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【労働哲学】なぜ労働者により賃金が大きく変わるのに労働者は不平不満を言わないのか──時間的構造と実存的概念から考える。

 2022年8月1日(月)。仕事。帰りの電車の中でシーブリーズの汗拭きタオルで顔をふく。それでも不快感は拭えない。完全なる休みボケに入っており、帰り着いた今でも吐きそうなほど、暑さには参っていた。

 6月終わりの頃と比べれば大して暑くないような気がするが。それでも、休みボケの、ワクチンを打っての寝たきり、ずっと空調の効いた部屋で寝ていたツケはきっちり帰ってくる。

 仕事をしていると何もかもがどうでもよくなる。スマホの性能が悪いとか仕事をしていたら本当にどうでもいいことで──仕事ではなく労働かもしれないが──、どちらでもいい。労働をしていたらスマホの性能など本当にどうでもよくなる。気持ちの向かう先は最低賃金がいくらになるか。それにしか感性が向かわない。完全に思考停止というやつで、労働者はある意味で組織の中で身体を必死になって動かしていたら、時間が終わり、組織の為に全てを捧げ、それ以外に考える余地はなく一種の宗教のように思われる。結局は時給で働いており、その行動が組織にとってどれだけ役に立ったか、どれだけ生産性に役に立ったか──それとは関係なく、概念としてのお金の賃金により人は働かされる。働いている間は、「これで1000円。……これで5000円」と時間が経つにつれてお金の損得勘定など働かせるわけもなく、とにかく自分の行える全力で働く。それが人により正職員か非正規か、会計年度職員か、嘱託職員か、部長か、課長か、そういう肩書という名の概念により、これもまた概念であるが払われる給料は決まっていく。概念が物としての役割を果たすのは、銀行から賃金を下ろし、何か物体を購入したときになって初めて、労働が意味を持つようになる。時間は平等だが、賃金は不平等で格差があるのが当たり前なので、何か物体を購入できる、その《《選択の幅》》が大きく変わる。労働をしてから給料が払われ、物体を購入するまでには、最低でも一ヶ月近く時間による歳月が必要なため、人による賃金格差は多くの人で忘れられる。また、同じ会社で働く者同士、賃金の話に触れるのは、なぜか日本ではタブーとなっているために、安い労働力で働かされる者は、自分の全力で働いた結果がこれなのだと《《納得する。》》比較するものが無いからだ。

 そうやって格差はどんどん広まっていく。

 長文過ぎて誰にも読まれなさそう。

 自分のことを書こうか。

☆☆☆今日の統合失調症のコーナー☆☆☆
 
 ない。

 本当にないのだ。

 コロナワクチン4回目接種の副反応と睡眠導入剤が脳内で戦い、脳の一部を破壊し恐ろしいほどの影響を与えてしまったのか、幻聴が聞こえない。

 実存でただ「暑い」「これをやって、あれをやって……」とやっているうちに統合失調症の入りこむ隙間が無かったのかもしれない。

 最低賃金で働いているわけではないが、賃上げが行われたら賃金も上がってほしいな……としか思っていない井上さんでした。

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