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コンタクトが乾くと、頭の中で勝手にナレーションが起こる、その具体例。

 2022年11月2日(水)。21時12分。

 はい。コンタクトレンズを着けて二日目にして、目が疲れました。仕事もうまくいきませんでした。なんかダメだなあと思いながら電車に乗って帰っていると、聴いているウォークマンの音楽の歌詞が頭に入ってこず、ノリのいい音楽のノリの良い部分しか身体が反応してくれず、コンタクトレンズの乾きに合わせて自分の認知機能の低下も認識できました。

 駅から降りて自転車に乗る頃は、目の乾きが限界で、実存哲学で言うならば「コンタクトレンズを早く外したい」という思いで頭がいっぱいになりました。それしか、考えられていません。精神的に追い込まれていきます。セパゾンを飲みました。しかし、セパゾンはただ、心臓の発作が起きた時の安定剤として効くだけであり、「コンタクトを外したい」という焦りは消えることがありませんでした。

 焦り。精神的に追い詰められた、統合失調症患者、というか私。もしくは発達障害者である私。

 追い詰められたら何が起きるのか。起きた現象に自分でもびっくりしました。

 見える風景。やっていること。《《全てが文字で、言葉で勝手にナレーションをしてくるのです。》》

 懐かしかった。統合失調症になる前の、発達障害の頃で小説に本気で取り掛かっていた頃、この世の全てを疑い、道行くものの全てに個別の単語を扱い、頭の中でいちいちナレーションをしていたあの頃。大学時代、一人暮らしのあの頃。あの頃と同じ現象に出会ってしまいました。

 「実はこの世は、私が目で見た瞬間に風景として現れて、そこを歩いている人間たちも、実は見えない速度でコンクリートの中からにょきっと生えてきたに過ぎない可能性は否定できない」

 とか。

 「普段、帰り道に観る床屋の三階には、丸い電灯とそれを覆う逆三角形の覆いがつるしてあって、そこが元々三階建てであったことを知らなかった私は、《《その三階建てを認識して初めて、その床屋は三階建てとして存在することになった。》》もしくは、これから先、その床屋の目の前を通って行くであろううちに、その床屋が三階建てであり、内装が丸い電灯とそれを覆う逆三角形の覆いが吊るしてあることを思い出す。その認識の進化こそが生きている価値であり、この世は永遠に認識の価値を高め続けることができる」

 とか。

 「空気の中を切り裂いて自転車で走っていく。雨が降っていたら、実はこの世は平面で、『雨のカーテン』が連続して連なっているだけで、風によってその『雨のカーテン』は縦横無尽に私を覆い隠し続け、それこそが雨に打たれるという現象なのかもしれない」

 「しかし、今は雨は降っておらず、空気の中を切り裂いているだけだ。自転車のこぐスピードを上げる。すると途端にふとももに負荷が掛かる。ふとももに負荷が掛かることは不快で、ふとももに負荷をかけるのをやめた。しかし、自転車のスピードはそのままだった。果たして自転車のスピードが上がったことと、ふとももに負荷が掛かったことは、単一な因果で肯定することはできるのであろうか」

 「涼しい季節がやってきた。空は青い。目の前には女子高生がいた。無線のイヤフォンをしていて危ないなと思っていたが、その女子高生は《《マスクをしていた。》》そう。校内で守れと言われたことは、きちんと守っているということになる。例えば、自転車で歩道を速いスピードで走ってはいけないことや、ましてや走行中にイヤフォンをしながら運転することは当然罰せられることになるのだが、恐らく《《彼女はその法律をまず知らない。》》だから、罰則を破っているという恐怖は微塵も感じることは無い。校則よりも法律のほうが当然優先されるべき事項なのだが、彼女はそれを知らない。しかし、《《彼女を悪と見做みなすことは出来るのだろうか?》》 私は法律の専門家でもないし、裁判官でもないし、この世に一家言を申すような趣味も特になく、その淑女を見ていたが、果たしてマスクをしていて無線イヤフォンをしている、その彼女に誰かが何かを指摘するようなことはあるのだろうか」

 「そして、それが《《現実だと思った。》》法律で全てが裁けるわけではないし、女子高生の彼女にとってみれば、法律よりも校則や、周りの目線のほうがずっと大事で、守らなければいけない境界線なのだということを、かつて青年だった私には充分に理解できることだった。法律よりも校則のほうがより身近。高校で法律を教えることなどまず無いので当たり前だと思った。かつて半ば信じていた実存を思い出した。彼女にとって大切なことは、法律という明文化された、文章で表された《《概念》》ではなく、周囲からどう見られているかという現実に即した《《実存》》なんだということに思い至った」

 「彼女は信号を自転車で渡り走っていった。その姿を眺めながらたとえ知らず知らずのうちに法律を破っていたとしたところで、彼女は普通に生きていくのだろうと思った。実存のほうが大切だから。ちなみに私はマスクをしていなかった。空を見上げた。相変わらず秋の空は遠く、薄い雲と薄い青で覆われていた」

 みたいな感じなのをずっと、頭の中でナレーションしていた。今思えば危ない人間そのもので、ああ、狂うってこういう感じなのかな、とか、なぜかぶつくさ呟いている統合失調症の人やアスペルガー障害の人、発達障害の人なんかは、こういうナレーションが勝手に口に出てしまうのかなあとか、今、家に帰ってコンタクトレンズを外して、冷静になって思う。コンタクトレンズを着けるだけで狂ったような人間になれるというのは、眼鏡では普通で、コンタクトでは異常な脳の思考ができます。どっちの感情も選べて超お得ですね! みたいな感じに思えてしまうが、さてさて。

 本当に狂いそうやん、危ないやん、とは思うけれど、閉鎖病棟に拘束とかされない限りは、狂った思考というのも、まあ、面白いと言えば面白い。精神疾患の何が辛いって、一番つらいのは閉鎖病棟に期限無申告の長期入院なんですよね。それ以外は、まあ、普通なのかなという感じです。

 明日はお休みなのでしっかり休みましょう。小説家になろうにもちょくちょく移植を進めていきましょう。ただ継続が大事なのはnoteでだいぶ分かっているので、いきなりどかどかと連投するのはやめておこうと思います。

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