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【論考】「家族が話を聞かない家」に生まれてきた避けられない不幸

 2023年2月4日(土)。13時31分。

 はい。こんにちは。井上和音です。

 いや。計画通りに物事は進まないのが当たり前のことなのかもしれませんが、自分が計画通りというか、思っていた通りに自分の行動すら抑制できない、というか、行動を選択することもできない理由は、だいたいがメンタルが豆腐のように弱いからだと思われました。

 Twitterに書いたところで、何も変わりはしないし。Twitterって愚痴を言うところではなく、パフォーマンスをするところなのかなとかなんとなく思ってしまいます。

 Twitterに愚痴を投稿したところで何も変わらず。というかむしろフォロワーが減ったりするので衝動的に愚痴を書いても、なんの意味もない行動になってしまうのですね。

 親と話しただけで、話しかけただけで全否定されてしまって、話している途中で全否定されてしまって、肝心の面白いところまで話すことが出来ずに、会話が終わってしまいました。

 ストレスというか、「自分には会話相手はいないのか」という絶望感から、また少し寝込んでしまいました。「何をしても無駄だ」という気持ちになりました。

 しかしながら、「じゃあ、話しかけなければいいじゃん」の一言に尽きそうな気がするのですが、会話相手を求めることは人間の根源的な欲求なのではないのかとか思ってしまいました。

 ストレスとか、体調が悪いとか、胃が重いとか、そういうときって文章を綴っていたらなぜか知らないけれど、快方に向かって行くというか。ただ1年近く文章だけのブログを続けていった結果、脳がそうなったのかもしれません。何かを書いていると、徐々に書いていることに集中が収まっていき、ストレス発散の書き殴りというよりかは、禅で心を落ち着けようとする行為に似ているのかもしれません。

 書いたことは忘れていく、自分の特性に起因があるのかもしれませんが。考えてみたら、何を言っても否定されてしまう状態というのは、まあ、そこそこ苦しい状態というか、親自ら言ったことなのですが「両親が二人とも間違った教育を与えてしまった犠牲者がお前なのかもしれないな」とか言っていましたが、なんか、納得したというか。しかし、そんな発言を自らしているにもかかわらず、子供の行動や考え、というか、シンプルな会話でさえ癇癪を起されて、結局のところなぜかストレスをお互いに溜てしまうという、もうどうしようもないアプリオリな状態に、家族に、ずっと浸り続けていたのは、事実だったのではないかと思ってしまいました。

 勝手に結論付ける。相手に知識が無いと分かると馬鹿にし、その知識に対する説明も無しに会話をするのを拒もうとする。おこる。いかる。会話にならないというか、話にならないというのは、文字通り、話にならない人は、本当に話にならないというのが、言葉遊びのことわざではなく、現実の、ある意味で実存の、リアルな意味での話にならない、ということが往々にして起こってしまいます。

 よく考えてみれば、それは相手が「話を聞く人かどうか」という、コンサルティングの本などでよく目にするテーマに集約してしまいそうですが。世の中には二種類いて「話を聞く人」「話を聞かない人」に明確に分けられてしまうのかなと思ってしまいました。

 ドラマとか小説とかでは「話を聞く人」以外が出てくることはありません。「話を聞かない人」を演出したところで話にならないからです。「話を聞いて、それに答える」というのが、実際の人間関係でも重要かと思いますが、「話を最後まで聞かず、途中で話を遮り、一方的に相手を否定する人」というのが現実にはごろごろ……、いるのか分かりませんが、親がそういう人だということはちゃんと理解しておかなければいけないなと思いました。

 が。

 生まれ育った環境が、「話を最後まで聞かないで途中で否定する人」の元で育ってしまったとしたら、それは、それだけで不幸なんじゃないかと思ってしまいました。本当はこうやって駄文を打つことなく、名言を集めたり、ITパスポート試験の勉強をしなければいけないのですが、一言、話にならない会話をしただけで、こうもメンタルを揺さぶられると、「これって変えようのない不幸なんじゃないのか」とか思ってしまいました。家族全員がそれならば、もうどうしようもないような気がします。

 特に、自分が頑張ってきたとか、偉いとか、言ってしまえば、私から言ってしまえば、勘違いでしかないと思うのですが、そういう思い込みが強い人に限って、最後まで話を聞かない性格になっていくのかなと思いました。しかし、そこで会話を諦めてしまったら、また本当の孤独に逆戻りしてしまいます。人生の幸不幸が、「家族が話を聞くか聞かないか」という、アプリオリな問題から発出しているとしたら、例えば世の中の政策とかなんの意味もない可能性を秘めています。

 「異次元の子育て支援」と銘打って、「子ども」のために「親」に給付がいく支援策も、親が子どもに対してお金を使わなかったら、ただ、親への給付金にしかならず、本来支援を受けるべき「子ども」に対しては、その給付があろうがなかろうが、所得制限を撤廃しようがそうでなかろうが、全く関係がなくなります。「異次元の子育て支援」で得たお金でパチンコに行く人だっているでしょう。考えてみれば「子育て限定」の金銭の使用への限定をすることは出来ません。

 全ての親が子どものために動くという神話に対して、親から愛され、優良な教育を受けてきた国会議員の人達の中には、誰も疑問を持つことも無いのだろうなと勝手に考えています。

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