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『1=0.999...』は正しくないと馬鹿にされたなら

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 タイトルから書いています。話が逸れていったら申し訳ありません。
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 2022年12月25日(日)。20時11分。「クリスマスだからラーメンではなくてケンタッキーに行こう」と提案したところ、ケンタッキーはクリスマスだと逆に宣伝せずとも、価格を上げようともお客が来るので、普段の倍以上のお金を払ってケンタッキーを食べることになりました。それも店内は、なぜか倉庫になっており、店内で食べることを想定していなかったのか、倉庫のような店内でケンタッキーを食べる羽目になりました。

 「井上。私は資本主義が嫌いだ」

 はい。提案した私が馬鹿でした。資本主義ってこういうものですよね。流行とか季節性の流行りとかには乗っからないほうが資本主義の世の中を生きていくには、流行りと逆のことをしなければいけないのかなと社会勉強になりました。

 はい。こんにちは。井上和音です。

 はい。珍しくタイトルから書いていますね。

 はい。『1=0.999...』問題ですね。はい。ここで問題。『1=0.999...』は真でしょうか偽でしょうか。

 「こんにちは。年賀らせです。はい! 正解は『偽』で間違いないです。『=』なってないじゃないですか。小学生の私でも分かる問題ですよ。井上さんは……はい。すいません。正解は『真』ですね。まず、なぜこんな疑問が出るかと言うと小学生でも習うと思いますが、1/3を割算すると0.333...が続いて、1/3に3を掛けるともちろん1になりますが、1/3=0.333...が正しいとすると、0.333...に3を掛けた、0.999...も正しくて、『1=0.999...』が出ちゃうのですね。小学校の先生たちはあえて触れずにそーっと教えていく感じでしたが、小学生には理解できないと思われているのでしょうね。それか教育課程で無限を小学生に教えるのは禁止になっていて、教えたらいけない内容になっているのかもしれません。私は教師ではないのでそこらへんの詳しい事情は分からないのですが」

 いくつか証明方法があったような気がするけれど、忘れた。 

 数学ガールに載っていた、なぜ『1=0.999...』が真なのかは、『1=0.999...』のなかの『...』の表記が、「『a...(a=無限小数)』とするとこの『...』というのは『aに無限に近づいていく』という意味だから、『0.999...』が無限に近づいていったら『1』と同値になる」とかいう説明だったような気がする。数学的な証明方法は簡単に忘れてしまうが、言葉にして表現されると意外と覚えられるものだと思った。

 『1=0.999...』を『...』の表記の意味で証明してくれるこの表現方法は多分一生忘れない。

 だが、残念なことに、この世には『1=0.999...』は正しくない。間違っている。「『=』の使い方も知らんのか馬鹿め」と言う人も大勢いる。特に無限の概念を習わずに高校過程を卒業し大学の文系に進んだエリートのような人。そういう人たちは自分たちが頭が良いと思っているために「真」であることも、簡単に否定し「偽」であると怒鳴ったり、威嚇したりする。「理解が出来ない」「意味が分からない」と言って否定する。

 そもそも「理解」とは何なのかという話になる。

 「理解」とは、自分が知り得る概念と違う概念が出てきたときに、その概念のことを記憶し使うことが出来るようになること──勝手だがそう思っている。

 Σの公式でΣk^2=1/6n(n+1)(2n+1) ※(シグマの使い方が分かってないなど突っ込みどころ満載の数式だとは思いますが、表記上これしかできないので、とりあえずは2乗根の和の公式だと思ってください)とかあるけれど、これも証明方法を見たら感動するし、「誰がこんなの思い付いたの」と高校時代に……は思っていなかった。

 高校時代にはただ暗記しなさいとだけ言われた。だから頑張って暗記をした。何も使えなかった。

 浪人時代に、余裕が出来て、自習時間に教科書をぼーっと眺めることが多かった。「大学への数学」とか買っていて、予備校の問題集など一切無視して、「本物の」「本当に分かっている」本を眺めて読んでいた。

 Σk^2=1/6n(n+1)(2n+1) の証明方法を考えた人間って、天才じゃね? とか思った。浪人時代にようやく、数学とはなんなのか。証明方法から問題を解いていくクセが出来た。「大学への数学」のなかの「基礎問題」はほとんどが証明問題で「基礎=証明」であり、この証明を文字として覚えるのではなく、《《やり方として覚えていくことこそが、数学の本当の王道だ》》ということに気が付いた。

 数学の偏差値が78.0まで急激に上がった。英語なども急激に上がった。過去に書いたような気もするけれど、非常に虚しくなった。赤の他人の「教師」という威張った人間にやりかたを強制されて、何も理解できなかった自分が馬鹿だったのではなく、教師がたいしたこと無かった。結論としてはそれだけだった。

 結局受験では数学を一度も使うこと無く同志社大学に行くことになったのも、また笑い話。もうどうでも良くなった。

 と。まあ。数学の話は置いといて。

 言いたいことはただ一つ。『1=0.999...』は正しいのだが、「理解できないから」と言う理由で理解することを拒む大人は大勢いるということだ。そういう場合、言い合う必要もない。そうですね、と相手を尊重して話は終わる。理解してくれなければ文字通り《《話にならない》》からだ。新しい概念を受け入れること、それが「理解」ということなのだが、その「理解」は非常に難しい。脳のアップデートが必要であり、新たなる真実を脳内に焼き付けるにはとてつもないエネルギーと、恥がいる。「自分は理解できていませんでした。すみません。これから理解して脳内に新しい真の定義を追加いたします」と恥じて、新しい概念を自分のものにする。

 これは、自分の憶測でしかないのだが、今の人間は「概念」に対してものすごいスピードで進化している途中だと思っている。遥か50年前に比べて、人間の概念に対する反応や記憶は受験戦争の激化と共に急激に進化を遂げていると思っている。親の世代と話していてそう思うし、今の高校生が解いている共通テストとかを見ても、「これをこの時間で解くのは無理じゃないのかい」と思ってしまうほど、数年で教育課程や大学の入試問題の進化が止まらない状態になっている。

 例えば、夏目漱石の逸話で有名なのが、「受験の時に数学が全く分からなかったから、隣にいる受験生にこっそり数学の解答を見せてもらった」というのがある。こんな人間がかつて1000札の肖像画を飾っていたのだ。夏目漱石の時代の東大入試などそんなもんで、その頃から現代では、途方もないほど概念に対して進化を遂げている。特に日本のトップである東大なんかでは──これも勝手な推測だが──概念の理解へのスピードが年々増しているのだろうと思われる。

 真であることを否定されたら、早口で証明とかするのではなく、「自分たちの概念への理解が進化していて、古い人たちには理解のする余裕などないのだ」と諦めて、同世代のなかで存分に話し合うことが望ましい人間の進化なのだと勝手に思う。

 社会に出たら、正しいことを押し通すことを諦める虚しさも大切となる。


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