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【☆】【ノンフィクション小説】神さまはいる、と言ったら。

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 別の作品を、こちらにも載せることにしました。元々は、『神さまはいる、と言ったら。』(https://kakuyomu.jp/works/16816700429010445225/episodes/16816700429010450992)
になります。この作品を読んで、統合失調症は突然起きて避けられない、というのを痛感していただければ幸いです。
 文字数が8000字強といつもよりだいぶ多めです。これは本当に申し訳ないです。

 それでは本文をどうぞ!

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 手記を書いて、本当にあったことを書いて、自分の将来に不利に働くのではないか、ということを恐れながら書いている。統合失調症になってから三年が過ぎた。今でもまだ服薬しているし、将来に対する不安も拭い去れない。仕事をしていて、この手記が見つかって、「やっぱり頭がおかしかったんだ」と思われて、クビになるのではないか、と恐れを抱いている。

 要は今でも統合失調症は続いているのだ。
 不思議な出来事はたびたび起こる。起こるたびに「それはあなたの妄想だよ」と言われ続けた。さすがに反応することに脳がいい意味で麻痺してくれたのか、医師との相談の上、向精神薬を少しずつ減らしていき、頑張って毎日を生きている。アルバイトだが働き続けて一年以上が過ぎた。働きながら、「よくここまで快復することができた」と思うことがある。三年前の神秘的な悲劇を少しずつ忘れながら、自分の人生はこうだったのだ、これで正しかったのだ、と肯定しながら生きることができるようになっている。まだ私は二六歳だ。若いというのは、将来に希望があるように見えて、実は絶望のトンネルを見ていることもある。親の指導の下、人生に選択肢を外しながら、一直線に進んでいく人生の中で、ある出来事が光になることもあれば闇だと気付く場合もある。若いので、やったこともないのに決めつけて、今の不満、将来への不安に怯えながら、それでも少しはマシになった、自分の人生を生きていくことになる。

 二〇一八年五月に起きたことをそのまま記そうと思う。「そんなことあるはずがない!」「それは全て貴方の妄想だ!」という意見が上がるのは当然だと思うのだが、現実に起きてしまったことなので、書いている私としても、仕方なく書く。

 一言でいえば、神さまは存在している。

 私は大学一年生の頃から小説家になろうと思い、小説を書くための準備をしていた。私が文学部哲学科に行ったのも、小説の材料を探すためだった。なぜ小説家になろうと思ったのか。それは、朝早く起きるのが苦手で、朝に起きなくてもよい職業を探していたら小説家、という考えが自然に浮かんできた。しかし、統合失調症になり書くのを辞めた。どころか大学を四年生で辞める決断をした。統合失調症で一人暮らしは困難だと悟った。親元から離れたくて、実家のある熊本からはるばる京都の大学までやってきたというのに、自分からとんぼ返りすることになった。それから、自分で日々の時間の割振りをする主導権を失い、親に全て従う形で生きるようになった。
 親から、「小説なんて誰でも書ける。執筆などただの趣味だ。仕事をしろ」と言われた。
 当然、小説を書くことはなくなった。
 自分で稼いだお金も、自分で使うことが禁じられ、小説を書く者にとっては必須と思われる読書や書籍購入も制限を受けた。
 小説を書かなくなってから早や三年。
 三年ぶりに手記を書こうと思う。それで救われる人がいるなら。同じ境遇に会い、人生に少しでも寄り添うことができると願い、手記に残す。

 二〇一七年のいつだったか。正確な日付は覚えていないが私はWISE-3という心理テストの結果、言語能力の分野だけが非常に高く、自閉症スペクトラム障害の診断を受けた。そのとき処方してもらったのは、コンサータという薬だった。

 このコンサータが、私の人生を劇的に変えることとなった。まず、朝に起きられるようになった。そのため小説に執着することなく、普通に講義が受けられるようになった。大学三年次には一年間で上限の四十八単位を取得し、一気に卒業へと近づいた。「自分でもやればできる」という自信がつき、一般就労を目指すことにしたのと同時に、コンサータさえあればどんな職業でもこなすことができると思い上がり、難関と言われる就職先に積極的にチャレンジするようになった。

 二〇一八年五月、私はD大学の四年生で、就活とアルバイト、それに少しでも就活に有利に働くように、資格試験の勉強をしていた。単位は八十八単位までそろえており、卒業論文の十二単位分を入れれば、残り二十四単位。一年で十二コマの授業で単位を取れば卒業だった。大学生協が出していたSPIの模試も受けてみたら、校内偏差値が七十を超していて、どんな企業でも筆記試験で落とされることは無いだろうと考えていた。

 前置きはここまで。
 ここから統合失調症の地獄が始まる。
 閉鎖病棟隔離室に強制送還されるまでの統合失調症の第一章が始まった。

 二〇一八年五月六日。ゴールデンウィーク中に京都市左京区蹴上にある浄水場のつつじ祭りの設営のアルバイトをしていた。それが終わった五月六日のことだった。帰り道、地下鉄でバイトで一緒だった人に無言で肩をぶつけられた。また、他のアルバイトの人からは、盗撮されるような仕草を向けられた。
 最初はその程度だった。私も何も思うところはなかった。
 しかし、次の週末、就活のために大阪市の中之島で企業説明会を終えた時だった。通りすがりの人に「君、D大なんだって?」「君みたいな優秀な人が職場に来ると、自分の椅子が危うくなるから来ないでほしいな」と言われた。言われた気がしただけなのかもしれない。少しずつ、少しずつ、世界がおかしくなっているように感じていた。私はコンサルタント系かシステムエンジニア系の仕事に就きたいと考えていた。学部・学科と全く違う分野に挑戦しようとしていたことも、少し躁状態になっていたからかもしれない。とにかく、就職先は、月二十万円の賃金が貰える企業を最低ラインとして考えていた。

 周囲の声が、自分に関連する声のように聞こえるようになってから、テレビでも違和感を感じるようになっていった。なんと、テレビで伝えられる情報が全て、《《私にだけ理解できる暗号が発せられている》》と感じるようになった。この変化には本当に驚いた。くしくもNHKの大谷選手の大リーグ挑戦の番組で「あなたは王になる」と強調されて言われているように感じた。大好きなサッカー中継では「ゴールへの入り口」と言われ、これから何かが始まるのではないか、という期待感と、なぜここまで大げさにしてまで、私にメッセージを伝えようとしているのかが理解できなかった。

 大学での周囲の環境も一変した。
 まるでリレーストーキングでも行われているかのように、すべての人が、私に何か意味ありげな言葉を発しているように感じた。何か大きな宗教法人が、私を付きまとっているかのように感じた。「選ばれるなんてすごい!」「やっぱり哲学なんですよ!」などなど。私を異常に持ち上げているかのような演出がなされているように感じた。しかし、直接的に何か金銭を恵んでくれるわけでもなければ、直接話されることもなかったため、ただただ苦痛に感じた。

 以上のことは、別に物理的に起こるはずはないと考え、就活に向けた資格試験の勉強に没頭した。まず受けてみたのはITパスポート試験だった。しっかり勉強し、多分合格するだろうと考えていた。その結果発表で、また妙なことが起きた。小問ごとの合計を足し合わせれば十分合格ラインに達していたはずなのに、総計の点数ではなぜか、小問の合計より二百点も低く結果が表示され、何が何だか分からず私は混乱した。学生だった頃の受験料の五千円は貴重な金額だったので、ひどく落胆した。そのころから、訳の分からないことが多くなり「これは神の仕業か、もしくは何か特別な就職試験のために、集団で私でテストしているのだ」と思うようになった。

 部屋に戻ると、隣の部屋からずっと男女の相談する声が聞こえていた。四年間暮らしていてそんな声が聞こえてくることはなかったので、今思い返せば幻聴だったのかもしれない。当時は世界の方がおかしくなっていると感じていたので、隣の部屋の人がわざと大声で話しているのだと、思っていた。また、私が何かしらの行動をするたびに、地団太を踏む音が聞こえ、自分がやっていることは、全て周りの人に筒抜けであるという考えに至った。

 大学の講義でも不可解なことが連続して起こった。文学部など少数の学部しか履修登録できない講義に、見慣れない顔がたくさんいた。講師も不審に思い、「今日配るメッセージカードには、所属学部も書いて提出してください」と言った。その言葉が発せられた途端、数十名の学生が一斉に席を離れ、教室から出ていった。これは私を監視しているのではないか、と思わせるには十分な出来事だった。

 日が進むにつれ、講義の内容も、まるで私にメッセージを発しているかのように感じた。なぜかむせび泣く生徒がいたり、私がやっていることと酷似した講義があったあとに、統計学の講義の練習問題に「二限目でヒントを出しました。しかし愚かなあなたは三限目にも普通に出席しました。ではあなたが四限目に出席した場合どうなるか考えなさい」といった問題が出された。全く統計学や確率論の問題ではないし、恐怖を覚えるしかなかった。四限目は恐怖で休み、このおかしくなった世界はどうやって正常に戻るのか、とそればかり考えていた。

 二〇一八年五月に、新潟県で当時二十三歳だった男性が少女を誘拐した、という事件が起きた。殺害だったかもしれない。しかし統合失調症に陥っていた私は、同じ二十三歳の男性が起こした事件は、私に対する何かしらのメッセージだと捉えた。そこで、大学で配っていた日経新聞の記事を見ると、新潟県の事件の現場と、私がアルバイトしていた蹴上浄水場周辺の地図が一致していることに気が付いた。私はこれが、世界が一変してしまい、何かしらの試験を解決するための行動指針だと思ってしまった。そこで、行動を起こした。少女が通っていた学校と、京都の蹴上にあるホテルが重ね合わせてみると一致していたことから、蹴上にあるホテルへ向かうことにした。そして、テレビからの暗号で、スマートフォン、パソコン、身分証明書など、自分とわかる物を片っ端から破壊した。「隠れたメッセージで王になるのだからそれくらいの隠匿が必要だ」と捉え、周囲との連絡手段を全て破壊した。所持金もほとんど持たず、京都市営地下鉄で今出川から蹴上へと向かった。向かっている電車の中で「京都河原町を警察が囲っている」という声を聞き、烏丸御池駅で降りて、そこから徒歩でホテルへと向かうことにした。歩きながらも、通り過ぎる人々が私の挙動を観察しているように感じられ、その人たちに「あなたたちの声は聞こえています。庶民としてできることを精一杯やっていきます」と大声をあげながら歩いて行った。

 一時間近く歩いてホテルに着いた。
 ホテルのロビーへ行くと、さっそく「愛子様はいますか?」と訊いてみた。この質問の時点でかなり怪しい人物にもかかわらず、ホテルマンの人は「本名でお願いします」と言ってきた。私はスマートフォンも破壊して、何も持たずに歩いてきたので愛子様の本名を知ることができなかった。
 この時点で「あなたは頭がおかしいです」と強く追い返してくれれば、まだ救いはあったかもしれない。しかしそのホテルマンは執拗に本名を尋ねてきた。「いない」ではなく「わかりません」を連呼していた。私も、ここで引き下がっては、世界がおかしくなったことへの究明がなされない、と思い「では、ドナルド・トランプさんはいますか? 安倍晋三首相はいますか?」などと世界の要人を次々に質問した。そのホテルマンは不満など一切吐かずに、いちいちいるかどうかを調べてくれた。二時間ほど経ち、私が「もういいです」と言おうと立ち上がったときに、後ろにいたのは数人の京都府警察の人たちだった。私は、私が知らない間に、いつの間にか警察に通報されていたのだった。

 そのまま東山拘置所へと連れていかれた。拘置所の中で『愛子様へのメッセージ』を声に出し続けていた。拘置所で一晩を過ごし、次の日、刑事がやってきた。その刑事さんは「部下が素直に動いてくれないんだ。君ならどうする?」と質問をしてきた。私は「部下複数名と上司で情報を共有すれば必ずよい解はでます」と答えた。他にももう一人、別の刑事さんにも質問をされた。その後「決行!」と叫ばれ、拘置所から出ることになった。

 熊本から母親が急遽駆けつけてくれていた。涙を浮かべ刑事さんと何かしら相談していた。『これが最後の別れになって私はどこかに連れていかれるから、泣いているのかな』と思っていた。私はどこか特別な場所でスパイか何かになる、もしくは本当に王になるのではないかと錯覚していた。その後、連れていかれたのはどこだか分からない施設だった。

 鉄板の扉。むき出しのトイレ。あるのはマットレスだけ。天井には監視カメラ。母親が泣きながら私を抱きしめ「なんにも、なんにも心配いらんからね」と言ってくれた。鉄の扉の部屋には、父親も急遽駆けつけてくれた。父親は何も言わなかった。十五分だけの面会と言われ、家族と別れた後は、鉄の扉が閉まり、何もない部屋でひとりぼっちになった。コンサータを飲んでいない日々が三日ほど続いていて、疲労は困憊だったが、何かの試験だといまだに思い込み、疲労をひたすら我慢していた。

 睡眠薬も何ももらえなかったので、鉄の扉が閉められた後は、眠ることができなかった。その晩、空調の「カチッ、カチッ」という音に合わせて「小説家になり〇〇賞受賞! 〇〇賞受賞! 副賞として金閣が与えられます! 次は〇○賞受賞! 副賞として銀閣が与えられます! そんなことしていいのでしょうか!」と幻聴が次々と聞こえてきた。壁からは電子音声のような声で「カワイソウ。カワイソウ。カワイソウ」。また、別の壁からは「カミサマー、カミ、カミ、カミサマー」と聞こえてきた。朝方になり浅い眠りにうとうとしていたら、突然耐えがたいような頭痛が始まり、鉄扉に向かって突進しそのまま頭をぶつけ、いきなり尿を漏らすことになった。そのとき聞こえてきた幻聴が「へえ、人間ってこうなるんだ」だった。以上のことを踏まえ、事前知識で自己診断して『これってもしかして、統合失調症ってやつか……?』と初めて自覚したのであった。

 統合失調症の第一章はこれでおしまい。私が収監された場所はK大学病院N病棟隔離室であったことは、あとから知ることとなる。

 鉄扉の中で五日間過ごした。唯一の楽しみは看護師さんが買ってきてくれるお菓子と、数日に一度お風呂の為に鉄扉の外に出られる、数十分のひと時だけだった。

 統合失調症の第二章は、隔離室から少しずつ出るところから始まる。完全隔離が五日間続き、時間制限を設けながら、閉鎖病棟の大広間へと出ることが許されるようになった。
 初めて大広間に出たとき、テレビからの声で「始まるよ!」と聞こえてきた。そのタイミングの良さに焦ったし、隔離室にいた分、外に出るのが五日ぶりで、心臓の動機が止まることがなかった。世界は変わってしまった。それだけが分かることだった。
 いつ、退院するかの具体的な日数どころか、退院の話すら出なかった。当初は六月のサッカーワールドカップまでには施設を出たいと思っていた。しかし、同じような診察が続くだけで、外に出られる様子はなかった。就活どころではなくなったし、大学の単位も取ることができなくなった。スマートフォンを破壊したことにより、外部の情報を得ることが困難になり、テレビだけが情報を得る手段になった。
 閉鎖病棟内に出れる数時間を除いて、約一ヶ月鉄扉の中で過ごした。
 ある日、担当医が私の診察をしているときに、診察医に内線が入った。そのとき空の方向を見ながら「……お菓子が、なくなる……」と呟いた。どういう内線なのか意味が分からなかったが、次の日、私の親が納めてくれていた持ち金で買った、アーモンドチョコレートの数が、昨日より明らかに減っていた。唯一の楽しみがお菓子だったので、ショックを受けた。
 味方など誰もいない。医者でさえ、看護師でさえ敵だと感じさせられた。これは、統合失調症と見せかけた、何かに耐えるための試験だと思わせるには充分な出来事だった。
 また、そのように、統合失調症の出来事を『試験』と定義しなければ、『いつか終わり、報酬が貰える事象』なんだと定義しなければ、突然起こったこの不幸に到底太刀打ちできない、と感じたのだった。

 一ヶ月後。隔離室から完全に出ることになった。ようやく、自分の意志でお風呂に入ることができた。お風呂には毎日通った。やることもないのと、向精神薬の副作用で、腰のあたりがムズムズして院内を歩くことしかしなかった。ワールドカップが始まった。大迫勇也のゴールも、日本がベルギーに善戦して負けたのも、次の日の朝のニュースで知った。七月になった。歩き続けた。閉鎖病棟内で楽しく話せる相手が見つかった。女性だった。テレビを観ながら、けらけらと笑い、ヨガの時間ではありえない程の腰骨の軟骨を見せつける女性だった。話してて楽しかった。京大出身のおじさんとも仲良くなった。おじさんが退院するとき、余った洗剤を私にくれた。信頼をしてくれてるから、洗剤をくれたのだと思った。
 相部屋だったが、看護師さんがうまく調整してくれたのか、ずっと一人で病室に居れた。夜に眠ることができない私にとっては、ありがたい処置だった。最終日にいびきの酷いおじさんが入室し、運よくその次の日に私は退院することができた。八月の終わりのことだった。

 第三章は、統合失調症に負けて終わる。世の中の全てが暗号に見える、聞こえる症状はとどまることを知らず、講義に復帰したが、一般教養の栄養学の講義で『糖質』が出てきて、周囲の知らない学生たちから「タイミングバッチリじゃん」などと聞こえてきた。特になんとも思わなかったが、この世界の一変は『試験』である、という妄想は途切れることがなかった。誰かが仕組んだ試験ならば、その流れに抗戦しようと考えた。つまり『大学を辞める』という、流れを断ち切ることを選択した。統合失調症に負けたと言ってもいい。親に「一人で努力することを辞めさせてください」と訴えた。姉からは反対されたが、親は快く引き受けた。大学や仕送りにかかる費用を計算すれば、精神障害者となった息子に投資するだけの価値はないと見込んだのだろう。二〇一九年の一月のことだった。そのときちょうど、京都市に申請していた精神障害者保健福祉手帳が届いた。二級だった。実家に戻ることを選択したその週に、ルネスタの副作用で急に猛烈な頭痛が起きた。またK病院に入院することになった。父が迎えに来て、私の惨劇を見た。父はその場で実家に戻すことが良いと判断したようだった。大学四年間で集めまくった書籍の山から、数冊の漫画だけを手に取り、実家に帰ることになった。

 今は、第四章の中にいる。二〇一九年に就労移行支援事業所に半年だけ通い、近くの施設の公務員の非常勤として働き始めた。その後、熊本市内の公務員の非常勤職員として働いた。働き始めて、世の中の全てが暗号に見える、聞こえる症状は薄まった。非常勤職員として約一年半が過ぎた。障害年金も支給が決まった。お金は、学生時代の頃と比べると驚くほど貯金ができるようになった。実家で暮らし、節制に励んだ結果だと思う。

 両親には感謝し、職場の皆様にも大変感謝している。好きだった本も少しずつ買えるようになってきた。私は第五章、『親からの金銭的な自立』に向けて準備を進めている。とりあえずは今の職を続けること、断絶しないことを心に留め、節制と規則正しい生活を心がけ、両親に少しずつ恩返しができたらばと思う。

 神さまはいる。一人で生きていけるようにちょっとだけ、私の人生に細工をした神さまは、きっといるのだと思う。それは他人かもしれない。この世の他人は全て繋がっているのかもしれない。それこそが、神さまなんだと信じることにしている。


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 ※名誉棄損などを考慮し、一部を伏字としています。ご了承ください。
 ※この作品はノンフィクションです。

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