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自信とは脅されても心がぶれずに、非暴力・不服従を貫き通せる心の在りようのこと。

──『常に恐怖の中にいると、いつのまにやら何も感じなくなるんだ』──
☆☆☆

 2023年8月23日(水)。21時49分。今日は休みの日ではない。

 幻聴の話でもしましょうか。

 今、「花火の話もしていいばい」と聞こえてきたのですが、あなたは誰ですかね。幻聴が許可を出すというのは経験上珍しいことです。あ、今は「死ね」と聞こえてきましたが、いつもはこんな感じなのです。

 幻聴はいつも否定形。

 職場で少し仲良くなった人に「実はブログをやってるんですよー」とか言って「え、なんてブログなんですか」と聞かれて、「……」と黙ってしまった私は正しいのでしょうか。

 いつかはどこかで話すことになるでしょう。

 私はそこまで強くはない。

 花火が上がったということは今日は地元はお祭りでした。私は仕事でした。別に仕事が終わった後に寄ればいいだけなのですが、こういうイベント事は複数人で行くから楽しいのであって。

 京都一人暮らしの頃に、旧西陣小学校での地元のお祭りに一人で行って悲しくなった思い出が蘇りますね。大学時代にもっと人と話しておけばよかった。

 大学一年生のゼミ活動が大事ですよ。そこで未来の結婚相手を探しましょう。恋愛したこと無いからよく分かりませんが。

 書くことと言えば、『100万PV達成後に死ぬワニ』の続きを書かなければいけないのですが、また、本当に書くことが無くなったときに書きましょう。

 親近者から怒鳴られました。本当に怖かったのはここから先で、怒鳴られていても全く心が変わることがありませんでした。

 怒鳴り返すこともせず。なだめようと焦ることもせず。黙ってしまいもう喋らないという態度に出るでもなく。相手を論理的に負かそうとか思いつきもせず。

 何も心が変わりませんでした。

 詳細を話すことはよくないと思いますが、いや、あれをしなければよかったのではとか、詳細を書けば柿を一個一個剥くとか面倒なことをしなければ別にあなたは忙しくなかったのではないのかとか思ってしまいました。

 時間が空いたら次はこれをやろう、という考えが自分を追い詰めていくのではないのでしょうかと言いはしませんでした。しかしながら、グリットの定義を持っていて、「最初からやることを決めていて、時間が空いたらゲームでもしようか」という考えならば時間に追われることも無く穏やかな心でいられるような気はしています。

 まあ、人それぞれ。

 私が夏バテでぐだぐだしていたら怒鳴られてしまいました。

 そうでした。怒鳴られた後ですね。本当に心は何も動きませんでした。常日頃から幻聴なり統合失調症の関連性妄想障害を延々と我慢している私は、常に恐怖と隣り合わせにいるようでした。閉鎖病棟隔離室にいるときの無力感。パートタイマーで延々と同じことをして、ほとんど喋ることも無く、黙って作業し続ける忍耐力。忍耐力というか、「この作業を延々と続けていて一体何になるの」と疑問を持ちながらもその作業を続けていく、虚無との隣り合わせの忍耐力。何も成長しない毎日。

 そういう毎日に居たら心も壊れるものですね。気丈だとか、心が強いとかではなくて、ただ感情が鈍麻していくだけなのだと思います。「まあ、ほどよく貯金もあるしなんとかなるだろう」とかいう不思議な余裕が心を守ってくれているみたいです。これは自信というものなのでしょうか。自信という言葉を聞いた幼稚園くらいの頃から自信という言葉の意味を疑問に思っていました。「成功すると確信していないことに関してはやらないのが普通なのでは」とか思っていました。

 自信という言葉の意味は逆でしたね。過去に対して失敗したのではないかと思う心に対して、自分は正しいよと、思うまでもなく気丈に振舞い続ける心。それが自信という本当の意味なのかもしれません。

 相手が怒鳴っても、馬鹿らしくなるくらいに、くにゃんくにゃんと曲がる心。これは強いと言えるのか分かりませんが、争う気持ちが無ければ、争いそのものが起こらなければ、起こらないに越したことはないのかなと思いました。

 Peace Children みたいですね。何があっても戦争はしませんという心。非暴力・不服従のような心。ガンジーさん。ガンジーさんも若い頃はやんちゃしていたという事実は面白いですね。マハトマ・ガンジーさんは戦う上で最も相手がイラつくのが非暴力・不服従、ないしは無抵抗だと気が付いたらしいですね。イラつくというか、攻撃する士気を下げさせてしまう態度。なんで私は攻撃しているのだろうという感覚に陥りますね。

 今日は祭りで露店も恐らく大量に出ていたと思われます。私も小学校時代、中学校時代くらいまで行った記憶があります。ロケット花火をグラウンドで投げて遊んでいたのは懐かしいですね。今も昔のような盛り上がりは見せているのでしょうか。

 コロナ禍明けの、4年振りの開催。

 ジャンボ烏賊焼きでも食べたいなあとは思いますね。少しはお金がありますし。烏賊だけ買って帰りたいです。

 でもそもそも、出店とか露店とかが好きならば、ロアッソ熊本の試合を観に行けばスタジアムグルメにいつでもありつけます。大人って毎週末にお祭りのようなものがあっていいですね。大人になってからサッカー観戦に行ったことがないですね。同志社大学の頃はガンバ大阪のチケットもぎのアルバイトに参加しかけたのですが、まあ、京都から吹田スタジアムまではべらぼうに遠かったからですね。ちょっと毎週末行くのは無理がありました。

 最近、note に移していて思ったのですが、文字数は2000字強くらいが一番読みやすいみたいです。このへんでお別れにしましょうか。

 英雄たちの選択で大岡越前が特集であっていました。

 少し調べてみましたが出て来ませんでした。「世界のGDPが成長していった中で、観光や娯楽などの物価は上がるのに、小麦などの基幹産業は物価が上がらない現象」のことをなんと言うのでしたかね。アルゼンチンが経済的に縮小した原因になったそうです。

 大岡越前の話は面白かったです。いつの時代も官僚は自分達が世の中のあらゆるものに規制を敷いて、世の中をよくしたいと考えるみたいですね。

 とか、観ていたら、途端に、ドカーンという大きな音。

 花火。最初は音が大きすぎて天変地異かと思いました。ヤバい音でした。

 ベランダから花火を見て、好きなかむろ花火も観れたので満足です。Xperiaの写真の技術は凄いですね。昨年の写真の写りとは全く別次元でした。そんな私はXperiaってやつですね。小さい子どもが「たまやー」と叫んでいました。遠くから烏賊焼きの匂いがしました。何やら放送もあっていました。お祭りは確かに、目の前であっていたようです。

 夏も終わりの花火の百花繚乱ひゃっかりょうらん大人の夏はこんな感じで秋へと向かっていくのでしょう。

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