の織り混ざった大きな塊が、赤を溶かしながら蠢くのが見えた。悲鳴が大きくなった。女の悲鳴のほうが多いと思った。
こういうのは、脳が疲れているか何かで情報のバランスが崩れているから、だから何か見えたり聞こえたりするんだ。そう言い聞かせて目を開け、耳を澄ませた。冷蔵庫の振動する音が聞こえた。

 ヤマチ。

聞き慣れた女の人の声だった。
驚いた。
僕をヤマチと呼ぶのは、爺ちゃんと少しの親しい人だけだ。
その声は耳のすぐ後ろから聞こえて、慌てて振り向く自分を見た気がした。
年老いた子供が両足を投げ出すように地面に座り、上体を起こして僕を見上げていた。

俺は寝ようとしているんだ。疲れてるんだ。あえて姿勢を変えずにそう思った。

 ヤマギくん。

小学校の担任の声だった。
一羽の鳩が高架下の脇から飛び立つのが見えた。
ガチャンと陶器が割れる音がした。

濃い黄色と濃いオレンジのどろどろした光は、右から左へ渦を巻きながら回り、僕に近づいては遠ざかり、爆発音と共に再び人々の絶叫が聞こえた。今度は子供の悲鳴だったと思う。

 ぽちゃん、と薄紫の浅い水面下に潜った気がした直後に、例えようのないほど大きな、内部が熱せられた冷たくて大きな岩の一部に、僕は大の字で張り付いていた。轟音とも言えるほど完全な静寂の中で、深く長い息づかいが聞こえてきた。


駄作だ、駄作だ!

心の中の声が叫んでいる。
僕は、切り貼りした紙に絵の具を塗りたくっていた。だけど重なる濃い苔の色や、薄紫に青を溶かした色や、くすんだ黒や濃い灰色に青が混ざってるのを見るうちに、そのどうしようもないゴミは、まるで自分の身体の一部のようにかけがえのないものにも見えてきた。絶妙に混沌とか、悩みとか、秋の終わりに見える薄茶色の思い出をバランスよく支えて凝縮できているような気がしてきた。
休憩しようと思って、すぐ後ろのベンチで缶コーヒーを開けて作業台へ振り向くと、僕の作品の前で屈む友人の背中が見えた。おっさんの作業着みたいな白いジャンパーを着ていた。座って喉を鳴らしながらなんとなく見ていると、その背中は頭を上げて横を向いた。紙の切れ端のようなものを持って、「綺麗になったよ」と嬉しそうに言った。

僕は、これより残酷なことはないというような顔で何すんだよ!と叫び、友人をどけて作品を見た。僕が無秩序に塗った絵の具の一箇所が剥がされ、四角い白地が見えた。混沌の中と外を隔てる小窓を見たような気がした。この塗りたくられた絵の具の中に光るあるひとつの希望のような気もしたし、皮肉のような気もした。

「もう、剥がれそうだったから…」

動揺した友人は、細い声でそう言った。その声は、少し震えていたような気もする。

僕は、わざと!わざとわざと!わざとお!と両手を激しく大げさに叩きながら絶叫した。
あえて今にも落ちそうなほど弱く紙の切れ端を貼ったのだということを伝えようとしたのだ。友人は、とんでもない事をしてしまったというように困っていた。僕は歪めた顔の奥からその様子をしっかりと確認した。

 食卓では、家族に何か説教をされた。説教というほどでもないような、簡単な助言のようなものだったかもしれない。
自分の叫び声が聞こえてきた。
だったらお前はどうなんだ!お前のその安直で一方的なものの見方はなんだ!答えを握っているのは俺だぞ!そんな事を喚いていた。

 家を出ると、外は漆黒の暗闇だった。
遠くに外灯の光が見えた。墓場のすぐ横の外灯だ。頼りない光だと思った。
その明かりへ向かって歩いていると、僕はいつの間にか帰路についていることに気づいた。光は相変わらず向こうにぽつんと見えるが、いま自分が家の方角を向いていることは、暗くたって長年住んだ町なのでわかった。
外灯の下に、黒い猫と、赤茶に汚れた猫と、白い猫と、あと暗くて色のよくわからないのがもう3、4匹いるのが見えた。墓場に屯う猫を初めて見た。猫は好きだが、いま見ている猫はどうも不気味だ。赤茶のが僕に気づいて、真っ白に光る目をこちらへ向けて、背をぐっと縮めた。他の猫たちも、地面に押さえつけられるように姿勢が低くなって、じっと僕を見た。
早いとこ過ぎちまおう。そう思って墓の横を通ると、猫たちは慌て、怒り狂い、走り出した僕に爪をたてて噛み付いた。
噛み付いた牙が僕の背中に深く食い込んで、引っかかった。
僕の何がそんなに嫌でそんなに怒ったのか、まるでわからなかった。

家に戻ると、首を項垂れた家族や友人が床や椅子に座りこんでいた。誰も何も言わず、呼びかけると虚ろな目で僕を見上げた。薄暗い家の中は何年もほったらかされたように汚れて、荒れて、優しかった大好きな皆が傷だらけの心を抱えて、陰鬱に僕を見た。

俺がやったんだ。
そう思った。
僕はわざと叫んだのだ。
必要もないのにわざと叫んだから、僕にも罪の意識があった。
周囲にどうしようもない強い罪の意識を抱かせたということに、僕自身も強い罪の意識を感じた。

涙が溢れてきて、胸を抑えて、泣きながら謝った。

ウゥ、ウ、ウゥ ……

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 だらしない自分の泣き声で目を覚ました。
朝の10時過ぎで、外は少しだけ暗かった。
のしかかる濃紺と灰色を退けるように掛け布団をどかして身体を起こした。
涙を拭きながら夢の中のあの猫たちを僕に向かわせたものは、憎悪と好奇心の混ざった感情ではないかと思った。赤茶の猫は、自分の頭痛を象徴していたような気がする。実際、起きたときは脳の中心にゴムが詰まってるような気がして痛かった。
身体は重くても、意思と切り離されたように淡々と動くことができた。立ち上がって服を着て、灰色と薄紫の視界を進んだ。

空はくすんだ銀に見えた。常緑樹の葉は鮮やかさを失って、濃い緑に沈んでいた。
思い切って頭を上げると、空とビルの色が同化して、ほとんど境目が無いように見えた。
押し込んだイヤホンからは、わざとらしく喉を震わせた女の声がした。大好きだったからいつも聴いていたのに、弾けて擦れて伸びて容赦なく鳴り続ける音を不快に感じた。こういうのを世の中は音楽と呼ぶんだな。
外へ出れば、車が走るとか風が吹いているとか、いろんな刺激は五感に入るのだけど、一時期、灰色の霧が僕の脳血管の細かな隙間にまで入り込んで膜を張って、世界との間に距離を作っているような気がしたことがあった。人がいて車が動いた―――それ以上のことは何も考えられなかった。僕の周りを取り巻く灰色の靄(もや)を吸い込むから、それが全身を巡るんじゃないかと思った。今はそこまでではないけれど、空の輝きをなくした銀色と、タイヤの摩擦音を伴っていっそう濃く、そして曖昧になった道路の灰色は、いっとき僕を包んでいた灰色の空間を思い出させた。僕にとっての灰色は、鈍感さの象徴だった。


うつむいて歩いていると、目がその周りの皮膚に埋まって、外からは真っ黒の点にしか見えてないような気がした。たれた頬の肉が上下の唇を押し広げて口は力なく開いていた。口を閉じることが面倒になって、放っておいた。

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 電車の窓から外を見た。
灰色のコンクリートと、アパートについた黒い窓が視界に激しく擦られていくように感じられた。
ゴゴーッと響いたり、ギギィッと鳴る車輪と線路の音が、窓に景色をこすりつけている音なんじゃないかと思ったりもした。


川を眺める爺さんが見えた。
爺さんの傍らには犬がいて、なぜ爺さんがこんなところで茫然としているかなど夢にも思わず、ニッカリと開いた口から舌を垂らしていた。若い柴犬だった。
何が起きているのか全く分かっていない様ではあったが、同時に随分と満足そうでもあった。
飼い主と立ち止まっている―――たったそんなことが、この犬には嬉しかったのだろう。


 大きな街のビルの地下には色々なカフェや飲食店が入っている。頭に詰まった赤茶色のべとべとのカスを取りたくて、コーヒーが欲しくなった。カフェに入ることを心に決めて勇んでビルの扉に向かうとき、窓に具合の悪そうな、目が黒い点の、怪訝な顔の自分が見えた。ポケットから左手をだして、その扉にかけようとしている。
「なんて図々しい」
そう聞こえた気がした。たまらず視線を落とした。
引こうとしたが扉は開かず、「押」という文字が見えた。

どこの店にもたくさんの人がいて、三軒も中を覗く頃には、なんだか気が引けてきた。やっぱりコーヒーなんか飲まなくていいような気がして、いらないよあんなものと自分に言い聞かせた。

 どこを見ても人。飲食店がこんなに必要なのかと思うほど、食と人が溢れている。さっきの駅の中の喫茶店には高齢者ばかりだった。大きなパフェやパンケーキを前に微笑む婆さんを見たし、うまいと評判らしい餃子店の外には茶色のスウィングトップにスラックスの爺さんや、丸くて大きな玉のついたピアスを耳につけた赤いジャケットの婆さんが並んでいた。いくつになってもうまいものを、その腹に込めたいんだなと思った。さっき土手に立っていた爺さんも、菓子や餃子のことを考えていたのかもしれない。そう思うと、あの犬はきっとおやつの事を考えていたに違いない気がした。

 横断歩道に立ち、信号を待つあいだ向こう側を見てみた。まるで両軍がぶつかり合う昔の戦のようだと思った。信号が青に変わったら、本当に自分はあっち側に行かないといけないのかと思った。あっちに用事なんてない。ただ販売機で妥協できなかったコーヒーへの未練が拭えずに、また混んだカフェを覗きに行こうとしているきりだ。混んでいるに決まっている。後ろにはもう既に人の壁ができていた。戻るのもまた億劫だった。この横断は、諦めや、自暴自棄への第一歩なんだという気がして緊張してきた。
青に変わるのを見ると、諦めや何かはどうでもよくなった。真ん中で人の間を縫って歩くのもひどく憂鬱に感じたので端を歩いた。

道路中央の植え込みの脇に、首の折れた鳩が死んでいた。ドキッとした。灰色と黒のビルと濃い灰色の道路に囲まれた人は、黒や灰や、落ち葉の色のように退屈な色を放っていた。この鳩もまた、灰色だった。それまで僕の中の感情は、沈殿した泥のように沈んで平坦で、静かだった。人を見ても何を見ても憂鬱さを伴ってただ心の底に沈んでいただけの感情が、この鳩の死骸を見た事で底から突かれたようにふわりと舞ったような気がした。
この街の中で、何も自分にそこまでのショックを与えるものはなかったのに、この鳩はそれをやってみせたのだった。なんでなのかはわからない。

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たまに動物の死骸を見て綺麗だなどと言ってみせる人がいる。その真意はわからないけど、僕の目にはいつだって汚くて、可哀想で衝撃的に映る。
その鳩の亡骸は、まるで街からつまみ出されて、弾かれて捨てられたように見えた。この鳩は自然淘汰の運命的な流れによって選び抜かれ「お前は違うんだ」と言われて首を捻られて植え込みに捨てられたのだ。
まるで街全体が一つの生命で、かつての僕のように灰色の靄に覆われていて、生命と生命の間に空間を作っているように思えた。きっと街の灰色と、この鳩の灰色は違ったんだろう。
静かにそこに眠る様を見て、なんだかその哀れな亡骸が羨ましくなった。

 結局僕は、もう何件か喫茶店を覗いてみた。ポケットに手を入れたまま、窓に映る自分から逃げるように歩いた。休日なんて、こんなものだよ。そう思った。良い運動になったじゃないかと自分に言い聞かせようとしたけど、そんな言葉を改めてわざとらしく並べてみせることがひどく億劫になって取り消した。

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 窓に激しくこすりつけられる景色を見ながら爺ちゃんの言葉を思い出した。僕が友達からヤマチィと呼ばれるのを聞いて面白がった爺ちゃんが言った時のことだった。
「ヤマギんちの男は昔から皆山っ気があんだ。」
ヤマッケというものを知らなくて、単に言葉遊びでもしてるんだと思った。
山っ気とは要するに冒険心に溢れてるといったところだと知ったのは中学に入る頃だった。今になって思うと、自分は冒険心とか、男らしさみたいなものとは無縁のような気がした。無口ではなかったし、運動だって苦じゃない。リスクは大嫌いだった。要は臆病な怠け者なんだ。すぐにそう思った。
電車の窓は、次第に窓際に立つ僕の顔を執拗に写すようになった。
ア、臆病者が出てきたぞ。そう思った。逃げたってだめなんだな。

 爺ちゃんが骨と灰になったのは去年のことだ。
思えば、動物の死骸を見るのとは全く別の感情がそこにはあった。骨はしばしば多くの装飾やデザインに使われる。なぜだろうとよく思う。色、静かさ、佇まい、歴史や思い出、形、はたまたその機能…
色んなところで骨に魅せられる人は多いんだろうけどやっぱり骨はただ者じゃない。だってそもそもそれら全部含んでる。髪や内臓とはまた別だと思う。
あの日、骨をもの言わぬ「その人」だなと思った。初めて骨を意識した時の感想だった。
描いた絵などが排出されたものと見なされ自分の一部でなくなるなら、人はどこまで穿れば「自分」になるだろうと思う。おそらくどこまでも「その人・その命」であるのは骨だ。
血液は骨の中で作られて、血流は感情を生む。感情は他者とのやりとりに使われ、他者の中に「その人」を生む。同時に、他者に映る自分を基に自分を省みることで、自分を捉えようとする。それらの記憶はすべて「骨」に帰着するように感じる。
今朝の夢の自分は、作品の一部を変えられて、何を思って憤慨したのだろう。最後に友人の顔色を窺った卑しさを思うと、きっと他者に自分を反射させようと企んだのだろう。困っていた友人を見て、自分は困った存在だという確証を得ようとしたんだと思う。そうする事で、日々感じる罪の意識のアテにしたかったに違いない。窓に映る自分を見ていたって、信憑性の薄い自己嫌悪が反復するきりだ。

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 すっかり日が落ちた頃、なんだか頭が冴えてきたような気がした。
煙草を吸うと、煙が目の前によろよろと立った。そら見ろ灰色だ、と思った。
薄い灰色を冷たい夜の空気と一緒に吸い込んで、肺の中から血に乗せて全身も灰色にする。空へ登った弱く細い灰色の煙を見ながら、こうして僕は、この街を覆う灰色に荷担しているような気になった。登っていった煙は風に散らされて、すぐに見えなくなった。どこかでまた一つ、灰色の命が捨てられたのかもしれないなと思った。
 長く、憂鬱な夜の時間がまたすぐそこまで迫ってきた。

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