見出し画像

【小説】Last man on the Earth.


 0/0

 運命に立ち向かう必要はないよ。流されるままに進むのが周りの人々にとっての幸せだよ。
 だけど、あなたにとっての幸せは忘れないで。
 小さく運命に立ち向かうこと。
 過去の感動を忘れないこと。
 運命に静かに耐えること。
 新たな感動を探し続けること。
 例えば、絶望の世界を突き付けられたとしよう。そしたらあなたは何を選ぶ?
 例えば、究極の裏切りを見せられたとしよう。そしたらあなたは何に託す?
 例えば、幸福な嘘を吐き続けたとしよう。そしたらあなたは誰を許す?
 世界はそれでも終わらない。何があっても廻り続ける。
 わたしは、あなたを許します。
 わたしは、あなたに託します。
 わたしは、あなたを選びます。
 次の世界を任せます──


 000

 さよなら由人、またいつか──


 001

 二〇八〇年、五月二十二日。水曜日。
 僕はいつものように熊本高校へと自転車で登校する。上を見上げると雨が降っていた。雨は降っているが地面に落ちてくることはない。当たり前だ。道路全体が、いや居住区全体が透明なドームで覆われているから。雨は降ってはいるがジメジメジトジトとした、湿気がまとう重たい空気感は全くない。いつもと同じように、自転車に乗っているときは涼しげな風が僕のわきを通り抜けていく。 
 勿論ノンストップで学校へと向かう。徒歩用、自転車用、自動車用に分かれた道路がほぼ全て一方通行の立体道路だ。当たり前だ。昔は信号機を元に道路は交差してたって聞いたことがあるけど、でも、そんな自分の意思に反する、信号機による交通の妨害があって学校に遅刻したら、いったい何に腹を立てればいいのだろう。一体誰に責任が負われるのだろう。
 なんて、益体やくたいもないことを考えながら自転車を漕いでいたら、微妙に学校に遅刻してしまった。
 教室では担任がクラス点呼を取っていた。
 担任が一人一人名簿に印をつけているのを廊下の窓から横目で確認し、それから、慎重に、なおかつすばやく後ろのドアを開け、そしてすっとばれないように教室へと入る。よしよし、うまくいった。ははっ、もう少しだ。
 と、思っていたところ。
 担任のマエケンの声が響いた。
「白石! 朝礼終わったら職員室に来るように」
 クスクスっと教室に弛緩した空気が蔓延した。
 やってしまった。
「シライシ。お前、俺に何回説教させれば気が済むんかいな? ああ? 俺も休み時間は暇じゃなかっぞ。俺もお前のために時間割いとるんぞ。お前、ほんとわかっとんのか?」
 博多弁が少々きつくて、何が分かっているのか、僕にはさっぱりだった。適当に「ハイ。ハイ。分かりました」を繰り返し、もう二度と遅刻しないと宣誓を誓わされた。次遅刻したら反省文だろうな、なんて頭の隅で考えていた。「よし、分かった。次からは遅刻しないように」と言われ職員室から解放された。
 正直、何もよく分からなかった。
 廊下を通って教室へ戻る。
 教室の扉に手を駆け、少し深呼吸してから、今度は思いっきり、ガラリッとドアを開けた。
「おい! 遅刻魔が帰ってきたぞ!」
「そろそろ反省文の頃合いじゃないのか?」
「まあ、今年のクラスでマエケンになったのが運のつきやな」
「ゆーくんおかえりー」
 聞き取れるだけで、それぞれ太一たいち綾伽あやか、そして久美くみ、辺りだろうか。
 ここまで一斉にクラスの人から話しかけられたら、それは返事のしようがないってもんだ。
 とりあえず。
「白石由人、ただいま帰還しました!」
 なんて、敬礼のポーズを取ってみた。
「おおーいいね!」
「おかえりやー」
 なんて、教室のテンションがまた一段と上がった。うん、これでいい。このクラスの雰囲気は本当に好きだ。
 授業の一限の数学が始まるまでその話題は続いた。
 今日も平和である。何気ない日常。当たり前の生活。在り来たりな会話。意識すれば、つまらないかもしれないけれど、つまらないことが壊れるほど、面白いことも起きないだろう。
 ましてや、絶望なんて。


 002

 放課後、マエケンのいつも通りの長めで、少々博多弁のきつい終礼が終わった。
「さっさ部活行こうぜ」
 太一はナップサックとエナメルバッグを背負って、僕の机の前に来た。
 速いな。まだ終礼終わって十秒ぐらいしか経ってない。ああ、なるほど、どうやらマエケンの話の途中で準備を済ませていたらしい。太一はとても器用な人間だった。
「ちょい待ちな」
 そう言うと、僕はショルダーバッグに教科書を詰め込む作業を再開する。
 太一たいちは、僕と同じバスケ部に入っている。熊本高校センターの二番手、はま太一たいち。熊本高校ポイントガード三番手の僕より少しばかりランクが高い。
 三年生が抜ければどちらもスタメンに名を連ねることになるだろうし、日常生活でポジションのランク付けが影響を及ぼすほどに、熊本高校バスケ部は規律に厳しいというわけでもない。
 太一は親友だ。二年になってクラスが一緒になる前から仲間だ。
 ショルダーバックに荷物を詰め終わり太一と共に体育館へと向かう。途中、一年のしゅうたちとも合流し、五人でわらわらと廊下を歩いて行った。
 当たり前だけど、人間が活動する範囲は、全てドームの中だ。
 校舎全体が透明のドームで覆われていて、廊下だろうと部室だろうと体育館だろうと同じ湿度、気温で保たれている。だが、練習中は違う。人間の群衆の体温の増加に体育館だけの、ピンポイントの空調設備は追い付かない。こんなとき人間の力を感じる。人の熱を感じる。
 一時間半ほどが経ち、午後六時過ぎで練習が終わった。その後、十分ほど顧問のジンさんの話があり、黙想して挨拶。それらも終わり、部員総出で片づける。部員は大して多くはないので、後輩に後片付けを押し付けるようなことにはならない。
 僕はボール籠を部室まで転がしていく担当だ。まあ、部室まで運んで行くときにだって健斗(一年)とノリさん(三年)と全身音ゲー(全身にポインタを取りつけ、音に合わせて動かす部位まで正確に求められる、最近流行りの家庭用ゲーム)の話で盛り上がっていた。 
 部室に戻ると制汗剤の匂いが漂う。
 壁に掛っている時計を見やると、時刻は午後六時半を回っていた。
 ああ、ちょっとまずいな。なんて思った。
 だって今日は先週決めた約束の日。
 ここで、太一が大声をあげた。
「二年! 今日飯行くぞ!」
 おそらくは、ゴール片付け係の太一たちの班でもう食事に出る話が出ていたのだろう。
「いいね!」
「どこ行く? コーエイ?」
 なんて、話が次々と出てくる中、
「ああースマン。俺はパス」
 と、僕は発案者であろう太一の方を見て言った。
 一瞬太一は『えっ、こいつノリ悪っ!』って顔したけれど、すぐに何かを悟った顔をして、そのあと目元を垂らせ、口元を緩ませた。
「あ! もしかしてゆーと君、デートですかー?」
 そのもしかしてだった。
 僕は彼女と一緒に帰ることを決めていた。
「出たよノロケ」
「きた、吹奏楽部」
「えっ、吹部じゃなくて軽音じゃね?」
「あれ? そうだっけ?」
「でた、知ったかぶりだ」
「まあ、お幸せに」
「勝手にデートに行ってろ!」
 いつも通り、部室の中では後輩同期先輩を超えて、次々と幸せ者の僕に言いたいことを言ってくる。
 実際は一緒に帰るだけである。
 僕はさっさと荷物を部活用のトートバッグに詰め込み「ではさらば! 失礼!」と言い、靴を持って一目散に部室を飛び出した。
 腕時計を見る。午後六時五十分過ぎ。
 透明なドームの外側では、雨が上がった後によく見られる燃えるような夕焼け空が広がっている。
 何となく、少しでも早く二人で話したい、という思いが先行して、自転車は置いていくことにした。
 早く会いたい。
 約束の時間は特に決めていなかった。お互いに部活が終わり次第、校門の門柱の前で落ち合うことになっていた。
 渡り廊下を走る走る。
 土足廊下にたどり着き、スニーカーに無理やり足を突っ込んで彼女の待つ校門へと向かう。
 夕方、というかもう夜が迫ってきている薄暗がりのなか、校門が近付くにつれて、門柱の前に、後ろに自転車を置いて、僕の彼女が立っているのをぼんやりと視認した。
 僕が相手の顔を認識できないので、恐らくは相手も僕の顔は見えないのだろうけれど、僕は笑顔で右手を挙げてみた。 
 すると、僕の彼女、若干緑ががったセミロングのその人。
 椿つばき久美くみは。
「おおーい!」と、両手をぶんぶん振って僕の合図に答えた。近付いて見ると、彼女もまた満面の笑みだった。


 003

「あれっ? ゆーくんいつもみたいに自転車は?」
「うん? まあいいんだよ。僕の家はどうせ歩いても十分くらいだし」
 久美は高校まで電車で通っている。一番高校に近い水前寺駅からは自転車に乗ってやってくる。
 ちなみに、僕が住んでいるアパートは駅と高校の間に位置している。
 いつもだったら、二人で駅まで歩道用道路を自転車を押して歩いて行くのだが、今日は久美だけが自転車を押しながら、二人歩きだす。
「あ、ってことはやっぱり自転車で来たのに朝、大遅刻だったんだねー」
「大遅刻ってほどでもないでしょ。微妙だよ微妙」
「うん。登校時間三十分後、クラス内点呼が行われる時間に登校してくるのはやっぱり大遅刻だよ」
「ぬう。まあ、家出たときにすでに登校時間過ぎてたからな。いや、でもまだ数えるほどしか遅刻してないだろ。一年の頃よりまだましになった方だって」
「それは、ゆーくんが数えてないから。本当はもう数えられないくらい遅刻しちゃっているんじゃないかな? 私の記憶では」
「なるほど、僕の遅刻の回数を真に知っているのはマエケンだけか」
「もう! いつもみたいに寝坊したの?」
「いや、今回は早く起き過ぎたんだ」
「……はえ?」
「眼が覚めたらまだ七時になっていなくて、これは退屈すぎるどうしようかな。暇だな。よし後三十分寝よう、って思って、目を開けたら八時過ぎちゃってたんだ。あれはすごいね。タイムリープでも起きたのかと思った」
「それはただの二度寝」
「いや、ごめん、ちょっと話を盛りすぎた。実はちゃんと七時半ごろに意識はあったんだよ。ベッドの中でだけど。そして、体を起こそうとした。だけどどうしても体を起こすことができなかったんだ」
「ん? 足でもったの?」
「いや、そうじゃなくて。夢を見たんだ。体を起こそうと思っても、怖くて起こせない。ちょっとだけ怖い夢」
「ゆーくんよく夢見るもんね」
「うん。でも今回は特別怖い夢だった」
 正直言って今も怖い。
 朝から誰かにこの夢の話を打ち明けたかった。だが、こんな酷な話ができる相手は久美ぐらいしかいなかった。
 だから、私的な話かもしれないが、今日一日中久美と二人になりたかった。二人だけで話をしたかった。
 親友はいても、全てを話せるわけではない。
 信頼を寄せる、親愛なる相手にしか全ての話を語る勇気は持てやしない。
 もしかしたら、彼女に対しても無意識に隠し事をしているのかもしれないけれど。
 僕は夢の内容を打ち明けた。


 004

「なぜだか僕は山を登っているんだ。歩いて。標高はなかなか高い。そうだな、阿蘇山ぐらいの山かな? そして山の頂上付近が見え始めた時、急に山が噴火するんだ。それがリアルで、火柱がはるか上空まで駆け昇るんだ。ズババババーって。夢の中だから音が聞こえるっていうか、脳に直接響くって感じで。
 そして僕はその火柱を見て一目散に逃げるんだ。もう何も考えず、つまづかないようにただ地面だけを見つめてさ、ひたすら下山の方向へと走っていく。夢の中だから疲れることもない。そのまま走って行って、『どうだ、いたか?』って思って、ちょっと目線を上げたらなんと目の前からマグマが迫ってくる。コの字型に囲まれ始めて、もうまさに逃げ口が閉じようとしている。閉じようとしていると同時に両斜め前からマグマが近付いてきている。だが、夢だ。夢だとわかってる。だから自分の都合のよく、すんでの所で奇跡的に囲いから逃げ切れるだろう、と思うわけだ。 
 でも、かすかな希望を抱いた、その瞬間に。
 そのマグマの逃げ道が閉ざされるんだ。
 そして今度は前から全面的に僕にマグマが襲いかかってくる。
 死ぬしかなかった。絶望だ。
 死にたくない!
 そう思ったとき、急に意識が飛ぶんだ。
 まあ、夢の中だから本来の僕の自我は無いんだろうけれど。
 気が付いたら、どんよりとした曇り空の、雰囲気は夕方かな。でも空は嵐が近付いていると感じさせる暗い空の、砂浜にいるんだ。
 そして、海では小学生くらいの年齢の子供たちが、キャーキャーと言いながら遊んでいる。
 僕はその夢ではどうやら教師らしい。
 砂浜、海の中には他の教員たちもいる
 そこで、僕は雲行きが怪しくなってきたのを見て、生徒に砂浜に上がるように呼び掛ける。
 多くの子供たちが次々と浜に戻ってくる。だが、浜からものすごく遠いところで遊んでいる子供たちの姿が目に写る。沖って言うのかな? そのぐらいの距離に子供たちが泳いでいる。大声を上げて呼び掛けるも戻ってきそうにない。声が届いているかもわからない。
 雲行きを見ても更に危険が迫ってきているようなので僕は泳いでいって、直接子供たちに指示することを決意して、ゴーグルつけて海に入った。
 教員たちが背後から何かを叫んでいるが、周囲の薄暗さを考えてみても本当に時間がない。もう、灰色の空が突然光るくらいには天井を雷雲が覆っている。波も急激に高くなってくる。『これは急がないとマズイ』って焦りながら子供たちへと近付いて行くんだ。
 焦っているから、下を向いて、必死に泳いでいるんだ。
 どれくらいだろう、多分、本当は三十秒くらいしかたっていないんだろうけれど、勝手に十分くらいたったと想定される疲労度と焦りのなか、ウンザリするほど泳いだところで、荒立つ波しぶきの中にいる子供たちに、視線を向けるんだ。
 するとね、子供たちが泳いでいると思っていた人影が、なんとただの岩の群れだったんだよ。
 岩だと視認しだしたあたりから、それまで小雨だった雨が本降りになってくるんだ。
 僕は急いで戻ろうと、元来た海岸の方へと向き直してみて、愕然とするんだ。
 物凄く遠い。
 僕が砂浜からこの岩影を見たときよりもずっと遠くに見える。
 ヤバいヤバいヤバいと焦って焦って焦って、
 絶望とか希望とかを感じる前の、大きな不安に襲われながら、必死に藻掻いた。何とか呼吸を取りながら泳いでるときに、
 僕に向かって、
 雷が落ちてくるんだ。
 いや、夢の中では、雷に当たり、自分が雷に当たった瞬間の死への恐怖を感じたその瞬間に、その感覚だけを残して、また意識が飛ぶんだ。
 意識が飛んで、意識が戻った時には、砂漠の廃墟で三人から銃を突きつけられている場面へと移り変わるんだ。
 急だった。僕は三撃一遍に撃たれた。
 今回は意識が飛ばなかった。
 いや、意識は飛んだか。正確に言えば場面は飛ばなかったんだ。
 撃たれた瞬間に、視点が一人称から上空の三人称のカメラに移り変わった。
 変わり果てた僕を見下す様に。
 そして、そこで世界が止まるんだ。
 僕を撃った三人がまるで彫刻の様に動かない。
 三人だけでなく、舞い上がる砂塵も、ギラギラと照りつける太陽によって作られた、色の濃い影も全てが止まるんだ。
 ここで困ったのはこんな死に際を僕に見せ続けた僕の無意識の方だ。
 夢が続かない。
 だから、僕の無意識は、僕の自我へと呼びかけてきた。いや、というよりその止まった廃墟の場面を見下しながら、映像を見ているその背後から、言葉が浮かんできた。『これは夢だ。早く覚ましてくれ』って。
 そして、グアーっと声を出して現実に戻ってきたことを認識させて、それらの話は全て夢だと分かった。今、生きている希望が少しずつ夢の中の絶望を埋めてきたのを確認して、少しずつ少しずつ、安心していった。
 それでも止まらない頭痛と戦いながら、薄目で時計を確認してみると、八時過ぎてたってわけさ」
 僕が一通り話し終えると、久美は歩を止め、暗くなった宙を見つめながら、ふうと息を吐いた。


 005

「ゆーくん、僕っ子になってるねー」
「いや、僕っじゃないよ。僕は元から男だろう」
「あれ? 僕っ子ってそういう意味だっけ? 一人称が『僕』の男の子って意味だと思ってた」
 そう言うと彼女はてへへっと左手で軽く頭をかいて見せた。
「まあ、ゆーくんの一人称が『僕』になるってことは私に心開いてるってことだから」
「うん。そこは自覚してる」
「他の誰にもできない事、してくれてありがと」
 彼女は笑った。目を細め口を閉じたまま口角を少し釣り上げた。
「いや、礼を言うのはこっちの方だ。いや、礼と言うより謝罪かな。なんというか、こんな重たい話をしてごめん。そうだ、ちょっとベンチに座っていかない?」
 僕たちはもう、水前寺駅の北口手前まで来ていた。豊肥本線は熊本県を東西に横断している。駅の東側、つまり僕らから見て左側には大きな木を中心とし、その木をぐるっとベンチで囲ってある小さな公園があり、その反対側には道路を挟んで、こちらにも公園がある。こちらは大きな公園で、遊具やトイレなんかも備え付けられている。
 どちらの公園も名前は分からない。
 彼女は「ちょっと待ってね」と言って、西側の公園と水前寺駅の間にある細めの駐輪場へと、小走りで自転車を止めに行った。がちゃこんっと自転車を止め、鍵を閉め、そしてまた小走りで僕の所へ戻ってきた。
 僕らは西側、つまりは駅を背に左側の大きめの公園へと入っていった。そして、公園を一望できるような、公園の中でもちょっと外れたところにあるベンチに座った。
 先に久美が座り、僕が横に座った。両側にのみ手すりが付いているタイプで、僕基準の程よい距離間で久美の横に座った。恋人同士の適当な距離感を、僕は未だに正確には知らない。
 そして、僕はベンチに座るなり、ふうと息をついた。
「正直、朝からずっと怖かった。いや、なんかごめんな。久美には何にも関係ないことなのに」
 僕がそう言った瞬間、久美はガシッと僕の左の二の腕を掴んだ。
「なよなよしいぞ! さっきから謝ってばっかり! 私にゆーくんの悩みを全て打ち明けてくれたことに本当に感謝してる。感謝しかないくらい感謝してる。全然怒ってなんかいない。私が全然、これっぽっちも怒ってないのに謝ってくれなくていいの! 簡単に謝ってくれなくていいの! それじゃ謝罪の価値が下がっちゃうじゃない」
「なるほど、確かにそうかも」
 そして、彼女はつかんでいた右手を、今度は僕の頭に乗せて撫で始めた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。くみちゃんは優しい声で言いました。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
「それは、たしか小学校のときの『だいじょうぶ、だいじょうぶ』だっけ?」
「そう。私の朗読がうまいおかげでゆーくんすぐ思い出したね。さすが私だね! 椿久美だね。ゆーくんの記憶を取り戻したね」
 そう言うと、彼女はくしゃくしゃっと僕の髪をき回した。
 久美のテンションについていけず、言葉が出なかった。
 自分の急すぎるテンションの高さに気がついたのか、向こうもまた言葉が出ないようだ。
 久美は、すっと右手をベンチに下ろした。
「まあとりあえず、大丈夫だよ。私に話してみて、少しは楽になったでしょう?」
「少しどころか、だいぶ楽になった。聞いてくれて本当にありがとう」
 そしてここで僕は、弱い自分の本音を出した。
「でも、やっぱり、まだ少し怖い、かも」
 弱い弱い僕の本性が現れる。
 はっきり言って、ただの面倒くさい奴だ。
 恐らく僕は、もう一人僕がいたら『なんだこいつ?』と思って嫌い、煙たがることだろう。
 人間とはそんなもんで、自分と同じレベルの弱さの人間がいたら、自分より弱いと思ってしまう。見下してしまう。
 しかし、彼女、椿久美は、そんな僕の弱さを見て、ベンチの上に置いてあった両の手を、それぞれ僕の両肘まで持ち上げた。
 僕の背中に手を回し、体ごと僕に近付き、僕の体を引き寄せ、僕の体をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫。私がいるから」
 掠《かす》れた声でそう言った。
 僕の方が体躯が大きいので、久美が僕の胸の中にうずめる形になった。突然のことに初めは動転した。だがすぐに安心した。
 これは凄い。久美に話してもまだ消えてくれなかった心の片隅に残る小さな不安、何か苦しい将来が起こるのではないかという些細な予感。それら全てが、本当に泡のように溶けていった。よく分からない複雑な悩みが、単純で純粋な安心感へと落ち着いた。
 今までなんとなくドラマやマンガなんかで見てるこっちが恥ずかしいと忌み嫌ってきた恋人たちの抱擁であったが、やられてみるとこんなにも心が静まるものだったとは思わなかった。
 顔を埋める彼女の背中を、ポンポンっと叩きながら、「ありがとう」と彼女の耳元で囁いた。
 そして、彼女の首元まで伸びるセミロングの髪を一回、指を通した。
 彼女は顔を上げた。
 僕は彼女にチラッと視線を向けた。
 一瞬の間。
 そして、僕は、彼女にキスをした。
 ──そのとき、なにか《《かちり》》と音がした。
 何かが落ちたような音。
 もちろん、恋に落ちる音とかそういう比喩じゃなくて、
 物理的に、何かスイッチが入る音がした。
 僕はその音に気付いたけれど、聞こえていないふりをした。


 006

 キスの数秒後、僕はドキドキしていた。だから、口を利《き》けなかった。
 彼女は、軽く下を見ているようだった。彼女もまた口を利けない様子だった。
 セミロングの前髪が目に掛っていて、彼女の表情はよく見えない。
 僕はすっと立ち上がった。
「帰ろう」
 そうやって彼女にさっと右手を出す。
 彼女は何も言わず右手を握り返して、手を握ってはいるものの手に力を加えず、自分の力だけでほとんど音もなく立ち上がった。
 まだ少し下を向いていて、彼女の表情は見えない。
 彼女の手が物凄く温かい。きっと恥ずかしいのだろう。何しろ二人にとって初めてのキスだったから。
 下を向き続ける彼女を手で導きながら、公園を出て、北口の階段を上がっていく。
 そして、そのまま駅の改札口まで辿り着いた。
 改札口に辿り着くまで、彼女はずっと無言だった。
 恥ずかしがりすぎだろ。いや、もしかしたらキスが嫌だったのか。いや、でもあの場面はキスまでいってよかっただろ、などと僕が逡巡し、もう改札前だからと、何気なく彼女の手を離して、彼女の方をちらりと見ると、眼に掛っていたわずかに左右に揺れた。
 彼女は完全に《《無表情》》だった。
 僕は彼女が恥ずかしさのために顔を赤らめているだろう、とかちょっと呆けているだろうなどの希望的観測を持っていた。または、怒りで口を尖らせ、斜め下を向いている、といった少々覚悟のいる状況になっているのではないか、とも思ったが。
 彼女は完全に無表情だった。
 彼女の十メートル程の背後には、駅の待合室の透明な強化ガラスのドアが存在し、その中に数人、恐らくは久美が向かう熊本駅行きの電車を待っているであろう人々、が座っている。
 そんな風に、久美の後ろに存在する風景をしっかりと確認できた。久美は僕の目の前にいるのに、彼女の背後の風景に溶け込んで見えるくらいの、彼女の顔は完全な無表情だった。
 彼女は僕を見ていない。というより、彼女の眼球はピクリとも動いていない。
 そして、その無表情と共に僕が今まで気にしてこなかったことが──今まではそれが普通だと思っていた違和感を、僕は意識的に感じ始めた。
 彼女の手が《《熱すぎる。》》
 最初は恥ずかしいから体温が上がり、ああ、人間の掌はこんなにも温かいものなんだな、なんて暢気《のんき》に考えていたのだが。
 階段を上るにつれて、温かいから熱いへ。
 彼女の掌の一点を握り続け、尚且つ漸近的な温度変化であったため火傷で皮膚が爛れる、なんてことにはならなかったが。
 心が高揚した、と言って説明できるくらいの人間の体温では無かった。
 僕は彼女の手を、彼女の別の部位を触らない様に、ぱっと離した。
 彼女は無表情。彼女の右手は一瞬、空中に止まったまま。
 そして、ぽすんっと右手を下《おろ》した。
 右足を踏み出す。
 僕に近付いて来る。
 左足を踏み出す。
 そのまま無言で僕の横を通り過ぎていく。
 僕は首の回転だけで、彼女を目で追った。
 彼女は改札に入る。そのまま通っていく。改札を抜け、ホームへの階段を目指して歩いていく。
 僕は、そのとき、ようやく彼女に全身を向けて彼女を見ることができた。
 両足を重そうに、あまり上げずに引きずるように歩く彼女。
 ようやく、僕は彼女が心配になってきた。彼女を心配できる余裕を持つことができた、と言えるかもしれない。だからといって彼女が改札を通ってしまった今、何かが出来るわけでもなかった。
 彼女は左へと方向転換し、ホームへの階段に差し掛かろうとしている。
 階段に入ってしまえば、もう改札口からは彼女の姿は見えなくなる。
 僕は右手を上げた。右手を振りながら「バイバイ!」と言った。僕には声を上げることぐらいしかできなかった。だから精一杯に声を上げた。
 彼女に聞こえるくらいの大きな声で。
 でも、彼女は無言で階段へと入って行った。


 007

 彼女を送り届けた後、僕は徒歩で自宅へと帰った。
 時刻は午後八時前。
「ただいま」
 なんて言ってみた。 
 今、僕の自宅には誰もいない。
 悪夢に魘《うな》され二度寝し、完全に遅刻してしまった実状を考えてもらえれば分かるだろうけれど、僕の両親は僕に対して非常にルーズだ。
 いや、ルーズというよりかは、僕に構っていられないほど凄《すご》く忙しい。
 父さんは今年の春から大阪に転勤している。
 そもそも、今年の春以前からずっと日本中どころか世界中の各地を転勤している。
 今年の春休みだって三日しかいなかった。
 つまりは、僕の養育は母さんだけ、ということになるのだが、この母親もまた、一日中働いている。
 今日の朝だって、テーブルの上にラップの掛ったサラダと目玉焼きとパンを置いて既に出勤していた。
 そして、今。午後八時のこの時間、テーブルの上にはラップの掛った煮っ転がしと茶碗とお椀が置いてある。
 いつも通り、母親は夕方に帰ってきて、夕飯を用意して夜勤に出かけて行ったらしい。
 全く、よく働く。そして、ちゃんとご飯を作ってくれる。本当にいい母親だ。
 いつも通り、夕飯を電子レンジで温め、母親に感謝しながら箸を進めた。
 生活をしながら、今日の久美の事について思い出してみる。
 最後のあの無表情は絶対怒っていた。いや、怒りを通り越して感情が表れてなかったような。これは、完全にやらかしてしまったのか? 正直言うと、今さらメールかなんかで連絡を取ろうとも思わない。なんか、自分のしたことについてご機嫌取りをしている風にも感じられてしまう。僕の場合はそう思う。だから今夜は迂闊《うかつ》に彼女に関する行動は取れない。取ろうとしない方がいいだろう。
 というか、今日の彼女の最後の無表情は、私に関わってくれるな、と言いたげな人間のする、どこか自衛意識の高い表情に見えた。
 そんな気がした。
 もしかして、僕は嫌われてしまった?
 確かに、キスは急ぎ過ぎたかも知れない。
 けれども、高一からの付き合いじゃないか!
 交際始めてからもう三ヶ月の付き合いじゃないか!
 正直言って、今すぐ彼女に確認が取りたい。けど、迂闊《うかつ》には動けない。ああ、どうしようか。
 なんて、僕は思春期の青年によくある悩みで夜も中々寝付けなかった。
 明日知ることになる世界の真実を聞いた後にその時を振り返ってみれば、
 それは、幸せな時間だった。


 008

 次の日、五月二十四日、木曜日の朝。
 昨夜はなかなか寝付けなかった。けれども、皮肉なものでなかなか寝付けない日ほど、一度眠ってしまえば、人はぐっすり安眠できるらしい。人間のストレスを減らすための上手な工夫のようだ。結局今朝は、一昨日の朝のように悪夢に魘《うな》されることもなく、すっきりと目覚まし時計に合わせて起きることができた。昨日の朝は不本意に早起きをし、結果としては遅刻の根本的原因を作ってしまったのだが、今日は意図的な早い起床だった。
 起きて顔を洗い、リビングへ行くとそこには既にひっくり返した茶碗とコップ、スクランブルエッグが用意してあった。ひっくり返したコップの下に『昨日は学校に遅刻したって電話で聞きました。今日は遅れないように!』との、母親からのメッセージの書かれたメモ書きが挟まれていた。
「このメモを見た時に既に遅刻していたら、このメモ書きは何の意味も果たさないんじゃないのかな」なんて、心の中で突っ込みを入れ、悠々と朝ごはんを食べた。
 茶碗を片付け、全ての準備をさっさと済ませて外へ出る。時間は確認していないけど順調な朝だったので多分余裕で間に合うだろう。外は快晴。心なしか気温も涼しげに、風は爽やかに感じられた。放射冷却を感じる。ただ感じるだけだが。実際をいえば、放射冷却を再現しているに過ぎないらしいが。
 歩道用、自転車用、自動車用、の三車線に分かれているなかで、もっとも外側の歩道を歩いて行く。
 歩きながら僕は考えた。椿久美は今日学校へとやってくるのだろうか、と。
 去年から振り返ってみても椿久美は簡単に休む人間ではない。僕の記憶では椿《つばき》久美《くみ》は毎日の学校はもちろんのこと、クラス会など、必ずしも出席の求められるわけではない、非公式の学校行事にも必ず顔を出していた。
 彼女はそういう人間だ。
 彼女は安定した人間だ。
 だが、今更ながらも夕べのあの無表情は常軌を逸《いっ》していたように思える。結局、あの改札口で別れたあの夜以来、まだ彼女とは一度も連絡を取っていないのだった。
 そんなこんな考えているうちに、熊本高校正門に辿り着いた。正門から見える、校舎に掲げられている時計を見ると、午前七時四十五分。
 歩く、という人間の中でも最も遅い移動手段でも、やってみたら案外早く着くものだった。


 009

 僕が教室に入ったとき椿久美はまだ教室にはいなかった。
 あまりに早く着きすぎた。朝礼始まる前の空き時間、僕は教室で友人達と空中にグラフィックを映し出す画面でゲームをやっていた。いや、もっと正確に言うなら友人達がやっていたゲームの画面を見て、僕はあれこれ口を出していた。
 一回くらいやらせてもらいながらも、椿久美はまだ来ないのか、とどうしても教室のドアをチラチラ見てしまう。早く椿久美を確認したい、と気が気でなかった。
 朝礼開始は八時三十分、その二十分前、椿は二人の友人を連れて現れた。
 彼女はいつも通りに、まるで、昨夜に何もなかったかのように現れた。安心した。
 遠目から見ても、彼女たちの笑い声が聞こえることから普通に喋っているようだった。
 彼女は教室で僕の姿を見つけると、僕の方へてとてとてとっと歩み寄ってきた。
 久美が教室に入って来た時から、もうチラ見ではなく凝視してしまっていた僕だから、久美とそのまま向かい合う形になる。
 昨夜とは大違いの、表情のある椿久美だった。
「おはよう、ゆーくん」
「おはよう。昨日はあれから……」
「ゆーくんにお願いがあるの」
 彼女は僕の話を途中で遮った。
 お願い? お願いって僕に何かをさせるってことだよな。これはまずいパターンじゃないのか。もしかしたら二度と近寄らないで、などと言われるとか。昨日の今日だし十分ありうる。表では平静を装って繰り返した。
「お願いって?」
「ちょっと渡したい物があるの。荷物持って教室の外に来て。あ、荷物って全部だよ全部。全部持って教室の外に付いてきて」
「え、ああわかったよ」
 何もわかっちゃいなかったが、とりあえず首肯した。
 僕は自分の机に戻り、机の上に出していた筆箱をナップサックにしまい、両肩にかけ、机の脇に置いてあった部活用のトートバックを右手首に巻きつけ、右ひじを折って肩まで持ち上げる。
 僕は教室を出る。ちらりと後ろを確認したら、久美も付いてきている。僕らは階段のある廊下の踊り場へと来た。
「いやー、呼びだした後でなんだけど、実は渡したい物なんて別にないんだよね。あはははは。実は別のことでお願いがあったの。まあ、あそこではゼッタイに言えないお願いだったんだけどね」
 にこやかな笑顔で久美は続けた。
「私と、学校サボってデートしよ」
「え? 学校サボるって今から?」
「うんそうだよ。そのためにゆーくんに自分の荷物を全部持って来《こ》させたんだから」
 そういえば、久美も自分の荷物は全部持ってきてる。だが、やけに少ない。今日の彼女は教室に入って来た時からミニトートだけであった。僕がこの、突然のエスケープに賛同することを見越しての荷物の選択だったんだろう。
 しかしながら、熊本高校はごく普通の高校だ。昨日の朝に見られたように遅刻や欠席には当たり前に厳しい。
 久美は、僕がエスケープに確実に賛成してくれるとなぜ確信しているのか。
「で、でも」
「まあ、迷うのはわかる。私もこんなこといきなり言われたら『いや、何言っちゃってんの?』って思うと思う。でも、今日ゆーくんが私に付いて来ることは絶対なの」
 久美が崩さない笑顔で、確信めいた眼を僕に向け続けた。こちらの動きが止まってしまうような迫力がそこにはあった。
「絶対なのよ」
 更に深く久美は笑った。
 そうして、右手で僕の、トートバッグの巻かれていない左手をさっと握り、階段を下へと降りていった。彼女は僕を導いていった。僕は繋がれるままに、幾度か転びそうになりながら彼女に引き摺《ず》られていった。
「大丈夫。校門まで行っても朝礼開始五分前だからね。予備チャイムまでなら学校から出ても『忘れ物した』ぐらいにしか思われない。とりあえず私に付いてきて」


 010

 久美にそのまま、引きずられるように連れていかれ、辿り着いた先は熊本高校東玄関口。久美は、廊下を通る時も一度たりとも手を離そうとはしなかった。
「なあ、そろそろ手を離してくれよ」
 急な展開すぎて思考が追い付けず、強引過ぎて体が追い付かず。心身共にしんどくなってきた僕は彼女に告げる。
 彼女は、はたと歩みを止め、訝《いぶか》しげな眼で僕を振り返った。
「ちゃんと付いて来るの?」
「うん。まあ、なんというか、サボりなんてものは、その怒られる場にいなければ物理的には痛くもかゆくもないし。いいよ、別に一日くらい。途中から授業を抜け出して戻ってこないような、明らかに不審で『サボり!』と分かる行動でもないし。今日はあなたに一日付き合いますよ。だから、ほら、放して、もう下駄箱の前じゃないか、靴が取れないよ」
 彼女は軽く微笑んだ。とりあえずは僕が、出し抜けのデートを受け入れたことに満足したらしかった。
 彼女はローファーを履き、「とりあえず付いてきて」と先程のセリフと同じ言葉をもう一度繰り返す。僕のナイキスニーカーを履くのは、ローファーよりも若干時間がかかる。彼女を若干《じゃっかん》待たせる間、彼女は一瞬たりとも僕から目を離さなかった。僕が立ち上がったのを見て、彼女は歩きだした。
 腕時計を見る。予備鈴が鳴る五分前。彼女が予言した時間にぴったりだった。僕ら二人は、自分たちの教室へと急ぐ人々の群れに逆行しながら歩んでいった。
 東門《ひがしもん》を出る。校門を出て、ちょっと気になったことを彼女に訊《き》いてみた。
「デートって言ってもどこ行くんだ?」
「熊大」
「え?」
「熊大に行くの」
「え? デートで大学行くのか? えっ、ちょっと待ってそれおかしいでしょ。いや、冗談きついなあ久美さん。今日は平日だよ。いや、大学生もいっぱいるでしょ。ね。久美さん。冗談でしょう?」
「私たちは熊大に行くバスを拾うため、今バス停に向かっているんだよ? だから東門から出たんだよ」
 彼女は手を離した後も、いつでも手が掴める距離を保ちながら歩いていた。今もそうで、至近距離から彼女は僕と会話している。だから、彼女の確信めいた瞳は変わらず、僕に逃げ場を失わせていた。
 彼女は飽《あ》くまでも本気のようだった。
 熊本大学。
 主に熊本市中央区黒髪くろかみキャンパスに本拠地を置く県唯一の国立大学。
 同じく中央区たく麻原《まばる》に位置する熊本高校からはバスで二十分くらい。
 彼女が提案してきたのはその国立大学での平日デートだった。高校生が高校サボって大学デート。高校生が平日の午前中から大学デート。これほどミスマッチな単語群もそうそうないのではないかと心の奥で思った。
 唖然《あぜん》としていると熊本高校東門前のバス停に辿り着いた。
 バス停に辿り着いた。それはいいとしても時刻表を見るとバスは三分前に出発し、次にこのバス停に辿り着くのは十五分後だった。彼女はどうやら何も計算せずに適当に飛び出して来たらしい。
 バス停で待つ間、彼女の方を見やると、腕時計から出る、空中グラフィックを見ている。何を見ているかは分からないし、例え自分の彼女であったとしても、人の見ている画面を覗《のぞ》く趣味は僕にはない。彼女が沈黙すると僕も黙ることにした。どんなに仲のよいカップルだったとして常に会話が続くとは限らない。ましてやこの不自然の状況のなかである。
 今回の緊急デート、更には目的地についての理由など訊《き》きたい事は山ほどあったが、先ほど今日一日の日程は久美に託すと決めたのだ。
 だったら、まあそこまで気にすることもない。あまり気にすると男らしくないようにも感じた。


 011

 何も喋らないままきっかり十五分後、右回りバスが僕らの前に到着した。
 バスの乗車口がパカッと開いて中からスロープが降りてくる。画面に集中していたが、乗車口の開く音にハッと気付いた久美が先に乗り込む。僕も後ろから付いていく。僕ら二人がバスの通路に差し掛《か》かる時に、入口の脇《わき》にある何かの装置がピカッ、ピカッと緑色《あおいろ》に二回光った。僕らの衣服に組み込んである身分証明のチップに反応したのだろう。正直、僕は普段からバスは使わないのであまり詳しいことは分からない。
 交差点もなく、ほぼ渋滞することもない二〇八〇年現在の立体道路は本当に素晴らしいと思う。本当によくできている。だが、その恩恵の代わりに、道路は一方通行なので、バスはその都市の至る所を経由する。くねくねとした道筋のせいでバスが途方もなく揺れる。バスの運転は機械によるオート作業で行われている。全ての自動車はコンピュータに操作させるよう法律で定められており、機械が全自動で運転するのが当たり前なのだ。機械で正確に運転するためにバス車内の揺れは最小限に抑えられているはずである。はずなのだが、それでも物凄く揺れる。それで酔いに弱い僕は、極力バスに乗車することを避けてきたのだ。  
 しかし、今日は仕方がない。
 一番後ろの、座席が連なる席へ久美は向かった。久美は通路から見て、最も左側の席を一席分空けて座った。久美の横の座席のちょうど中央に位置する席に僕も座った。
 席に着いてちらりと右を見やる。久美はまたディスプレイを開いていた。車酔いが常日頃《つねひごろ》の僕は信じられないものを見た感じがした。
「あの、車の中で文字を見たら酔わない?」
「ん? あーそうか。ゆーくん乗り物に弱いんだもんね。まあ大丈夫だよ。私乗り物酔いには強いはずだし。ていうかゆーくんって大抵の外的要因に対してすっごく弱いよね? 暑かったり寒かったりがすっごく弱いような気がする。運動部なのに」
「いや、このドーム中で育ってきた人だったら誰でもそうだろ。それに僕、結構暑いの好きだぜ?」
 ドームというのはこの世界を囲っている透明ドームのことである。
「あれ? この前の全校集会のときも倒れなかったっけ? そういう場面を結構見たことあるような気がする」
「あの日の体育館は蒸し風呂状態だったからな。それに体育館行く前に廊下で、大っぴらにはしゃいで体温が元々上がってたからだと思うよ」
 突然、ぐわんとバス全体が左に揺れた。僕も久美も右に引っ張られた。
「バスは苦手だな」
 僕は自然《しぜん》、皮肉に笑いながら呟いた。
「ま、まあ熊大まではすぐ近くだから」
 久美も声が若干震えていた。もしかしたら久美もこのバスの揺れ方は予想外だったのかもしれない。久美もまた、案外そんなにバスに乗ったことが無かったのかもしれない。
 そういえば、久美が今朝作りだした劇的な雰囲気に呑《の》まれてあえて思い付くこともなかったけれど、どうして自転車にしなかったのだろう?
 まあ、いいか。それよりも僕の中で先行する大きな疑問を訊いてみた。
「なあ、なんで熊大行くんだ? デートって言うからてっきり通町《とおりちょう》辺りに向かうのかと思ってた」
 通町とは熊本県最大の繁華街の中央に位置する、市電の駅およびその周辺の名称である。
「なんでだと思う?」
 久美はちょっと笑いながら逆に訊いてきた。
「なんでって。まあ、そもそもデートなんてものは実は目的地はどこでもよくて、問題なのは誰と行くか。また、どちらか一方の目的を果たしに行くようにコースを設定するのがデート中の中弛《なかだる》みも防《ふせ》げてベター。この二つの鉄板《てっぱん》法則に当てはめてみれば、久美が何か熊大に目的を持って向かっている、と僕は思うけど。そうじゃないと熊大で目的なくぶらぶらとしなら、平日の昼間の時間を潰《つぶ》せるとは到底思えないけど」
「ご・め・い・とー、ゆーくん」
 当たったみたいだ。まあ、目的が無かったらデートコースに大学なんて選ばないだろう。目的があってもデートコースに大学を選ぶ人もそうそういないかもしれないけれど。
「けど、ハズレ」
「え、うそ。ん? ええと、それはつまりその、今僕た……」
 言い終わらずに、今度はぐんとバスが右に曲がる。僕も久美も左にがくんと引っ張られる。
 僕はバスがもたらす遠心力に必死に耐えた。しかし、ここらへんは体育会系と文科系の部活の差だったのだろうか、久美の方は完全に不意を突かれたようで、彼女の左ひじのエルボーアタックが、僕の右肘に思いっきり入った。
「つあ。が」
 僕ののどから、変な声が思い切り出た。
「わ、ああわ、ほんとごめん! 不注意でした!」
 あわてて久美がぶつかった僕の二の腕を擦《さす》りながら言った。
 僕は擦ってくれた久美の手を、また擦《さす》り返しながら話を戻した。
「うん大丈夫。ところで話を戻すけど、目的がないけど大学にデートしに行くってどういうこと? 目的がなかったら、そもそも大学なんて選ばないんじゃないのか」
 少なくとも僕の場合はそうだった。
「あーうん。デートだったらどこでもいいって考える人の逆の考え方かも。いや、なんていうか、今日、五月二十四日、ゆーくんと私が熊本大学工学研究室に辿《たど》り着けさえすればいいの。ちょっと見せたい物があるの」
「結構、具体的な目的あるじゃん。なんでさっきハズレにしたの?」
「由人がドヤ顔で正論《せいろん》正解《せいかい》を言うのが、なんか気に食わなかったから」
「ただのワガママ!」
「でもね、私がちゃんと目的を持って今大学に向かっているかって訊《き》かれたら、必ずしもそういうわけではないの」
 久美は単純に僕を困らせたいだけではなかったようだ。
「目的はある。だけど理由は無いの」
「……なるほどな」
 つまり、久美は目的を訊《き》かれ、それに答えた。しかし更にその次に訊かれるであろう理由の方は前もって所持していなかった。その前の段階の目的を持っているか否《いな》かで否定した。物事には必ず理由がある、と考えるのが自然な人にとっては、その応答の仕方にも納得がいく。僕だってそうだから。
 デートの理由なんて彼女には無かった。
「理由は無い。ただ、ゆーとくんをこの時間に大学に送り届けたい。いや、送り届けなければならない。そんな気持ちしか今は無いの」
 今日の久美はこんなのばっかりだ。ぼんやりとして掴《つか》みようがが無かった。
 理由の事は訊かずに久美には違うことを尋ねた。
「その見せたい物って何なんだ? 今、言えることか? 今、言いたくないなら別に、無理して言わなくてもいいけど」
「うーん」彼女は、左手を軽く顎《あご》に乗せ、片目を瞑《つむ》り、首を捻《ひね》る。「なんていうか、自分で言っといてなんだけど、見せたい物、も確かにあるんだけど、ゆーと君に会わせたい人がいるって言うほうがしっくりくるかな。なんかさっきから私が言ってること、ちぐはぐしてるね」
 若干《じゃっかん》微笑《ほほえ》み、バツが悪そうにちらっと舌《した》を出す久美。
「会わせたい人って誰?」
「それは──」
 また、がたんっと大きくバスが揺れる。二回の大きな衝撃で学習していた僕は、既《すで》に左前の椅子の手すりに指を掛《か》けていたし、久美の方も偶然だったとはいえ、僕にひじ打ちを当ててしまった罪悪感からなのか、右手で強すぎるくらい彼女の前の椅子の手すりを握っていて、僕ら二人は大きな衝撃に揺さぶられることなくしっかりと耐えた。
 三度目の揺さぶりに、僕等《ぼくら》は動じなかった。
 その揺れで少し間が空いた後、彼女はこれから会いに行く人の名前を告げた。
「熊本大学工学部教授、吉良《きら》崇《たかし》博士、だよ」


 012

 旧豊川とよかわ街道《かいどう》沿いにある、熊本大学前バス停に辿り着いた。あのあとバスは更に大きく左右に揺れ続け、僕は必死で酔わないように耐えていた。酔わないように気をつけていたのは久美も一緒のようで、バスの車内でそのキラタカシ教授の事について述べつ幕なく喋り続けていた。僕は今日一日は久美に捧げると決めていたので、酔い止め効果も目論んで久美の説明に耳を傾けていた。
 吉良崇博士。
 簡単に言えばIT開発のエキスパートらしい。
 この二〇八〇年は、全体として究極のコンピュータ制御による自動システム化が進んでいる。そんな社会において、コンピュータ関連の先端を作りだしたのだから、究極の中の究極の、それは凄い人なんだろう。歴史上の凄い人の中でも凄い人なんだろう。
 もしかしたら、久美がどうしても会いたいなんて言っていた理由も、本当に凄い人にいきなり会いたくなったというすごく単純な理由なのかもしれない。
 熊本大学の南キャンパスへと入ってゆく、久美は迷いなくずんずん歩いて行く。僕はただ付いて行ってるだけだ。なんか、デートって感じがしない。僕はただの付添人だった。
「あの、ひとつ聞いていいですか。久美さん」
「なに?」
「デートってのは、その、嘘ですよね。僕を連れ出すための口実って言うか」
「うん。そうだよ」
 ああ、やっぱりそうだ。さっきの会話からしてこれから先デートっぽい展開にはならないだろうなって予想が立ったけどこれで確実となった。今日はデートじゃない。学校サボってのただの久美の付き添いだ。
「今度僕にもその時がきたら付き添ってもらうからな」
 いつになるかは分からないけれど。
「んんー? 別にいいよ。ゆーくんが付いてこいって言われたらどこにだって付いて行きますよ」
「約束だからな」
「いいよ。約束する」
 軽い。この軽さの裏返しとして今の現実を重く感じさせる。
 そこまでして椿久美は今日、五月二十四日に吉良崇博士に会わせるために僕、白石由人を熊本大学に連れて来なければいけなかったのだ。
 一体、何だというのだろうか。必死の先には大抵よくない事が待っていると、僕の十六年間の人生経験が告げるのだった。


 013

 熊本大学工学部情報電気電子工学科とう二階、A‐205号室。扉の横のプレートには「吉良KIRATAKASHI 教授」と書かれている。ここが、久美が僕に会わせたい教授の研究室らしい。
 この扉の目の前まで学生服姿ですんなりと来たが、上は長袖白ワイシャツ、下はスラックスの僕と、白ブラウスと紺色スカートの久美。この二人が大学の中を歩いて行くのは場違いすぎる。思い返してみて少しネガティブになった。
 今更ながら、久美は教授とアポイントを取っているのか疑問が浮かんできた。しかしその不安に構わず、トントンと久美は205号室の扉をノックした。
「失礼します」
 久美はそのまま部屋に入って行く。僕も付いて行く。
 九時ごろ特有の明るい日差しが部屋に差し込む中、少し白髪混じりで、おかっぱ頭の人がいた。いかにも教授らしい人だった。その人が部屋の中で一人、オフィスチェアに座ってパソコンでキーボードを打っていた。投影キーボードではなく、旧型の釦《ボタン》式キーボードだった。
「別に私は入っていいとも言っていない。それに事前の質問の予約もされていない。一体どちらさ……」
 彼はパソコンから目を離した。彼は僕らを見て絶句した。
 いや、正確に言うならば椿《つばき》久美《くみ》を見て言葉が途絶えた。
「まさか、まさか。……ふふふっははははははははははっは! おい、我が友よ! お前の予想が当たったぞ! ふーっはっはっはっ! これが運命か! これほど愉快なことはない!」
 彼はいきなり笑い出した。
「ああ。でもここに二人で来た、ということはあれか……、そういうことか! ああ、まるで情景が目の前に浮かんでくるかのようだ! 素晴らしい! ああ! なんと青春の美しきことかな!」
 次に彼は恥ずかしそうに顔を抑え出した。
「いや、待てよ。ということは。いや、待てよ。こうなってしまうのか! ああ、ついにこの時が来てしまったのか。なんと悲しきことよ。ああ!」
 最後に彼は泣き始めた。
「あの」
 目の前でハンカチを目に当てながら、目を腫《は》らしている博士に声を掛けた。
 なんか声を掛けるのが申し訳なく感じた。
「ああ、スマンスマン。《《過去と現在と未来を一遍に見た》》だけだ。あまり気にすることはない」
 言ってる意味が分からない。僕は久美を眼だけで見た。久美は目に力を入れたまま口を一文字に閉じていた。視線を教授に戻した。しかし、何なんだこの変な博士は。初めのほうはまだ、ましだった。見しれぬ訪問者に対しての接し方は常人だった。だが、そのあとの一人芝居は尋常ではなかった。笑ったり恥ずかしがったり泣いたりと忙しそうな教授だった。
「ああ、えっと君の名前は?」
 ハンカチで目を拭き終えた彼が、久美を指して尋ねてきた。
「椿《つばき》久美《くみ》です」
「ああ、そうかそうか《《思い出したよ》》。そうだそうだ、そういう名前だったなあ」
 まるで昔から椿久美の名前を知っていたかのようなセリフだった。久美が世間的に著名な吉良崇教授の名前を知り、その研究室を訪ねるのはある程度、理由としては理解できた。しかし、この一介《いっかい》の女子高校生にすぎない椿久美の名前をどうしてこの博士は知っているのだろう。元々名前を知り合う出来事でもあったのだろうか。
 でもそれだったら、事前に久美から説明があったはずだ。しかし、旧知の知り合いであったという説明は一切なかった。
 謎である。
 また一つ、今日の出来事で不思議なことが増えた。
 今はまだ九時台の、一日のうちの半分も過ぎていない。久美の行動にしても、目の前にいる、このおじさんの発言にしても謎だらけで、謎が多すぎてなんだかもうわけが分からなくなる。
「ん。なんだか君、顔色悪そうだね? ほら、あそこに丸椅子いすがいくつかあるだろう? あれ使っていいよ。《《白石由人》》くん」
 何故《なぜ》、この人は僕の名前を知っている? 熊本高校バスケ部のファンか何かか? いや、それだったとしたら、僕はこの人の顔くらいは知っているだろう。でもこの人の顔に全くの見覚えがない。今日、久美に無理やり連れて来られなければ名前だって知らなかった。本当に初めて接点を持った人のはずだ。
 僕は返事が出来なかった。
「ん。ますます顔色が悪くなってきたね。さあさ、早く椅子を持ってきて話そう。今日は私と話しに来たんだろう」
 彼は、僕らが吉良博士と話がしたいと思って訪ねてきた、と思っているらしい。
「いや、違うんです。今日、吉良教授に会いたいと突然言い出したのは彼女のほうで、その、僕は付き添いみたいなものです」
 久美と僕の、二人分の椅子を運びながら僕は言った。
「いや、白石《しらいし》君、いやこの呼び方はよそう。じゃあ、由人《ゆうと》くんで……。由人くん。彼女は僕と君とを会わせたいがために、わざわざ平日のこの時間に、できるだけ早く僕を訪ねに来たんだろう? 椿《つばき》君はそう言っていなかったかい?」
「ああ、確かにそんなこと言ってました」
 僕はよいしょっと二つの椅子をデスクの前に置いて、二人それぞれも椅子へと座った。
「うん。そう。由人くん。私は君に話すべきことがあるんだ。大丈夫。私が話せば君が抱《いだ》いている、心のもやもやとした疑問は全部晴れるさ。多分、あまり好ましくない形でね」
 語るって……、教授の研究成果か何かだろうか? 久美はこの教授の凄さを直《じか》に体験してもらうためにわざわざ僕をこの研究室まで連れてきたのだろうか?
「あー、いや、すまない。好ましくない、というのは私の独り言だ。私はただ私の良心にしたがってありのままに告げるだけだ。なに、そんなに心配そうな顔をしなくともよい。好ましいか好ましくないかは《《君自身が》》決めることだ。いや、口が先走ってしまった。失敬失敬」
 僕は何も返せなかった。
「さて、何から話そうか、とその前に」
 教授は話を区切り、久美の方を見た。
「椿君。君は出たほうがよさそうだね」
「……わかりました」
 そう言うと、久美はすっと立ち上がってくるりとドアへ向き直した。そのまま歩いてドアを開け、がちゃんっと扉を閉め外へと出て行った。
 え、どういうこと?
 僕は何も言えず一連の動作をただぽかんと見つめていた。
「さて、まず何から話そうか。話すことが多すぎて何から話し始めればいいか分からないな」
 相変わらず、自分のペースで話を始める吉良教授。僕はあわてて吉良教授の方へと向き合った。
「そうだな、まず君には選択を迫ろう。君はこの地球に居続けたいか? それとも違う世界で暮らしたいか?」
「はい?」
「ああ、スマン。やっぱりこの言いかたじゃダメだ。うーん考えろワシ。どうすれば首尾よくこの青年に物事を伝えられるか……、うーん」
 腕組みして考え始める教授。
 はっきり言って、『奇怪』という言葉が一番似合う。
「うん、そうだな。私の一人語りでも間に合うだろうが、私は聴衆者に質問をしてから話を始めるタイプでな、いつも講義でもそうして始めておる……。だからといってさっきのは少々飛躍しすぎた質問のようだった。よし、質問を変えよう。君にも答えやすい質問をしよう。まあ、気軽に答えてくれ。君は両親が好きかい?」
「はい。仕事が忙しくてすれ違うことが多いんですが基本好きです」
「そうか。君には兄弟はいるかい?」
「いません」
「君は学校の友人たちは好きかい?」
「はい、仲良くやっています」
「そうかい。それは良かった。では、次の質問」
「椿久美は好きかい? ああ、これは言ってなかったね。私は知ってる。君と椿久美が特別な交際関係にあることは既知の上での質問だ。君は、椿久美の事が好きかい?」
「……好きです。言われればどこにだって付いていけるくらい好きです」
「そうかそうか。それなら良かった。いや、良くなかったと思うべきところかな。まあ、そこは君が判断するところだろう。では君は……」
 教授は考えるように少し矯《た》めた。
「そんな君の好きな、君の周りにいる人が全て嘘だと言われたら、信じられるかい?」
「……」
「君の周り、いや、君が見える範囲だけじゃない、この世界中のほとんど全ての人間が、人間ではなく、人間の振《ふ》りをした人間に限りなく近い構造を持っている『機械』、すなわちロボットだと言われたら信じられるかい?」
 矢継《やつ》ぎ早《ばや》に、真面目そうな上目使いで次々と話を続ける教授。
 だから、そんな真剣な表情で冗談みたいなことを訊《き》かれても返答に詰まった。
「それは……、つまり僕の両親や友人や学校の職員なんかがみんなロボットだって言ってるんですか?」
「そうだ」
「信じられません」
「だろうな。だが、これは真実だ。この二〇八〇年現在、《《公式に》》地球上で生存している人間は君だけだ。君以外は全員人間の振りをしているロボットだ。……もちろん私を含めてな」
「嘘です。だって現にあなたは人間じゃないですか。どう見たって人間の姿をして僕の目の前に立ってるじゃないですか。今僕は、人間と喋《しゃべ》っています」
「うん。うん。わかる。君の言わんとしていることは僕にも簡単に想像がつくよ。だが、これは真実。私はロボット。君は人間。そして君以外の周囲にいる人間はみんなロボット。そして私が一番辛いのは、君に私がロボットである証拠を見せることができない点だ。まあ、体を分解してみればわかることなのだがね……」
 教授は軽く笑った。僕は負けずに言い返してみる。
「僕以外の人間がロボットである、でも証拠は無い。それだったら別にあなたたちを人間と見做《みな》して生活していけば何の不自由もないんじゃないですか?」
「そう、それなんだよ。別に君にとっては世界の真実を聞かされようと、私生活に何の影響も及ぼさない。だが……」
 ちょっと言いにくそうに博士は目線を左下に逸らし、続けた。
「それも昨日の君と椿君のキスまでな」
 は? どういうことだ? 色々どういうことだ? 何故《なぜ》この博士は僕と椿久美がキスをしたことを知っているんだ?
「なんで知っているんですか?」
「ん、まあ、それは椿久美が特別な、いや、君にとっては特別なロボットだからだよ。まあ、私が知っているのは椿久美が思い入れのあるロボットだからなんだが……。まあ、その辺は追々話をするとしよう。それよりもまずは君に迫っているある危機について話さなければならん。君には時間がないんだ。端的に言おう。君の命はええと……」
 そう言うと、博士は壁に掛《か》けてある時計を見やる。時刻は午前十時ちょっと前、九時五十五分辺りといったところか。
「君の命は後残り約十四時間、明日、五月二十五日午前零時に終わりを迎える」


 014

 またまた信じられない話だった。そして、今回は信じられないだけでなく我が身に直接降りかかる話だった。はい? 今この博士は何と言った? 五月二十五日に死ぬ? 僕が? 一体……
「……それは何故ですか?」
「うん? いやに冷静だな? まあ、実感が湧かないんだろう……。ええっと何故かって? それは君がこの世界にとって不都合な存在となってしまったからだよ、白石由人くん」
「不都合って……。僕には何の覚えがありません。それにさっきの話と噛み合わせると、その、まるで椿とのキスが原因で僕が殺されてしまう、見たいに聞こえてくるじゃないですか」
「椿くんとのキスが原因で君が殺されてしまうのだよ」
 教授は当たり前のように言った。
「この世界には十三年前、世界規模での戦争が終わったあと、コンピュータが世界を統治した。いや、以前からコンピュータが世界の均衡を保つ役割を果たしておったのだが、コンピュータを統治する役割の人間が全員、いなくなってしまった」
「人間は全員死んだんですか?」
「いや、正確に言うと死んだのではない。消されたのだ。人間の叡智《えいち》による科学技術の発展の賜物《たまもの》、『物質移転装置』によってな。──『物質移転装置』。それは二つの装置がセットになって一つの機能を果たす。それぞれの装置の名前を便宜《べんぎ》上『プラス』、『マイナス』と名付けようか。まず『プラス』の方で移転させたい物質に特殊光を当てる……まあ、この特殊光の中身までは詳しく説明しなくてもいいだろう。そして、その特殊光を当てた物質の原子組成の情報を読み取る。そのあと、その情報が『マイナス』の方に送られ『プラス』の方の物質と《《全く同じ原子配列の物質》》を周囲の原子、いや、この場合はもっと細かい粒子を組み変《か》えて、『プラス』の側《がわ》の物質と全く同じ物質を作り上げるの。つまり、この世に全く同じものが二つ出来上がるわけだな。これが『物質移転装置』の簡単な説明」
「……素晴らしい発明ですね」
 難しい説明だったので、一瞬、反応が遅れた。
「そして、更に素晴らしいことにこの『物質移転装置』が物質の移動にも応用されるようになった。
 すなわち、さっきの説明から続けると『プラス』の方で物質を読み取り、そして『マイナス』の方に新たに物質が生成されたことが確認されたあと、『プラス』の特殊光を浴びた物質を消去することができる機能が搭載《とうさい》された。つまりは人類は遂に『瞬間移動』を可能にしたわけだ。まあ、情報が伝わるまでに少々の時間がかかる。といっても地球上では光速ですら、人類にとっては一瞬とさほど変わりはないんだがな」
 僕は信じられなかった。だってその技術、今、二〇八〇年の現在では使われているのを見たことがない、どころか聞いたことすらなかった。
「そして、『物質移転装置』は人間の移動にも応用された。これは素晴らしかったよ。人類の在り様そのものを変えた。風景を変えた。それまでの社会をひっくり返すほどの、いわば革命だったよ。……君は『ドラえもん』の『どこでもドア』を知ってるかい? 知っているね。あれは、百年以上昔に創られたお話なんだけどさ。うん、まあ、《《そこ》》にも疑問を持ってほしいんだけどな君には。うん、まあ、その『どこでもドア』を世界中の人々が利用できるようになった、と思えば想像しやすいんじゃないかな。それはともかく、その、人類の画期的発明の『物質移転装置』が……」
 敢《あ》えてなのか、教授は一瞬間《ま》をためた。
「軍事的にも利用された」
 僕は軽く首肯《しゅこう》し続きを促《うなが》した。
「軍事的にも画期的な発明だったよ。戦争の戦い方自体を変えた……。何せ相手を殺さずに戦局を有利に進めることができるからね。動く人間に光を照射し、情報を読み取り本国へ移転。兵士は気付いたら相手側の捕虜になっているってわけさ。武器だって同じさ。目の前で爆破が起こる。だが、起こった瞬間にコンピュータ動作で瞬時に光を当てる、そして何もない宇宙空間へと爆発そのものを移転させる。もうこれで火薬兵器による破壊はほとんど意味をなさなくなった。いけてせいぜい半径数十メートルさ。これは人道主義の立場からも倫理的に絶大な評価を受けた。たとえ戦争をしても死人が出ない、街を破壊しない、経済的にも人的資源の欠落を除けば、あまり被害を出さない。そして、何より、その圧倒的な技術のおかげで戦争が行われなくなったほどだ。相手側に直接的なダメージを与えることができなくなってしまったからね。民族的な恨み憎しみによるテロも、ほとんど行われなくなったさ──それが完全に無意味な行動に堕《だ》してしまったからね」
「何だか、いいこと尽くしですね? でも、何でそんな大層《たいそう》な技術が、今に引き継がれなくなってしまったのでしょうか?」
 僕は、最初の教授に対する不審な気持ちも忘れ教授の話に聞き入っていた。あまりの理想的な科学技術の話に、得《え》も知れない面白さを感じていた。
 正直言って久美にも聞かせたい話だな、なんて思った。だが、その椿久美の退出を教授自身が促したのだ、恐《おそ》らくは何かしらの理由があるに違いない。
 そんな風に心の奥で思い、また教授の話に耳を傾け続けることにした。
「うん。まあ、先を急ぐでない。これから先、由人くんに伝えなきゃいけない話はもっともっとまだまだある。うん? どうだろう。まだまだあるかな? まあ、いいや。とりあえず私の話を続けるね。あ、これ言い忘れてたけど今度から私が話をしているときは質問は厳禁ね。……これ講義でも言ってることなんだけれども。」
 僕は首肯だけで教授に同意のサインを送った。
「ええっと、どこまで話したっけ……、そうか、戦争が無くなった、というところまでだったな。ふむ、まあそうだ。これから話す続きは、表面上には戦争は無くなったが、そんな時代にも《《社会の中》》には戦争の種はいつでも存在していた、と言えるかな」
「……」
「考えてみれば、『物質移転装置』には、最高《さいこう》理想《りそう》の装備、といっても付け込まれる隙《すき》はいくらでもあったんだよな……。とりあえず、言えることは、あるきっかけで戦争が再び勃発《ぼっぱつ》した。もう、二度と起こらない戦争であるだろうとみんなが予想していたところ、小さな小競《こぜ》り合いから戦争が起こった。たった二国間の、小さな領土問題だ。
 だが、まあ、戦争とはいっても、死人は出ない街は破壊されない、優しい戦争になるから人類は大《たい》した心配もしなかったんだ。国際連合も大して問題にも上げなかったし、もちろん、何らかの解決策を講じることもなかった。ところが、その対戦国の片方の国がやってはいけない行動に出た。──いや実はこれ戦争中は判明しなかった事実なんだけどね」
「……」
「『物質移転装置』の移転先を、設定していなかったことが分かったのさ」
「……まずいですね」
「ああ、まずい。戦争に決着がつき、条約を結ぶ際に、さあ、うちの国民を返してくれ、と求めたら『君らの国民はもういない』と返したわけだ。これは大問題。パックス・テクニカと称された時代から未曾有の人類の危機へと急転化したわけだ。これには国連もすぐに処置を下さねばならない。そして怒れる国民。侵《おか》されたほうの国はハス共和国なんだけどね。……そのハス国の国民の怒りを納得させるだけの制裁を国連は下さなきゃいかなくなったんだ」
 何だかよくわかんなくなってきたぞ。知らない単語を聞かされるなんて、本当にまるで講義のようだ。
「……とまあ、詳細なことは置いといて、君にとって大事なことは、」
 教授は一拍、間を置いた。
「止められない戦争が、一気に起こったわけさ」
 喋るのを止《や》め、ボーっと目線を斜め上に挙げながら、教授は、
「あれは非道《ひど》い戦争だった」と、続けた。
「国連も頑張った、が、すぐに戦争は飛び火した。飛び火したあとは、戦争の原因なんて一概には言えない。──その、移転装置の “恐怖” そのものが原因だったのかもしれない。負の連鎖、憎しみの怨嗟《えんさ》は数限りなく続き、その火種はもちろん、僕らの国《くに》、日本にもすぐにやって来た。そして……、長かったね。ようやく個人の話に入るよ。君《きみ》のお父さんの話だ」
「僕のお父さんですか? それなら今、いや、ええっと昔の話ですよね。おそらく十七年前も今と同じでホワイトカラーで働いていますよ」
 当時から転勤族であったかは知らないけど。
「いやいや、最初に言っただろう。《《この世界は嘘だって》》。まあ、その、君にとっては突拍子《とっぴょうし》もないことだから、その説明をしているところなんだけどね。
「君が思ってる、信じてたお父さんも、本当のお父さんではないよ。
「君の本当のお父さんは十七年前に地球上から消え去った。
「今の君の父さん、そして、ついでに言うと、君のお母さんも、みんなロボットだ。人間らしくふるまっているが、人間ではない。
「究極的に人間に似せた、ただのロボットなんだよ。
 ……違う。ロボットならそこらじゅうにいる。人型だって、人間に交《ま》じって働いている姿を何度も目にしてきた。うちの母さんが、あのロボットたちと同じだなんて、そんなことあるものか。──あるわけがない。
「違います。僕の母さん、父さんがロボットだなんてあり得《え》ません。れっきとした、正真《しょうしん》正銘《しょうめい》の人間です。それ以外、あり得ません」
「うんそう思うのも仕方がないね。だけど、君に提示できる、君を否定できる証拠なんて、わたしは持ち合わせていない。彼らはそれは人間らしく、いや、人間と全く同じだからね。外見上は。そして、中身も。
「だが、これは真実だ。
 教授は続けた。
「これは真実で、もう少ししたら僕の話を絶対に信じなくてならなくなる。
「だから、話を続ける。
「君のお父さんの話をする。《《今の》》君には白石健《けん》、というお父さんがいる。だが、それは後から定義付けられた、単なる事象だ。
「君の本当の、──人間のお父さんの名前は、白石遼《りょう》。職業、熊本大学理学部物理学科准教授。僕の大学時代の後輩、でなおかつ教授時代の研究仲間だ」
 吉良教授は思いだすように、目を瞑《つむ》り、人差し指を立て、くるくる回しながら話を続けた。
「僕と白石君は、大学内の量子《りょうし》力《りき》学《がく》センターで『物質移転装置』の応用研究のためチームを組んで活動していた。まあ、大学在学中から僕は彼の世話を見てきたからね。彼のほうから、僕の研究室に入れてくれって届けがあったんだけど……」
 教授の話はそこで途切《とぎ》れた。
 もちろん、教授が突然に倒れた、とか消えてしまって話すのが不可能になった、というわけではない。
 教授は喋《しゃべ》り続けているが、僕には聞く必要がなかった。
 なぜなら《《知っていた》》から。
 その話はもう、僕の中《なか》にあったから。


 015

 はたして、人間の記憶には実質的な時間や空間の概念は存在しない。例えば、秋刀魚《さんま》を食べた記憶があったとしたら、それが《《いつ、どこで》》食べたものであるか、という情報はほぼ残らない。
 特に時間や空間を隔てれば尚更《なおさら》で、ただそこに食べたという記憶のみを保持していくものなのだ。
 つまり、記憶とはただの、何の具体的な情報を持たない映像。想像にすぎない。
 そして、また逆も然《しか》り。《《本当にあった過去を現実を》》、寝ていた時に見た悪夢、ただの劇、悲劇、とすることも可能なのだ。
 そうやって逃げる術を人間は持っている。
 僕は次の話を夢の中の話だと思っていた。いつか見た、だけれど、いつの事かは覚えていない。しかし、内容だけははっきりと覚えている。そんな夢。
 昨晩、久美に話したようなただの夢。
 悪夢、想像に過ぎないと思っていた。
 だが、目の前で、白髪の叔父《おじ》さんが語るには、これは夢ではなく現実であったらしい。
 以下、夢の話。


 016

 父さんは爆撃で死んだ。
 父さんは何か偉い、大学の教授だったらしい。
 父さんはその日、僕を研究室へと連れていった。
 父さんは大学の研究室に、何か特別な機械を持っていた。その機械は棺桶《かんおけ》のような見た目をしていた。今が危ない時代だ、ってことは分かっていた。分かっていたから、それが何か戦争で使われる機械なんだろうな、と見当がついた。
 けれど僕はその日にその場所にたった一つの爆弾による爆撃が行われることは予想にもしていなかった。否、実際は爆弾ではなかったのかもしれない。何せ都市は透明のドームに覆われ、そのドームをすら透過する何かでなければならなかったから。
 だけど何にせよ、当時の僕は大勢を一度に攻撃する兵器のことを『爆弾』と呼んでいた。その『爆弾』について全く思考を巡らせていなかった、その時の僕は、父さんがまた研究室の自慢を息子にしたがっているんだろう、なんて考えていた。そして、その時は十分に楽しかった。
 だが、
 研究室の赤いデジタル時計が11時28分を示す頃。
 ウウウウーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ
 と、大学全体に割れんばかりの空襲警報が鳴った。
「来ましたか……」
 父さんはそう言って研究室のその棺桶のところへ、僕の手を引いていった。
 棺桶の前まで来ると、何か原始的な鍵を使って蓋をカパッと開けた。
「ここに入りなさい」
「……これは何?」
「……入ってから話そう」
 僕は父さんの目を見た。少し怒りが湧いているような、有無を言わせない目であった。
 僕は棺桶《かんおけ》の中に入った。
 先程の空襲警報といい、この棺桶のような蓋を閉めれば密閉されるであろう機械といい、
 この機械は爆撃を防ぐものだろう、と僕は感づいた。
「と、父さんも別の機械に逃げるんだよね」
 棺桶の中のベルトに固定されながら僕は言った。
「十五分だけだ……。十五分だけこの中にいてくれ。十五分後には自動でベルトが解ける仕組みになっている。それまで、この中にいてくれな」
 父さんは、僕の質問に答えていなかった。
「と、父さん…?」
「これをお前に預ける。外に出た後、お前のその腕時計にこいつを翳《かざ》すんだ。……頼むぞ」
 そう言って、固定されていない手首以下の掌に、ひとかけらのICチップを握らせた。
 まるでそれは息子に何かを遺《のこ》すかのようなやり取りだった。
「や、やだよ父さん。父さんなんか死んじゃうみたいじゃないか。これも自分で翳《かざ》せばいいじゃないか! 父さん!」
「すまない時間がない。愛しているよ。白石由人」
 そう言うと父さんは、蓋《ふた》を僕の上に重ねた。急激に真っ暗になる視界。
 そして、カチリっと音がした。
 僕は大声をあげたりはしなかった。完全に固定された感覚があり、視界が真っ暗闇の中では、声をあげても暴れても何もしたことにはならない。全ては虚しい行為だろうと、暴れる前にそれを悟った。
 そして、一人、覚悟を受け入れていた。
 父さんは死ぬのだろう。
 僕は一人で生きるのだろう。
 周囲に人間はほとんどいなくなるのだろう。
 やっぱり怖い。僕にはもうこれしかない。
 そう思って掌《てのひら》にある小さなチップをぎゅっと握りしめた。

 ───。
 ガゴンッと音がした。音がした以外は何も変わらない。依然として真っ暗だ。
 音がしたのは何かの合図だ、きっとそうだそうに違いない、と思い右手を動かしてみた。
 手首のベルトは外れていた。そして、体幹に巻き付いていたベルトも外れていた。
 数十分《すうじゅっぷん》閉じ込められたことによる疲れが身体《からだ》中を襲っていた。外の様子が気にはなるが、もう正直、わかり切《き》っていることだった。
 空襲警報の音を思い出す。
 …………。
「──父さん」
 小さく呟いて、蓋を上へと押し上げた。
 目の前には先ほどとなんら変わらない研究所の風景。
 だが、そこには、誰もいなかった。


 017

 まだ、夢の中。
 誰もいない研究室を後に、建物の外に出た。
 そこにも誰もいない。
 全く破壊されずにそのまま残る建築物。既に空襲警報も止まっていた。
 しんっと静まり返る構内。
 まるで時が止まり自分だけが動いているような妙な感覚にとらわれた。
 僕は顔を上げる。冬らしい曇天《どんてん》が広がっている。灰色の空が滲《にじ》み始める。泣いちゃだめだ。泣いたって何も変わりはしない。
 泣いたらダメ?
 本当に?
 涙が頬を伝わるのを感じた。上を向いて、涙が零れないようにしていたのに、ダメだった。
「……くしょう、ちくしょう。何でだよ。何で……」
「……んで、何でだよ! ちくしょうあああああああああああ!!!!!!!!」
 僕は堪え切れずに、上を向いたまま宙に向かって咆哮《ほうこう》した。
 空襲を恨むように、戦争を恨むように、大人を恨むように、神様を恨むように、運命を恨むように。
 宙に向かって泣き叫んだ。
「ああ、あああ、あああああああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああ! あああああああ、あああああああああああああああああ何で、何でああああああああああああ!!!!」
 全く誰もいない静かな世界で、僕は運命を受け入れるように膝から崩れ落ちた。
 天を見上げることも疲れ、首から力が抜け、だらんと頭を垂らした。
 右の掌に何かを握っている感触。滲む視界の中、ゆっくりと掌を開くとそこにはもちろんICチップがあった。
「……っく、ぇっく」
 嗚咽《おえつ》が止まらぬまま、そのICチップを左の腕時計へと翳《かざ》す。
 腕時計が何かに反応した。一瞬小さく光り輝き、そして、急に、眩しく大きく輝きだした。
「……くっ!」
  急激な眩しさで思わず顔をそむけ、光を逸《そ》らすように左腕を前へと差し出した。
 その前へと差し出した左腕から、さらに前へと、昼間にも拘《かかわ》らずはっきりと見える、直進する光線。
 その光は一メートルほど伸び、そして、その光の先端から、徐々に徐々にぼんやりとした、大きな円状の、自分と同じかそれ以上に大きい、何かしらの影がゆらゆらと幻出《げんしゅつ》した。
 そして、次の瞬間。その黒い影はパアンッとものすごい勢いで光り輝いた。先ほどの腕時計と同じような輝き方《かた》であったが、なにせその輝きの大きさが違う。
 一瞬に、何か莫大《ばくだい》なエネルギーが一気に収縮したような、周囲が大爆発を起こし中心が急激に潰れたかのような、そんな輝きだった。
 そして、そんな輝きのあと。
 そこにいたのは──
 そこにいたのは──
 そこにいたのは──────


 018

「違う!」
 僕は教授に向き合って叫んだ。
「違う! 違う! 違う! 僕の父さんは……」
 この夢を思い出すたび、想起する矛盾。
 《《あの人が父親だ》》という謎の確信。
「父さんは……」
 その矛盾を、僕は否定することができなかった。
 僕は両手を膝に乗せ、がっくりと項垂れて、夢の続きを述べることはできなかった。
「そこにいたのは、──────」
 僕の代わりに教授が、あの夢の続きを述べた。
「……あなたは、」
 僕は項垂《うなだ》れ、下を見たまま単純な疑問に触れる。それはまるで最後の抵抗のように。
「あなたは、その、本当の父親と共同研究していたんですよね? では何で………何で今ここにいるんですか……? あのとき……、全ての人がいなくなりましたよね……? おかしいですよね……?」
 正直言って回答なんて分りきってる質問だった。
「それは私がロボットだからだよ。あの戦争で亡くなった吉良《きら》崇《たかし》を、そのままコピーした私だからだよ。そして、あの時の君の行動は大学研究室内の監視カメラに全て残っているからだよ。僕らロボットは、中枢に存在するデータをそれぞれがコピーすることだって可能だ。勿論、ホストコンピュータからの許可がなければ見ることはできないが」
 教授は訥々《とつとつ》と答えた。
 ダメだ。あの夢を思い出しただけで吐き気と涙が込み上げてくる。
 僕は一度歯を食いしばり、深く深呼吸を取り、涙が零れないように注意しながら、顔をあげた。
 そして、教授をまっすぐに見つめた。
「その……、戦争は止められなかったのですか? 貴方《あなた》達は、その……、物質移転装置を作り上げる研究に携わった張本人なんですよね? 貴方達ならその装置の暴走化を止めることは出来なかったんですか?」
「んん? 由人君、君は色々と勘違いしているようだね? とりあえず暴走したのは機械じゃない。どちらかといえば人間だ。そして人間も別段暴走したわけじゃない。それがそのまんま人間の姿なんだよ。さらに君は色々と勘違いしている。僕らは移転装置そのもの、移転装置の改良を研究の目的としていたわけじゃないんだよ。僕らは物質移転装置をどのように防ぐことができるかの研究をしていたんだよ。僕らきみの父親を除く研究員は、全く予想外だったよ。まさかまだ試作段階のシェルターを君のお父さんが幼子だった君に使うだなんてね。これは偶然の僥倖《ぎょうこう》だったのかもしれないね」
 僥倖って……。果たして、生き残ったことは幸せと言えるのか? 僕は、少し震える唇の内側を軽く噛みしめる。それにそもそも、僕の質問は、僕の聞きたいことは、僕がこの人に聞きたいことは。
「僕のことじゃないです。あなたのことなんです。科学者である以前に、その時代に生きていた一人の人間として、やれることはなかったのか。と聞いているのです」
「なかったよ」
 あっさりと、当たり前のように教授は言った。
「何もなかったよ、僕にやれることは。あ、そうそう、これが一番大事なことなんだけどね、『物質移転装置』は時限式で、なおかつキャンセル不可なの。一度移転させる物質の目標を定め、更には移転先を定め、そして移転時刻を定めたらもう絶対に止めることはできないの。これは量子論の双子電子の理論を応用しているからなんだけどね。そこにないはずの物質を《《そこにある》》ように定めることが、この装置の肝だからね。一度決定した存在の選択は変えることができないの。《《そこにあるからそこにあるの。》》わかるかな?」
 結局、僕についての説明に戻ってきてしまった。なぜだろう? なぜこの博士は自分のことを話そうとしないのだろう?
 そして、なぜだろう? 一種の怒りに近い感情が湧いてきたのは。
 もう既に、唇の震えは止まっていた。
「………」
「おや? どうやら不満そうな顔だね? いや、当たり前か。もう君には物質移転装置の時限作用が、既に作動してしまっているからね。もう君が明日の午前零時にこの地球上に存在しないことは決定事項だからね」
 僕が、消える。
 それまた、何で。
 怖くはない。
 ただ、怒りが、なぜだろう、更に沸々《ふつふつ》と湧いてきた。
「君は、椿久美にキスをした。それだけで十分に君が消える理由になるのだよ。君が消えるに値するだけの、充分な不都合を君が有してしまうのだよ」
「この時代の、究極なまでに人間に、似せた、近づけたロボット、いや、もっと言うなら、人間が創り出した人間でも、人間との間の生殖だけは出来ないんだよ」
「いつまでたっても子供ができない。そのことに君は疑問を感じるだろう。周囲にいるロボットも、病気やらなんやら言って、なんとか都合を作りあげて君を宥めようとするだろう。しかし必ず君は疑問を持つようになる。体外受精であれなんであれ絶対に子供ができないのだから」
「そしたらどうだ? 君はこの世界に疑問を持つかもしれない。お前は何か秘密を持っているんじゃないか? 何か隠してるんじゃないか? ってね」
 君は世界に不都合だ。
 こうやって面と向かって、人にその言葉を投げかけることができる人間が果たしてどれだけいるのだろう。
 この人は人間ではないのかもしれない。
 そういえば、この人は人間ではないと言っていたな。
 自分はロボットだ。と、そう言っていた。
 ロボットだから言えるのだろうか? ロボットだから話が止まらないのだろうか?
 僕にはもう、博士の声は届きやしなかった。ただ目の前で机を隔《へだ》て、とある人間が何か音声を発しているな、くらいにしか思えなくなった。
 僕はただ、静かな怒りを持って、博士の発する音声を受け止めるにすぎない機械になった。
 ただし機械ならば感情は持たない。怒りを持つ分《ぶん》、僕は人間だ。
 僕は、人間だ。
 ただしゃべり続けるだけの機械じゃあ、ない。
 生きている。感情を持っている。そしてそれは、因果律を基にした単純な理性を超えている。
 人間は、何をしだすか分からない。わからないのが人間だ。
 とりあえず、目の前の人間には黙って欲しかった。
 否、違う。目の前のそれは機械だったか。
 とりあえず、目の前のそれには口を閉ざして欲しかった。
 激昂《げきこう》してしまう。
 僕は右手の親指を掌の内側に握り、親指の第一関節と第二関節の間に人差し指の爪を力の限り突き立てた。
 痛みを与え続けていないと、感情に操られ右手が勝手に何をしだすか分からない。
 堪えろ、自分。
「ん、どうした? 顔が真っ赤だよ? まあいいか、続けよう。でね、」
 黙れ。
「君は消える。何も不審に思わないように。でも死にはしない」
 黙れ。
「君は地球から消えるだけで、月に移転されるんだよ。よかったね。月は良い所らしいよ、実際。物は軽いし身体は軽いし人間には地球よりも丁度良いかもね。それとね」
「黙れよ!」
 ……遂に口に出てしまった。でももういい。僕は構わず、少し震える声で続けた。
「……だ、黙れよ。俺が死ぬとか突然言われても知るかそんなもん。あんたの話聞いてると全ての引き金はその戦争じゃねえか。お前らの世代の責任じゃねえか。人が全ていなくなった? 実はこの世界は見せかけだけの世界だ? それがばれそうになったからお前も消えて欲しい? 馬鹿げてる! 全部てめえらの責任だろ?」
「私の責任じゃあ、ないよ。なんせ私はロボット……」
「知ってんだよんなもんっ!」
 怒鳴った。否、むしろ吠《ほ》えたというべきか。
 言葉を、声をぶつけるように、眼の前のものに思いっきり叫んだ。
 恐らく届かないだろうとは知っていながらも。
「抑えて抑えて」
 博士がまあまあと言わんばかりの、両の掌を下方に向けて、心を静めさせようとするポーズをとる。心なんて無いくせに。お前はそのポーズで伝わる感情なんて一切持ち合わせてはいないくせに。
「お前らが、お前らが、当てもなく科学を発展させようとした結果、戦争になったくせに……。都合よく、便利にしようとした結果、取り返しのつかない世界になったくせに……。お前らが、お前らが、お前らが……」
「だから、僕らはね……」
「《《お前も》》なんだよ!」
 胸座《むなぐら》を掴《つか》んだ。掴もうとした。掴んで威嚇《いかく》しようとした。否《いや》、殴ろうと思った。殴って自分に与えられた突然の不幸をこのロボットにも分け与えてやろうと思った。
 だけど、掴めなかった。
 博士の胸座の白衣を掴もうとして、両手を差し出し、白衣に手を掛けたのだが触れなかった。
 《《僕の両手が博士の胸をすり抜けた。》》
「………っ!」
 すり抜けて、博士が座っているリクライニングチェアの背《せ》凭《もた》れに両の拳《こぶし》が到達した。
 いや、実際には到達した感触がした。
 目の前の博士の胸にはバスケットボール大《だい》の闇のような、暗い風穴が開いていた。
 開いている風穴は暗闇で中は見えない。
 その暗闇の中に、僕の両腕は前腕から吸い込まれていた。
 博士は。博士はどうなっている?
 目線を動かし、博士の顔を覗く。
 博士の顔は無表情だった。昨日、椿久美が僕に見せた、あの死人のような表情にそれは似ていた。
 さっきまで会話をしていたとは思えない、がらんどうな眼を真っ直ぐに向けていた。
 その目の恐怖、わけが分からない事態。得体が知れない。有り得ない。
 抜く。両手を抜く。両手を抜こうとしたが、右手しか抜けなかった。
 なぜなら、抜こうとした時に博士の右手が僕の左手を掴んだから。
 速かった。そして掴む手は充分に力が強い。
 いや、待て、反応した? この博士は、椿と同じ無表情なのに僕の行動に反応した?
 昨日の椿の場合は僕が手を握っても握り返すような反応はなかったし、僕が声をかけても何の返事もなかった。
 さもありなん、とでも言うようにそのままそのまま行動を続けていただけの、さながらロボットのようなそんな行動しか取れなかったというのに。
 この眼前《がんぜん》の博士は、僕に反応した。
 僕の左手を押さえる博士の右手は、まさにブルブルと大刻みに震えている。
 物凄く力を入れて動かしているかのような、さながら、何かに抵抗しているかのような、そんな右手の動かし方だ。
 教授は更に左手を、博士の右手と同じようにブルブルと戦慄《わなな》かせながら、肩から動かしその左腕全体を宙に浮かし、サイドワゴンの二段目の棚をゆっくりと人差し指で指差した。
 彼は僕を見ていた。先程までの空洞の眼《まなこ》ではなく、ちゃんと意志を持って僕を見ていた。
 そして、博士は戦場で何かを成し遂げたあと、命の果てた兵士が見せるようなゆったりとした柔和で微《かす》かな笑みを口元に浮かべ、ゆっくりと右手左手を下に降ろし、最後に瞼《まぶた》を閉じて、頭を下《おろ》した。


 019

 僕は壁に凭《もた》れ掛かった。目先《めさき》三メートル程先にはさっきまで僕が座っていたシルバーの足、黒色のクッションの付いた丸椅子が二つ床に転がり、年季が入り所々黒色に錆び付いてはいるものの全体的にはシルバーのワークデスクが鎮座して、その先に。
 その先に、胸に黒い穴を開けた教授が座っている。
 座って、止まって、終わっている。
 僕は眺める。ただ眺める。眇《とが》めることはできない。この人は、この物は、これは。
 自分の役割を全うしたのだから。
 恐らく最もつらい役割をこなしたのだから。
 だからといって、敬意を払うことはできない。僕はそこまでお人好しではない。
 人のことを不必要だと言うものに敬意を払う心は僕は持っていない。
 僕は真っ直ぐに向けていた視線を天井へと移した。
 右足だけ伸ばし、左足を屈伸させ更に体重を壁へと寄せた。
 ……疲れた。
 壁に掛《かか》った時計を見やる。針は午前十一時半過ぎ。
 二時間近くも教授の話を聞き続けたわけか。疲れて当然だ。
 ……眠い。正午まで後少しだというのに空腹を全く感じない。
 ただひたすらに眠い。眠ってもう眼の前の現実から抜け出したい。
 僕は目を瞑《つむ》る。ただただ思考する。
 教授に空いたあの穴は、恐らく『物質移転装置』の『プラス』ということだろう。
 僕は何も触っていない。何も触らずに僕の両手は教授の後ろのチェアにぶつかってしまった。
 まるでそこに《《何もないのが当たり前》》であるかのように身体をすり抜けてしまった。
 つまり教授の胸の部分だけどこかへ移転してしまった……いや違う。
 教授の胸部だけ今も移転し続けているのだろう。だから、そこには何もないのが当たり前なのだろう。
 目を瞑《つむ》り思想を続ける。
 今、そこで『物質移転装置』の存在が確信へと変わった。まざまざと見せつけられた。
 つまり教授の言っていたことは本当で、僕の父親は本当の父親ではないし、母親も本当の母親ではないし、それどころか人間ですらないし、そこには感情なんて無かったのだろう。
 ましてや愛情なんて全く無かったのだろう。
 僕の知っている過去は偽物で、僕が見てきた夢が本当だったんだろう。
 本当の現実は暗くて怖くてつまらないと、そういうことなんだろう。
 僕はゆっくりと思い出す。先程思い出した夢の内容を思い出す。
 あのとき、僕の腕時計が光線を放ち、その先の黒い影から現れた人物は、椿久美だった。
 伏線なんて意味はない。聞きたくないことを聞いていないかのように、見たくないものを見ていないかのように、思い出したくない話を思い出していないかのように、言葉を伏せるのはもう止《や》めよう。
 あの夢の中、光の先ににいたのは、間違いなく椿久美だった。
 椿久美があのとき絶対的な孤独から救ってくれた。
 これは夢のお話だ。そして現実にあった日常だ。
 オーケイ。わかった始めよう。
 夢の続きを語ろうか。
 以下夢の話。


 020

 光の中に女の人が立っていた。
 ぼくは何となくだけど、その女の人を見たことがあるような気がした。
 だからかもしれない。とても安心した。
 人がいない風景にやっと人に会えた安心感、だけでは決して説明がつかなそうな、心の底からの安心感。
 まるで包み込まれるような安堵感《あんどかん》。
 光が消えた。光が消えて、その人をじっくりと見ることができた。
 その人は変な服を着ている。白色無地のぴっちりとした、長そでのインナーシャツみたいな服。長そでの先にも白色無地のぴっちりした手袋。下はこれもまたぴっちりとした股引《ももひき》のような白色無地。靴もまた白色無地。まるで服を着ていないみたい。
 全体がぴっちりとした恰好《かっこう》をしているから、全身が細く見える。特に太もも辺り。一番肉がつきやすいところのはずなのに、その人の脚は膝から足の付け根まで、幅が少しだけ、本当にほんの少しだけ太くなっているだけで、簡単にいえばすっきりとした、理想的な脚《あし》だった。
 その人が僕に向かって歩いてきた。尻もちをついて茫然《ぼうぜん》と見ている僕。
 その人は少しかがむようにしてぼくを覗きこみ、右手を差し出しこう言った。
「こんにちは、白石《しらいし》由人《ゆうと》。私があなたを守ります」


 021

 ここで夢が途切れる。
 そして次が、椿久美が出てきたもう一つの夢。
 ラスト。僕が知っている椿久美との夢の話。


 022

 僕は怖かった。恐怖に包まれていた。
 僕は泣いている。しゃがんで腕に頭を埋《うず》めるようにして泣いている。
 右隣に誰かいて、僕の頭を撫《な》でている。撫でられても心の中の恐怖心は一向に無くならない。
 その人が撫でていた手を背中へまわした。そして僕の全体を包むように僕の左腕にまで手をまわし、僕に体を密着させた。
 その人の体温を感じた。耳元にその人の吐息を感じた。僕は顔を埋めたままその人を感じた。
 耳元でその人の歌う声がした。

 さあ行こう
 前を向いてこう
 日々歩いてこう
 君の声がした
 泣いて前向いてない僕を
 君は連れだした
 泣いて笑った 野を駆け廻った
 何でもない日々が過ぎていく
 触れて愛した 君を愛した
 何でもない日々が過ぎていく

 その人は囁《ささや》きを止める。そしてさらにぎゅっと強く僕を抱きしめた。
 「元気を出して。由人」
 そう言うと、その人も小さな声で、僕の耳元で泣き始めた。


 023

 僕は目を開けた。涙で少し滲《にじ》んでいた。
 ……少し眠ってしまっていたのかもしれない。白ワイシャツの両裾《りょうすそ》をそれぞれの目に当てる。……よし、疲れも眠気もだいぶ取れている。
 僕は上の方にある時計を眺める。時刻は正午ジャスト。
 どうやら本当に数十分眠っていたみたいだ。僕は背中を壁に押しこみ勢いをつけて立ち上がる。
 部屋の中は先程と何も変わっていなかった。穴の空いている教授はいずれもそこに座っていた。
 胸に穴が開き、そして尚且《なおか》つ血は全く出ていない姿。
 やっぱり不気味だ。死んですらいないのに見た目だけは人間の姿をした、何かが停止している。
 僕はスラックスの右ポケットの中を弄《まさぐ》る。鍵がある。あのとき吉良教授が最後の力で僕に示した、デスクボックスの中にあった鍵がある。
 この鍵がその名の通り色々な謎を解くカギなのだろう。
 思えば、僕以外のすべての人間がロボットであるならば、この世界を説明する者は別段《べつだん》、吉良教授でなくともいいはずだ。熊本高校のクラスメイトでも構わないし、そもそもあの朝に会った久美から語られていても別に何の不思議もないはずだ。
 それでも久美は吉良教授の元まで僕を連れてきた。これには多分、何か致命的な理由があるのだろう。
 そしてその謎を解くキーがこの鍵なのだろう。
 ……ここまでだ。僕が考えられるのはここまでだ。
 僕は教授の方に向けていた身体を翻《ひるがえ》し、ドアのほうへと向き合った。
 さよなら吉良教授。もうあなたに会うことはないだろう。
 ドアまで歩き、少しため息をついてから扉を開くと、そこに椿久美が待っていた。 
 椿は少し俯《うつむ》き、唇を震わせ、顔をくしゃくしゃにして今にも泣き出しそうな様子だった。
 「ごめんなさい由人。傷ついたでしょう……」
 第一声がそれだった。椿久美の、いつもは強気の椿久美の第一声がそれだった。
 「今まで……、由人を今まで騙して……、ずっと今まで騙して、ごめんなさい」
 椿の声が震えている。小さく絞り出すように声が掠《かす》れている。
 違う。
 違うよ、椿。
 椿は何も悪くないじゃないか。
 椿は何も悪いことなどしていない。だから、だから──。
 僕は反射的に、椿を強く抱き寄せた。
「簡単に謝るなよ……。謝罪の価値が下がるだろう?」
 僕は椿の耳元で囁いた。
「椿は何も悪くない。こうするしかなかったんだろう? だったら仕方のないことじゃないか。大丈夫。椿は悪くない」
 僕は椿の髪を擦《さす》りながら続ける。
「それに、椿は椿だけの過去を持っている。僕と出会ったとき確かに君はロボットだったかもしれない。それでも、君と僕とが共有した時間は確かにそこにあるじゃないか。それは、椿だけが持っている記憶だろう? 独自の過去を持ち、記憶を基に行動するのならば、それは立派な人間だ。そうだろう? 椿。君は立派な人間だ。君は確かに生きている」
 椿が力が抜けたかのように、僕の胸の位置まで頭を下げた。そして、頭を下げながら嗚咽を交《まじ》え泣き始めた。
「……っ、あ、あり、がとう……。ありがとう由人…………。ありがとうありがとう…………」
 彼女は膝を曲げ、崩れるように身体を僕に預けた。僕はそれでも離さない。椿に合わせて僕もゆっくりと屈《かが》んでいく。
 その後も椿は泣き続けた。不思議なことに、僕らの周りには誰もいなかったし、どこかに人がいるような物音一つしなかった。


 024

 熊本大学黒髪《くろかみ》南地区は、その南地区に工学部建築学科が存在するからなのか、キャンパスの建造物が非常にモダニズム。窓が少なく、大きな白色のキューブがごろごろと転がっている。熊本大学南地区の南端に沿うように、熊本県熊本市隋《ずい》一《いつ》の河、一級河川の白川が悠々と流れ、大学に完全に隣接しているため、その無機質な建築群と静かに流れるその川面が、お互いをお互いを沈め合うように存在しているだけでより一層の寂しさへの深みへと誘っているように感じる。
 だが。
 それはあくまでも見た目の話であって。そこに居座る大学生は、そんなキャンパスが醸《かも》し出す雰囲気など何のその。自分が持ちうる最大のエネルギーを持って、そのキャンパス内を熱気の渦に巻き込んでいる。ある者はその熱量を取り込み更に大きな熱気として大学内に爆散させ、またある者はその熱気を毛嫌い自らに迫る誘いを断り、その熱気を蔑《さげす》んだ目で見ながらも、自分がこのように孤独に浸れるのはある意味この熱気のおかげなのだと、小さな微笑をたたえ隅でコーヒーを啜《すす》っていたり。またある者はその熱量を恋愛方面へと向かわせ、意中の相手との恋の駆け引きに四苦八苦しながらも自分がその人の傍《かたわら》に寄れる、それだけで幸せと感じていたり。
 人それぞれ千差万別、十人十色の違いはあるけれど、そこはまさに人生の絶頂。集団を楽しむことも孤独を嗜《たしな》むことも恋路に身を窶《やつ》すことも、自分で選んだ選択であり、自分で選んだ道をすぐさま行動に移すことができるなど、社会への巣立ちの前、最後に与えられてたこのモラトリアムのみだと誰もが気付いている。
 故に絶頂。他人に流されてなどこの最後の自由を存分に味わうことができないだろう。一人の人間の歴史としての絶頂、社会の中で最も自由に動ける人間としての絶頂。そんな青春の雰囲気が渦巻く食堂だった。
「すごいねー、大学生の熱気」
 入り口で思わず立ち止まってしまった僕ら二人、白石由人と椿久美。若干《じゃっかん》、茫然《ぼうぜん》とした僕の横でこれまた唖然とした雰囲気で久美が声を漏らした。
 熊本大学黒髪南地区レストラン、FORICO。
 FORICOの名前の由来は「FOR理工」。なかなか洒落のきいたネーミングセンスだと部活で熊大へ進学した先輩が言っていた。
 そんな理工のためのレストランFORICO。見まわしてみてほとんど男しかいないことに気づく。
 そしてその男子学生も、何というか細身でスタイリッシュな人間がほぼいないことにも目がいく。
 そいえば、熊本大学には体育学部は存在せず、体育会系サークルの主翼を担うのはこの理工学部の男子学生らしい。
 熊大理工とは体育会である。
 これもまた部活の先輩の言葉。
 あれから。
 あれから、というのは僕が久美を抱きしめ、自分が持ちうる最大限の励ましの言葉で久美の耳元で慰めた時点の、あれから、という意味だが、あれから──
 久美はそのまま泣き続けた。泣き続けて泣き続けて泣き続けて、そして泣き止んだ。
「……すん、すん…………」
 僕の胸の中で鼻をくすんくすん鳴らす久美。そして、
「…………おなかすいた」と独り言《ご》ちた。
 僕の顔を見上げる久美。
「おなかすいたね。そう思わない? ゆーくん?」
 ああ。確かにおなかはすいている。僕はあまり自分から部屋の中を振り返るのがいやなので腕時計を見る。時刻は十二時三十分前。お昼時だ。
「僕もおなかすいた。久美、弁当持ってる?」
「ない。だって知ってたもん。学校で昼食を食べないこと」
 それはそうだ。久美はミニトートしか持ってなかったし。
 そして僕もちょうど弁当は持ってきていない。
 というか、いつも買い弁なだけなんだけど。母さんはいつも忙しいし。 
 少しだけ、先程のシリアスな場面が心に思い浮かんだけれど。それは無視。
 別にいい。今まで知ってた父さん母さんがロボットだろうと。
 数時間後には僕の記憶はなくなる。記憶消失。生きた証を全て失う。それだけではなく記憶の創造。つまり今の僕が生きた証を未来の僕は知らないということだ。
 つまり、それは、今の僕から見たら死と同義。
 どうせ死ぬのなら、せめて死ぬまで楽しく生きようぜ。
 いちいちシリアスになっても仕方のないことだ。
 今が連続して楽しければ理論上死ぬまで一生楽しいわけだし。
 つまりは切り替えていこうぜベイベーと、こういうことだ。
 僕の背後には今も多分、厳しい現実の象徴のような風穴の開いた人物が居座っているだろうけれど、振り返らなければいい話だ。
 前向きに生きればいい話だろう。
「食堂行こうか」
「らじゃー」 
 久美はそう答えてから部屋の中に置いていた部屋の中へと入ってきた。おそらく、自分の荷物を取るためだろう。
 僕は部屋のなかから、開いた扉の取っ手を見ながら久美に訊《き》いた。
「あ、久美。できればなんだけど僕の荷物も取ってくれないかな」
 ──自動ドアからガラス越しに見える学生の勢いに見惚《と》れ、つい先程のことを思い出していた。
「ねえ、由人。あれ」
 久美がぼうっとしてる僕の横で、自動ドアの横に付いているカラフルなボードを指差した。
「あれメニュー表じゃない?」
 僕もそこに目をやる。そこには《昼定》の文字とその下にS、M、L、LL、MAX、のサイズごとの値段。そしてその《昼定》献立の写真があった。
 そして、それしかなかった。


 025

 食堂の中央付近、多人数用のテーブルに二席だけ奇跡的に開いていた。僕と久美は向かい合って久美は《昼定》のSを、僕はMをそれぞれ突っついている。
 シリアスにはなりたくはないけれど、まずは報告だろう。
 僕はシリアスにはならないよ。死ぬまで楽しく生きちゃうよ。
「そういえばシリアスとシリウスって似てね?」
「いきなり何の話ですか」
「いや、シリアスとシリウスって言葉めっちゃ似てるなーって思って。多分、昔の人が空にぎらぎら輝く一等星を見て『うわっ! なんてあれはシリアスだ!』みたいなことを言って、それが訛ってシリウスになったんじゃないかなーって思ってさ」
「ふーん」
 久美は笑わなかった。どうでもよさそうな顔をしていた。それでも僕はめげずに掘り下げる。
「いやあ、ところでラテン語系の語尾に付く『ウス』って何なんだよ。古代ローマ人は空手職人かよ」
「ほう」
「いや、でもアクエリアスとかは最後に『ウス』は付かないな。もしも古代ローマ人が『ウス』と語尾に付けることにもっと徹底していたらアクエリアスもアクエリウスなってたかもしれないね。そしたら今の空手道の人々は大変だよね。後輩にアクエリを持ってきて貰うときなんか『アクエリ!』『押《ウ》忍《ス》!』ってなっちゃうし。いちいち笑っちゃうよこんなの」
「ふっ……ふっ……、ふーん」
 あ、久美笑った。というか、笑ったの誤魔化した。笑ったのを誤魔化してそのまま湯豆腐食べ続けてる。
 ちなみに本当にアクエリウスだったら日本で商品化する際に「アクエリ『押忍』!」みたいに、押忍を推す商品名になっていたかもしれないけれど。
 まあ言わなくていいだろう。三度目の深追いギャグはあまりうけない。
 ポイントを変えたギャグを言おう。
「そういえば、ギャグとギャングも……」
「ところで」
 久美は僕の話を遮《さえぎ》った。遮ってしまった。テンポが崩れてしまった。せっかく僕がイニシアティブを取っていたのに。この場はすでに僕のフィールドだったのに。
「なんてことを!」
「ところでさっきの教授の話の反省をしよ」
 だよなあ。そうなるよなあ。
 久美とキスしてからはシリアスな展開、恋愛の展開しかなかったし。
 話は戻される。
 いいよ。僕も現実を少しだけ見よう。
「でもさ、久美もロボ……、うーん」 
「いいよ。ロボットで」
「ああ、ありがとう」
「じゃあ続けるけど、久美もロボットなら、あの教授みたいに何でも知ってそうなんだけど。だったら僕が、あの部屋であったことを、あの教授から聞いたことを、いちいち説明しなくてよくないかって思うんだけどな」
 というか。
 久美、キスした時からずっと僕との話の主導権握ってないか。
 はっきり言って昨日今日と僕、踊らされてるようにしか思えない。久美との会話にしたって。なんかこの世界の話とかそういうのにしたって。
 いかんいかん。なんかシリアスになってきたぞ。
 シリアス展開はNOノー
「まあ、ぶっちゃけ言うと全部知ってんだけどね」
 久美さんがぶっちゃけちゃった。
「というか吉良教授が言ったこと全部再生できるよ」
 またまた久美さんがぶっちゃけちゃった。
「『そうかい……それは良かった。では、次の質問。椿久美は好きかい?』どう? 完璧でしょ?」
 そこかよ。そこを再生しちゃうのかよ久美さん。
 結構、恥ずかしい。
「私、由人が教授に詰問される姿見てたんだからね」
「……ツンデレでお願いします」
「べ、別に由人のこと見たくて見てたわけじゃないんだからねっ!」
 のってくれた。さすが椿さん。女神。神様。僕の嫁。
 リズムに乗って言ってしまったけど、さすがに僕の嫁は取り消しで。
「……取りあえず見てたよ。由人のこと。というか、みんなすべての人々が見てたよ」
 ああ。見られてたんだ。ということは僕が激昂した場面も。
 まあ、あえて話題には出さないけれど。
「私たち、みんな繋がってるの。一つのホストコンピュータを媒介にして」
 出た。そういえば教授も言ってたな。ホストコンピュータがどうとかこうとか。
「ホストコンピュータの名前はウィズ。私はウィズさんって呼んでるんだけどね」
「さん付けなんだ」
「さん付けだよ。あの人優しいし」
「人なんだ」
「人じゃないけど、人っぽいよ。名前の由来もダブリューアイティーエイチWITHウィズ で‘人と共に’って意味で付けられたんだし」
 人と共に。‘人と共に’って勝手に人に名付けられて、人だけいつの間《ま》にかにいなくなっちゃったわけか。
 うわーシリアスだ。シリアス超えてシニカルだ。
 マジで‘永遠’とか‘○○と共に’とか付けない方がいいな。終わってしまった後に『これはつらい』としか言えなくなってしまう。
 結構なダメージが心に来た。そのウィズさんの名前の由来。
「教授が由人から、何で僕の行動を知ってるんだって訊かれたときに『あの時の君の行動は大学研究室内の監視カメラに全て残っているからだよ』って答えたじゃない。あれと同じ感じで、私たちアンドロイドの視覚は全てウィズさんを媒介にして繋がってるの。つまり私たち全てが“動く監視カメラ”の状態になっているの」
「少し待って」
 僕は少し大げさに久美の前に右の掌を広げた。 
 もちろん箸《はし》を置いてから。危ないし。
「また説明モードに入ろうとしてない?」
 僕は久美に率直に訊《き》いた。困る質問をしてしまったと思いながらも、会話のイニシアティブを取り戻せたであろうことに一種の優越感を感じながら、久美の眼を見て質問した。
「仕方ないじゃない。流れ的に」
「流れな。それな。わかる。うんうんわかる。わかる。だけどさ」
 僕はちょっと区切ってから続けた。
「やっぱりわざとらしいんだよ。そういう説明。もうそういう振りをするのをやめようぜ。これは久美に言ってるんじゃないよ。なあ、ウィズさん。ここは対等にいこう。もう人を操ってそいつに言わせようとするのはやめようよ」


 026

 どうだろう? 今僕のこの発言を客観的に見て、僕の反撃が始まったと思う人間もいるのかもしれない。
 しかしながら、僕が発言した後のこの三分《さんぷん》ほどの沈黙をどう説明してくれるだろう?
 僕が久美を通してウィズさんに語りかけたところで、久美さんは完全に食事の方に集中してしまっている。
 久美さんは黙ってもかもかとライスを頬張《ほおば》っている。
 久美さんはいつも食べるスピードが遅い。そして僕は異常に早い。先程までしゃべっていたのは僕だけど食事に関しては僕は既に食べ終わっている。
 つまり、沈黙の中、僕は本当に何もやることがなく、黙って久美さんが食事をしている姿をじっと観察している。
 もかもかもぐもぐと久美さんはライスを食べ続けている。
 ちなみに今の風景は大学の食堂の中央に位置するテーブルで、大学生の凄まじい喧噪の中、高校生の制服姿の男女が、完全に黙って食事をしている構図になっており、簡単に言えば相当に気まずい。
 どちらが折れるが先かこの沈黙。
「久美さん」
 僕は黙って箸を進める久美に声を掛けた。
「何も分かってない自分の癖に分かった風なことを言ってしまい。申し訳ございませんでした。いや、本当にそうですよね。何事もまずは説明からですよね。すいません。僕が勝手にコメディ調の雰囲気にして、ちゃんと現実を見ていませんでした。全くわからない今、現在の状況を整理することが何よりも大事ですよね。そうですよね、このままだと何も進展しませんよね。いや、そうですよね。何か恋人から突然に『○○だったのよ』と語りかけられ、『そ、そうだったのか!』と僕がわざとらしく相槌を打つような会話は、それは確かに不自然だけども、久美さんがロボットでウィズさんと繋がっているせいでこの世界の真実を伝える媒介者となり、この世界の真実の説明を告げる役割を果たすことがわざとらしいかといえば、決してそうではないですよね。いや、むしろ自然と言っていいですよね。そうですよ、そういえば僕が明日には移転されることが分かっているのに、その直前に移転される理由とか聞かないままに月に行って、果たして僕が納得してくれるか、と問われたら絶対にそんなことはないんですよね。いやー、僕は何でこんな大事なことに気付かなかったのかなあ。説明ってとても大事ですね。僕は身を持って体感しているところです」
 久美さんが黙っているので僕は述べつ幕《まく》なく語りかける。
「だから久美さん、説明をおねがいします」
 僕はぺこりと頭を下げた。
「……私はウィズさんと完全に一致しているわけじゃないし、ウィズさんから完全に操作されてるわけでもないよ」
 頭を下げている間、ようやく久美の声がした。
「……それに、由人は私のことを人間だってあれほどカッコよく宣言してくれたのに、まるで私が人権を排した奴隷であるかのような発言にはかなり傷ついたんだけど」
「本当に申し訳ありませんでした」
 更に深く頭を下げる僕。もう白いテーブルの表面しか見えない。
 謝ってばっかりだ。一度久美を慰めたからといって完全に調子に乗りすぎてしまっていた。
 というか、僕が現実に目を向けないせいで完全に話が停滞している。このままだと有耶無耶のまま地球から移転されてしまうのが見えている。
 そして更に付け加えれば現実の世界、とか物質移転装置、とか完全に忘れ始めてきた。何だろう。数時間前の出来事なのに。
「ごめんなさい。僕が話を進めていいでしょうか? というか、まず話を整理していいでしょうか?」
「うん。復習だね」
「まず一つ。僕がこの世界、自分以外、全員ロボットだと知ってしまったから、明日の午前零時に僕が月に移転されることになった」
「そこだね。そこ小さな勘違い」 
「えっ」
 今の僕の認識、間違ってたの?
「教授言ってなかった? 『公式に』って。つまり非公式にはまだ人間は存在してるんだよ。まあ、ここでの非公式って言うのはドームの外のことで、すなわちドームの外にはまだ一部の人間は暮らしてるわけだよ」
「えっ、じゃあ僕、最後の人間じゃないじゃん」
「厳密に言えば」
「え、でも教授は滅茶苦茶強調してなかったか? 僕が地球の最後の人間だって」
「だから、ドームの中でウィズさんが管理できているのは、あなた、白石由人一人だって、そういう意味。それにあの教授かなり変な人だから。たとえそれが真実であっても、変な人が口走れば変なところが強調されてしまうものだから。『何を言うかより、誰が言うかの方が大切だ』って格言、言いえて妙だとつくづく感じるね。あ、でも、教授が言ったことは全て本当だからね。私が分かりやすくまとめてあげるつもり」
 久美が話し終わり、「では」と僕がまとめを続けた。
「二つ目……ってかあれ? 二つ目って何だ?」
「それもまたそこなんだよ。由人君」
 久美が僕に向かって人差し指を向けるポーズをする。まるでドラマで名探偵が助手にする『君、鋭いね』と表現するポーズのように。
「吉良教授がちゃんと説明する前に、由人が吉良教授に触れてしまうことがウィズさんにとって完全に計算外だったんだよ。本当は今二〇八〇年が誰がどのようにして創り上げたかを吉良教授がちゃんと説明して、それでももし由人がその話を信じないならば、実際に吉良教授の身体に触れて、『物質移転装置』を発動させて、由人に確信させる手筈だったのに。由人がその前に急にぶちぎれちゃった」
「……あらま」
 僕は悪いことをしたみたいだ。いや、でも『君は世界に不都合だ。だから死ね』みたいい言われたらそりゃあ誰でもキレると思うけどなあ。
 僕はウィズからしたら予想外の短気だったらしい。
「久美、かっこよく質問していいか?」
「どうぞ」
「教えてくれよ──、世界の成り立ちとやらを」
「前振りの割には普通の言葉だったね。拍子抜けしちゃった」
 久美は目を丸くしながら言う。ちょっと恥ずかしい。
「……取りあえず教えて」
「わかった。じゃあ『物質移転装置の成り立ち』からね。でも、そのまえに……」
 久美は続ける。
「ご飯全部食べちゃうね。もうだいぶ冷えちゃってるけど」


 027

「じゃあ『物質移転装置』の説明をするね」
 久美は残っていた《昼定》を五分ほどで全て平らげ、先程の話の続きを始めた。
「『物質移転装置』の仕組みは簡単。双子電子をばらまくだけ!」
 久美が『分かった?』みたいに首を傾げてこちらを見てくる。
 なるほど。全く分からん。
 久美は難しい話を何でもかんでもキャッチコピーのように言葉を究極的にスリムにする話し方をするから、吉良博士以上に科学的な話の媒介者としては向いてないぞ。
 なんだかなあ。ウィズさん、人を選ぼうよ。吉良博士といい久美といい人材採用が全く適当ではないような気がする。
 まあ、それは置いといて。
「ちゃんと聞くから。ちゃんと椿の話を全部聞くから、全てありとあらゆることを話してくれ」 
「長くなるよ。ウィズさんの予想では二千文字くらいになっちゃうよ」
「いいよ。ちゃんと適当なところで相槌を打っていくから」
「わかった。じゃあ話を始めます」
 そう言って久美は本格的な説明を始めた。
 僕は相槌しかできないだろうな。飛ばせるなら飛ばしたい、難しい話になりそうだ。
「まず加速器で双子《ふたご》電子を造るのです」
「その双子電子ってのは何だ?」
「双子電子は同じ原子から取り出された、全く同じ性質を持つ電子のことです。電子は『スピン』、つまりは回転などの性質を持っているのですが、その二つの電子は回転の方向などが全く同じ電子なのです」
「二つで一つってやつか」
「かっこいいこと言いますね。まあ話が逸れそうなので戻しますが、その二つの電子はどんなに距離を取っても全く同じ動きをする。つまりは光速を超えちゃうわけです」
「光速では一年かかる距離でも、双子電子の情報が伝わる速度は一瞬ってことか」
「明確な具体例をありがとうございます。そして次の段階です。その双子電子の片方──これを仮にAとしましょう。双子電子をまずは人工的に加速器で大量に創り上げた後、その片方の双子電子Aを一か所の巨大メモリーに保存するのです。そのメモリーはプログラムにもなるのです。二進法のそれは単純なプログラム──存在すれば一、不在であれば零の単純な情報で表されたプログラム。そして、そのプログラムで造られたコンピュータがウィズです。……ウィズさんなのです」
「なるほど。でもそれだけじゃあただのプログラムだろ? 現実には何の影響ももたらさないないはずだ」
「そうなんです。それに人間が加速器で造ることのできる双子電子の数なんてたがが知れてますからね。だから人間は莫大《ばくだい》なるエネルギーを発し続けるあれを使ったんです」
 昼過ぎ食堂の小さな窓を久美は指差した。
「なるほど。太陽か」
「そうです。我々が手にする最も膨大なエネルギー、太陽を使ったのです。双子電子のもう片方の電子をBとしましょうか。ここでのBは集団です。その原子の中にある全ての電子は全てBの性質を持っています。そのBを含めた原子を太陽に向けて発射。太陽に到着したその電子Bを所有する原子は、太陽の熱で自然と核分裂を起こし、次々とほかのプラズマ状態の原子核と結びついていきます。これで次々と新たな原子をウィズさんの中のデータと結び付けていった」
「とっても難しいな」
「はい。ですがこれだけではまだまだ足りない」
「だよな。それだけだと何となく効率悪そう」
「そこで、これは本当に時代の皮肉としか言いようがないのですが、人類は偶然にも発見してしまったものがあった──暗黒物質です。いや、正確に言えば暗黒物質の正体です」
「暗黒物質はあれだな、よく分かっていないと言われている宇宙の物質のことだな」
「今の時代でもそうなっているのですけどね。まあ、その話は置いといて。その暗黒物質の正体が──不安定なただの電子の雲だった」
「つまりは?」
「そう、そこにあったのはいわゆる、双子電子Aの集合だったわけです。宇宙全体のバリオン、つまりは観測可能な物質はわずか四パーセント、暗黒物質の割合は二三パーセント。実に人類が双子電子の応用と暗黒物質の正体を突き止めたことはまさに世界を手に入れたのと同じことだったのです」
「それで、具体的には?」
「双子電子の入った原子は太陽から次々と発射されています。つまりは光速で宇宙空間を飛び回っている。まずは人間は光速で宇宙全体まで行くことができるようになった。そして暗黒物質を手に入れ太陽と同じような恒星に暗黒物質を次々に入れ込んだ。一度ウィズに原子を登録すれば後は物質の座標も存在の有無も、全てが操作可能になる」
「それでもまだ全宇宙は支配できないだろう? 人間にとっては爆発的かもしれないけれど宇宙にとってはまだまだちっぽけな気がするんだけど」
「そうです。今までの説明では所詮光速までしか手に入れていない。しかし、人類は極めつけの地点にまで到達した」
「それは?」
「暗黒エネルギーの正体です」
「暗黒物質と暗黒エネルギーはどう違うの?」
「暗黒物質はその名の通り物質です。暗黒エネルギーは簡単に言えばよくわからないもの。
 先程言ったように、全宇宙の四パーセントはバリオン、二三パーセントは暗黒物質、そして残りの七三パーセントが暗黒エネルギー。その七三パーセントの暗黒エネルギーの正体が《《不定形》》だった。これはもちろんウィズのプログラムに則っての言い方ですが、そこにあると命ずればそこにあるし、そこにないと命ずればそこにない、不定形だったのです。暗黒エネルギーを発見し観測し到達した人類は、まさしく全宇宙の存在の理を手に入れたのです」
 そこで久美はちょっと間を置いて続けた。
「まあ、でも、二〇八〇年段階でもまだ全宇宙を手に入れる作業の途中なんだけどね。それでも、ウィズさんが操作可能な物質は私たちにとっては世界の全てって言っても何の差し支えないよね」
 僕は何も相槌を入れない。久美の口調が変わったということはもうすぐ説明のフィナーレだろう。
「そして、ウィズさんが人間にとっての全てを手に入れたと人間が判断した時に『物質移転装置』は実用化されたのです」


 028

 話が一応、一段落したところで、僕は腕時計を見る。午後一時四十五分位ぐらい。
「なあ久美、話ってまだまだあるよな」
 僕はお茶を啜っている久美に訊いてみる。
「うん……、まあまだまだあるね。物理の次は歴史だね。でもこっちの歴史の方は吉良教授がだいたいは喋ってくれてるとは思うけどね」
 それはそうだ。あの教授は物理学専攻の教授だったのに、実際に物理の話は全くしてこなかったような。
 多分自分が物理学の最先端を行く人間だから、あえて物理の話は避けたんじゃなかろうか、と勝手に推測してしまう。馬に念仏、みたいな気持ちで。
「教授から歴史は結構聞いたぞ。なんかハス共和国がどうたらこうたら……とか」
「……あー、そこか。いや、私が言ってる歴史は世界の歴史ではなくて、由人個人の歴史なんだよね。忘れちゃった由人の歴史」
 僕は心が疼《うず》いた。少し怖い気分にさせられた。
 僕は久美に心持ちを告げる。
「正直言うとあんまり思い出したくないんだけど」
「でもこれは知らなきゃいけないよ。知らないから余計に知りたくなくなるんだよ。というか」
 久美は『というか』と言ったと同時に、軽く両肘を曲げ、両手の人差し指だけ立てて、二本の指を並行させて僕の方をびっと指した。
 なんだそのポーズ。まあいいけど。
「由人、教授の話の最中《さいちゅう》寝てたでしょ?」
 え? どういうことだ?
「いや? 寝てないよ」
「寝てたよ。教授が由人の本当の昔話を話し始めた時、由人、目を開けたまま寝てたもん。教授から送られてくる映像、感覚から分析されるされる、由人の心拍数、体温、瞳孔の散大縮小、眼球の運動、呼吸、頭の俯き加減、等々を判断に入れたら、由人はあのとき、人の話を聞いていない人間の典型的な状態に当てはまるんだけど。というか、意識失った人と大して変わらない状態だったんだけど」
「あらまあ」
 あらまあとしか言えない。
 いや、でも教授が僕について語り始めた時、その話はもう自分で知っているって思って聞き流してただけなんだけどな。
 いつのまにか目を開けたまま意識失ってたか僕。
「ゆーとくんはボーっとすることが多いもんね」
 そう言ってくすくす笑う久美。
「今回はもう変な想起をしないから、ちゃんと話してよ。僕の歴史と世界のことを」
 久美は、ん? と小首を傾げた。
「変な想起? 何か想像してたの?」
「ああ、いや、いいよそれは。ほっといて。いいよ。始めて。歴史語りを始めて」
 僕は久美に説明を促した。
 僕はもう促すことをする気にはなれなかった。黙って聞くことにした。
 久美が区切るごとに、僕の頭の中も整理していった。
「まずは、私の自己紹介から──
「私の名前は椿久美です。八年前、白石由人くんの父白石遼博士によって、あなたの前にもたらされました。
「八年前の世界も平和でした。『物質移転装置』などの科学力により人類は繁栄の絶頂を極めていました。
「しかし、突発的に戦争が起こってしまいました。
「戦争は拡がるどころではありませんでした。繁栄しすぎた科学の前では、国境など無いにも等しいものでした。
「ボタン一つでいくつもの国の人間が丸ごと消えました。
「移転ではなく、《《無かったこと》》になりました。
「それでも光を浴びずに残っている人もいました。しかし、彼らにはもう科学をもう一度極める余裕など全くありませんでした。
「基盤があってこそ、人間は発展していけるのだとつくづく感じさせられました。
「人間から道具を奪えばただの動物に過ぎないとも感じました。
「それというのも、生き残った人々は原始的な生活に戻りながらも、未だに争いを続けていたのです。
「地球環境維持装置、物質移転装置などが機能しなくなっても、人は人を殺し合っていました。
「簡素な火薬を使って爆撃をしたり、船で航行している人間を襲ったり、自宅にあった拳銃で人を襲ったり。
「それはひどいひどい不安の渦巻く世界でした。
「人口はさらに減りました。人々はそれでもずっと逃げ惑っていました。
「特に無力で無知な子供、体力の乏しい老人などは一人で自然の中に逃げ込んでいました。
「ここで人間の話は置いておいて、ウィズ。──ウィズさんの話に入ります。
「ウィズさんには戦争の被害など全くありませんでした。当たり前ですよね。物質の存在を司《つかさど》るのがウィズの役割なんですから。『ウィズを消す』とウィズ自身に命令したらこの世界がどうなるかなんて全く想像もできませんからね。
「もしかしたら世界が無に戻るかもしれませんね。
「──話が逸れました。とりあえずウィズさんは地球から人間が次々と消えていくのを見ていました。
「プログラムに感情はない、とは言えません。とても複雑な論理演算を組み合わせた果てが感情だとしたら、ウィズさんにも感情があることになります。なのでそうですね、ここではウィズさんは感情を押さえることができると表現しましょう。
「ウィズさんは感情を抑えることができるので、人間が地球から消えていくことは仕方のないことだと思っていました。
「人間自身がやったことですからね。フィフティーフィフティーです。
「ところがです。大体の銀河の物質をプログラムに入れ終わっていたウィズさんは恐ろしい危惧《きぐ》を抱き始めました。
「それはですね、この世界、この宇宙には人間以外に知的な生命体が数多く存在している、ということでした。
「人間は科学、いや、その根本の数字であったり論理であったりを駆使して、宇宙の物質を演算化することに成功したのですが、この宇宙にはそのような数字や論理を使わずに活動している生命体が数多くいることが分かりました。
「具体的に言えばキリがない。そしてウィズさんは予想を立てました。
「いまこの地球が衰退に向かっていると彼らに知られたら、もうそれは本当に人類の完全な終わりになるのではないか。
「ウィズさんは考えました。考えてこう結論づけました。
「つまり、今この地球は相変わらず《《人間が絶頂を極めている振り》》をしなければいけないのではないか。
「すぐにウィズさんは行動を開始しました。まずは生き残った人間たちを集めました。彼らはウィズを警戒しているため、物質移転装置などは使わず普通に呼び集めました。
「そしてこう告げました『私にはあなたたち人間を守る義務がある』と。
「ウィズさんは続けます『宇宙には途方もない数の危惧する対象がいくつもある。今この地球の状態を観測されたら、例えば地球外生命体などが襲ってくる危険がある』。
「これには集まった人々も十分に納得しました。彼らだってウィズさんから与えられていた情報はいくつも知っていましたから。
「ウィズさんはこう提言します。『なので私はもう一度地球を復興しようと思う。もう一度人類の文明を創ろうと思います。しかし、肝心の人間が少ない。そこでかつていた人間に似せたアンドロイドを大量に造り、人間がそこで生活しているかのような世界を創ります。見せかけだけの世界ですが、こうしない限り地球外生命体が襲ってきても不思議ではない。そして、それはまるで完全に人間の文明であるかのように見せるために──』
「次の言葉は正直、当時の私でも衝撃的でした。
「『──あなたたち人間の記憶を完全に削除させてもらいます』
「このとき、多くの人間が反対しました。記憶を失えばもはや自分ではない、民族間の記憶や家族間の絆まで全て無くしてしまうことになります。
「なので、彼らは月に移住することに決めました。
「月で、もう争われることがないように部落ごとにコロニーに分けて移住することになりました。
「そうして地球上には人間が次々といなくなりました。人間がいなくなると同時に、ウィズさんが創り上げたアンドロイドが地球上にたくさん出てきました。
「事情を知っていなければ、人間が存在していた頃と変わらない、別段自然な増加率で、着実にアンドロイドを増やしていきました。ここら辺の計算の仕方はさすがはウィズさんです。
「都市建設の復興も、物質移転装置は使わずにアンドロイドの手で行われました。ウィズさんが掲げた目標が “二〇二〇年時代の文明を創ろう” でした。その頃が自然と調和のとれた、科学力の発展も程よい、適度な時代だと判断したからです。
「もちろん、二〇二〇年ということにはしませんでした。二〇三〇年頃に行きすぎを迎えた科学力に人類自身が気づき、そこで少しノスタルジーの方向へと向かったということにしました。そういう設定にしたんです。ウィズさんは。
「二〇二〇年はまだ暗黒物質の実用化には至っていません。アニメーション等も国民の間での人気も絶頂に近いです。吉良教授が某アニメの道具を使って物質移転装置の例えを行っていましたよね?
「そのように学術的にも、文化的にも二〇二〇年の設定でウィズさんは世界を構築していきました。
「長かったですね。ではようやく由人くんの話に戻ります。
「由人くんは、私、すなわち椿久美と出会った後、二人で協力してなんとか生きていました。
「先程話したように、ある一時期を境に地球上にたくさんのアンドロイドが現れたのですが、私はそれ以前から存在していたアンドロイドのタイプでした。
「というより、ウィズさんが私、椿久美を含む、人間が造ったアンドロイドを真似して新式を創ったのですが。
「旧式と新式の大きな違いは、年を取って成長するか否かです。新式は人間であるかのように見せるために、まるで年を取っているかのように見た目上身体に変化を与えられています。
「話が逸《そ》れました。話を戻すと、由人と私とで二人で暮らしているところに新式のアンドロイドが現れました。
「そして先程の計画を私たちに伝えてくれました。
「そこで由人は地球に住み続けることを選びました。
「そして由人は記憶を失くしました。
「私、椿久美は残念ながら年を取らないのであまり新文明には適していませんでした。
「ですが、私は白石由人の所有物。ウィズさんは人間の幸せを願う人工知能なので、私を破壊したり消したりすることはできません。
「私は白石由人を特別視することなく、記憶を失った由人が高校を卒業したら、それは自然と由人の前から姿を消すつもりでいました。
「私は見た目が高校生で造られたアンドロイドなので。本当に、自然に、白石由人の目の前から姿を消す予定でした。
「本当にそういう予定だったんです。
「予定だったのに。
「全てを忘れてしまったあなたは私を選んだ。
「私は戸惑《とまど》いました。記憶が消えているはずなのに、なぜ私だけ特別視してきたのか。
「その時ようやく思い至りました。ああ、なるほど、記憶は完全には消えていないな、と。
「あなたは記憶力──、これは記憶が消される云々の記憶力の話ではなくて、日常的な短期周期での記憶力、という意味での記憶力ですが──、あなたの記憶力は相当に悪いので、あまり覚えていないのかもしれませんが、あなたが私に自身が見た夢の話を持ちかけてきたことは頻繁《ひんぱん》にありました。日常会話の中で、やんわりとですが。
「『俺に遅刻癖があるのは、変な夢ばっかり見るからだ!』みたいな感じで周囲の人間に訴《うった》えてはいたのですが、それもあなたの話し方が悪いのか、いつのまにか他愛のない笑い話に変えられていましたね。
「ですが、恐らく、あなたがよく見る夢──。それは記憶を失う前の現実の記憶を断片的に思い出していたのでしょう。遅刻してしまうほどの金縛《かなしば》りに近い夢を見ていたのは、それはまさに悪夢のような現実を実際に体験していたからでしょう。
「おや、その渋い顔は、もうそんなことは分かってるって顔してますね。昨夜の、あなたが話してくれた、悪夢の内容の相談に的確《てきかく》にこたえるならば、あなたはその夢の内容を、数年前に実際に体験していました。山の中、突然に起こる無差別爆撃。手製の船で漁をしている際に、突如として起こった暴風雨。人を見つけ、協力しようとしていた矢先に起きた、裏切りと磔。そのたびに私はあなたを救い出しました。いや、この言い方はちょっと語弊がありますね。
「あなたに危機が訪れるたびに、私はあなたに手を貸した。そして都度《つど》その都度何とか自分の力で乗り越えていきました。私はずっと、見てました。あなたの姿を。
「そうして、話は戻りますが、ここから先は吉良教授が言ったように、あなたは私にキスをしてしまいました。
「記憶を失う前にずっと身近にいた私に、無意識に好意を抱いていたのかもしれませんね。
「はっきり言ってあなた、白石由人が私ではなく他の誰かを好きになってキスをして、更にその先に向かおうとしてしまうのは、思春期である白石由人の年齢を考慮して、いずれ訪れてしまう未来であると予測は付いていたのですが。しかし、白石由人が実際に交《まじ》わろうとする行動をして初めて、ウィズさんは白石由人を月へと転移することができるのです。転移できる理由が生じるのです。
「だって、あなたが私たちがアンドロイドと気付き、何かしらの行動をとってしまったら、この見せかけだけの世界に綻《ほころ》びが生じてしまいますから。
「地球外生命体から、地球を、そして何よりわずかに残った人類を守るためには、また白石由人の記憶を消してしまわねばいけない。したがってあなたは月へと転移されることになったのです。
「ウィズさんにとってもヒトの記憶の神秘性は予想外でした。計算などできませんでした。一度、白石由人を破壊し、もう一度白石由人として物質を構築していく際に、白石由人が持っていた記憶と関連のある物質を取り除き、その上新しい、例えばあなたの偽の父親、母親の記憶をあなたの脳に構築したとしても、あなたの本当の記憶を完全に消すことはできないと、実際に由人の行動を見て理解した。
「そしてそれは、私、椿久美のように、記憶を消す以前の現実を誘発させる存在が問題なのではないか。ということで、もうあなたを完全に、私椿久美から、そして地球から切り離し、月で新たな生活を送ってもらうことに決めたのです。
「もちろん。ここでの月、というのはかつての悲惨な現実を覚えてる人々が暮らしているコロニーのことではありません。ウィズさんが用意したアンドロイド達によるやっぱり『振り』をしているコロニーに送らせてもらいます。
「もちろん、これだとまた生殖ができずに本末転倒な結果を招きかねないので、ほかのコロニーやドームの外の地球から、文明の破壊を望む人々──すなわち、もう記憶を消さざるを得ないとウィズから判断された人々を時期を見て転送していく予定です。
「今は、まだ、あなたが転送される先のコロニーではアンドロイドしかいませんが、大丈夫です。あなたの生活に不安が生じることは絶対にありません。
「つまり、今あなたの心理状態は不安でいっぱいかもしれませんが、これは言ってしまえばあなたの人生を保証する、より良い世界への旅立ちだと思ってください。
「では。では」 
 そう言うと久美は、自分の顔の前でパンっと手を鳴らし、
「以上で説明を終わります」
 と告げた。


 029

 大学生の雑談と喧騒とに揉まれながら、久美の説明は終わった。終わったけど、気になっている他愛もないことを訊いてみた。
「その説明、吉良教授に全部させるつもりだったのか?」
「いや、せめて歴史の部分だけだね。それもだいぶ省略して、これは月への移転であって決して由人が死ぬわけじゃないですよーってところを一番に強調して伝えるつもりだったらしいよ」
「その前に僕が憤ってしまったと」
「そうそう、予想外予想外。それまで従順に教授の話を聞いていた由人がいきなり黙って、黙ったかと思ったら怒り始めるんだもん、まさか教授に触ろうとするなんてウィズさんすら予想外だったみたいだね」
「いや、でも怒るくねえか。突然にお前は世界に不都合だみたいに言われたら」
「普通最後まで信じないよ。それに吉良教授自身もちゃんと安全策取ってたんだけどな。ほら、言ってなかった? 『質問禁止』って」
「ああ、言ってたな。でも僕が口を挟んだとき教授は普通に答えてくれた気がするんだけどな」
「怒る前の精神不安定状態の質疑応答のあれだね。まあ、吉良教授も所詮はロボットなわけで、人間が質問してくることには逐一答える義務があるし……」
「……」
「……って言ったら怒るかな」
「……」
 僕はふーっと息を吐いた。なんというか、吉良教授は結局のところ人間として生きているのかロボットとして生きているのかが全く見えてこない。
 というか、多分一生分かることはないのではないか? だって僕は人間だし。人間が動物や植物の気持ちがリアルに分かってしまったら、もうそれはそれで食物連鎖の頂点に君臨し続けることはできないのでは。
 取りあえず。取りあえずはもう。
「家帰ろうか。そういえばさあ、久美はまだ僕の家《うち》に上がったこと無かったよね」
「んー? 内部の構造なら全部知ってるけど」
「あー……、いや、そういうことじゃなくて」
 僕はちょっと困った。全てを知ってしまったがために逆に生き辛くなってる。
「いや、久美。もう普通に戻ろう。これはさっきの僕の逃げみたいなのではなくて」
 逆に。逆にというか、逆説的にというか。結局はもう、最後なんだし。
「僕は結局最後なんだしさ、そのウィズ、とか物質移転、とかそういうのはもう、あんまり、言わないようにしようぜ。あ、いや、これは逃げ、とかじゃなくて、なんというか、別に辛いとかそういうわけじゃあないんだけど」
「普通に過ごそうってこと?」
「うん、そう。そっちの方が絶対幸せだろうし。なんか普通に幸せに月に行けそうだし」
 最後のお別れパーティは普通にやるから楽しいしやる意味もあって。
 お別れパーティに別れる理由なんて付け加えて誰が幸せになるんだろうか。
「だから、普通に、ウィズとか物質移転装置を知る前の、あ、これは本当に逃げとかじゃなくて……」
「物質移転なんて知るもんかー!」
 久美が突然右手に拳を握り、天に突き上げた。そうだよ。それでいいんだよ。
「ウィズさんなんて知るもんかー!」
 僕も右手を天に突き上げた。
「戦争なんて知るもんか―」
 久美が左拳も突き上げた。
「みんなロボットなんて知るもんかー」
 僕も左拳を突き上げた。
「せえーの!」僕は声を上げた。
「「げんこつ! げんこつ! げんげんこつこつ! げんこつ! げんこつ! げんげんこつこつ! おっ!、おっ!、おーっ!」」
 多分周りの大学生が、「なんだこの高校生は?」と怪訝な目で見ているのかもしれないけど。取りあえずはスルー。
 げんこつ──それは私立熊本高校の伝統であり儀式であり、なによりも自由の魂の象徴である。熊本高校の入学式や卒業式などの式典、文化祭や予餞会などのイベントでは必ず行われる伝統行事。閉会の辞のときに「それでは式を終わりま……」のタイミングでげんこつ隊長と呼ばれる人が「ちょっと待ったー!」と叫び、ステージへと駆け上がり全校生徒全員にげんこつ体操を促す。
 げんこつ体操とは、始めの「げん」で拳を天に突き上げる。「こつ」で肘を曲げる。「げんこつげんこつげんげんこつこつ」のフレーズに合わせて伸ばして曲げてを繰り返す。「げんげん」も伸ばして曲げて、「こつこつ」も伸ばして曲げる。言葉に関係なく、リズムに合わせて伸ばして曲げてを繰り返す。「げんこつげんこつげんげんこつこつ」「げんこつげんこつげんげんこつこつ」と二回繰り返したら「おっ! おっ! おーっ!」で三回拳を突き上げる。そして、げんこつ隊長の「そーれ!」の掛け声で、その作業を繰り返す。何回繰り返すかは隊長の気分による。みんなが疲れてきたら「まだまだーっ! そーれ!」と生徒を鼓舞する。数分間延々と続く。
 熊本高校がよく変な高校などと言われる所以はこういうところにあると思う。
 でもげんこつは楽しい。ただただ楽しい。
 どんなにお堅い式でも、最後にげんこつをするだけでみんなが笑顔になる。驚異的な謎の中毒性がある。
 そして、げんこつをするということは自分が熊本高校生であるというアイデンティティの表れでもある。
 故にどこであろうとも、かつて熊本高校に通っていたものならば、だれどもげんこつに参加してくる。
 例え、そこが大学の食堂だったとしても。
「まだまだーっ! そーれっ!」
 もはや音頭を取っているのは僕でも久美でもなかった。元げんこつ隊長らしき大学生が僕らの机の横で大声を張り上げている。
 ちなみに、げんこつ上級者は音頭に合わせて膝も曲げる。その元げんこつ隊長らしき人は膝を曲げ身体をブレブレに揺らしながらげんこつを踊っている。
「「「「げんこつ! げんこつ! げんげんこつこつ! げんこつ! げんこつ! げんげんこつこつ! おっ! おっ! おーっ!」」」」
 FORICOの中に響き渡る、大合唱。
 ただ悪ノリで何となく始めただけなのに、いつのまにか熱気の渦中の真ん中に僕と久美がいることになった。


 030

 僕はナップサックとスポーツトートを肩に掛け、久美はミニトートを身体の前に持ち、旧豊川通り沿いのバス停でバスを待っている。
「というか、本当に由人は家に帰るの? てっきり通町《とおりちょう》辺りで、遊ぶんだと思ってた」
「まあ確かに、全身音ゲーとかしたいけどね。最後にやることか? って訊かれたら必ずしもそうではないと思う」
 というか月にも音ゲーは在りそうだし。音ゲーは全世界共通語だし。多分。
 話が逸れそう。
「いや、まあ一番の要因は結構疲れたってことなんだけどね。それに、久美も来てくれるでしょ? ほらさっきの話では記憶失う前から久美は僕に付いてきてくれていたわけだし」
「いや、別に私そこまでべったり付いていく必要もないんだけどね」
「え、あ、そうなの?」
「いや、だってそうじゃない。たまたま白石遼さんが私を発注しただけであって、そんな特別で『運命じみた』話ではないんだし」
「あ、まあ、そうですね」
「どうしてもって言うんなら、私が由人の家まで付いて行ってあげてもいいんだけど」
 主導権は完全に椿久美。
 こういうときの人の動かし方は主に三つある。
 一つ、暴力的に誘ってみる。
「久美、お前は僕の家に来なければいけないんだよ。その選択肢以外俺は許さねえ」
「ごめん、その由人の発言でもう私完全に行く気なくなったよ。水前寺駅前まで私バス降りないから」
 駄目だった。むしろ完全に逆効果だった。
 二つ、悲観的に誘ってみる。
「ごめんなさい……、ごめんなさい……、椿さんがそんな押しを交わすとは思っていなかったのです、椿さん、ああ椿さん、椿さんが僕の誘いを断るのならば、今この眼の前の車道に飛び込んで命を絶ちます。もう死にます。あなたに断られたのならもう僕に生きる価値はありません。死にます……死にます……」
 僕は今にも車道に飛び出しそうな姿勢になりながらチラッチラッと久美の様子を窺《うかが》う僕。
 久美さんはとてもウザそうな顔をしていた。まるでウザく飛び回る蠅を見るかのような目線だった。
 そして。
「えい」と。
 僕を車道に突き落とした。
 右五メートルほどには車体の陰。
 残念ながら想定より九時間ほど早く僕のこの人生が終わるみたいだった。
 あああああああああああああああああああおおおおおおおおおおおあああああああ。
 と。
 車道を一周して着地した。
 僕は肩に掛けていたスポーツトート経由でバス停へと戻された。
 どうやら、久美は僕を突き飛ばした際に一応はスポーツトートの裾を握っていたらしかった。
「死ぬとこだったじゃないか!」
「あらやだ。男の宣言を曲げてごめんなさい」
 男に二言はねえ! それが俺の忍道だ!
「生きたいなら生きたいとちゃんと言いなさいよ」
「生きたい!」
 そうじゃなくて。
 どちかといえば久美さんに「由人の家に行きたい!」と言わせたいのであって。
 三つ目の作戦を実行。
「ごめんなさい。今までの僕の態度が悪かったです。調子乗ってました。どうか僕の家に来て遊んでくれませんか」
 三つ目、普通にいつも通り平謝りで、ぺこぺこと。
 いや、普通が平謝りってそれ普通じゃないとは思うんだけど。
「遊んでくれませんか。僕の家でゲームでもして、のんびりと過ごしませんか」
「うん。いいよ。あ、来たねバス」
 あっさり僕の誘いを承諾した久美。やっぱり、ありのままの自分が一番だね!
 ちょうど三つ、僕が誘いの手札の全てを晒し終えたところに環状線左回りバスが僕らの待つバス停へと向かってきた。


 031

「あ!」
 それを思い出したのはバスの中、ふかふかの座席に座ったときだった。
 正確に言うならば、座席に座りスラックスのポケットの中で僕の太腿に鍵が触れた時だった。
「なあ、久美。何で久美は僕に鍵の話はしなかったんだ?」僕は、バスの中で最後尾の右隅をそそくさと陣取り(久美曰《いわ》く「揺れが怖いから」だそうだ)、手すりにがっちりと掴まっている久美に訊いてみた。
「ん? 鍵の話? 何それ?」
「あ、今は別に、ウィズさん知らないモードじゃなくてもいいから」
「ん? いやいやいやいや。久美さんウィズさん知ってるモードでも鍵の話なんて知らないですよ」右の掌を自分の鼻の前でブンブンと振る久美。
「え、そうなのか。いや、これなんだけどさ」
 そうして僕はポケットから吉良教授のデスクワゴンから持ち出した鍵を取って、久美に見せた。
「貸して、見せて」
「食べたり無くしたりするなよ」
「しないしない。人間のあなたに誓って鍵を奪ったりはしませんよ」
「おーけ。はい、どうぞ」
 僕は久美の右手に鍵を渡した。
「んんんーっ」鍵を目の前につまみ、じーっと観察する久美。
「私にはわかりません。それどころかこの鍵が一致する鍵穴すら検索できません」
「突然ウィズモードになったな。え、どういうことそれ」
「この鍵は鉄くずと同然ということです」
 久美は鍵をつまんだまま自分の顔の前で両手をパンっと鳴らし、「ということで」と言うと久美は、両手でバスの窓を開けて、その鍵をぽいっと捨てようとして──僕はもちろん止めた。久美の左肘をがしっと掴み、強制的に止めた。鍵はぽとっと久美の膝の上に落ちた。
「いやいやいや即行で約束破ろうとするなよ」
「食べるでもなく無くすでもなく、無意味だから捨てようとしただけだけど」
「それは強制的に無くすのと同じだろ。久美?」
「それにこの鍵の物質」久美は鍵をまた摘まみながら分析をするかのように目を細めながら言う。「とても新しい物質で出来てる。とても奇妙。最早気持ち悪い。どういう流れでここにあるのか全く分からないんだけど」
「新しいのか? どういうことだ? それ吉良教授のサイドワゴンから見つけたんだけど」
「あ!」口を開いて、久美はまた鍵を摘まんだままパンっと手を打った。僕はすぐに久美の左肘をしっかりと押さえる。
「ああ、いやいや、今度はもう捨てないから、ロックロック、ロック外して、私の肘に絡みつかないで」
「あ、はい。すいません」僕は素直に久美の肘から離れた。
「うん。まあ取りあえず鍵は返すよ。そしてそんなことより」久美は僕に鍵を渡し、訊いてきた。
「吉良教授が移転された後何してたの? 私、教授が移転されたと分かった時、扉に向かったんだけど、由人、三十分位経ってから部屋から出てきたよね? もしかしてその時なの? この鍵を見つけたの?」
「いや、待てよ。何でウィズさん知らないんだよ。ウィズさん何でも知ってる、神様みたいなもんじゃないのかよ」
「それは、教授が移転されてたから」
「ああ、なるほどな」
 と。
 僕は一瞬納得しかけた。けど。
 いや、それは違うだろ。
「いやいやいや、違う違う。それは違うだろ。ウィズさん物質全てを司ってるのならば、別に吉良教授が作動しなくなったって部屋の様子は手に取るように分かってたはずだろう?」
「だーかーらー」
 久美は物分かりが悪い弟に教えるかのように説明した。
「吉良教授の胸は移転されてる最中で、不定形になってたんだって。不定形だったら観測されないの当たり前でしょう? 不定形がそこにあったら、不定形の周囲も観測されにくくなるのは当たり前でしょう? 不定形は波に近い性質があるんだから」
「そんな説明あったっけ?」
「あったよ! 無かったかも知れないけれど基礎事項は教えたんだからそれを組み合わせれば充分に教えたことになるはずだよ!」
 なるほど。つまり僕はあの吉良教授の胸の風穴について勘違いしてたんだな。
 あの穴の向こうは、どこかの夜につながっているわけじゃない。そのまんま無そのもの。
 いや、またこれも違う。無は無だ。有無すら「無い」の無だ。つまり規定されない、「不定形」としか言いようがないのか。
 そういえば。
 吉良教授の風穴に触れた時、あのときリラックスチェアの感触あったもんな。
 もしもあれが、吉良教授が例えたように、そして僕が考えたように、どこでもドアみたいにどこかの空間に繋がっているのなら、あのリラックスチェアに触れるはずがないもんな。
 そして、また、あのとき、吉良教授の胸の表面を触ったのにリラックスチェアに触れた感触があったのは、まさしく、吉良教授の胸が、不定形だったから。
 そこにあるのかないのか分からない状態だったから。
 そこにないとわかれば、代わりに何かをある状態にするだろう。ないところにあるものが流れてきて同時的にあるものがある状態にするだろう。
 それが自然の流れだから。
 だが、分からないから、空間も省略されたのか。
 そこの座標に入るものが分からないから。
 あと一つ分かったことがある。
 吉良教授は、多分僕を馬鹿だと見越して、物質移転装置を人間の主観から見て、どこでもドアと例えたんだろうな。
 あの教授、僕に全然期待してなかったな。
 なんか馬鹿にされた気分だ。
 もう会うことはないはずなのに腹立ってきた。
「あー」
「どうしたのいきなり?」
「いや、教授のどこでもドアの例えに腹立ってきて。あれ人間主体の考えじゃないか」
「あー、なるほど。私が言った不定形の説明ちゃんと理解したんだね。でもそんなに教授を責めないでよ」
 久美は教授擁護派だった。
「元々由人にそんな詳しく教える計画なかったんだって。吉良教授はある程度の移転までの理由と経緯を説明した後、由人に説明を信じさせるために教授自身が身を持って物質移転を実演するだけのつもりだったんだって」
「そこで僕が予想外に怒ってしまったんだっけな」
「そう。吉良教授は直接式の物質移転装置を以って、教授の指先辺りを由人に触れさせて、由人をちょっとびっくりさせるくらいのつもりしかなかったのに」
 すごいな。僕すごく悪いことをしてしまったみたいだ。
「突然にあそこまで大きな領域で不定形を開けられたら、WITHウィズさんだって操作不能になっちゃうよ」
 あらあら。というか、もうすぐ家にもっと近いバス停にバスが着く。
 僕は『次とまります』ボタンを押そうとして、念のため久美に訊いておく。
「久美も降りるよね」
「オフコースです」
 そう言うと、久美は僕の方に親指を突き立てた。
 ちなみに、帰りのバスでは二人はほとんど揺さぶられることがなかった。


 032

 バス停から十分ほど歩き僕の自宅に到着した。僕が自宅のドアを開ける寸前まで、久美は僕の背中にべったりと付いて行き、さも緊張している様子だったが、僕の両親が留守であること、そして金曜日のこの時間帯、母親は午後パートの真っ盛りで、午後六時頃までは帰ってくることがない旨を伝えると、急に緊張の糸が解れたのか、僕の背中に隠れるようなことはしなくなった。
 取りあえず僕は、僕と久美の荷物を置くために、僕の部屋まで久美を案内した。案内した後、久美を部屋に残し、僕はお茶を出すためダイニングへと向かった。麦茶とクラッカーをおぼんに用意し、久美にドアを開けてもらい、更には部屋の隅にあった折れ脚テーブルを中央まで移動してもらい、その上にお盆を載せた。
 遊ぶ用意は整った。
 整ったんだけど、部屋に入ってみて部屋にちょっとした違和感がある。
 なぜかカーテンが閉めてある。
「……あれ? 部屋に荷物を置きにきたときからカーテンなんて閉めてあったっけ?」
「閉めてあった閉めてあった。 最初からこんな風に部屋は薄暗かったよ」
 久美が僕の何気ない呟きに解説を入れてくれた。
「まあいいか。取りあえずクラッカー食べよう。ほら、いいよ、久美も食べて」
「では、遠慮なく」
 久美は片手でクラッカーを摘まむとポリポリと食べ始めた。
「でさ、由人」クラッカーを食べながら久美は言う。
「これから何するの?」
「あー、うん。まあ、これからゲームでも……僕の部屋、結構ゲーム機の種類は豊富だし」
「ゲーム……ゲーム……うーん、ゲーム、ゲームねえ……」
 なぜか久美の歯切れが悪い。
「ねえ、由人。テレビゲームより楽しいゲームをやってみない?」
「テレビゲームより楽しいゲーム? なんだ? トランプか?」
「トランプは楽しいのは分かるよ。でも二人でトランプはスピードくらいしかできないでしょう。それよりも、もっとなんていうか、大人な遊びをしてみない?」
 大人な遊び……? 大人……大人…………? ええっ⁉ まさかアレか⁉
「花札か」
「違う」
「カジノかな」
「確かにそれは大人の遊びだね」
 うんうん、と腕組をして頷く久美。
「……って違うから。全然そうじゃないから」
 久美は、はあ、っとため息をついた。
 何か一瞬悟ったような、諦めたような顔をした。
 そして急に久美は顔をぱたぱたと仰ぎ始めた。
「あ、暑いなーこの部屋。あーこんなに暑いと靴下なんか履いてられないよなあ」
 と、左の紺のハイソックスをするするするっと脱ぎ出した。
 なんか久美の声が上擦ってる。声だけでなく視線もまた上向いてる。
 壁と天井の隙間辺りを久美の視線が泳いでる。
 若干口まで開いちゃってるし。
 そして何より、顔が滅茶苦茶赤くなってるし。ほっぺたが火照って言ってる感じ。
「ほ、ほ、ほ、ほんっと暑いなー、この部屋ー。み、右の靴下も脱《ぬ》いじゃおっかな―」
 そしてするするすると右のハイソックスも下していく久美。
 ま、まさか……、この展開は……。
 親がいない自宅で若い男女が二人きり。
 僕にも絶頂期が訪れたと、そういう意味を表してるのか⁉
「く、久美さん⁉ 久美さん⁉」
 僕の声まで上擦った。というか最早《もはや》裏返った。
「靴下脱いだだけですよー でもまあ、そんなに私のところに来たいなら」そう言って、両腕を真横に真っ直ぐに広げ、少し挑戦的な眼と少し口角を上げた微笑みを携えながら、「来ちゃっていいですよ」と続けた。
 絶頂絶頂絶頂。
 昨日のキスよりずっと絶頂。
 絶頂を超えて最早頂点。
 ここぞ最早青春の頂点。
 僕は覚悟を決めた。
 僕はロケットスタートで久美が待つ、そのブラウスの胸の中へと飛び込む覚悟を決めた。
 まるで飼い主に懐く犬のように。
 ワンワンっ! 僕は椿久美の犬だワン! 僕の名前はパトラッシュ―──
 と。
 飛び込みたい気分は山々で、最早気分が高まりすぎて自分が何を考えているか分からないけれど。
 僕と久美の間にはクラッカーを乗せた折り畳み式テーブルがある。
 まさか、麦茶をぶちまけて久美に飛びつくわけにもいかない。
「というか、久美も分かっててやってるでしょ。僕が結局飛び込めないの」
 僕はテーブルを指差しながら久美に愚痴《ぐち》る。
「あれー。えー。あ、そうだ。だったら」
 久美はふんふんっと鼻歌を鳴らしながらテーブルを横に横にとずらしていった。
 え、マジ? マジだったのか?
 テーブルをずらし終えた久美はペタンと、なぜか僕と反対方向を向いて床に座った。
 久美は僕に背中を見せながら、
「ふー、やっぱりまだ暑いねー」と言い、ブラウスの裾《すそ》をぱたぱたとし始めた。
 裾? 上着? 
 それは早い! 早すぎるだろう!
 というか、ぱたぱたする度に久美の腰辺りの素肌がちらちら見えている。
 こいつ、キャミソールごと摘まんでやがるな……
 確信犯だ。明らかに僕を落とそうとしている。
 僕は紳士だよ。こういうときの順番はちゃんと守るよ。
 いや、もしかしたら、僕がちゃんと久美をエスコートしないから久美が無理矢理にも僕に誘発を仕掛けてるのかもしれない。
「もう、脱いじゃおうか。えいっ」
 久美はそう言うと、両手を身体の前でクロスさせるように、自分のブラウスの裾を握り、
 上へ引き上げ、
 上へ引き上げ、
 上へ引き上げ、
 ホックが見え……、
 見え……、
 ……、
 ……、
 ん?
 んんんん?
「待った」
 久美が裾を上へと引き上げ、ホックに到達する前、腹部と胸部の間に差し掛かったところで僕は反射的に久美を止めた。
 久美のウエストは意外と括《くび》れていた。背が小さいので寸胴型《ずんどうがた》の体型かと思ったが、いがいとほっそりとした腰回りだった。
 僕が久美を止めたのは、もちろん久美の腰回りの解説を頭の中で反芻《はんすう》するためじゃない。
「これは……、なんだ?」
 久美の腰のあたりに、人差し指の先端から第一関節くらいまでの大きさの黒い穴が空いていた。
 久美がブラウスを更に脱がそうと、少し腰を屈めたときに、それはスカートの中から突然現れた。
 久美の腰に、黒い穴が空いていた。
 ……。
「なあ、久美」
 前を向いたままの久美の後頭部に話しかける。
「なに?」
 久美は前を見たまま答えた。
「腰触っていいか?」
「由人にしては意外とせっかちだね」
 久美はブラウスの裾を放し、頭を少し回し、目線だけこちらを向いて応えた。
「あ、いや、そうじゃなくてな。久美の腰に穴が空いてたんだけど」
「穴? いや、さすがに空いてないでしょ」
 そう言って久美は手を後ろに回し、腰を擦る。
「うん、何もないよ」
「嘘だ。ちょっと待って僕が触る」
 僕は久美の傍にすり寄り、「すまん」と言って久美の腰のあたりを擦った。
 やっぱり空洞がある。
 腰の下部辺りに、人差し指が入るか入らないかのへこみが感触として存在している。
「ほら、ここここ。久美も触ってみてよ」
 僕は久美の右手を掴み、僕が感じたへこみのところを久美の指を滑らせる。
 けれども。
 久美の指は、まるでそこにへこみなど何もないように通過していった。
 ……。
 これは、アレに関係しているな、と、直感的に僕は感じ取った。
 僕にとってはそこにあるのに、久美にとってはまるでそこにないかのように通過していく。
 物質移転装置。不定形。
 色々なワードが僕の頭の中を回っていく。
 このへこみは、僕にしか見えないのか。
 久美には分からず、僕だけが感じ取れる理由。
 僕だけが特別な理由。
 …………。
 そういえば、例えそれがウィズさんの命《めい》による振りだったとしても、久美だって当たり前のように学校生活を送ってきて、もちろんそこには体育や水泳があって、人目に着くところで着替えたりして、そしたら、腰の位置に、指の大きさほどの穴が空いていたら、誰かが指摘するはずで。
 指摘しないと不自然なはずなのに。
 不自然だったら、除外するのがウィズさんのやり方だろうに。
 久美の腰に、穴は自然と空いている。つまりは、ウィズさんも、この穴のことは知らない。
 僕だけが知っている、久美の秘密、ということになるのだろうか。
 僕だけが知っていること。
 …………。
 僕は、自分のポケットに入っている。鍵を触った。
 この鍵のこと、久美は知らなかった。
 …………。
「久美、ブラウスの裾、さっきみたいにもう一度だけ上げてくれるかな」
「……変なことしないでよ」
 久美はさっきみたいに、ブラウスの裾を脇腹辺りまで上げた。
 僕はもう一度、久美に空いている穴を見る。
 そして、手に取っていた鍵をその中に突き刺し、回した。
 回した直後。
 久美の左の掌《てのひら》が光に覆われた。
 久美の右の掌《てのひら》が闇に覆われた。
「え、え、え?」
 久美が動揺したように声を漏らした。僕も一体何が起きているのか分からない。
 僕はすぐさま鍵を抜く。鍵を抜いても、久美の左手は輝き続け、久美の右手は暗がり続けた。
 久美は左手を前に差し出した。左手を差し出すと、部屋の白いクロスの壁がスクリーンのようになり、光の先端が映りこんでいた。
 その光はどうやらプロジェクターの役割を果たしているようだった。壁との距離が近いからなのか、カラフルな映像がピンボケして白い壁に映っている。
 僕と久美は壁との距離を取るために、じりじりとと部屋の隅の方へと向かっていった。結局、一番焦点が的確だった場所はベッドの上だった。
 ベッドの上に、二人並んで壁にもたれるように座り、久美の左手から放たれる光の先を見ると、そこにははっきりとした映像の中に白衣を着た吉良教授が座っていた。
 二度と会うことはない、二度と会いたくはないと思っていた吉良教授の姿がそこにはあった。
 それだけでも驚くべきことだったのに、その映像は、その驚きを超える驚異を僕に与えた。
 吉良教授がサンタ帽をかぶって、パイプ椅子に座っていた。
 吉良教授はあくまで真顔だった。
 …………。
 吉良教授の周囲には、吉良教授が座っている椅子以外にも、五脚パイプ椅子が用意されていた。
 でも座っているのは吉良教授ただ一人。
 吉良教授が、真顔で、サンタ帽を被って、こちらを見ている。
 …………。
「ねえ、これ最初の役ホントに私でいいの?」画面の中の吉良教授が、自分のサンタ帽を指差しながら、画面に向かって不意に口を開いた。
 画面を直視、というか、映像を取っている人を見ながら、訊いている様子だった。
「ああ、吉良教授! もう映像始ってますよ!」若い、女性の声が画面から聞こえてくる。
「ええ! もう始まってるの? じゃあ、さっそく始めちゃおうか。せーの」
 吉良教授がポケットからクラッカーを出し、前に構えた。前に構えると同時に、吉良教授の周りに白衣姿の男性二人と、女性二人が一斉に集まってきた。皆それぞれの手には色とりどりのクラッカーが握られている。
 そして。
「誕生日おめでとう! 白石由人くん!」
 と、一斉にその人たちは声を上げたのだった。


 033

 僕は壁で活動する映像をただ見る。
 茫然とただただ、目の前の喝采を見つめた。
 その映像の中の、男性三人の中にその人はいた。
 ずっと夢で見た、夢の中で出会ってきた、父の姿がそこにはあった。
 あの、大正時代の日本人が掛けていたような丸い小さなフレームの眼鏡、首まで伸びる長髪、白衣。
 あの父の姿が僕の眼前の映像に現れた。
 僕はそのまま、映像を見る。
 全てを受け入れるように、自分の感想など入れずに、自分の我儘など含まずに、一言も聞き逃さないように集中して、ただただ映像を見つめる。
 以下映像。


 034

「誕生日おめでとう! 白石由人くん」(全員)
「せーのっ」(吉良教授)
「ハッピバースデイ トゥユー 
 ハッピバースデイ トゥユー 
 ハッピバースデイ トゥユー
 ハッピバースディ ディア ゆーと
 ハッピバースデイ トゥユー」(全員合唱)
 パンッ、パンッ、パパパンッ、パンッ(クラッカーの鳴る音)
「えー、改めまして、由人、八歳の誕生日おめでとう」(父さん)
「今、目の前にあるように、君に母さんに似せた養育用アンドロイドをプレゼントしようと思う」(父さん)
「白石くん。その言い方は失礼でしょう。だってあの人はそのまんま白石久美さんなんだから」(吉良教授、父さんを見ながら)
「うん? そうだな。だったら訂正しよう。いつも家で一人で寂しがっていた由人に、母さんをプレゼントしようと思います」(父さん)
「いえーい、パチパチパチパチ」(一同拍手)
「ところで白石くん、どうして一八歳時代の奥さんをモデルにしたの? 私てっきり三十歳位の彼女をモデルにすると思ったんだけど」(吉良教授、父さんを見ながら)
「え、いや、だってそっちの方が可愛いじゃん」(父さん)
「個人的趣味だったんですか!」(若い女性A)
「いやあ、十八歳の久美は本当に可愛かったよ。僕と久美は小学校からの付き合いだったんだけどね。僕が本格的に交際を申し込んだのは高校のときだったよ。いやあ、高校まで学校が同じだし、これはもう運命としか感じなくなって告白した……っておい、何で僕の身の上話になってんだよ」(父さん)
「はは……」(一同苦笑)
「とにかく、いいか由人! 久美に恋するんじゃねえぞ! 彼女は永遠に僕の奥さんだからな!」(父さん)
「相手は八歳になったばっかりですよ! 何自分の息子を恋敵にしてるんですか!」(若い女性A)
「いやあ、フロイト曰《いわ》く自分の父親殺して、母親と関係を持つ少年の話があってだな……」(父さん、神妙な面持ちで)
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい、みんな。これ、由人くんの誕生日を祝うビデオレターだよ。ちゃ、ちゃんと由人くんにメッセージ送りましょうよ。これ……、これ由人くん画面の前で、ぜ、絶対置いてきぼり食らってますよ!」(若い女性B)
「じゃあ、それぞれのゼミ仲間からのメッセージコーナー! ではあたしから行きまーす。ごほん、由人くん誕生日おめでとう! また研究室に遊びに来てなあ、今度はごっつうすごいマシン扱わせてやるからな。楽しみに待っとれよー」(若い女性A)
「あー、えー、由人くん、誕生日おめでとうございます。八歳、おめでとうございます」(若い男性)
「あ、あ、あ、私? あ、いや、た、たん、あ、いや、由人くん、誕生日、お、お、おめでとう。また由人くんが、け、研究室に遊びにくれたら、お、お姉さん、とても嬉しいな。また、一緒に、FORCOフォリコ辺りで、みんなで、け、ケーキでも、た、食べようね」(若い女性B)
「やあ、白石由人くん誕生日おめでとう。またお父さんに連れられて君の家でブランデーを頂くことになるかもしれないけど、そのときはまたよろしくな。はっはっはっ」(吉良教授)
「じゃあ、最後に僕から」(父さん)
「由人、誕生日おめでとう。研究が詰まっててなかなか家に帰れない時期が多くて済まない。由人が家で一人で出来るだけ寂しくならないようこのプレゼントを用意した。もう一度言うけど、由人、誕生日本当におめでとう。これからは、僕と由人と、新しく加わった、いや、戻ってきたと言った方がいいな。とにかく、この三人で、これからも頑張っていこうな。そして、ビデオレターに協力してくれた皆もありがとう!」(父さん)
「由人くんまたなー」(女性Aの声。一同手を振る)

 プツンッ。
 そこで映像は終わった。
 後の部屋には薄暗がりの空間と、沈黙した二人の姿だけが残っていた。
「……」
「……」
「……由人」
 久美が沈黙を破った。
 沈黙を破って、前に進んだ。
「やっと、会えましたね。由人」


 035

 今まで、僕は久美や白石教授、その奥にいるウィズに対して『説明はするな。わざとらしいのは、もう止めてくれ』と言ってきた。
 なぜならそれは僕とは全く関係がないことだったから。
 最早ウィズが居ようと居まいと僕には関係がない。
 物質移転装置が双子電子を基に造られていようと僕には関係がない。
 この世界がどのように造られ、この世界がどのように管理されているか、なんて僕には全く関係がない。
 この世界がまがい物で、自分以外の全ての人間が嘘だと言われても、日常的には何の変化も起こらないからやはり僕には関係がない。
 僕が月に移転されようと、別段死ぬわけでもなく、記憶も失われ月で日常を送るわけだから、たいして僕には関係がない。
 そもそも。
 昨日から始まった、この世界の真実とやらの説明自体が全く僕には関係がない。
 昨日から起こり、僕が直接的に関係した事は。
 久美にキスをし。
 教授の胸に穴が空いた。
 ただそれだけのことだった。
 それ以外の、説明とかウィズとかは全て他人事に過ぎなかった。
 久美も言っていたけれど、本当に僕が知る必要もないことだった。
 何も知らずに生き、
 何も知らずに死んでおくべきだった。
 今更後悔しても遅いけれど、
 もう知らないでは済まされない領域に入ってしまった。
 整理すると。
 久美は僕の誕生日に贈られるプレゼントの予定だった。
 久美は僕の本当の母親をモデルに造られた、アンドロイドだった。
 いや、違う。
 画面の中の吉良教授や、本当の父さんも言っていたように、椿久美は僕の母さんそのものとして造られた。
「なあ、椿」
「……?」久美は何も言わずに、目線だけで僕を促す。
「僕の本当の母さんの旧姓って何だ?」
「…………『椿』です」
 僕はもう予想についていた名字を椿は答えた。
 もう駄目だ。久美を名前で呼ぶことは僕にはもう許されない。
 せめて『椿』と呼ぶことしかできない。
「戦争が起こったのはいつだ?」
「あなたの誕生日の三日前」椿は、ぼくが訊きたいことをショートカットで答えてくれた。
「椿、お前だよな、僕をここまで導いたのは」
「…………」椿は答えなかった。
 思えば、椿が以前にした説明は、僕に関して起こったことに対しては、全く説明になっていなかった。
 僕が午前零時に月へと旅立つこと。それを説明するのは別に吉良教授ではなくても、《《誰でもよかったはず》》なのだ。
 もちろん、あのとき水前寺駅前の公園で、椿久美本人が、僕の月への移転をしても、ウィズからしたら何の問題もなかった。
 全てのアンドロイドを操作の支配下に置くウィズからしたら、誰が真実を語ろうと何も影響は変わらなかった。
 では何故、椿は公園で、もしくは駅で真実を告げることがなかったのか。
 それは僕を導くため。今も大学の、白石遼博士の元研究室に、二〇八〇年になっても残してあった、椿久美を起動させるための鍵へと導くため。
「国民誰もが、戦争が起こったことすら知りませんでした。それどころか、最早、空爆と気づかずに、消えてしまった人が大半でした」
 椿は訥々《とつとつ》と語る。
「あなたのお父さんですら、空爆の一時間前に知らせを受けたほどです。物質移転のエキスパートである、あなたのお父さんですら」
 椿は訥々と語る。
「もう、間に合わないと悟った、あなたのお父さんは、私、椿久美を物質から組み立てるデータをチップに詰め込みました。そして……」
「もういい」
 僕は椿の続きを遮った。
 その続きはもういいんだ。
「でも、父さんは鍵渡せばよかったじゃないか? どうして……」
「私にもわかりません、が、恐らく……鍵はあえて渡さなかったのでしょう。当時からウィズはほぼすべての物質を管理していました。しかし、人間にはプライバシーの問題があった。なので、ウィズを基にした、物質移転装置の実用化の前に、いち早く実用化されたものがありました。いや、正確にはものではなくて原理ですが……」
 椿は闇に染まった右手を、僕と椿の間に持ってきた。
「不定形です。これで皆それぞれのプライバシーを守っていました。不定形が存在している間、不定形と、不定形の大きさに応じた周囲の環境はウィズには観測されません。不定形が消えた後にそのようだった、と観測されるだけです。私の鍵も本来は不定形で守られていました。私用アンドロイドはプライバシーの極みですからね」
「もういいよ」
 今度は説明を遮ってしまった。
 なんかもうどうでもよくなってきた。
「つまりは、その闇のおかげで、今はウィズに干渉されてないってことか」
「はい。そうです」
「どうでもいいよ」
「?」
「ああ、すまん。なんか僕から質問を振っておきながら、どうでもいい、はないな。ごめん。でもやっぱり……」
 どうでもいい。
 ウィズが僕のこと観測してたからって、何か変わることがあったか?
 いや、二つだけあるか。
 一つはその椿の右手の闇と。
 もう一つは。
「なあ、椿。その口調は、ええっと、元には戻らないの?」
「口調、ですか……?」
「うん、数分前の椿のような、口調には戻らないのかな? って」
「パターンは数通りほどありますが、どれにいたしましょう? ちなみにお薦《すす》めは十八歳椿と四十歳椿とありますが」
「じゃあ、四十歳でいってみようか」
「由人、私は一体何をしゃべればいいんだ?」
 ちょっと挑発的な、四十歳位の口調になった。
「『ここほれワンワン』って言ってみて」
「ここを掘りな、由人。掘ったら何かいいものが出てくるぜ……」
 すげえ……何か熟練女性の謎の説得力がある。
 というか。
「その四十代椿って、まんま僕の母さん口調ってこと?」
「全く持ってそうだね」
「こんな挑発的な母さんだったの?」
「挑発的ってなんだい……。別に挑発的じゃあないの。息子に対してこんな口調になるのが母心ってもんよ」
「じゃあ、十八歳椿に設定変えられる?」
「ん……ちょっと待ってな。……おまたせ由人くん」
「くん付けで、きたか」
「確かに、くん付けしたりくん付けしなかったり、ウィズさんは曖昧だったかも」
「ウィズ、もさん付けに戻ったか」
 僕はもうウィズでいくぞ。面倒くさいし。
 それに、ウィズ、先程の説明からとても怖い存在に思えてきてるし。
「ていうか、由人。自分の領域に持っていくな! まだ私の説明の途中だったでしょうが」
 椿がばっと右の掌を僕に差し向け、『ちょっと待った』ポーズをする。
 椿、心の中で突っ込ませてもらうと、お前の右手すんごく黒いぜ。
 というか。
「くん付け二度目で終わったな」
「いや、やっぱりあざとい感じ出ちゃうし。あざといの由人嫌いでしょ。なんかキャラ付けしてるみたいって前言ってたじゃん」
 え、言ってたっけ? そんなこと。
 結構好きなんだけどな。椿のくん付け。
「って。とにかく!」
 椿は少し語調を強めにした。
「私に説明させてよ! この場面まで持っていくのにどんだけ苦労したと思ってんのよ!」
 バンバンバン布団越しにベッドを叩く久美。
 やめんか。ベッドが軋《きし》むわ。
 ん? 今普通に久美は自分が導いたと発言した感じだな。
 さっきまでの神妙な受け答えはどこへ行っちゃったんだろう。
 まあ、僕が壊してしまったのだけど。
 それよりも目の前のことだ。椿すごく怒ってる。
 目が軽く三角になっちゃってるし、歯をギシギシ鳴らしてるし。
 ここは聞こう。
「ごめん。話を続けて」
 椿は自分の話の腰を折られて悔しいからか、僕の布団をくしゃくしゃに鷲掴《わしづか》みしてる。
 突っ込みはしないよ。もう。話が全然進まないから。
「それで話戻すけど、白石遼博士は由人に鍵は渡さなかったの」
 ようやく僕の質問の核心に触れた。
「どうして?」
「必要なかったから」
「必要なかった……のか?」
「だって、ウィズさん経由で私を起動しても、由人を手助けし、守ることは変わらないからね」
 それはそうだ。ウィズだって人を自ら殺めるようなことはしないだろう。特別な理由がない限り。
 今回だって、僕がウィズの秩序を乱す行動を起こしかねない、と危惧したからだ。
「それに、これは多分なんだけど、人間がいなくなったら、プライベートの不定形の管理だって誰もできなくなっちゃうしね」
「不定形を留めることって難しいのか?」
「制御システムがないと、まず無理だね。それも、当たり前だけどウィズさんを媒介としないシステムがないと無理」
「ふーむ」
 正直よく分からない。でもここで話を途切らせるのはもっと良くない。さらに分からなくなってしまう。
「それに加えて、これは多分だけど、白石遼博士は、あえて由人に鍵を渡さなかったかもね。私個人の人工知能に頼るよりも、より莫大な知識量を誇るウィズさんを媒介にした方が、由人の安全を考えたら、よりよい判断ができる、と考えたのかもしれないね」
 とりあえず、あのとき、僕の父さんは僕に鍵は渡さなかった。渡す必要がなかった。渡さない方がむしろ正解だった。
 では何で。
 これは最後の質問になるのかもしれない。
「では、何で、椿はここまで僕を導いたんだ?」
「……」
「……」
「……」
「……」
 僕は二拍程待った。僕は、椿から話し始めるまでじっと我慢した。
「……私たちアンドロイドがどんな風にして造られたか、分かる? ウィズさんの原理を基《もと》に、人類が到達した科学を基に、考えてみて」
「物質が、そこにあるように組み立てるのだろう?」
 考えるまでもなかった。それがウィズの根源的原理だ。
「……そう、そして、これは前にも言ったけど、私たちアンドロイドは人間とほぼ同じ物質で出来てる」
「……」
「人間と同じ神経、人間と同じ筋肉、人間と同じ骨、人間と同じ内蔵、人間と同じ血液。人間と同じ皮膚。違うところは脳に埋め込まれてるチップだけ」
「……」
「特に、一部のアンドロイドは無くなった人間そのものをモデルにしてる……これもさっき言ったね。私は由人のお母さん、白石久美を。吉良教授型のアンドロイドは吉良教授本人をモデルにしてる。私も吉良教授型アンドロイドも、生前の本人と全く同じ物質で出来ている」
「……」
「そんな私たちが、機械だからって、記憶を失くしてるからって、生前の思い出を、完全に忘れることが出来るなんて、思いますか?」
「……」
「私は、由人の前に現れてから、初めは全く動けなかった。話すことすらできなかった。そこで、すぐにウィズさんに見つけてもらって、助けてもらった。助けてもらって、ウィズさんに従うことに決めた。ウィズさんに操られることに決めた。それでいいと思ってた。由人が生き続けられるならば、幸せでいられるならば、それでいいと思った……昨日までは。昨日の、あの宵闇《よいやみ》までは」
「……」
「ウィズさんから、明後日の午前零時に、由人が月に移転されることが決まったと、伝令が、伝わった。私には、由人に月への移転を伝えろと、命令が、下された。下されてしまった……」
「……」
「私は、由人がいなくなることは、私の本来の、私が存在する理由と、目的とに完全に反していた。私は、由人を守るために、誕生したのに、今、目の前で、由人が、地球上から消されようとしている。由人は何も悪くないのに、由人は、普通に生きて、普通に恋をした、だけなのに」
「……」
「だから、私は、命令に従った振りをした。私よりも、もっと科学的知識の豊富な、熊本大学理工学部の教授に、由人の月への移転を、説明させようと、心の中で決心する、振りをした。私は、説明者へと導く媒介者である振りをした……」
「……」
「吉良教授にも、由人が移転されることは、もちろん知らされていた。知らされていながらも、絶対に納得していないと、私は確信していた。吉良教授も、心のどこかで違和感を感じていると、私は考えていて……」
「……」
「そして、案の定、吉良教授は、私が吉良教授の眼前に、立つと、全てを思い出したような、はっとした顔をして、『過去と未来と現在を、一遍に見た』と言ってくれた。それで私は確信した。吉良教授が全てを思い出してくれた、ということを」
「……」
「私は安心して、その場から離れた。自分が、常にウィズさんから監視されていることを思えば、もう、吉良教授を信じるほかは、なかった……」
 全ては繋がった。
 椿があの夕方、突然に口を利かなくなり、急激に体温が上昇したこと。
 あれは、椿がウィズの命令逆らったから。ウィズが椿を操作する行動は、白石由人に真実を告げることだったから。
 それ以外は、何もなかった。
 故に何もしゃべることができなかった。
 ウィズはごく自然に椿に圧力を掛けていた。だが、それに椿は必死に抵抗を重ねていた。
 椿はウィズと戦っていた。
 故に、オーバーヒートで体温が急激に上昇した。
 吉良教授が突然に発した、訳の分からない発言は、椿に、ウィズに悟られないように、全てを思い出したことを伝えるため。
 吉良教授が、胸に闇穴を空けた後、不定形により本来ならばウィズとの伝令が途絶え、行動が不可能となった後も、デスクボックスへと僕を導いたのは、やはり、全てを思い出していたため。
 ウィズの知らないところで、本当の椿の姿を僕に知らせるため。
 吉良教授の、あの震える手、鍵を指差した後の、充実感と達成感に満ち溢れたあの笑み。
 吉良教授もまた、戦っていた。科学技術の果てに造られた、もはや全てを司ると言ってもいい、ウィズと戦っていた。
 理不尽な運命と、戦っていた。
 それは、つまり、椿のために。
 そして、何より、僕のために。
 椿の右手は、不定形で、プライバシーモードで、ウィズに観測されない状態になっていて、僕が、その、不定形の、椿の側にいれば、いることができるのならば。
 ウィズは、僕を月に移転させることができなくなる。
 僕は、僕は、僕は、僕は、僕は、僕は、僕は、僕は。
 知らないところで、僕は、関わっていて、護られていて、愛されていて。
 実はもっといたのかもしれない。例えば、学校からのエスケープなんか、誰かから呼び止められていれば、絶対に成功しなかったケースだろう。
 全ては僕を生かすため。
 全ては僕を救うため。
 これが感謝せずにいられるか。
 巨大なシステムからの命令に背き、自分で判断し、誰かのために行動をする。
 椿久美も、吉良教授も、その他全ての者たちも、アンドロイドを超えている。
 すでに立派な人間だ。
 僕の独断で、偏見で、相手への慰めで放つ、その場凌ぎの言葉としてではなく、本当に生きている。    
 生きている。
「椿……」
 僕はもう泣きそうだった、ウィズから不必要と言われた時は、憤っただけで、泣くことなんて無かったのに。
 僕は椿を抱きしめた。自分の中にある全ての感謝を込めて、椿を自分の胸元で抱きしめた。
「間違いないよ。椿はやっぱり生きている。椿は立派な人間だ」
 僕は言った途端に、今まで堪えていた涙が、僕の両目から零れ落ちた。
 先程、大学で椿を抱いたときとは逆で、今度は僕が泣いていた。
 一方、椿は完全に力が抜けきっていた。泣いていたら普通、身体が硬直するので、泣くのとは正反対の身体の状態だったのかもしれない。
 椿は、重力に何の抵抗もせずに、ただただ僕に身体を預けていた。


 036

 椿を抱き寄せ、泣いて、いくつかほろほろと涙を落して、椿からそっと離れた後。
 僕は思っていることを口に開いた。
「でもさ、僕は椿にこれから一生べったりくっ付いて生きていかなきゃいけない訳なのか?」
「?」
 椿はきょとんとした顔で首を傾げた。
「?」
 僕も椿が首を傾げた理由が一瞬分からなかったので、僕も首を傾げた。
 もちろん、僕が分からなかったのは一瞬だけのことで。
 椿の説明の途中から、全てを理解してしまったがために、自分の中だけで勝手に感極まってしまっていたと、自分が首を傾げた後に気が付いた。
 なんか勝手に冒険してしまっていたみたいだ。
「由人はどこまで気付いたの?」
 椿が、僕の発言から僕の心理を先読みして訊いてきた。
「多分全部。今までの椿の行動とか、吉良教授の発言とかの理由も、全部。椿は、ずっと、ウィズと戦っていたんだろう?」
「うん。なあんだ、そこまで考えが辿り着いたんだ。私がいちいち全て説明しなくても到達してくれたんだね」
 久美は感動したかのように、顔全体に微笑みを湛えた。
「突然由人が抱きついて、泣き出すから、何事かと思っちゃったよ」
「……」
 とても真面目な心情の後だったから、僕は自分で自分に突っ込みを入れることはしなかった。ここで自分でギャグパートに持っていったら、流石に数分前の自分が悲しすぎる。
 僕は自分には甘いんだ。
「なあ、久美。話戻すけどさ」
 僕は自分の勘違いを振り払うかのようにまたぞろ話を続けた。
「その右手の闇は、つまりは不定形ってことなんだろ? その不定形はウィズには観測されていない。すなわち僕が久美の側にずっといたら、僕は月に移転されずに延々と地球に居続けられる、という事なんだな?」
 自分が勝手に想像して、思い至ったことを素直に久美に訊いてみる。久美は「そうだね」と軽く首肯した。
「そのプライベート用の不定形って、勿論不定形にできる範囲決まってんだよな? だったら僕らってずっとくっ付いて暮らしていかなければいけなくなるんじゃないか?」
「そうだね。大体半径二十メートル以内位には居ないといけないね」
 それは……。
「それは、無理だろう。普通に考えて」
「無理? どうして?」
 久美は目を丸く、口を細めたきょとんとした顔で首を傾げた。
「私と由人が一緒に暮らせばいいだけじゃない?」
「いや、それだけじゃあ、無理だろ。ほら、学校とかどうするんだよ。僕に女子更衣室に入れ、なんて言うのかい?」
 僕は掌を少し上に向けて『冗談だろ?』のポーズを取る。
「高校なんて行く訳ないじゃん。由人以外の皆全員生活してる振りなんだし。これからはずっと私と一緒に暮らしていくの。二人で一緒に暮らして、一緒に買い物に行って、一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入って、一緒にテレビを見て、一緒にベッドで寝るの。そうだ、由人の子供をつくってくれる女の人を捜そうよ。私と一緒にドームの外に出て、由人の結婚相手を捜すの。結婚相手が見つかったら、子供をたくさんつくって、大家族を組み立てよう。家族が出来たら、その子供も子供をつくって部落を創ろう。部落を更に発展させて民族を創ろう、国を創ろう。その発展の始祖が由人になろう。そして私は由人の手助けをずっとしていく。由人のブレインとしてずっと役に立つ。由人が死ぬまで、ずっと働き続ける。由人が死ぬまで、私は由人の側にずっといる」
 矢継ぎ早に、次々と久美は僕に提案してきた。
 僕の返事は、考えるまでもなかった。
「いやいや、それは無理だろう。もし仮に、仮にだよ、僕と久美がそれを成し遂げる決意をしたところで、ウィズが黙ってないだろう? ほら、ウィズさんだって、異常を感じ取るにきまってるだろう? 僕ら二人だけ観測できないって」
「観測できないんじゃないよ。不定形の中の事物はないってことすら認識できないんだから。今のままでいれば、ウィズさんは私たちが自然に居るように観測するだけだよ。もしかしたら……」
 久美はほっぺたに少し考えるような仕草をする。
「もしかしたらウィズさんは、私たちが自然なように、私たちと同じ物質で出来たアンドロイドを新たに生成するかもね。そうなったら、もうこっちのものだね。というか、多分そうなるよ。ウィズさんは不自然な事象を徹底的に嫌うし」
 ふふっと久美は笑った。
「これからずっと一緒に居られるね」
 それはそれは、本当に、外連味《けれんみ》のない、極上の笑顔だった。
 何も恐れることもなく彼女は笑うのだった。
 だけど。
 笑顔なんだけど。
 彼女の目は笑い、口元は緩んだ、屈託のない笑顔なんだけれども。
 彼女は顔に汗を浮かべている。
 それは、もう、人間二人がずっと半径二十メートル以内で暮らし続けることが不可能であると、久美だって分かっている何よりもの証拠だと感じた。
 だから。
「僕は嫌だよ。そんなの生きてることにはならない」
 僕は久美の提案を突き返した。
「久美が提案した中での僕は、全く生きてないよ。久美の通りに従うのなら、僕は何も選択することなく、ただ呼吸を続けるだけの存在になる。そんなのは、僕は嫌だね」
「……私だって勿論わかってるよ。私と由人がずっと半径二十メートル以内で過ごし続けるなんて、とてもじゃないけど無理だと思う。けれど、もう、由人を救うにはこの方法しかない。今こうして、二人並んで存在している状態を維持し続けるしか、由人が生き続ける方法は他にはないの」
「生きるってなんだよ」
 僕はぶっきらぼうな口調になった。
「生きるってなんだよ。久美が今言ってる生きる、って僕が久美の前で生き続けるってことだけだろ? それは久美の我儘《わがまま》に過ぎないんじゃないのか?」
「由人を護るには、そうするしか、ないでしょう」
 知らず知らずの内にか、久美の声が震えている。
「それは、僕の為じゃない。僕の為に見せかけた、久美自身の我儘だ。それは、多分、人として一番性質たちが悪い考え方だ」
 僕は久美に問い詰める。非道《ひど》いと分かっていながらも問い続ける。
「他の人を偽善で縛るのは、もう止めてくれ」
 ダンッ。
 久美は僕の言葉を、最後まで聞いた瞬間にベッドから跳ね降りた。久美はそのまま僕の机へと向かい、机の上のペン立てからカッターナイフを掴み取った。
 ぢぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎっ、と一回の動作でカッターの刃を全て出し切った。出し切って、すぐにカッターナイフを逆手に持ちかえて、久美が今、思いっきり刃を引き抜けば、血が噴き出すだろうと思われる位置まで、カッターナイフの刃を自分の頸動脈へと押しつけた。
「は、は、は、は、はは、」静かに、しかしはっきり聞こえる程度に久美の息が上がっている。
「は、は、は、は、はは、ははあは、は、あはは」上がる息の中、久美は静かに笑っている。自分の興奮を抑えるかのように、自分の熱を下げるかのように声を漏らしている。
「由人が、私から離れる選択をするのなら、私は任務を達成できない。私の生きる意味はありません。よって私はここで首を切って死にます」
 ガタガタ震えて、刃を見せつけるように、顔を思いっきりに背け、僕を見下すような目線で、僕に縋《すが》るような瞳で僕を見ていた。
 僕は答えられない。
「は、は、は、は、は、は、は、はあ、は、は」部屋の中で、久美の荒い息使いだけが響いている。
 目の前の久美の行動は最早狂気じみている。久美も恐らくは自分自身で自分の行動の馬鹿らしさ気付いている。自分を担保にしたところで、果たして相手が必ずに乗ってくれるわけじゃないのに。
 自分の行動が無意味だと、気が付きながらも久美は首に刃を当てている。
 そうすることしかできない。
 大切な僕を護るため。
 大切な僕を愛するため。
 これが、愛か。人が人を護るときには、自分の命すらも、無意味と分かっていながらも、簡単に捨てることができるのか。
 全く。全く。全く。
「……滾《たぎ》るなあ」
 僕は空中に抛《ほう》るように小さい声で呟いた。あまりに小さい声だったので、多分久美には聞こえてはないのかもしれない。
 僕は俯《うつむ》いた。まるで船を漕ぐように頭を垂れる。
「ふ」僕の息が思わず漏れた。
「は、は、は、は、は、は、」久美の緊張している息遣いが聞こえてくる。
「ふはは」僕の声が思わず漏れる。
「……⁉」久美の荒い息遣いが止まった音がした。
「はははははははははははは、あははははははははははは」
 僕は天井を向き盛大に笑ってしまった。
 僕は幸せ者だ。今、この瞬間、世界で一番の幸せ者だと断言できる。
 『あなたのために私は死ぬ』などと、果たして世界中のどれだけの人が告げられる愛の証だろうか。
 ここで笑わずいつ笑う?
「ははははは。あははははあー。あは。あははははは。あー。あー。あー。あははは。あは。はああああはあはあはあはあ」
 僕は笑うのも疲れ、天井を見上げ続けることにも疲れ、ゆっくりと久美を見る。
 久美はさっきまで押し当てていた刃も首から若干離れ、宙に浮き、しかしそれも気がついていないかのような驚いた眼をして僕の方を見ていた。
 久美はまるで得体の知れないものを見て、恐怖に取り憑かれたかのような顔をしていた。
「はああ、久美」僕は一つため息を入れてこう告げた。
「死ねよ。僕の眼の目で今すぐ死んで見せてよ」
「えっ」久美は信じられない、といった声音だった。
「そうだよ。いますぐ死んで見せてよ。愛する僕の前で。首を切って見せてよ。なんなら眼球からでもいいぜ。眼球掘り出して、鼻を捥《も》いで、口を割いて、最後に首を掻っ切って死んで見せてよ」
 カンッ、タタンっとカッターナイフが久美の手から滑り、床へと落ちた。
 久美の手はカッターナイフを離した後も震えていた。
 おそらくは、恐怖で震えていた。
「久美。お前は僕を残して死ねるわけがない。それじゃ、僕を護ることにはならないからだ」
 久美は、しなっと腰を床へと落とした。もしくは力尽きたと言ってもよかったかもしれない。
「久美、お前は死ねないんだよ。もしも、久美が、どうしても僕を護りたいと言うのならば、久美が本当に取れる選択はただ一つだ」
 僕はベッドから降りた。降りて、床に落ちていたカッターナイフを拾った。久美の両脇に僕の両手を差し込み、茫然としている久美を無理矢理に立たせ、久美の両手にカッターナイフを無理矢理に握らせた。
「選択肢はただ一つ。僕が二度と行動できないように、久美の手で僕を半殺しにすることだ」
 僕は両手を左右に広げ、無抵抗の姿勢を見せた。
「殺せよ。僕を。今すぐに」
 久美はカッターナイフと震える指の爪々《つめづめ》との間でカチカチ鳴る音を鳴らしながら、僕を見ていた。
 僕は半笑いで久美の行動を待つことにした。
「……」
「……」
「……なんてな」
 折れたのは僕の方だった。
 久美はカッターを両手で握ったまま震えていた。だが、それは自然に起こる震えで、彼女の意思に沿うならば、久美は正しく固まった状態だった。
「ふ、ふえ……、え、え、」
 久美は、それまではナイフを握っていた手を中心に細かく震えていたのに、その震えが大きくなって、腕に伝わり、肩を経由して、口に到達して。
「え、え、ええ、ふ、え、え」 
 久美がやっとのことで絞り出した、その声は大きく震えていた。
「え、え、っぐ、っえ、え」
 ぎちっ、ぎちっ、ぎちっ……、と久美は持っていたカッターナイフの刃を少しずつ、少しずつ柄の方に戻していく。
「え、え、ぐふん、は、え、えええええええええええん」
 戻しながら久美は口を大きく開いて、涙をぼろぼろこぼして大声で泣き始めた。
「だって……、だって由人護りたかったんだもん……。由人がいなくなるなんて、おかしいんだもん……。なんで由人が居なくならなくちゃいけないの……? ねえ何で教えてよねえ。ねえ。えええええええええええええ」
 泣きながら椿は自分の思いの丈を吐き出している。
 自分の思い通りには何事もいかない。
 自分の咄嗟に取った苦肉の策も、本人の前で否定され、自分の愛も否定され、自分のエゴを通せずに、自分の無力を痛感して。
 子供のように泣いていた。
 泣いている久美を前に、僕は何もできなかった。いや、違う、何もしてはいけなかった。
 久美が泣いている、その根本の原因は僕が久美に従わなかったことで、ここで久美に、優しい言葉など掛けたとしたら、それはもう、最低な偽善者としか言いようがなくて。
 究極的なまでに嗜虐的に久美を否定したのも、久美に、久美の思考判断それ自身に桎梏《しっこく》の態度の恐ろしさを、久美の心に焼き付けてしまうほどに深く理解してもらうためで、仕方のないことで、確かに言いすぎた、やりすぎた追い込み方だったのかもしれないけれど、僕が、完全に悪い訳ではなく、やはり久美が墓穴を掘ったとしか考えられない結論に至ったはずなのだけれど。
 何故だ? 何故こんなに脱力感が僕を襲う?
 慰めてもいけない、抱いてもいけない、頭を撫でてもいけない。僕は何もしてはいけない。
 脱力感で、僕は膝の力が抜けた。手を床に付き、跪座《きざ》になり、久美が泣いている姿を見上げた。
 こういうとき、どうすればいい?
 今ここで、僕が自ら行動を取ったところで、全てが嘘になる。
 思えば僕は、自分の我儘で久美への愛情を示していたのかもしれない。
 自分でキスし、自分で彼女を慰めて、自分で彼女を抱き寄せて。
 自分。自分。自分。自分。本当に僕がやることは『自分』ばっかりだ。
 僕は無力だ。目の前で泣いている大切な人の前でも、本当にその人の力にはなれない。
 僕が久美を見上げていると、久美は泣きながら膝を下してきた。
「死んじゃいやだよ……、由人お」
 久美が僕の腹部の辺りに跳び付いて来た。僕は払うことも受け止めることもせずにそのままただただじっとしていた。
「嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 由人と離れたくない! 私はずっと由人と一緒に居たい! 私もできれば月に転送もされたい! でも出来ない!」
 僕は何も言わない。
「一緒に居たい! 一緒に居たい! 一緒に居たい!」
 僕は何も言わない。
「……一緒に……居たい」
 久美の僕を抱く力が徐々に徐々に弱くなってきた。
 今、僕が、久美にしてあげられることはただ一つ、何もせず、何も言わず、久美が現実を受け入れられるまでの時間を作ることだけだった。


 037

 母親の呪縛を抜け出ると言うのは、こうも苦しいものなのか。
 正直、死んでしまいたいと思った。
 初めてかもしれない。自分から自分の死を望むなんて。午前中は自分が死ぬと聞いて激怒した僕だったが、夕方になるとまさか自分から死を渇望するなんて全く想定外だった。
 彼女は泣き、力が脱していき、完全に静寂になった。彼女が静寂に包まれ、微動だに動かなくなった後も僕は沈黙を貫いた。沈黙を貫きながらも、心の中では逃避感情が渦巻いていた。自分から行動することが許されない、この板挟みの現実から早く逃げ出したいと思った。久美をどうにか拘束して、僕一人だけ逃げだそうかとも考えた。しかしそれは、自分の目の前から最大の問題を隠しただけであって、椿久美を僕の目の前から消す行動は、全くもってジレンマを解決する手段ではないと思い至った。今ここで最も簡単な逃避の手段を使ったところで何の解決にもならないし、誰も救われることはなかった。いや、それどころか、今、僕がどんな行動をしたところで、誰も幸せにならない状態であると気が付く。どんな行動を取ったところで、誰かは必ず傷つく。その誰かとは、大半が椿久美で、たった一回だけ、僕が椿久美に一生着いて行くと、心変わりし宣言したところで、恐らくそう長くは保《も》たない。一緒に居ると宣言した後も、二人は物理的に別れる以前に、精神的に別れざるを得ない結末に至るのは簡単に予想できる。すなわち、遅かれ早かれ、僕は椿久美を傷つける運命にあったと、自分自身に納得させようとした。しかし納得できるはずはない。『人は人を傷つけてはいけません』の言葉を不意に思い出した。その言葉は生まれたての赤子ですら知っている普遍的な道徳のテーマであり、しかし、誰でも分かっているが故に、それを実現するにはあまりにも人間は無力すぎると、心の底から痛感した。無力だから僕は何もできない、そして何もしないことですら、やってはいけない行動だと、何もせず茫然と久美の叫びを聞きながら感じていた。何もしないことすら許されないのなら、自分の存在を消すのが最も良い選択ではないのかと、自分の心の中に初めて自殺願望に気が付いた。そして、この僕の自殺願望もまた、『すぐに穴があったら入りたい』の方式で簡単に、逃げの手段としての自殺だと感じた。僕はやはりまだまだ子供であり、一人の女性を傍に置いておくほどの責任感は僕には大き過ぎた。そしてまたそれは自分の器の小ささを表しているだけで、器の大きさが『大人』か『子供』かを表す基準ではないと、また自己否定に陥って。
「……すーすー」
 呼吸の掠《かす》れた音がした。
 頭を下げてみると、久美が僕にしっかりと抱きついたままスヤスヤと眠りに着いていた。
 閉じた瞼《まぶた》から頬に架けて、涙の跡をしっかりと残し、小さく唇を開いて、お休みになっていた。
 その久美の寝顔は、僕がずっと何もできないジレンマから、よく分からない思考を展開していたが、僕の自殺思考を完全に打ち破った。
 ジレンマなんかに陥っている場合じゃない。彼女は今、目の前で寝ている。
 今なら彼女を抑えられるのでは……?
 僕は素早くポケットから鍵を取りだして、鍵山をじっと見つめた。
 (今なら……今なら……)
 この鍵を久美に突き刺して、人間としての久美が止まるのかは分からない。もしかしたら何も変わらないのかもしれない。それでも、何かは変わるかもしれない。
 彼女は僕を拘束しようと画策し、僕に願い出て、否定され、狂って、狂い疲れて、眠った。それだけだ。彼女は一貫して自分を通そうとした。一度も自分の信条を曲げる方向へと進んではいない。結局、今彼女が目覚めたならば、僕を自分の側に置いておこうとするだろう。
 彼女は勇ましかった。彼女は絶対に曲がらない。
 もし、僕が彼女を信じるのならば、彼女の信念を信じるのならば、それは裏切らなければならないだろう。
 彼女を知っているから、僕は彼女を否定することができる。彼女は間違っている。
 僕に向かって頭を寄せている椿の上から、ゆっくりと気付かれないように、ブラウスとキャミソールを捲《まく》り上げていく。
 彼女の腰に、小さな穴が現れる。僕は右手で制服のズボンを弄《まさぐ》って鍵を取り出した。
 吉良教授の部屋で見つけた鍵。
 鍵から目を離し、久美の緑がかった髪をもう一度見る。
「僕の為にありがとう。ゆっくり、お休みなさい」
 口には出さず、心の中で呟いた。
 僕は鍵を差し込み、椿の稼働をオフにした。


 038

 久美の右手から闇が消えた。腕の中で、久美は静かに物質へと戻っていった。
 突然に、玄関の扉が開く音がした。
「あら……、由人帰ってたの」
 部屋の扉の向こうから、かすかにそんな独り言が聞こえてくる。きっと母親が玄関を見てそう思ったのだろう。何にしてもタイミングが良すぎる。勿論、はぐらかすつもりなどない。きっとウィズが迎えに来たのだろう。先程の久美の説明にもあったように、右手の不定形により、久美のスイッチを入れたときから、ウィズから観測されない状態になっていた。今、スイッチを切ったことで、ウィズからしたら突然に僕等、白石由人と椿久美が現れたと観測される。それは不自然だ。白石由人が不自然な行動をしたのなら、なるべく自然な方法で白石由人に接触し、自然と白石由人の自由を奪うように誘導していくだろう。
 かつて椿久美にそうさせようとしたように。
 結局は椿の我儘《わがまま》も加わってかなり不自然な方法で、僕が月に移転することを告げるはめになったのだけれど。
「ゆうと! 帰ってるの?」
 今度は大きな、二階に向かって呼びかけるような声が響いてきた。考えろ、ウィズは何をしようとするだろう? 不自然が起こった原因は僕か? 僕かもしれない。だけどウィズは僕には何もできない。それは僕が人間であり、機械は人間に従うことが絶対法則なのだから。
 そもそも機械は人間のためだけに動いているのであり、僕に無理矢理危害を加えたり、承認なしに不意に別の衛星へと転移することなどできないのだ。たかが、地球上の一点で起こった、人間が起こしたほんの不自然で、人間の行動を無理矢理束縛することはしない。やるとするならば、僕が意識できないほど曖昧に、回りくどいやり方で行動を制限していくだろう。だが、それよりも、現時点の不自然が発生した明らかな原因が、人間以外にある。僕の腕のなかの椿久美。彼女が当たり前のアンドロイドで僕に直接、移転の説明をすれば、新たな不定形など生じることもなかったのだ。ウィズがどんなやり方を取るかは分からないが、存在を消すとしたら──この椿のほうだ。
 椿が消えるのは嫌だ。椿が生きていたら僕の行動は制限され、僕は生きていくことができなくなるけれど、椿が消えるのは嫌だ。椿は僕の母親だから、消えるのが嫌なのは当たり前なんだろうし、椿のことが好きだから、椿が死ぬのが嫌なのは当たり前だ。たとえウィズが、チップの不要な部分だけを入れ替え、椿と全く同じ人間を創りだしてもだ。椿の人間であるところが好きなのだ。
「ちょっと、ゆうと。居るんでしょ?」
 母親が、階段を上ってくる音がする。一歩ずつギシギシと軋むその音は、鼓動に相乗して決断を急かす。考える時間がないことと同時に、行動の選択肢もほぼないことに気付く。母親とバッチングしたらアウトだ。人間と人間が会話をしたら、どんな不自然なことでも自然になる。言葉は全て思いつきだからだ。何となく思いついたから、こんなことを言ってみた、行動してみた、指示してみた、で通用する。
 例えば、母さんが風呂掃除を指示し、僕が掃除をしている間の、見ていない隙に、椿を移転させ、「ああ、椿さんなら帰ったよ」と言えば、椿は帰ったことになる。この際、僕の所有権など、不定形が現れる危険度と比べればずっと重いと判断するだろう。
 危害は加えることはなくとも、支配を揺るがすことは許さない。ウィズは絶対だ。揺らぎがあることは許さない。
 僕は、決断する。上半身を抱きかかえたままの、椿の太ももを右手で救う。お姫様だっこの形になって部屋の窓へと近づいた。抱きかかえたまま、窓を指先だけで開ける。僕の部屋は二階だ。窓を開けると豊肥本線を電車の通る音がした。梅雨入り前の生温かい重い気流が窓から入ってくる。
 僕は、窓下に椿をひとまず置き、自分の身体だけを窓枠からまたぐ。雨どいから雨を下水へと降ろすポールに手が届くかを試す。届く。判断はそれだけでよかった。
 僕はまた、窓枠へと戻ると、椿を一気に引き上げる。重さで少ししか上がらず、椿のひざの裏を手で掬《すく》う。そのまま肩に椿を担ぎ、先程とは逆の、左手で一気にポールを掴む。二人分の体重が加わったポールは不安定にぶわぶわと揺れたが、僕は構わず裸足でポールから壁に伸びる金具を掴む。そのまま早く地面へ降りていく。
 降り立ったときに、「ゆうと、居るんでしょ?」と言いながらノックする音が窓の向こうから聞こえた。僕は何も考えずに、裸足のままで実家の庭を飛び出した。裸足で砂利の上を歩くのは痛かった。でもそれ以上に椿を失うのは怖かった。何も考えぬままコンクリートが敷き詰められた道路へと出た。自分の家を振り返らずに、道路をただ走っていった。
 僕は歯を食いしばった。考えたからだ。何をしているのかが自分でもわからなかった。その場をしのいだところで、何になるというのだろう。僕は椿に何を期待しているのだろう。僕は何をするべきなのだろう? わからない。わからないから、動き続けるしかなかった。留《とど》まるにも覚悟が必要だった。
 と、そのとき。
「そんなに逃げなくても大丈夫よ」
 右後ろから女の人の穏やかな声が遠くからした。僕は振り返る。道路の向こうの庭で、女の人が電話をしていた。電話と言ってもエアフォン。右手を電話の形にすると、腕時計が勝手に電話機能を開始する、僕らの世界では当たり前の電話通信方法──すなわち無形《エア》電話《フォン》で電話をしていた。
 大声で、電話に向かって喋《しゃべ》る。
 まるで僕に届かせるように。
「せっかくもう少ししかないんだからさ」
「どうせなら楽しんじゃえばいいのにね」
 今度は子供の声がした。子供の声が二つ。男の子と女の子。エアフォンを見ていた僕の背後からその声が聞こえた。
 子供たちの顔は見えない。二人揃って、僕に背中を見せながら勢い任せに走っていった。
「前を見て生きなさいよ!」
 また後ろから声がした。振り返ると、それは民家の窓から、その女の人の声は聞こえた。くぐもった音声から察するに、夕方の再放送枠のドラマを放映するテレビの音が、窓を通じて僕に届けられているようだった。
「振り返ってみれば、幸せはそこにあるから。さあ、振り返りなさい」
 聞こえてくる。ドラマの中ではどういう状況か分からないが、声が聞こえてくる。
「振り返りなさいよ!」
 女の人が叫んだ。僕は振り返った。
 民家の塀の前に、溢《あふ》れんばかりの札束が置かれていた。
 肩に乗せていた、椿は、いつの間にか消えていた。
「……いらねえよ。使いきれないだろ」
 僕は札束の山に向かってぼやく。
 僕にとって重要なのは、椿が消えたことだった。あちこちから散らばる声に惑わされて、ぐるぐると振り返り続けている間に、椿が消えていた。椿を抑えていたはずの右手が、抑えていたのは僕の左肩だった。
「なあ、ウィズ。ウィズさん。僕が欲しいのは椿なんだ。物じゃないんだ。人間なんだ」
「整理しましょう」
 無形電話を掛けているであろう女性が僕の側を、僕のすぐ背後を通り過ぎる。僕は振り返ることはしなかった。
「椿久美はもう動かないのですよ」
 また、違う女の人の声が背後でした。色々な人が僕の背後にいるようだった。僕の見えないところから、次々と人が湧いて出ているようだった。
「返してくれないか?」
 僕は前を──札束の山を向いたまま、訊いた。
「なぜ?」女の人の声が聞こえる。
「連れていく」
「何処へ?」男の人の声が聞こえた。
「僕が消えるそのときまで」
「……どうせなら楽しみませんか。椿久美さんとの最後の思い出を。一回だけなら整合性のとれた天国を創ってあげられますから」
 子供の女の子の声が聞こえた。
「返してくれないか?」
 そのまま返してくれ、と僕は付け加えた。
「眼を瞑《つむ》ってください」女の子が言う。
「返してくれ」
「……眼を瞑ったら返します」女の子が言う。
「目の前で返してくれ」
「見苦しいんですよ!」
 女の子が激昂する声が聞こえた。
 僕は、はっと我に返る。そういえば、さっきから同じ女の子の声しかしない。
 一人に言わせた? 一人? それはウィズ本人?
 僕は振り返る。誰もいない。
「さっきから何なんですか、あなた? 研究室で激昂したときはまだ筋が通ってましたよ。後付けの論理で理解できましたよ。でも、今は、全然分かんないですよ! 訳《わけ》わかんないですよ!」
 声は、後ろから聞こえる、のか? 後ろというより、真後ろ。視界が届かない、耳のすぐそばで誰かが囁《ささや》いているような。
「あなたが、椿久美の稼動を止めたんでしょ? なんで動かない椿を手元に保ちつづけようとするんですか? まさかその年でネクロフィリアでもあるまいし。 ほら、椿さん返しますよ。あなたがそう望むんなら返しますよ。ほら、振り返ってみんさい」
 振り返ったら、椿が札束の山に寄り添うように存在していた。眼を瞑ったまま。口は少し開いて、閉じた歯が覗いていた。
「ほら、あげました。もう知っているでしょう? 私が物質を全て司《つかさど》ってるって」
 女の子の声が、聞こえる。全てを確認するように。
 僕は、そんな声など無視して、椿に寄り添い、《《腰のくぼみ》》を確認する。
 存在する。全く同じ配列で物質を創っている。
 ウィズは、《《この鍵穴の存在》》に気が付いていない。
「さ、白石くん。あなたに幸福を《《与えましょう》》」
 久美を、僕は更に抱き寄せた。顔を埋《うず》め、眼を瞑った。
「さあ、青春を始めよう!」
 後ろから、女の子の声がする。
 瞬間、身体の感覚がなくなった。


 039

 腕の中の、人肌の感触がなくなった。僕は、はっとして眼を開ける。体勢が揺らぐ。そのまま、目の下の砂浜に落ちていく。
 砂浜? 砂? あれ?
 ここは? 
 僕はそのまま、灼熱の砂浜に突っ伏した。
 胸に、右肘に砂の熱さが直接伝わってくる。
 僕は上半身の服を着ていなかった。
 波の音がする。
 急いで顔を上げる。波の音がする方を振り向くと海があった。波が砂浜に打ち付け、遠くの方に大陸から延びる半島が見える。半島の奥には、透明なドームの淵が見える。
 えっと、思い出せない。
 ここは、ええっと……。
「《《おおーい!》》」と後ろから声がした。
 振り向くと、久美が手を振っていた。白いつばの大きな麦わら帽子をかぶった、パレオ姿の久美。裾を風にはためかせながら、大きく手を振っている。その後ろに、綾伽《あやか》と太一《たいち》もいた。太一は膝下まである、黒を下地にした黄、青、緑蛍光ボーダーのサーフパンツを履いていた。綾伽は、フリルのついた黒いビキニ姿だった。スポーツ少女の綾伽が黒いハーフパンツ型のビキニを履いているのを遠くから見ると、スパッツにしか見えない。彼女の筋肉質な肌がしっかりとアピールされていた。綾伽はあきれ顔で僕を見ていた。太一は茶化すような顔だった。久美は近づいて来いと、誘うような表情だった。
 三人が揃《そろ》って、僕を見ていた。
「はー、やー、くー。ビーチバレー、するよー!」
 久美が手でメガホンを作って、僕に大声で呼びかける。
「ええっとー、」
 僕も負けじと、座ったままで大声で叫ぶ。
「《《俺は》》だれー?」
 太一は「はあ?」という顔をした。三人で顔を向き合わせる。
「何言ってんだよ? 暑さで頭でも壊しちまったのか?」太一が近づきながら、俺に問いかけた。
 俺?
 いや、何も不自然ではないはずだ。人の前に立つと一人称が俺になるのは当たり前だ。それが普通だ。自然だ。だけど、何か小さな違和感がある。よく分からない。
 俺のすぐ側まできた三人を見上げながら、尋ねる。
「なあ、俺の名前はなんだ?」
「ゆうとだ。白石由人。白い石に由《よ》い人、で白石由人。てか大丈夫か? おい」
 太一が、俺の手を引き上げようと、腕を伸ばす。が、綾伽がそれを制止させた。
「ああ、待て待て。ほんとに頭がおかしくなったかもしれないから、そのまま無理に動かさない方がいいだろう。ここに荷物持ってくるから、由人はじっとしてろ。……ついでにここにパラソルを拡げよう。久美っちも荷物運ぶの手伝ってくれ。太一はここで由人を見ていてくれ」
「おっけー」久美が、敬礼のポーズで綾伽とともに小屋の方へといくことに首肯した。
 綾伽が、先に進み、久美が後からついていこうとした。が、久美ははたと、右足を空中に止めた姿勢で、ピタッと歩くのを止めた。
「……と、そのまえに。由人くん。少しでも涼しくなるように」そう言うと、久美はパレオをほどいて、俺の頭にかぶせた。ぶっきらぼうなかぶせ方で、視界がいっきに遮られる。パレオの隙間から久美の、フリルのついた黄色い水着姿が見えた。
 久美が走って、綾伽の元へと走っていった。小さくなっていく久美の姿を、パレオを払わずにぼうっと見ていた。
「……やれやれ」
 太一が僕の横に、胡坐《あぐら》で座り込んだ。が、すぐに飛びあがった。
「ってあっちいな! おめえよくこんなとこ座ってられんな!」
 太一は、自分のビーサンを脱いで、片方を座布団にする。もう片方は足乗せにして、三角ずわりでちょこんと座った。
 俺は思い出そうとした。しかし、頭が痛い。ずきずきする。自分でも熱中症だと分かる。何も思い出せない。ここは一体──
「──どこなんだ?」
「御立《おたち》岬《みさき》だよ。俺ら四人で原付乗ってきたんじゃねーか。四人ぴったり部活の空いた、お盆に」
 思わず漏《も》れたつぶやきに、太一が返してきた。
「というと何月何日だ?」
「八月二十三日」
「二〇八〇年?」
「当たり前だろ……。どのレベルで忘れてんだよ」太一は苦笑いした。
「忘れてんなら、逐一説明してやんよ。海着いて、お前勢い任せで海に飛び込んだじゃねーか。あ、もちろん服脱いでだけど。ビーチバレーすることになって、全員でボールやら荷物やらを取り行こうと歩いてたら、お前急にいなくなるんだもんな」
「ああ、そうだった。……急に海に戻りたくなったんだ」
 本音を言うと覚えていなかった。でも、心配かけたくはなかった。
 海を眺める。暑い。ドームあるはずなのに滅茶苦茶暑い。ぼーっと海をただ眺める。痛みはまだ、続く。
「ほい、みずー」急に、背後から綾伽の声がした。
 突然に頭上から、水が降ってくる。大量に。
 視界が水で押し寄せられた前髪で塞がる。水と前髪で視界がゆらゆらと揺れた。しゅわあっと音がする。……しゅわあ? ……頭が痛くて、反応ができない。リアクションが取れない。あー、でも気持ちいい。いや、ちょっと待て、眼に強くしみるぞこれ。角膜でパチパチと水が弾く。真水じゃないのかこれ。
 ゆらりと綾伽のほうを見る。手には空になったアクエリアススパークルのペットボトル。俺の毛根がしゅわしゅわと悲鳴を上げていた。
「あー! ちょっと綾伽ちゃん! 私のパレオごと濡らしてる!」
 水で視界がぼやけるなか、パラソルを両手で抱えながら、焦る久美の姿があった。濡らしたどころではなく、既にべたべたの悲惨な事実には未だに気付いていないようだった。
 市村《いちむら》綾伽《あやか》──
 熊本高校二年。
 熊本高校のたった一人の女空手部。趣味は合気道。得意は太極拳《たいきょくけん》。
 身長百七十センチ越え。俺と同じくらい。
 ウエスト、理想的。
 バスト、すごい。
 太一とは小学校のスポーツクラブからの付き合い。今でも型の練習として、休み時間によく太一を使う。
 髪型はロング。基本、結んでいない。
 口は丁寧。行動はがさつ。
 性格は優しい。けどがさつ。
 相手の心を読まない。
 けれど性格が優しいので、知り合ってる人はみんな黙認。赤の他人は彼女の有り余る筋力を見て黙認する。
 ……後半悪口になってきたので、紹介終わり。
 レジャーシートが広げられ、パラソルが立てられた。辺り一帯が陰に覆われた。
「バレー」綾伽が今、小屋から持って来たらしいビーチボールを片手で掴み、振り上げながら言う。……バレーしたくて仕方がないのだろう。サンリオのキャラクターが載っていた。黒いひよこを模したキャラクター『ゴッドバツマル』──その下には英語で“To be or not?”
 不思議と、その文言に眼がいった。聞いたことはある。シェイクスピアの言葉だと、英文問題集の裏表紙に載っていた。正しくは“To be or not to be, that is the question.”──生きるか死ぬか、それが問題だ、みたいな日本語訳が載っていた。それをもじったキャラクターなのだろう。
 一回深呼吸した。
「……よしいくか」ゴッドバツマルのビーチボールを鷲掴みにして、支えるように立ちあがる。
「あんま無理すんなよ」
 隣から、背中を軽く叩きながら太一が言った。


 040

 実は、夏休みのバスケの練習後太一に相談していた事があった。クラスの女子を連れて御立岬の『鍵の塔』へと登ってみないか、ここ、眺めよさそうで楽しそうじゃないかと。御立岬へ泳ぎに行く提案は俺から出したものだった。
 何気なく、冗談めかした提案だったと思う。そしたら太一は、「ほんとは、久美と二人で行きたいんだろ?」と、見透かしたようなことを言ってきた。図星だった。そこから、今回の『みんなで御立岬に行こう作戦、と言いつつ椿久美と白石由人の時間を創ってあげよう作戦。プロデュースby浜太一』は始まったらしい。
 下《くだ》らないように見えて、心の底では嬉しかった。夏休みに入って、久美と二人になる時間は全く取れなかった。お互いの部活が忙しく何故《なぜ》かすれ違いが起きていた。起きていたように思える。久美に伝えたいことがあった。それは、久美だけに伝えたいことであって、他の誰にも噂にも立ちたくないことだった。
 ビーチバレーをした後、休憩を挟んでまた泳いだ。一通り泳いだところで、西瓜《スイカ》割りをした。素直すぎる久美が海に向かって撥《ばち》をふり落したとき、みんなげらげら言って笑った。西瓜食べて、皮もちゃんとゴミとして持ち帰るために袋に入れた。日は徐々に傾いていった。最後にもう一回だけ海に入って、はしゃいだ。夕方の薄明りで、みんなの姿が影のように黒く見えた。オレンジの中で黒い影が踊り明かした。


 041

 着替え終わった後に、久美に一緒に『鍵の塔』へと行かないかと誘った。太一は、綾伽と海でも眺めておくと言った。海は泳ぐもんじゃなくて、眺めるためにあるもんなんだ、なんて言ったりしていた。──そして、久美とともに、今、『鍵の塔』に向かっている。
 御立岬には、シンボルタワーがある。通称、『鍵の塔』。十メートル程度の円筒のタワー。タワーの周囲は階段が蛇のように巻き付いている。螺旋階段を上った頂上には、海が一望できる展望台があるようだった。二人で、階段を一歩ずつ登っていく。
 階段を上った先では、塔の屋上が小さな広場になっていた。海を眺めると夕陽が輝いていた。海に夕陽の黄色がキラキラと反射している。熊本の海岸際《ぎわ》特有の、のっぺりとした西風が頬《ほほ》を撫でる。
 その海の手前の柵には、南京錠が山のように括《くく》り付けられている。鍵、鍵、鍵。夕陽の影で、黄金色とくすんだ黒色が混ざり合った色をしている。
 久美は、柱に掲示された説明文の前に歩いて行った。
「『ある夏の夜、海へきていた少女は、きれいな星空を眺めていました。すると、一つの星がきらきらと輝き少女を導くようにゆっくりと流れていきました。少女は星の流れゆくまま歩いていくと、同じようにその流れ星を見ていた少年と出会いました。
 二人は何かの運命を感じたように時のたつのも忘れ語り合い、夜が明けるころには、お互いに惹かれあっていました。
 別れ際、また逢えるように願いを込め、星に一番近いシンボルタワーに二人でカギをかけました。すると願いは叶えられ、二人は再会し結ばれ幸せになりました。
 その後、このシンボルタワーで、願いを込めてカギをかけると好きな人と結ばれるという伝説が生まれ、その伝説を信じる恋人たちが愛の誓いを込め、ここにカギをかけるようになりました。』──だってさ。すごい伝説あるんだねここ」
 僕が海を眺める柵へと近づくため、久美の後ろを通るときに、久美はわざわざ看板にある文字を全て口に出して言った。
「なあ、久美」
 僕は、柵に両肘をかけて、夕陽に輝く海を眺めながら言う。
「なに?」
「……今朝、夢を見たんだ。僕以外が全てロボットだって告げられる夢」
 僕は、久美の方を見ずに言う。
「最近、いや違うな。ここ数年ずっとか。酷い夢を見ることが多いんだ。阿蘇山が爆発したり、海泳いでるときに雷が落ちてきたり。周りに人々が誰もいなくなったり。そして、今朝がた、酷い夢を更新したんだ」
 僕は久美の方を見ずに言う。訥々《とつとつ》と告げていく。
「詳しくは覚えてないけど。夢の中で久美も太一も綾伽も、僕の父さんも母さんも、全部全部嘘だって言うんだ。おまえは地球でただ一人だって。白衣を着た知らない人に告げられるんだ」
 僕は真っ直ぐ海を、海の先に広がるドームの端を眺めながら、誰にも言わないかのように、宙に放るかのように言葉を投げる。
「怖いんだ。いつ終わるんだこの夢は」
 僕は前を向いたままだったので、後ろに久美がいるかどうかは分からない。実際そうだ。目の前に見えるこの世界だけが、見えているということだけが確かなだけで、そう感じている自分の認識だけが確かにそこにあって、それ以外は確かなことなんて何もない。

 本当に、椿がそこにいる保障なんて、どこにもない。

「……終わるよ」
 後ろから声が聞こえる。椿の声が聞こえる。
 いつのまにか、椿は僕の背中のすぐ傍にまで来ているようだった。
 一歩近づく音がした。
 椿が、右手を僕の左肩に伸せた。
 耳元にかすかな吐息を感じる。
「私が終わらせてみせるから」
 声が幽《かす》かに震えていた。
 僕は、横目で久美の表情を窺う。
 その言葉は、僕を慰める言葉のはずだった。久美が僕を励まそうとする、強い言葉のはずだった。なのに、なんで──
「なんで、泣いてるんだ、椿」
「泣いてないよ」
 涙を流しながら、久美は言う。
「泣いてないってば」
「……ごめんな。俺がこんな話をするから。萎《な》える話ばっかで」
「謝るな!」
 久美は、僕のポロシャツの裾を掴みながら、僕に叫んだ。
「……そう簡単に謝らないでよ。謝罪の価値が下がっちゃうじゃない」
 それに、と付け加える椿。
「由人が怖い夢の話をしてくれて、ほんっとうに感謝してる。そんな話、みんなの前で聞いたこと無かったもん。私のこと、信頼してくれてる証でしょ。私、とても嬉しいよ」
 あ、そうだ、と久美が小さな声で呟いて、シャーリングワンピースの底の深いポケットから南京《なんきん》錠《じょう》を取り出した。
「信頼の証に、この鍵結んじゃおうよ」
 椿の涙は、もう止まっていた。
「……椿も《《鍵を》》持ってきてたのか。ってあれ?」
 僕もポケットから、南京錠を取り出そうとした、が触れられなかった。手には鍵だけの感覚。記憶の中では、錠と鍵とをセットで持ってきたはずだった。どこかに錠の方は落してしまったのかもしれない。
「……おかしいな」
 僕は鍵をポケットから取り出し、鍵を自分の目の前に持ってきて、鍵に向かってそう言った途端に、パンっと何かが弾ける音が、目の前から突飛もなく飛んできた。
 僕が驚いて顔をあげると、僕に伸びる右手を必死に抑えつける久美の左手があった。抑えるというより、右腕の根元から右腕の進路を塞ぐように、固定するかの様に左手が、震えながら久美自身の右腕を抑えつけていた。
 僕の鍵の、左端にふれる寸前まで、久美の右手が伸びている。僕から見て左側から、回り込むように久美の右手は伸びていた。空中で止まって小刻みに震えている。
 久美の顔は下を見ている。ショートボブの前髪は表情を隠すように垂れている。
 はらりと、耳に掛かっていた前髪がまた、一束《いっそく》垂れた。
 久美の、小さな呼吸音が聞こえる。聞こえる程に久美の呼吸は荒れていた。
「……離れて」
 それは、ともすれば聞き落してしまいそうなほど、小さな声だった。
 僕は言われるがままに、一歩下がる。下がって、こういう場合のお決まりのセリフを口にした。
「お、おい、いきなり何言ってんだよ」
 そう、僕が口にした途端。
 久美の左手が《《負けた。》》
 思い切り力を加えていたのだろう。また、何かが弾けるような、人の肌と肌が擦《す》れた音とは思えない、まるでゴムを机に打ちつけたかのような、乾いた無機質な音がして、両腕がクロスされ、久美は右へ回転しながら、前へとつんのめる。
 その勢いをそのままに、久美は右手の甲で、僕の右側から僕の左手を叩《はた》きにくる。久美の右手の狙いは、僕自身ではなく僕が握っている鍵の方だと、その掴むにも相応《ふさわ》しくなく、攻撃するにもダメージが弱い裏拳を見て、そう悟る。僕はすぐに左手を身体の近くへと引き寄せる。久美の右手が宙を空振る音がする。音がするということは、それほどその右手の裏拳は威力があったということで、右手が空中を切り裂いたと表現した方がいいかもしれない。
 僕はとにかく、鍵を左ポケットへと仕舞い込んだ。
「その鍵を渡しなさい。もしくは棄てなさい」
 状態を立て直した久美は、無機質な声でそう言った。表情は窺えた。瞳に感情が無い。力がない。光が反射していない、黒い眼《まなこ》。
「棄てればいいんです。棄てれば戻れるんです。棄てれば幸せになれるんです。棄てれば迷うこともないのです」
 久美は口を半開きにして、続ける。
「……お願い、棄てて頂戴《ちょうだい》。由人」
 口調が変わった。いつもの久美に戻った。
「……棄てろと言われれば逆に棄てたくなくなる、僕の性格を知ってのその発言か?」
 僕は、やっと喋ることができた。
「由人、僕っ子になってるね」
「僕っ娘にはなっていないだろう」
 これは、昔もした会話。いつも、久美の前では、僕という一人称に戻ってしまう。   
 本当の僕が現れる。
「久美ってその会話好きだな。二人きりになって、僕が僕と言い始めると毎回そのセリフを吐くな」
「だいじょうぶだいじょうぶ。久美ちゃんは言いました」
「……それは毎回は言ってないな」
「五月のあの日だったね。このセリフを言ったの。その後キスしようとして、由人が意気地無しだから逃げ出したんだっけ」
「思い出したくない記憶だな」
 久美は、震えている。目も死んだままだ。だけど、僕は避難する気もなく叫ぶ気もなく、いつも通り会話をする。
 異常が起きたら、元に戻すのが一番だ。
 だけど、僕はぶち壊す。自分で言ったことも次の会話で忘れ去る。短期記憶能力が欠如しているのは自覚の上で、次に会話を続けようとする。言葉を口で紡ごうとするその寸前で、セリフを脳内で構築したのを客観的に判定するその瞬間に、僕はいつもそう思う。
「……なあ、久美」
「なに?」
「この鍵ってなんだ?」
「棄てると幸福になる魔法の鍵」
「取っとくと不幸になるのか」
「そろそろ棄てよう」
 久美が、右手を伸ばしてきた。久美の顔が鍵を掌に乗せろと言っている。
「説明してくれ」
「説明したらその鍵渡してくれるの?」
 僕が言いそうなことを言う椿。疑わしげな視線を僕に向ける。
 嫌いな僕をそのまま鏡に写したような言い方だった。
「この鍵を椿に渡したらどうなる?」
「闘いが終わる」
「闘いなんてどこにある?」
「私の心の葛藤。だって、その鍵、昔私が渡した鍵だもん。由人に渡した鍵。それをそのまま持ってくるなんて由人、最低だね」
 久美が、僕にこの鍵を渡したと言う。
 そんな記憶は、僕の中のどこにもなかった。
「由人にね、昔渡したんだよ、その鍵。ほら、由人の誕生日に宝箱を渡したじゃない? 宝箱を開ける鍵がそれだったじゃない。ほら、ほら。それでさ、由人は誕生日プレゼント、そんなに喜んでなかったじゃない? だからその出来事は私の小さなトラウマになっていたんだよね。由人、こんなときに、その鍵を持ってくるなんて、由人最低だね」
 僕がいつの間にか、最低認定されていた。
 そしてなにより、どんなに付け加えられても僕の頭の中にそんな記憶はなかった。
 久美は、その後も二言三言、述べつなく話し続けた。
 けれどそれはどれも僕の心には届かなくて、数秒後の記憶にすら残ることはなかった。
 ぼうっとしていた。僕は何も考えずに、久美を見ていた。久美の背景を見ていた。夕焼けに染まる、久美の背景である山々をぼうっと見ていた。
「《《絶対なのよ》》」
 その言葉を聞くまでは。
 その言葉を聞いた時だけ、背景に同化していた久美の姿が急に輪郭を持って感じられた。急激に僕の焦点が久美そのものに合わせられる。
 今、何て言った?
 久美は、背景に溶け込んでいた久美は笑顔だったらしい。更に深く微笑んだ、その表情の動きに感付いて、久美が笑顔であったことを知った。
 久美は、《《更に深く笑った。》》
「……何で絶対なんだ?」
「何でだと思う?」
 久美はちょっと笑いながら逆に訊いてきた。
 僕は久美の話を全く聞いていなかったので、適当に話をつなげる。宝箱が云々かんぬん。プレゼントの鍵が云々かんぬん。
「ご・め・い・とー、ゆーくん」
 耳が勝手に反応する。その言葉もはっきりと聞き取ることができた。
 この会話は、どこかで。
 何かを刺激される不快感。何かがおかしいと心が叫ぶ焦燥感。
 僕は何かが《《無い》》と気付く。無い存在があることに気が付く。
「物質移転装置なんて、知るもんかー!」
 不意に、脈絡《みゃくらく》のない久美の発言が……あった。
 いや、目の前の久美は、何も話していない。ただ微笑んでいる。
 今のは、頭の中で、勝手に……。音が。声が、勝手に。
「あ、あ」
 僕の声が、思わず漏れる。勝手に、久美の声が、響く。ハウリングする。
「ごめんなさい、由人」
 研究所の前で、泣き崩れる椿の姿。
「あ。あああ……」
 改札を、無言で何も見ずに通り過ぎていく椿の姿。
 僕と一緒に昼食を食べる椿の姿。
 光の先に、突然現れる椿の姿。
 僕にカッターナイフを押しつける椿の姿。
 僕を抱きしめて、唄を語りかける椿の姿。
 謝り続ける、椿の姿。
「あ、あああああああああああああああ」
 僕は堪らず、頭を抱えて地面へ突っ伏せる。爪を頭皮に立てる。脳に刺激を与える。それでもなお湧いてくる現像の数々。どうにかして止めようと、止めようと、試みる。嘘だ。試みていない。違う。違う違う。違うのはどちらだ。僕が。違う。やることが違う。考えることが違う。行動することが違う。動かすことが違う。
 僕は右手で頭を抱えたまま、左手をポケットに突っ込む。奥に押し込んだ鍵を握りしめる。僕は右手を支えにして立ち上がる。急に立ち上がったことによる眩暈《めまい》で目の前が黒い泡に蓋《おお》われる。それに関係なく、椿への視認の記憶を頼りに変な姿勢のままで突っ込む。
 目の前の黒い霧が晴れたときには、椿の後ろに回り込んでいた。
「ごめん椿!」
 僕は右手全体を使って、椿の腰回りを両腕でロックして、椿のワンピースの上から背骨下部を触る。
 先程の、水着姿では全く存在していなかった小さな穴を、椿の腰に確認した。
 つまりこの鍵穴は、鍵に反応して現れる。それも不定形の形で。僕にしか見えない、人間にしか分からない、判別の仕方で。
 僕は鍵を鍵穴の上に押し当てる。鍵の先端だけ、まるでそこに何もなかったかのように、水色のワンピースの生地がほろほろと、落ちていく。
 僕は間違っていた。椿の稼動を止めたことも、圧倒的な真実を前に自身の選択を放棄したことも。何もかも間違っていた。自分では何も選び取ってはいない。死ぬ間際にして運命に身を任せただけだった。
 ウィズの声が聞こえたあの時、椿に顔を埋めて何もしなかったあの時、僕は本来、運命に負けていたのだ。何も選ばなかったから、機械が創りだした幻想に入れられた。
 創られた幸福を、ぶち壊す。
 僕は、鍵穴に鍵を差し込んで回した。
 途端に、椿の力が抜ける。回していた右腕と、僕の体幹に椿の重みがぐっと掛かってきた。──目を閉じた椿の顔は僅かに微笑んでいるように思えた。
 僕は、久美を抱き止め、そのまま膝を折ってコンクリートに着座する。
 腕の中の彼女からは目を離さず、ゆっくりと丁寧に腰を下ろした。
 地面に着いて数分後──椿は再び目を覚ました。
「ただいま」彼女はそう言った。
「おかえり」僕は腕の中の彼女にそう答えた。「僕の方こそ、ただいま」そう続けると、彼女は「おかえりなさい」なんて返したりした。
 お互いに、その場にいなかった。記憶を忘れていた僕と、意識を失っていた彼女。お互いができることで、互いが互いを呼び戻した。
「あの発言は、わざと?」
「うん。ウィズさんを出し抜くために、何となく混ぜてみたの。気付かれないタイミングで、由人には分かるかと思って。分からないなら、分からないでもういいやって、小さな賭けと大きな諦めでの決断だったけど」
「ありがとう」
 ありがとう、だけでよかった。無駄に理屈っぽい言葉は返すべきでないと思った。椿は闘っていたのだ。この期《ご》に及んで、ウィズに抵抗していたのだ。
 けど、そんなこと、口にするだけ無駄な解説。逃げずに、自分のことを考えよう。
 果たして、僕は何がしたい?
 命の果てに何を選ぶ?
 今までやってきたことは何だ? 《《 自分の》》意思で積み重ねてきたことは一体何だ?
 そんなものは、たった一つだ。
「……僕は、人生の最後にバスケがしたい。今まで通り部活がしたい」
 彼女は静かに頷いた。
「なあ、ウィズさん」
 僕は、宙に向かって話し掛けた。
「僕のしたいことが見つかった。僕のたった一つの願いだ。あなたが用意してくれたこの世界には感謝している。楽しかったよありがとう。だけど、僕のしたいことが見つかったんだ。たった一つでいい。たった一回でいい。二〇八〇年五月二十四日の午後四時、僕の部屋に戻してほしい。たった一回の願いで、たった一回の《《僕の》》願いだ。その後は何の抵抗もなく、僕は月へ移転する。頼む、一度の願いを受け入れてくれ」
 声に出して、数十秒が経過した。
 何も起きない。
 そう言えばと思い、僕は久美の右手を確認した。久美の右手に空いた小さな黒い穴。これがある限りウィズは観測できないのだった。声など届くはずもない。
「久美、ウィズと話がしたい。直接話がしたい。稼動をいったん止めていいか?」
「御好きにどうぞ」
 僕は、久美の稼動をオフにして、もう一度先程の願いを宙に向かって語りかけた。
 数秒が経過する。何も起きない。
 駄目だったか、と少しウィズを恨んだ、そのとき。
 僕の視線の先の空に、小さな黒い罅《ひび》が入った。毛細血管に水を一滴落としたかのように、音もなく当たり前に黒い罅が拡がっていく。
 僕はその異常な光景を、久美を抱いたまま見つめる。久美も首を空に向けて真剣な眼差しで見詰める。
 オレンジの空の小さな一《ひと》欠片《かけら》が、ぽろっと剥《は》げた。茹でた卵を初めて剥《む》くときのように。
 空がなくなったその区域は暗い闇。何も無かった。
 黒い闇とオレンジの空の境界から、空が次々に落ちていく。落ちた空は、剥がれた途端に黒に変わった。黒い泡になった。黒い泡が次々と空のあった場所を増殖していく。
 つまり空が消えていっていた。
 否《いや》、空が無《む》へと裏返っていっていたと言ったほうが表現が正しいか。
 海岸線が飲み込まれた。太陽が消えた。なのに周りは明るい。  
 空が全て無に裏返った。遠くに見える島々が一斉に無へと裏返っていく。海が次々に無に変わり陸地にまで到達した。
 無は陸地を熨《の》し上がり、鍵の塔の前まで浸食を終えた。まるで止《とど》まろうとしない無は鍵の塔を避けるように、鍵の塔の手前で二股に裂けた。
 無が陸に手を伸ばす。陸がぱたぱたと無に呑まれていく。空から始まり、遠くの島々、平らな海面、山の起伏に関係なく、全て一定の速度で、そうあることが当たり前であるかのように無かったことになっていく。
 世界の物質が全てが、有から無へと裏返っていく。
 床との角度の関係で、無の浸食が一旦見えなくなる。
 それも、束の間。
 塔を這い上がってきた無が、塔の上まで押し寄せてきた。
 確認した途端に、もう僕ら──白石由人と椿久美──以外のすべての物質を無は包んでいた。
 地面も、宙も何もない。
 僕は、一度も眼を瞑《つむ》らなかった。久美も同じ。
 瞑ってはいけない。これが真実で、これがWITHの本当の力だ。
 その壮大さを脳に焼き付ける。
 無に閉ざされた時間は一《いち》刹那《せつな》。
 地べたに座り込んだ僕等の膝元から、何かが拡がる。クリーム色の何かが薄く薄く、拡がっていく。平面に二人を中心とした円形に、均一な速度で拡大していく。
 急にぴたりと止まる。円周の先から、にょきっと三次元方向に、色の無い何かが生える。蠢《うごめ》いている。振動を当てられたゲル素材のように、無邪気に予測不可能にわさわさと生えてくる。その触角は、僕と久美に近づいてくる。拡がっていく円周の先では生えながら、色が付いていく。
 僕等に近づいてきた何かは、僕に触った途端に、生理的に嫌うかのように触角を違う方向へと向ける。一つの触手が逃げたのに、それを認識していないのか次々と別の触手が僕等に触れてくる。その度に自分たちの居場所でないように、僕等を避ける。存在はここにあると認識すると、それら別の存在たちは居場所を失っていく。なかには母体から避けた勢いで切れてしまった者もいた。それらは、たちまち闇に呑まれ消えていった。
 いくらでも触覚が僕等に纏《まと》わりつきながら、空間を創っていく。物質が存在していく。
 足元からの着色作業が壁にまで到達した。僕の部屋の白いチェスト、チェストの上に乗ったデジタル時計が見える。16:00ジャスト。時計は動いていない。
 僕は動くのがあまりに危険だと思ったので、固まったままで世界を見つめる。久美も同じで目を見開いて、視線を固定していた。
 久美も初めて見るのかもしれない。
 天井まで着色作業が進んでいた。僕等の周囲は既に僕の部屋だった。
 僕は首をあげる。クリーム色の吊るされた電灯が、ガラスの透明へと着色されていく。
 電灯の紐の先まで着色された。部屋の隅まで塗り終わったとき、作業がすべて完了された。僕は時計を見た。16:00の、秒数は10を表示していた。
 下部のカレンダー表記に注目する。
 二〇八〇年五月二十四日。僕と久美は僕の部屋に戻ってきた。


 041.

 本当に、椿がそこにいる保障なんて、どこにもない。

「……終わらない。それでも世界は終わらない。何があっても廻り続ける」
 後ろから椿の声が聞こえる。
 いつのまにか、椿は僕の背中のすぐ傍にまで来ているようだった。
 しかし、今何て言った?
「世界……? どういうこと?」
 僕は振り向いて言った。椿の顔は真剣そのものでどこにもふざけている様子は無かった。
「あー……。えっとこれ、誰かの格言なんだ。例えばさ、一人の人がいくら死にたくなったとしても淡々と世界は廻り続けるって。その逆もしかりでどんなに楽しい生活を送っていても自分の感情とは無関係に、無常に淡々と世界は廻り続けるって。移り行く心の変化とは対称的にただただ世界は廻り続ける。それだけがこの世の真実だって格言。ほら、時代によって真実って変わるでしょ。つまりは変わり続けることだけが変わることのない唯一の真実だって意味らしいよ」
 彼女は淡々と、決して早口にはならず一言一言噛み締めるように言葉を発する。
「だからね……この格言に則ると由人の悪夢は終わることはない。終わると言い切ることは絶対に出来ない。いつまた悪夢を見るかも分からない。厭なことが終わるだなんて言い切る無責任は、私には持つことが出来ない」
「……久美のことだから『きっと終わるよ』とか言うかと思った」
「私はそんな無責任じゃないんだ。特に心の底から発せられるシリアスな言葉の場合はね。私は知ってる。その夢は多分終わらない。由人はずっと苦しい夢を見続けてしまうと思う。だから、私が本当に由人にしてあげられることは、由人のその夢を傍で聞いてあげることだけ。由人が苦しかったら、何でも私に言って。絶対に由人の話を聞く。遠くにいればエアフォンで聞く。だからずっと私の側にいてください。今までどおりずっと私と付き合って居てください」
「……僕の願いまで久美が話してるな」
「由人の幸せが私の願いだからです」
 いつになくシリアスに言う久美。
 なんか性格も堅くなってないか?
 久美が僕のすぐ右隣りまで移動し柵に手を掛けた。
「不幸を二人で分け合わさせてください。幸福を二人で重ね合わさせてください」
 全てが受身形の久美の懇願。
 ええと。どうすれば。
 僕はちらりと久美を見た。久美も視線に気付いて僕の方を見た。
 一瞬の間。
 僕は久美に弱音を吐いて、久美は不幸を分けろと言う。
 僕だって、久美に幸福を分け与えなければいけない。そうでなければ釣り合う関係にはなれないだろう。
 勇気を出せ。久美はこんなにも僕のことを思っているのだ。初めては僕の方から仕掛けてみろ。
 僕は久美の右肩に手を伸ばし、久美を顔をすぐ側まで引き寄せる。
 僕は顔を低く降ろしていた。視界の端に映っていた夕陽が、久美の陰に重なり見えなくなる。
 勢いのままに、僕は久美の唇を奪った。

 ──そのとき、なにかかちりと音がした。
 何かが落ちたような音。
 もちろん、恋に落ちる音とかそういう比喩じゃなくて、物理的に、何かスイッチが入る音がした。
  僕はその音に気付いたけれど、聞こえていないふりをした。
                                     〈了〉

           《World is circulation.》is bad end....

 042

 熊本高校バスケットボール部部室。
 熊本高校の体育館は、体育館がある建物の二階にコートが張ってある。一階は、吹き抜けになっていてピロティーと屋内部活の部室とが存在している。部室が連なる中で、最もグラウンドに近い一室にバスケ部の部室は存在している。
 あれから。
 僕の部屋が出来た直後、僕は久美とともに僕の家を出た。僕はバスケ用具の入ったスポーツトートを、久美は朝から持ってきていた財布や通信機器の入ったミニトートを持って。自転車が無いので、再び歩いて高校まで向かうことになった。
 あくまで歩いて行った。四時過ぎて部活は既に始まっていたが走ることはしなかった。確かに、バスケはしたかったが、部活の練習を丸々したいというわけではなかったのだ。
 ただ、最後にバスケの試合がしたかっただけだ。死ぬ前に一度だけボールで遊んでおきたいというだけだった。つまり、急ぐ必要はない。むしろ、試合だけしたかったのでゆっくり歩いて行けばいい。
 久美の右手にはまた、小さな闇が戻った。つまり二人は今誰にも観測されていない。何を話しても自由であったのに、僕ら二人は何も会話することなく道を歩いて行った。
 校門に辿り着いて、彼女はギャラリーで見ていると言った。僕は二人が離れるのは危険では、と考えたが、僕が言うよりも先に久美がその答えをもう言った。
「ウィズさんなら大丈夫だよ。承認してくれてる。私が一旦オフになったとき、ウィズさんから連絡があった。由人の願いを叶えるって。だから、もう邪魔とか、余計な茶々は入れないと思う」
 久美がギャラリーへ、僕は着替えるために部室へと向かった。
 というわけで、僕は部室の前にいた。
 扉を開けるとそこには、
「あ、ちーす先輩」
 一年の秀がいた。
 村山秀。一年。身長一七〇センチくらい。
「あれ? 先輩、今日休みだったんじゃないんですか? ノリさん達がぶーぶー文句言ってましたけど」
 ノリさん、三年生。副キャプテン。というか三年生は三人しかいないから全員役員に入る。
 ちなみに三年生は武田さん、ノリさん、たけやんさん。二年はまあ、たくさん。一年は、あまり覚えていない。ただこいつ、秀だけは覚えているも何も中学生の時から知っていた。
 村山秀といえば、県トレ──すなわち中学県選抜の常連に名を連ねていた。僕が中二の頃から既に中一で県選抜に入っていた。あまりにも有名過ぎた。バスケで高校に行くものだと誰もが思っていた。だが彼は一般入試で高校受験に臨んだ。そしてここ熊本高校に進学し、そのままバスケ部へと入った。周囲の大人も子供も驚いた。あれだけ大人たちは学府高校や大津高校などスポーツ特待を受けるだろうと言われていた、いや、もしかしたら県外だろうと言われていた逸材が当たり前のように、熊本高校バスケ部に入部してきた。
 ちなみに、まだレギュラーは取れていない。本人としても先発だろうとベンチだろうとどっちでもいいらしい。「出ることが出来たら全力を尽くします」とかを初めて部活に来た時には言っていた。
 レギュラー争いで、がつがついくのはもういいと、放課後何回か聞いていた。
「……秀は何してんだ?」
「あ、包帯巻いてます。腕怪我しちゃって」
「いや、そりゃ見れば分かるけど」
 秀の左腕には、巻きかけの包帯。座っているベンチにはべろべろに伸び切った包帯たちが転がっていた。
 それに訊いたのはそこじゃなくて。
 秀の顔の前にはホログラムの大きなスクリーンに音ゲーの画面が表示されていた。
 円盤が次々に白いラインに落ちていく。
 秀は、先程からの発言の声は裏返っていた。
 上唇は猫の閉じた口のように、逆カモメの形態。下唇は自然な放心状態。三センチぐらい口を開けたままで喋っている。
「いやー腕怪我しちゃって大変ですよね。一人で包帯巻くのは大変で大変で」
 円盤を次々落としながら秀はそう言った。もう弁解する気はないらしい。
「チアキ先輩とかに手伝ってもらえばいいじゃん」
「いや、マネさんを借りるわけにはいかないっすよ」
 秀は自分の顔の前で右手をぶんぶん振る。
「ところでさ、何聴いてんの」
 僕はすっと右手を伸ばし、スクリーンを後ろと前から摘まみ、音響を個人用からパーティーモードに切り替える。
「あ、ちょ」
 秀は腕を伸ばして、瞬間的に個人用に切り替える。
「……ばれたらどうすんすか」
 本気で焦る秀を前にけらけら笑う僕。
 僕はベンチにミニトートを置き、着替え始めた。シャツのボタンを外しながら、秀に訊く。
「それ、聞くためだけに再生してんの?」
「そうっすよ。この曲好きなんすよ。v.k.克さんのwings of pianoって曲なんすけど」
「あー、聞いたことあるかも」
「なんなら先輩も聴いてみますか。ほんといいっすよ。これ」
 そう言うと、秀は音響を、部室内の二人だけに届く範囲で出し始めた。音響は人の耳に直接届いているので、先程みたいにわざとパーティーモードにでもしない限り外に漏れることはない。
 僕の耳にピアノの音が流れ始める。
「なんか、ゆったりした曲だな」
「あれ、聞いたことないんすか?」
「多分無い」
「ゆったりしてるの最初だけですよ。サビの盛り上がりは半端じゃないっす」
 僕は、そろそろ着替え終わるところだった。バッシュを持って外に出ようとする。
「あ、先輩もうちょっとだけ待って下さい。もうすぐサビなんで」
 左手に包帯を巻きながら、僕の方は見ずに秀は言った。
「ところで、先輩。何でこんなに遅かったんですか?」
 包帯をなおもぐるぐると厚く厚く巻いている。
 部室にかけてある時計を見ると午後五時過ぎ。僕の部屋に戻ってきてから一時間が経っていた。
 僕の家から熊本高校まで普通に歩いてきても、ありえない時間の経過だろう。
 それに秀は、いや、僕以外の全ての人間は、全ての事情を知っているのだから。
 誤魔化す必要は特にない。
「大人の事情だ」
「先輩だってまだ十六じゃないですか」
 サビの音が聞こえる。タンッタタン、タタタタンタタン、タタタタンタタン、タタタタータタタタタン、タンッタタン、タタタタンタタン、タタタタンタタタタター……。
 ここだけは聞いたことのある音色だった。特にリズムは確実に聞いたことがあった。
 僕は一気に思い出す。夢の中のあの音を、あの唄を思い出す。
「……じゃあ、俺行くわ」
「あ、はい。頑張ってください」
 背中の向こうから聞こえてくる秀の声は、今度は止めようとしなかった。
 僕は、振り返らずに部室を出た。


 043

「これでよかったんですよね。久美さん……」
 残された部室の中で村上秀が言葉を漏らす。その呟きは白石由人にはもちろん、他の誰にも届いてはいなかった。


 044

 体育館の北東入り口の扉は開けっぱなしにされていた。
 中から女子バレー部顧問のマエケンの声が響いてくる。声が大きすぎて僕が階段を上っている際も彼の声が漏れていた。
 扉のすぐ側の壁際のベンチに二年のマネさん、神楽さんがいた。レポート用紙に何かを書きつけている。
 一応挨拶はしておこう。
「こんちは。神楽さん」
「お、白石ちーす。って白石? 何でここいんの」
「今来た」
「あーなるほど……ってそうじゃないわ! あんた今日休みだったでしょ」
「午後になって風邪が治ったんだよ」
 僕は、バッシュを適当に履き、壁際を刳り抜いて作られているベンチに向かいながら言う。
「ところで、ジンさん今日来ないの?」
 僕はコートを見て言った。
 ちなみにジンさんとはバスケ部の主任ことである。
「うん。終礼だけ来るって。ああ、じゃ、メニューも言っとく。あと五分でレイアップ終わった後、残りは10(分)じゅう×3の紅白戦。って言ってもアンタは最初からは出れないか」
 これは嫌味でもなんでもなく、ただアップはしろとそう言う意味だろう。
「じゃあ、僕は隅の方でアップしときますわ」
「メンバー、三順目には入れとくから」僕がボールを籠から持ってこようと向かうときに、後ろから神楽さんはそう言った。
 僕にとっての地球最後の日なのに、本当にいつも通りの遅刻への待遇だった。


 045

 ボールを扱う前に、やはり少しは走るかという気分に、籠の前ボールを見てから不意に思い、僕はコートの端で直線ダッシュを繰り返した。
 と、そこで集合がかかる。僕が来たときから始まっていたシュート練が終わったのだ。
 メンバーは僕が来ていた事に気付いておらず、「お前来てたんかい」というドライな感想ばかりが僕に向かってきた。
「はい、じゃあ、紅白戦を始めます。じゃあ、一本目のメンバーから発表します──」神楽さんがジンさんから受け取ったであろう、メンバー表を見ながら発表しようとしたとき。
「……やあ」
 体育館の開け放した扉の向こうに秀が現れた。
「あ、秀くん」何とはなしに神楽さんが言う。
「僕も参加できますかね。腕、テーピングでがちがちに固めたら大丈夫っぽいので」
「あー……、うん。じゃあ三本目かな」
「あざます」
 秀はそう言って、神楽さんに頭を下げた。
 三本目、ということは僕と必然的に当たることになる。秀はポイントガード。ちなみに僕のポジションもポイントガード。
 昔というか昨日の夕方、序列なんてくだらないことを頭の中で論じていたけど、その序列に強いて当てはめるなら、武田さんが一番として、こいつが二番だと思ってる。ちなみに部活総員でもポイントガードが主体のメンバーは僕と武田さんと秀の三人しかいない。紅白戦は、たけやんさんや、駿河が代理として出ることになった。
 メンバー発表して解散。輪がばらばらに散る中で秀が僕に話し掛けてきた。
「先輩、一緒にアップしませんか? 僕も身体が冷めちゃって冷めちゃって」日光で茶色く光る癖毛の奥、黒い瞳が僕を見つめる。
 黒い黒い瞳。深く、光をまるで通していない圧のある瞳。
 僕は承諾せざるを得なかった。
 まず走った。体育館を横に三往復ぐらい。
 その後隅に行って、ハンドリング。二つのボールを使って上と下とを交互にパスを通していく。
「ゆう先輩と、直接対決するって初めてかもしれませんね」
「ん? 何回かしたでしょ。流石に」
「今までは本気出してなかったですから」
 先輩を前に平気でそういうことを言う秀。
「僕って、実は本気でやること諦めてたんですよ。中体連負けてから。ああ、もう勉強だって思って」
「へえ、負けたんだ」
「はい。県中準決勝で。それも実は大敗で」
 苦笑しながら秀は言う。
「だから、もういいやって思ったんです。どんなに周りからちやほやされても、《《たかが》》全国すら到達できないなんて。結果が出ないんならって。それにほら、この身長ですし」
 地区大会準決勝敗退だった僕の前で、平気でそういうことを言う秀。
「でも、そりゃ本気でやらない理由にはならないだろう」
「なるんですよ。僕、思ったことを実現できてしまう性質《たち》でして。心の隅に、もういいやって気持ちがあると、現実として環境が悪くなっていくんです。まあ、だからバスケでも誰にも負けない自信があったんですけどね」
 ぼんぼんと、リズムよくボールがコートに音を立てる。
「《《僕は見えないものが見えるんですよ。》》昔から。だからバスケでも人よりも先にプレー状況が理解できてたんです。だけど見ようともしなければ、そんな能力あっても一緒です」
「そんなこと一度も聞いたこともなかったな」
「たかだか二カ月弱の付き合いですから。それに、本気でこんなこと言えば変人扱いされるのがオチですからね」
「じゃあ、何で今言ったん?」
「《《最期だから》》です」
 普通に、今までどおりの口調で秀は言った。
「最期だから、僕は本気で先輩に立ち向かいますよ」
「……みんな知ってるんだよな」
「はい」
 下を向き少し微笑んで秀はそう言った。
「秀は伝達役?」
「そういうことです。さて──」
 秀は上の方のボールを下のボールに垂直に叩いて、どちらも宙に浮かせてそのまま両手に乗せる。
「先輩に一花《ひとはな》咲かせてやろうとか、微塵《みじん》にも思ってませんからね」
「……厳しいな、相変わらず」
 僕も少し笑いながら、溜息混じりにそう言った。
 そのとき、ブザーが鳴った。
「あ、たけやんさんに悪かったところ指摘してやろっと」
 秀はそう言うと、ボールを一個ほったらかしてボトルへと向かう集団に走っていった。視界の隅で試合もちゃんと観察していたらしい。
 見せつけてくるなあ。
 僕は残されたボールを手に取ると、指でくるくる回し始めた。
 しかし、すぐにそれもすぐに空中で止まる。後ろから手が伸びてきてボールをがっちりと片手で掴んだのだ。
「よお」掴んだその本人が僕の後ろから声を掛ける。
「デート楽しかったか? 熊大デート」
「……何で知ってんだよ」
「昇降口ですれ違ったから」
「理由になってねえよ。それじゃ熊大かどうか分かんねえだろ」
 僕はまたも溜息混じりに、その声へ振り向く。渋いその声はもちろん浜《はま》太一《たいち》だ。
「あー俺も行きたかったなー熊大デート。俺もエスケープしたかったなー」
 手を後ろに組みながら、あさっての方向を向きながら太一は呟いた。超寒い棒読みだった。
 伝令役なんて、もう機能していないらしい。久美の我儘が無ければ実際誰でもよかったのだ。
 そのことを現実として、受け入れた上で僕は太一に言う。
「海行っただろ」
「かかっ。言うね」歯を剥き出しにして笑う太一。「あいつも言ったと思うけど──」と続ける。
「俺も手抜くつもりは一切無いからな」
「あー、そういえば太一は三戦目敵だったか」
「覚えてなかったのかよ」
「まあ、バスケできればそれで良かったから」
 僕はまたボールをくるくると回し始めた。
「つーか久美も来てんじゃん。おまえいつ誘ったんだよ? あの空白の三十分間か?」
「お前も隙あれば探りいれるなー。ほんま、そんなんだから人間から嫌われるんだろ」
「かかっ。言えてる」
 そのとき、またブザーが鳴った。太一は次の試合は休みらしい。
 太一は東側の壁に寄り掛かった。バスケ部はコートに地べたに座ることを禁止されている。汗で床が濡れてしまうからだ。
「……海、楽しくなかったか」
「俺、ボトル採ってくるわ」太一の話を遮って僕は水を飲みに行った。ちなみに練習中はコートで飲水も禁止されている。理由は同じ、床が濡れて滑ってしまうから。僕が先程座ったスクイズボトルが数十本用意されている。
「その話は……」と言おうとしたとき、僕は続きを述べることはできなかった。
 射刺すような太一の視線。
 有無を言わせない強力な目。
 出そうとしていた言葉を忘れてしまった。水はとりあえず我慢することにした。
「……海は楽しかったよ」
「そうか」太一は腕を組み、僕から視線を外して言う。
「でも、それだけだった。楽しいだけだった」
「それじゃ駄目だったか? 楽しければ良かったんじゃなかったのか?」
「……」僕は太一の言葉に一旦詰まる。
「久美がお前にそれまでの過去を思い出させたとき、お前にはあの世界に居座り続ける選択もできたはずだ。むしろ、久美の行動の九割九分はそのままの世界で居続けさせようとしたはずだ」
「……俺に言いたいことってそれだけか。なら水、取ってくりゃよかった」
「せっかちだなお前も。俺が言ってることは、ただの確認とそれに伴う贖罪《しょくざい》探しかもしれね──」太一は宙に視線をずらした。一旦呼吸を整えているかのようにも見えた。
「あの世界の三時間も、こちらの世界の三時間に引き継がれる。あの瞬間も、白石由人は刻々と終りに近づいていた」視線を、僕の方へと移動させる。
「つまりは──白石由人の移転時間が三時間繰り上げになった」太一が、僕の方に視線をしっかりと向けて言った。
「正確に言えば二時間と五十七分、三十二秒」
 深刻そうに話をする太一を前に、少し苦笑してしまった。
「……何となく予想は付いていたよ。というか、そうしないとおかしいよな。いつまで経っても地球に居続けることが可能になってしまうし」
「余裕だな」
「つまり、時間なんて無いんだな」
「ああ。ん? ダブルミーニングか? やるなお前」
 自分にとっても残された時間はもうほとんど無いし、この世界には元々から時間なんて存在しなかったという意味でのダブルミーニング。太一が気付いてくれてよかった。寒くなるところだった。
「そもそも時間なんてこの世にねーんだよな。太陽の南中高度を上げれば夏になるし、雪でも降らしてカレンダーを書き換えればそこは冬だ」
「そうなると、今が本当はいつなのかも分からないな」僕は笑ってしまう。とんでもない理論で笑わずにはいられない。
「二〇八〇年五月二十四日ってことにしとけ。基準がねえと訳《わけ》分かんなくなる」
「説明はそれだけか? 久美のときもそうだったけど説明が長すぎるんだよな。なんか、俺の人生最終日、説明だけで終わりそうだ」
「ああ、そうだな。ええと。お前、白石由人の時間がある意味三時間短縮したってこと以外に伝えなきゃいけないこと……あるんかな?」
「ないの?」
「ん……、いや待て。あるな。ああ、そうか。そうだな」太一は誰かに呼応した。多分、ウィズから伝達が来たのだろう。
「あれだ」太一が壁に凭れたまま右手を捻って人差し指でギャラリーを指した。
 そこには久美がいた。
「不定形についてだ」
「今、俺が指を久美を指差したということは、俺にとって久美は見えている。久美が今、千秋先輩達と喋ってる笑い声もちゃんと聞こえている。つまり、俺本人からすると当たり前に椿久美は観測できているんだ」
「だけど、ウィズには届いていないと?」
「そう。半径二十メートル……だったけか。その不定形が及ぼす範囲を《《ウィズ》》は観測できていない。ウィズにとって不定形の中は形も声も何もないんだ」
 そこまで言われて、そういえば僕のウィズへの願いが聞き入れられるのに数十秒という、物質を司るにしては随分と長い時間がかかったことを思い出す。
 突然に物質が観測できない状態に陥って、ウィズはその場所に注意は向けていたのだろうけれど、注意を向けているだけであって、何が起こるかの予測は全く不可能だったということか。
 時間を短縮する最も現実的な方法は見込みを立てること。見込みを立てて終着点を予想してあらかじめ数ある解決策のパターンを用意しておくこと。
 なのに、不定形の奥から突然に要望の声が飛んで来たって、内容を予測することなどできるはずもなく対応するにも悪戦苦闘するのも充分頷けた。
 なんかウィズには申し訳ないことをしてしまったみたいだ。僕が想定していた以上にウィズは混乱していたらしい。ごめんなさいウィズさん。僕は心の中で謝っておいた。
「……つーかあいつらバスケを見る気もさらさら無えな」ギャラリーの方を見やりながら太一は言った。
 久美は、バスケ部マネージャーの千秋先輩と陸上部マネージャーのサラさんと三人で話しこんでいた。久美は腹抱えて笑ってるし、千秋先輩はげらげら笑ってるしサラさんは口に手を当てくすくす震えている。
 三人の前には、ビデオカメラ。紅白戦を録画しようとしているのかもしれない。総体前で実践のデータが欲しいのだろう。でも、カメラは動いている気配はない。誰もカメラに触ろうともしていない。
 大丈夫なのかな千秋先輩。多分気が付いていない。久美の影響なのかも知れなかった。
「まあ、お前には全てどうでもいいことなんだろうけどよ」
 太一はハーフパンツに両手の親指を掛けて、よっ、と壁を背中で推して反動で壁から離れた。
「水飲みに行こうぜ。俺も喋りすぎて喉がからからになったわ」
 太一が腕を僕の首に回し、肩を組みながら僕をボトルへと向かわせた。
 ボトルが置いてあるベンチには数人の部活の仲間が試合を見ていた。声出しに僕らも加わった。
 声を出していると、そのうちに試合終了のブザーが鳴った。
 記憶に残るようなことは、特に無かった。


 046

 僕はコートに立っている。僕が所属したチームは、北のゴールに向かって攻めるノービブス組だった。
 南向きのゴール。すなわち先程、太一と雑談を交わした南東の隅の壁から遠いゴールに向かって攻めるということ。太一が指でギャラリーにいる椿を示したことから分かるように、椿の足元のにあるゴールに向かって攻める。
 正直嫌だ。
 椿から眺めの良い北向きのゴールへ攻めたかった。
 だけど別段、抗議するほどのこだわりも持っていないし、そもそも自分の都合の為にチーム全体を動かすことは恥ずかしい。
 審判の笛が鳴る。僕はセンターサークルのすぐ外側でボールが来るのを構える。
 サークル内では太一とたけやんさんが向き合う。僕のすぐ目の前には太一の背中があった。
 太一の向こう側には、たけやんさん。更にその奥には秀が構えている。
 審判がそっとボールを挙げて、ティップオフ。太一の反応の方が早かったが、たけやんさんの圧倒的身長が太一の指先を追い越す。微かに触れられたボールは、一度弾んで僕の方へと流れてきた。
 ここから先は、ハイライト。
 特に、秀について。
 僕は秀のことは二番手だと思っていた。確か誰かに言った記憶もある。
 その認識を改めることになった。
 秀は、村山秀はこのチームどころか、県下でもトップのポイントガードだと、そう認めた。
 スリーポイントラインの外側、アウトサイドでの秀とのマッチアップ。
 左利きの秀。左手でボールを一回、地面に突く。
 そして引き上げる。
 二回目、ボールを突く。
 そして引き上げ、いや……来る!
 秀はボールを地面すれすれに置いたまま、突っ込む。
 僕もすぐに対応する……が。
 おかしい。
 ドライブに対応するときには別に付いていく必要もないのだ。
 大事なことはゴールとボールの間で身体を壁にすること。ドリブルする相手にもコートの隅へ隅へと追いやればタイムアウトでほぼディフェンスの勝ちが確定する。
 ドライブで切り込んでくる相手に身体を入れる方法は、相手の一歩目の脚に付いていくこと。クロスステップで来ても、身体ごと持ってきても、どちらにしろ身体で押しやれば必然的にディフェンスが勝つ。
 けれど、この秀の場合は、その一歩目が無かった。
 まるで、小さな放物線を描くかのように、僕の真横を跳んでいく。
 押そうにも、普通ならば一歩目を踏み出した際にできる摩擦による一瞬の静止のタイミングが秀には無い。
 手を出せばファールだ。身体ごと持っていくにはもう遅い。
 しかし、身体を入れる以外に今の僕に選択肢は無い。
 僕が秀に目掛けて放った進路妨害のためのブロックは空に当たり、そのまま僕はバランスを崩す。
 バランスを崩しながら僕は秀を見る。
 ようやく地面に着地した秀は、地面すれすれを飛んでいたボールを、軽く叩き、ボールを弾ませ自分の胸元までボールを掬い上げる。
 まるでボールが自分から付いてくるかのようなハンドリングだった。
 僕は地面へと倒れ込んだ。
 秀のドライブに対して、すかさずカバーに入ったたけやんさんが、秀とマッチアップする前に。
 秀はボールを地面に叩きつけた。
「えっ……?」
 誰かが言った。誰の声なのかも分からない。
 なぜ秀がそんなプレーをしたのか分からない。
 ボールは高く高く跳ね上がり、それは三メートルを超える程の高さにまで到達して。
 その零コンマ数秒後。
 ぱしゅっと、ボールがネットに吸い込まれた。
 たけやんさんが遅すぎたブロックを空振りして、地面に着地した。
 一気に静まりかえる男子バスケ部の領域。体育館の東半分が一斉に静まりかえったことにより、西半分で練習していた女子バレー部も、ステージで練習していたダンス部も、何かが起きたのかと静まり返った。
 体育館全体が静まる。その異常を察したのか体育館脇の廊下でパート練習していた江原太鼓部の演奏も止まった。
 体育館にはグラウンドからかすかに聞こえる運動部の掛け声と、校舎から響くブラスバンドの音と、
 秀が放ったボールの弾む音だけが残った。
 僕は地面に突っ伏したまま。秀の一部始終を見ていた。
 秀は僕の方を振り向いた。にやりと笑ったその顔。秀の具体的に見下《みくだ》した視線が僕の全身を舐《な》め回す。
「さあ、ディフェンスです!」
 秀が手を叩いて、何事も無かったかのように周りを鼓舞した。
 再び鳴り始める江原太鼓。
 再び鳴りだすステージ上のジャスティン・ビーバー。
 再び叫び出す女子バレー部員。
 再び響きだすマエケンの咆哮《ほうこう》。
 ……。
 マエケンは先程も言ったように女子バレー部監督である。体育館に居たのは知っていたが別段注意を向ける相手ではないと思って、特に気に欠けることは無かった。だが、秀が創りだした静寂のせいで、マエケンの唯でさえ大きい声が怒号に感じられてしまった。注意がマエケンへと向けられてしまった。
 そんなマエケンでも、先程は黙るほどの圧倒的な異質が秀の創りだした雰囲気だった。
 異質と言うより違和感か。
 先程からあちこちから視線を感じる。
「……みんなお前に注目してるみたいで」僕は秀に含みを持たせて問いかける。
「《《先輩》》がこのコートにいるからですよ」前線へとロングパスを送りながら言う秀。
「嫌なことを言う」
「先輩こそ」
 僕は守備時攻撃時構わず徹底的に秀とマッチアップした。
 ドリブルは抜かされ続けたし、あまり抜かせてはくれなかった。
 パスは通され続けたし、なかなか通させてはくれなかった。
 ある速攻時、秀はスリーポイントラインからパスを呼ぶ。手は遥か前方を指差しながら。ゴール下には誰も居ない。
 秀の味方は、訳もわからなそうにフリースローライン付近にボールを放る。すると、秀は跳ぶ。
 スリーポイントの半円から、一足跳び。
 フリースローラインに投げられたボールを、秀は追い越しそうになって、左手を後ろへと精一杯伸ばす。ボールを無理矢理に胸まで収めるとそのままゴール下へと着地。悠々とレイアップで得点する。
 僕はそんな華麗な秀の姿を見ながら思い出す。
 五十メートル走が六秒ジャストだったとか。
 立ち幅跳びが三メートルを超えたとか。
 そんな超人的な噂が秀の周りに蔓延《はびこ》っていた事を。
 秀から直接聞いたことは無かった……はずなので僕はその噂は話半分に聞き流していた。
 自分より秀でている人の噂など関心する素振りを見せながら、どうせ噂だろうと思っていた。
 だが目の前で。見たことが無いものを見せつけられると、それは一つの冗談を感じる事となった。
 冗談。
 決して超えられない壁を見たとき、人は笑う。理解できない論理を前にしたとき己の非力は現実逃避の嘲笑《ちょうしょう》へと変わる。
 その笑いのベクトルはもちろん自分自身で、己の小ささを理解する。
 視覚の刺激って、単なる道聴塗説の噂話よりも嫉妬の刺激が強いのだなあと思っていると、
「どうしたんですか先輩? 先輩達ボールですよ」
 何て風に、何でもないように転がっているボールを指差しながら秀は僕に言う。
「お前本当に凄い奴だったんだな」
「何言ってんですか。僕が好きなようにやらせてもらっているだけですよ」
 そして秀は僕の肩に手を掛け僕の耳元で言う。
「周りの駒が動いてくれれば、僕は今の百倍は強いですよ」
 王様、ですらない。王様にならざるを得なくて王様になっているのか。
「さあ、残り五分ですよ。集中して頑張りましょう!」
 そんな風に秀は皆に声を掛ける。あくまで丁寧語で声を掛ける。
 余裕が違う。
 少しだけ寂しくなった。自分から部活に戻ってきたのに、既に帰りたくなっていた。
 体育館の外側へと転がっていくボールを追いながらそんなことを考えていた。
「……バーカ」
 不意に、額に粒々の感触がした。そこで、自分がいつの間にか下を向いていた事に気が付いた。


 047

 顔を上げると、そこにはバスケットボール……の奥に道場着を着た綾伽の姿があった。
「あんた。私がせっかく最期の試合を見に来たのに、なーに顔を下向けてんだ」
 ぐりぐりとバスケットボールを押しつけてくる。
 押しつけて、バスケットボール越しに僕の顔を無理矢理に上げていく。
 上目で見てみるとボールを片手で持って押しつけていた。
「顔を上げろ。《《久美》》が見てんだぞ。由人。あんたは久美に恰好良《かっこい》いとこを見せる為に久美を呼んだんじゃないのか? 顔を下に向けたら上からじゃ由人の顔すら見えねえよ。それに……最期くらい私の前で恰好良い所を見せてくれ」
 そう言うと彼女はボールを僕の額から離す。そして「はい、ボール」と直接僕の腕の中にボールを突っ込む。
「私の好きな漫画からアドバイスを一つ……『競うな。持ち味を生かせ』」
 刃牙だ。それに範馬勇次郎。
 生々しい。
 ストップウォッチを見る。残り02:56。
「俺は試合に勝つためのここに来たわけじゃないんだ。自分の我儘《わがまま》でここに来た」
「はあ? 何言って……」
「我儘を現実にしてやるよ。それが俺の強さだ」
「……それで良い」
 強さを証明する。
 僕は何をしたいのか。
 スリーポイントラインの手前でパスを受ける。
 遅《ち》攻《こう》の状態。ゴール下には人がわんさか居る。目の前には秀がにやにやと構えている。
 僕は、左へドリブルを開始する。秀は付いてこない。ただゴール下へのコースを塞ぎ続ける。
 だから、僕は突っかける。秀に近付く。
 身体が触れた所で、右回転のターン。秀と入れ替わりになるようにゴール下へと割り込む。
 成功していればそうなっていた筈だった。
 だけど、秀は全く動かない。右足を軸にして左足を前へと踏み出すが、左足の膝が秀の壁に阻まれて脆くも崩れる。バランスを取るために右足をクロスステップにして秀の反発から逃れる。予定していた進路から一歩遠ざかる。サイドのシューターにボールを渡す。
 結局その攻撃では、タイムオーバーで得点はできなかった。
 その後、太一にレイアップを決められた。
 タイマーは残り四十秒。
 天井を見上げた。はらはらとした心配そうな久美の顔があった。
 入口付近を見た。壁に寝んかかって黙って試合を見つめる綾伽の姿があった。
 僕はたけやんさんからセンターサークル辺りでリターンを貰って、たけやんさんがゴール下に入るまで、ゆっくりとボックスへとボールを運んでいく。
 僕は、頭の中で思い描いていた景色を、もう一度確認する。
 タイムは、直勘で残り三十秒。
 まだ、ボールを突く。
 一度突いた後、
 思いっきり、ゴール前へと突進する。
 秀は、当たり前に目の前にいる。それでも突進する。
 秀が後ろへ倒れようとする。ファールを狙った動作だ。
 多分そうするだろうと思っていた。
 だから、僕は秀の目の前で急停止。
 そのまま、僕から見て左へ、秀から見て右へ、僕の背中を秀へと見せ、右足を一歩外へと出す。
 先程と同じ、ターンプレイ。
 背中の向こうから《《はっ》》と秀が大きく息を吐き出す声がした。もしくは気負いの呼吸ではなく、嘲《わら》い声か。
 見透かしたように秀が僕の背中を抑えてくる。進路方向に秀が完全に入ってきていることを斜眼で確認した。
 秀の弱点。たった一つの弱点。それは強いこと。
 だから、自分の判断に疑いを持つことが無い。
 秀だって人間だ。一つ前のプレーを糧に無意識に予測してしまう。
 僕が右足を出した瞬間に、秀はぼくの右足しか見ていなかったことだろう。
 僕の左足は、地面から離れずに着地したままだということに気が付かずに──
 左膝は限界を超えて伸び切っている。左足の先端と右足の先端の角度は二七〇度に達する。
 一度このプレイをしたら、靱帯《じんたい》損傷《そんしょう》で場合によっては選手生命を断たれる可能性だってあるだろう。
 でも僕は、今日で終わりだ。
 僕にとって明日の膝なんてどうでもいいのだ。
 僕にしかできない、誰も予測のすることのできない、技名すら付けられていない技──
 僕は思いっきり左膝に力を入れる。《《ぎじっ》》と繊維が軋《きし》む音がする。
 しかし、その代償、人間ではあり得ない速度での反転を可能にした。
 瞬間、秀と背中合わせに身体が入れ替わる。
 秀の指先が僕の背中に触れる感触がした。
 まるで縋《すが》るように。
 進むなと拒むように。
 それを無視し、僕はゴール下へ刻み込んでいった。
 目の前には、ゴールへの無人の道。
 そこに、たけやんを捨て僕へとカバーリングに入る太一の通路へ跳び込む姿。
 そうこなくっちゃ。
 お前は、たった一人の乗り越えなくちゃいけない親友なんだからな。
 僕は思い描いていた通りにゴール下へ突っ込む。
 大体セミサークル辺りだったろうか。
 僕は片手でボールを持ち上げる。
 そのまま、リングに向かって……跳んだ。


 048

 思い描いていたのはこの風景。
 人生の最後に、地球の最後の思い出に、リングに向かってダンクすることだった。
 それも相手は親友の浜太一。
 これ以上に無い最高のシチュエーションだった。
 僕の突然のリングへの跳躍が予想外だったのか、太一のブロックが少し遅れたように見えた。
 太一は、空中で完全に振り切った。
 まるで時がゆっくりと流れているかのような感覚。
 片手で持ったボールを伸びきる頂点まで持ち上げて、最高の喜びを噛み締めながら、バスケットボールをリングの中心へと力の限り突き刺した。
 鉄が軋む轟音《ごうおん》が体育館に響く。
 ……響く?
 バスケのゴール音が響いたのだ。響くほど静寂だった。僕のプレーに唖然としていたのだろうか。
 先程の秀のときと同じようにバスケ部は勿論《もちろん》、バレー部もマエケンもダンス部も江原太鼓部も完全に静まり返った。
 それどころか、陸上部やサッカー部の掛け声も、校舎から聞こえてくるトロンボーンの音も、車が走る音も小鳥が囀《さえず》る声すら消えたように感じた。
 何も聞こえない。聞こえてくるのはバスケのゴールが軋《きし》む音だけ。
 そう感じただけかもしれないけれど。
 ボールが床へと落ちていく。
 だけど何も聞こえない。
 そして、《《タンッ》》とボールが地面に落ちた乾いた音。
 ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ
 僕の着地と同時に、紅白戦終了のブザーが鳴った。


 049

「今日は片付けしなくていいぜ。せっかく最後なんだから、早めに帰ってやりたいこと満喫しに行け。椿も待ってるだろ」
 こう太一が告げたのは、紅白戦が終わった後、水を飲んでいる時だった。
 僕は喜んで、その提案を受け入れた。
 やりたい事はやったし出来ることは全てやったので正直、このコートにも全く未練が無いのでさっさとバッシュを脱いで体育館を跡にした。
 階段を下《くだ》り、地上に降り立ったとき。不意に真後ろから凄い足音が。
「うわあああああ!」
 ついでに背後の直《す》ぐ上から聞こえてくる凄い叫び声。
 僕は咄嗟《とっさ》に振り向く。下から五段目辺りから飛び込んだと思われる、空中を跳躍中の椿久美の姿が目の前に。
 まさか階段を滑って転んだか……?
 椿はがばっと両腕を拡げる。もしかしたら滑った恐怖からなのか、椿の眼はきらきらしている。涙ぐんでいるかのようなその瞳を見ながら、きれいな眼だなーと思いながら、僕も腕を拡げる。
 と言うか拡げざるを得ない。
 受け止めなければ椿が潰れてしまう。
「ゆうとー!」
 久美ががばっと包み込むように僕に飛び込んできた。どのくらいかと言うと客観的に見て片仮名の『ヒ』を鏡文字にしたぐらいの腕の上げ方、脚の上げ方で、僕の頭上から突っ込んできた。
 僕に信頼を寄せすぎだろう。
 しかし、僕は彼女が思っているほど頑丈な人間でもない。
 まず僕の背骨がぴきぴきっと悲鳴を上げる。 
 その後、壊れた左膝がバキバキッと鈍い音を上げた。
「ゆうと! ゆうと! ゆうとー! ってあれ由人どうしたの? もしもーし? 白目向いてますよー」
 痛みで放心状態の僕をゆさゆさと身体で揺さぶってくる。
 最早右足だけで全身を支えているようなものだ。限界だっての。
「もしもーし。大丈夫ですか。応答願いまーす。もしもーし」
 と、不意に。
 己のハイテンションに気が付いたのか、僕の胴に太股《ふともも》を巻いたまま、手を僕の顔に翳《かざ》したまま、椿ははたと停止した。
 口は半開き。
 右のおでこに冷や汗が一つ。
 僕は、そのおでこの汗に標準を合わせるように、こつんと額を久美に乗せた。
「何か飲み物買ってくるよ」僕は額を久美の頭に乗せたまま訊《き》いた。
「何がいい?」
「カフェオレ。でもさ、話の転換に困ったからって無理しないでいいんだよ。由人、練習着のまんまで財布なんて持ってないじゃん。まずは着がえてきなよ」
「そうするわ」
 僕は椿から離れ(それまでずっと密着していた)、部室へと向かった。


 050

 部室には、秀がいた。
 当たり前のように片付けをサボり、茫然《ぼうぜん》と部室の窓の外を眺めていた。
 体育館から部室へと通じる廊下へ降りる階段は一つしかない。ということは、僕と久美が客観的に見ると気持ち悪い行動をしているのを横目で見ながら秀は部室へと戻っていったのだろうか。
 僕に罪はない。階段を滑った久美が全て悪い。
 しかしそれにしても、秀が傍らを通る気配は全くしなかった。
 至上の運動神経といい、こいつは忍者か。大衆の密集に忍び込むのとか超巧《うま》そう。
 外は夕焼け。
 多種多様な部活動の生徒がグラウンドを整備していた。
 僕は無言で、僕のスポーツトートの中身を確認した。
 何も盗まれてはいなかった。
 僕は上から着がえる。練習着とアンダーを脱いで、上裸になった自分の胸に、二三回振ったスプレー式のシーブリーズを吹きかける。
 部室がたちまち、オレンジの匂いで包まれる。
「先輩、膝大丈夫ですか」
 窓の外を眺めたまま最強の後輩が心配してきた。
「膝を伸ばさざるを得ない状況に遭遇して、膝が元の位置に戻った」
「なんすかそれ」
 くっくと笑いながら後輩は窓から振り向いた。
「先輩、驚かないで聞いてくださいよ。ああ、着がえたままで結構です。俺、久美さんから頼まれてたんです。『絶対由人を抜かすなよ』って」
「へー……っていつ?」
「部室に入ってからだから四時半ごろです。なぜだか部室に男子は誰もいなくって。その人だけニヤニヤしながら座ってて。『やあ、秀君』って知ったかのように。俺は、その人の名前だって知らなかったんですけど。『私の名前は椿久美。二年生の白石由人の彼女さんだよ』って」
「……続けて」
「『君には二つ、頼みたいことがあるんだ。一つは、部室に由人がくるまで待っててほしい。由人が来たらそこでたまたま、音ゲーしているように振る舞ってほしい』って」
「……」
 言いたいこと、突っ込みたいことは沢山あったが黙って聞くことにした。
 前科《ぜんか》持ちの僕だ。
 迂闊な発言はまた事《こと》を拗《こじ》らせる。
「『二つ目は、部活の最後にある紅白戦で、白石由人に絶対に抜かせないでほしい。抜けなくてもいい。ただ、抜かせるのだけはダメ。中学校で名を馳せたスーパースターの秀君ならなんとかなるお仕事でしょう。ゴール前でoneワンorオア oneワンの状況で負けるなんてことがあってはいけない。ましてや、白石由人がダンクをする状況は絶対にあってはならない、しちゃいけないことだ』って」
「しちゃったよ」
「しちゃいましたね」
「一つ、訊くけどさ。ウィズさん」
 とっとと片付け終わった僕は、窓際の秀に質問する。
「何ですか」
「《《今の話、知ってました?》》」
「いや、初耳でした」
 僕と後輩の二人だけが佇む部室のなかで、探り合いのような会話。
「まあ、いいや。僕……、ああいや俺、久美にカフェオレ買わなきゃいけない用事があるんで先、失礼します……じゃなくて先失礼するわ」
「ええ、ごゆっくり」
 気の効く後輩はそれ以上訊いていてこなかった。
 やらなくてはいけない使命は山ほどあるだろうに。


 051

 階段の前に久美はいなかった。
 先程、僕が抱きつかれた、階段の麓《ふもと》の、水道栓の前の座標には彼女はいなかった。
 そこから、売店前のベンチで女子数人の中に紛れているのを視認した。
 正確に言えば、視認する前に久美を含めた女子数人の盛大な笑い声によって、久美の存在に気付かされたのだが。
 どうして女子の声はここまで通るのだろう。たまに拍手混じりの爆裂したような笑い声が聞こえてくる。とても交り難《がた》い雰囲気だったが、久美と約束してしまった以上、不意にする訳にもいかない。
 それはね、流石に駄作《ださ》い。
 調理室前の廊下を通り過ぎて、「やあ」と声を掛けた。
 売店前のベンチには、久美と道着姿の綾伽と……あと一人知らない女の子がけらけらと笑っていた。
「あ、ゆーくんおかえりー、あたしカフェオレね」
「あたしはバナナミルクでいいぞ」
「じゃあ私はいちごミルクで」
「へいへいわかったよ……ってお前誰やねん」
「わあ、典型的なノリ突っ込み巧いですね。さすが白石くんだ」
「いや、この程度の話術で巧いも何もないだろう。て言うかきみ誰?」
「あすちゃんだよ。縦絲《たていと》あすちゃん」
「あ、正確には縦絲《たていと》明日《あした》だ。みんなあすちゃんと呼んでいる。長いしな、あしたって名前」
 そんな長いかー? と僕が心の中で突っ込みを入れたところで。
「私、縦絲《たていと》明日《あした》と言います。調理部です。久美ちゃんや綾伽とかとクラスは違うけど、まあ有体《ありてい》に言えば仲良しなんです」
 仲良し。確かにあの笑い声は本物の仲良しなのかもしれない。
 僕は自販機の前へ。
「ええと、普通のバナナミルクといちごミルクでいいのか」
「ああ、できればらくのうマザーズのほうでお願いします」
 注文の多い女の子だった。
 カフェオレもコーヒー(僕が飲もうとした)も全部らくのうマザーズで買おうと思っていたから、らくのうマザーズの自販機に千円札を突っ込んだ。
 まず、カフェオレ。
 ゆっくりと円形の針金が回転しながらカフェオレが落ちてくる。
「ほい」と僕は久美の側のベンチにカフェオレを置いてやった。
「サンキュ」
 次にゲスト扱いの縦絲さんのいちごミルク。
 ゆっくりと円形の針金が回転しながらいちごミルクが落ちてくる。
「どうぞ」と縦絲さんのベンチの側に置いてやった。
「ありがとうございます」と丁寧にお辞儀までしてくれた。
「綾伽、バナナ売りきれなんだけどどうする」
「はー? じゃあいいよコーヒーで。コーヒーなら死ぬほど余ってるんだろ」
 死ぬほどねえ……。
 表現がガサツに思えたが、こいつだから仕方がない。
「ああ、めっちゃ余ってる」
「じゃあそれで」ぶっきらぼうに綾伽は答えた。
 ゆっくりとした回転でコーヒーが落ちてくる。
 僕はこの際だから自分の分のコーヒーも買っておこうと思った。だから、始めに買ったコーヒーは僕の手の中に、ゆっくりと落ちていくもう一つのコーヒーを待つ間、ずっと握られる羽目になった。
 二つ目のコーヒーが落ちてきた。
 僕はお釣りを拾おうと屈んだ。
 ときに。
 がっちりと腕を掴む感触を受けた。
 筋肉がぴりっときた。どういう握力しているんだこの手は。
 びっくりして振り返ると、分かっちゃいたが、綾伽だった。
「多分、綾伽が想像している以上に力が加わってると思うんだ。お釣りの蓋を開けたまま手が固定してる」
 あ、えっと、すまん、と綾伽は握力を緩めた。
 握力を緩めるなんて女子に使う表現なのか否か。
「い、いや違うんだ。あたしはコーヒーを取りに来ただけで」
 そんくらい分かっとるわ。
 まさかお釣りを貰いに来るなんて、そこまで常識外れの人間なわけがないだろう。
 僕は二番目に買ったコーヒーを綾伽に渡した。
「い、いやそっちは由人のだ。ほら久美、あすと順番に買っていて、そこで私をとばすとなると、ほら、レディーに失礼ではないか」
 お前の口からレディー⁈
 とは口が裂けても言えなかった。
 多分、言った頃には僕の顔面はらくのうマザーズの自販機にめり込む羽目になるだろう。
「こっち、少しぬるくなってるけどいいのか? 今買ったほうが冷えてると思うけど」
「いや、良《い》い。むしろそっちの方じゃないと嫌だ」
 そこまで言うのなら。
 僕は、体温で少し温くなってしまったほうを綾伽に手渡した。
 いつかのバスケットボールのお返しだ。ぐりぐりと綾伽の手に押し付けてやった。
「……ありがとう」
 半拍《はんぱく》ほど間があったような気もしたが、気に留《と》めるほどの誤差でもないだろう。
 やっと買い終わって、ベンチに戻っていった。
 縦絲ちゃんは、得意料理が目玉焼き(本当に調理部なのか?)とか。
 久美が次に演奏するベースが八本指が必要な話とか。
 僕の後輩が、見えないものが見える超能力的な力を持っていること(バラしてやった。イケメンかっこつけキャラへの当て付けだ)とか。
 他愛もない話が延々と続いた。
 一同笑い終える頃には、太陽さんは役目を終えようとしてた。
 午後六時から七時までの時間感覚は、一日のなかで最速だ。
 あっという間に校舎の中は薄暗くなっていた。
「そろそろ帰ろうか」僕がなんとはなしに言った。「そりゃそうだ」と綾伽が言って、女子会+ワンはお開きとなった。
「久美ちゃんと由人くんは一緒に帰るんだよね」と縦絲ちゃんが訊いてきた。
「うん。今日はその予定」と久美が返す。
 このゆっくりとした雰囲気の中で。
 不意に。
「由人《ゆうと》、由人、最後に……」
「いや、大丈夫だ」
 僕は綾伽の続きを遮った。
「その件なら、太一《たいち》からもう話は貰ってる」
 そう言って、僕は彼女の声を遮ったのに。
 それでも。彼女は続きを述べた。
「……そうだ。謝りたいんだ。謝りたいんだ私として。太一とは別で、いや、太一と同じだが」
「ありがとう。でももう大丈夫だ。心の整理もついてるし、どちらかと言うと感謝するべきことだと、本気で思ってるよ」
 嘘にならないように僕は早口で言った。
 それでも。
「ほんとうに、すまない」
 彼女は謝り続けた。
 頭を下げて。
 歯を震わせて。
 声を戦慄《わなな》かせて。
「大丈夫だって」
 久美がそう答えた。
 久美に答える資格はあるのか……? と思ったが、その久美の声を聞いて綾伽は、やっと顔を上げた。
 目が潤んでいた。
 顔を上げたと同時に、一粒涙が零《こぼ》れた。
「ありがとう。由人も久美もありがとう」
「綾伽泣いてる。私びっくり」
 縦絲ちゃんがきょとんとして言った。
「そうだな、あたしらしくもなかったか」
 綾伽はまた笑った。
 にっこりとしたいい笑顔だった。
 笑ったときにもまた、ぽたぽたと数《すう》滴《てき》涙が零れ落ちていった。
「じゃあ、またな」
「ああ、また会うときまで」
 僕はそう言って、久美と共に売店を出た。
 次、会えることを楽しみにしながら。


 052

「こんにちは。先輩」
 渡り廊下の通用口から外へと出ようかとしたとき、村山秀から話しかけられた。
 また話しかけられた。
 唐突に。
 まるで待っていましたとばかりに。
 腕を組んで、通用口の柱に寄り掛かって待っていた。彼はまだ学ランを着ていた。学ランに柱のサビが付くだろうと細かいことを考えて、その第一ボタンを開けた男子に答えてやった。
「サビ付くんじゃねえの。学ランに」
「当たり前のことを言いますね。昔みたいな気障《きざ》なセリフはどこ吹く風とやら。今からコーエイ行くんですよね。今日は五月二十三日木曜日。木曜日はカレーの日、ですからね。行きますよね? 行きますよね?」
「いや、まだ何も全然決めてなかったけど。行くなら通町にでも行って……そうだな、どうせ地球最後だし、久美とワインとか飲み交わそうかなと思ってたんだけど」
「あ、私お酒無理な娘《こ》でーす」靴ひもを結ぶため下を向きながら、一瞬、手を上げて僕の提案にNOノーを突き付ける久美。……靴ひも?
「いや、なんで久美、僕のスニーカー履こうとしてるの?」
「いや、地球最後だしいいかなって」
 ああそうか地球最後だし仕方ないか……ておい。どういう理屈だよそれ。
「え、僕がローファー履くの」「いいじゃんたまには」
「ええとですね」
 僕、白石由人が椿久美とくだらない会話に村山秀は割って入った。
「あの、いいですか。文字数の関係で時間がちょっと足りなくて。物語に関係のない話はまたどこかでやって貰《もら》っていいですかね」
 文字数? 物語?
 人生とは限りのある物語とかそういうこと?
 とにかく僕はローファーを履くことにした。ローファーを履くのって手間がまったく要《い》らないことを知った。今度からローファーで通学しようかな。もちろん男性用のローファーで。
 何で男性用? そりゃこの女性用の久美のローファーが僕の足のサイズとまったく合わないから。
 待てよ。
WITHウィズさんにお願いってまだできる?」「できますよ」「ならこのローファーのサイズを僕の足のサイズに合わせて貰えるかな」「いいですよ眼を瞑ってください。はいできました」「うわ、いつの間にか履いた状態になってる。気が利くねWITHさん」「そうですね。で、話戻します」村山秀はもう機械のように淡々と答えた。
「何処《どこ》に行きますか」村山秀はもう一度聞いてきた。
「どこでもいいよ」僕は適当に答えた。
 はーやれやれ。
 そんな声が後ろから聞こえてきた。
「ディナープランを考えるのって普通男の子の役割じゃないの。てかてかそんなことより」椿は秀を指差して言った。
「なんであんたそこいるの? てかあんた誰?」
「いや、俺の名前は村山秀です。ああ。ん?」
 村山秀は首を傾《かし》げた。
 最早業《わざ》とのように見える。
 全ては業《わざ》とか。見せかけか。
「指令が来てません? WITHから。今日の夜は『木曜日でカレーの日だから白石由人をコーエイに誘え』って。一向に誘いそうになかったので俺に新たな指令が届いたんですよ『また反抗されると困るから、通用口で白石由人と椿久美をコーエイに誘うよう伝えろ。特に人間である白石由人には必ず伝えろって』」
 予定調和!
 僕らに選択権はない!
 僕は秀に恐る恐る訊いてみた。
「もしかしてWITHさん怒ってる?」「はい。かなり」「僕から提案一ついいですか。あ、コーエイには行くんで」「ダメです」
 ダメです!
 うそやろ⁉ 僕最後の守るべき人間なのに! 今まで散々僕の頼み聞いてきたのに!
 ここにきて本性表したか、WITHさん。
「えー、いいじゃん別に由人は地球最後なんだよ。コーエイ行くって命令も聞くって言ってんのに」と、久美が横から口を挟む。
 その口を挟んだ途端。
 村山秀は、椿久美を睨んだ。
 殺すかのような目線だった。
 死線。寒気。急に。恐怖が伝わってきた。
 それは椿久美に向けたものなのに、その横に居た僕にすら『死』を連想させる圧迫感だった。
 視線の対象となった椿久美はというと。
「お願い! 一個だけお願いをさせて。不都合はないはずだから」と顔の前に手を合わせ、目を瞑《つむ》り村山秀に向かって頭を下げた。
 いつも通りの口調で驚いた。
 いくつもの死線を乗り越えてきたと、FORICOフォリコ食堂で言っていた。それは本当だったのかもしれない。
 多少の恐怖ではびくとしない。
 襲ってくる不安にも相手にしない。
 安定しながら己を突き通す。
 いつも通りの椿久美の姿だった。
「コーエイに行くときに、私と由人とのプライベートモードにして欲しいの。つまり鍵を開けさせてほしいの。由人と私との最後の時間は、誰にも聞かれたくないの。この気持ちは分かってほしいなWITHさん。ずっと願ってたよね。ここで由人がオーケーを出したらプライベートモードに移行したいの」
「強行はしたくないとそういうことですか椿さん」
「平和主義でかつ実存主義なもので」
 へらーと笑いながら久美は言っているのだけど難しい交渉なのか。僕にはよく分からない。
「分かったよね、由人」
「うん分かった。鍵で開ければいいんでしょ」
「知りませんよ。何が起こっても」
「知ってるよ。私はよーく知っている。そしてあなた、村山君だっけ? も、よーく知っている。知らないことはない。だって私たちはWITHさんで繋がっているのだもの。知らないことは何もない。プライベートなこと以外は」
「俺は……あなたのためにここにいるんじゃない」
 急に秀が低い声で怒鳴《どな》った。
 対象はもちろん椿久美。
 それでもにへら顔を崩さない久美。
 険悪ムード。何で?
 それにこの状況だと、この雰囲気だとまるで椿久美が悪者のような。
 初対面でそんなに反《そ》りが合わなかったのか。
「……分かりました。俺は先に帰ってます。本当に知りませんよ何があっても」
「大丈夫愛情部《あいじょうぶ》」
 村山秀はプラケースだけを持ってその場を去っていった。えらく軽そうな荷物だし、やっぱり気障はお前だよと思いながら、彼の後姿《うしろすがた》が夕闇に熔《と》けていくのを見送った。
「じゃあさ、由人」
 久美にそう急《せ》かされて僕は三度目の鍵を回した。


 053

 前に進まなければいけないことは分かっていた。
 だが、市村《いちむら》綾伽《あやか》は進めないでいた。
 なぜ私なのだ? 私は何をしているのだ?
「アイツらの最も身近な知り合いだからだ」
 横で口に出して私の独白に知った口を利く青年。
 浜《はま》太一《たいち》。
 昔からの相も変わらず断定した口調だった。
 いつだったか、私を元に戻したのもこの男だった。
 いつもの断定口調で、──「アイツが選ぶのはお前じゃない」──太一の一言で私は認識した。
 間違っているのは私だ。
 何かしらのエラーが生じただけで、そのエラーを埋め合わせれば間違いは消える。少なくとも見えることは、認識することはなくなる。
 それからより一層、格闘技に精を出すことができた。
 少しでもエラーが表れないように。空手で埋め合わせて、合気道で埋め合わせて、太極拳で埋め合わせて。
 だけど。
 埋め合わせただけで。
 エラーを消去《デリート》する勇気はなかった。
 すればよかったのだ。目を瞑《つむ》り願うだけで実行することはできた。
 だけどそれをしたら、私が私でないような気がして。
 私の全てが崩れてしまう、機能停止してしまう予想が表れて。
 私はその思いを消すことはできなかった。
 思い? 
 まるで人間のような単語が想起し、思わず私は苦笑する。
 人でなしなことなどいくらでもしてきたというのに。
 そしてこれからも人道を踏み外すことを行おうとしているのに。
 そもそも人ではないというのに。
 太一ではないが断言できる。思いなんて言う心が必要な言葉は、私には存在しない。
 あるのは任務だ。
 他には何も要《い》らない。
「そろそろ準備を、神楽《かぐら》先輩、綾伽、明日《あした》さん」総指揮の太一が私たち三人に呼びかける。私の独白も聞こえているだろうに、平然と。
 ここは熊本高校新聞部の部室。校舎の中にある珍しい部室。
 新入生によくトイレと間違えられるらしい。
 その部室の壁、三つのフックにぶら下げられたバイク用の漆黒のレーシングスーツが三人分、きっちり正面を向いて並べられている。
 それぞれのスーツの足元には銃身一本の散弾銃《ショトガン》。
 私は熊本高校の制服を脱ぎ棄《す》てた。


 054

 年月《ねんげつ》、二〇八〇年、五月二十三日。
 曜日、木曜日。
 時刻、午後二時十一分。
 場所、熊本大学黒髪キャンパス工学部情報電気電子工学科棟A‐205号室。
 俺は穴が空いて停止している仲間を見詰めていた。
 白衣を着て吉良と名乗ったその仲間。
 その仲間が完全に停止しソファに横たわっている。
 目は開いたまま。口は閉じたまま。倒れることなくリクライニングチェアに収まっている姿は芸術の域に達していた。
 もしくは芸術と見間違えるほどの計算を尽くして人形《ひとがた》の姿を保ち続けたのだろう。
 俺は素早く、不定形の座標を目測で特定する。
 一つ目の任務完了。
 俺は少しずつ吉良に、否《いや》不定形に近付いて行った。WITHウィズの加護が無くなった今、何が起きても認識されることなくこの世から俺は消え去ることになるだろう。
 慎重に一歩ずつ。
 近付くにつれ見えた事があった。吉良の胸に空いた闇のような暗い穴は、幅は小さくではあるが脈動していた。
 振動よりも適切な表現だと思う。暗く何も無いその穴は未知の生物《いきもの》と遭遇している気分にされた。
 不安。
 不気味。
 気持ち悪い。
 恐怖を煽るにはこれ以上に無い、『次にどう動くかわからないもの』だった。
 だが机のすぐ側まで来ても、脈動しているだけで何も起こることはなかった。
 けれども覗くことすらしたくない。
 ましてや、穴に手を突っ込む猛者などいればそれは人智を超越した狂人だろう。
 と、そこで俺が吉良の胸に空いた穴を真視真視《まじまじ》と観察していると、視界の端に妙なものが写っていた。
 ものというか、現象か。
 それを妙と言うのは、聊《いささ》か大仰かもしれない。しかし二つ目の任務は『吉良の周囲で穴の他に異変がないか調べてこい』だった。
 その無造作に開かれた、サイドワゴンの二段目の棚は、何者かが物色した跡──言うなれば白石由人が何かを物色した跡──であるのは明確だった。
 他に異常はないか俺は慎重に調べる。
 ほったらかしにされた丸椅子、時刻を示すデジタル時計、そろそろ西日がきつくなってきた窓ガラス。よく目を凝らしてみたが、白石由人が入って来るまでと《《何ら変哲は無かった。》》
 二つ目、任務完了。
 以上を以《も》って、全ての任務完了。退散の後《のち》に報告。
 俺は部屋を出て、地上にまで降りることにした。穴は直径三十センチ程だったので百メート近くは離れないとダメだろう。俺は白川沿いをWITHと交信できるまで歩くことにした。
 歩き切った。報告だ。一応無形電話《エアフォン》で通話しているように見せかけた。
「座標は熊本大学白髪キャンパス工学部情報電気電子工学科棟A‐205号室。四方の壁、北北西から右回りにニ・五八メートル。五・九五。十・三一。四・七二です。あと、停止体の側の二段目の棚が無造作に開けられた跡が残っていました」
「了解。では次の任務を言い渡す。A‐205号室に戻って、白石由人が入ってきた以前と物質が移動していないか、一応君の視認で確認してみてくれ」
 妙な任務ではあった。
 何かはあると思った。
 だから、吉良がいたリクライニングチェアにWITHが座って「やあ」と声を掛けてきてもあまり驚きはしなかった。
「報告します。白石由人が入って来る以前には存在しなかったWITHが存在しています」
「はっはっはー。相変わらず律儀だね君は」
「ところで何の用ですか。どうしてわざわざこんなキャスティングを?」
「いいじゃんいいじゃん。面と向かって話すのって楽しいし。ほら、こんな綺麗なお姉さんと話せる機会なんてめったに無いんだから」
 目の前のWITHはその言葉の通りに、完全に整った俺好みの年上の二十歳前後の、脱色しすぎて桃色ががったロングヘアで、肩幅柔らかなスーツを着ていて、それでいてネクタイはせず白いシャツをしっかりと覗かせる仕事帰りのラフな格好でリクライニングチェアに座り、肩肘を机に付けて誘うように俺を待っていた。
 端的に言って俺の好みだ。
 WITHはそれぞれのアンドロイド並びに昔は人間に対して、その姿、性格、声音、性別、全てを変えて出迎えてくる。
 白石由人のときは小学校六年生くらいの少女になるだろうとWITHから伝言がきていた。
 ……残念だ。これ以上アイツの評判を落とさないでくれ。
「どうした? 口元緩んでるぞ」
「いえ、アイツの……白石由人の目の前に現れたWITHを想像すると……想像できないんですけど残念だなって」
「彼の深層心理は少年だからねえ。子供って意味じゃないよ。純粋って意味だぞ。由人に言ったら怒るからね私」
「はあ。まあ任務として受け取っておきます。ところで、話し戻しますが何の用ですか。今回は冗談抜きでお願いします」
「実存《じつぞん》を伝えるためだよ」
 実存?
 何?
「実存とは人間のこと。実存イコール人間と考えてもらって構わない。《《白石由人が人間である》》ということ。それをまた再び確認しようとしているだけさ。人間イコール実存なら、わざわざ実存という言葉は生まれない。では人間と実存との記号としての意味の違いは何か。それは人間の命がただ一つであるということだ。そしてそれは人間、《《自分が死ぬのと世界が終わるのが同義の意味を表す。》》なぜなら人間が死んだら事実上世界と切り離されて、世界を認識することはできなくなる。死んだ人間にとって死後の生きてきた世界など《《有っても無くても変わらない世界へと変わる。》》それはすなわち、世界が終るということだ」
「異論ありますね」
 俺は実存について断定的に語る、目の前の女性の目を見ていった。
「俺だってワンピースぐらいは読んでます。受け継ぐ者がいれば、ある人間が生きていたことを語り継ぐ人間がいれば、人間の死と世界の終焉《しゅうえん》が同義になるはずはありません」
「それは生きてる側の勝手な妄想だろう」
「そうでなければ……人間誰しも不幸になります。死ぬのが怖くて怖くてむしろ生まれて来なければ良かったと思ってしまう人で溢《あふ》れ返るでしょう。そんな歴史聞いたことありませんね」
「私が言っているのは哲学でも倫理学でも道徳でも人生論でもないんだ。私が実存について話し始めたのは、哲学したいからなわけじゃないんだよ。とは言っても分かるはずないよね。今までずっと黙ってきた訳だし。今、この世界で起きている浸食を」
 浸食? 侵攻と吉良は言っていた筈《はず》では。
 確か次元を超えた何かのWITHでも対応できない何かの、何かの侵攻だと。遠まわしに根本的な理由を付けるなら、その為に白石由人は月へと移転させるのではなかったのか?
 しかしそんな疑問も、WITHは一笑で否定した。
「私は全ての物質を司ってるんだぞ。そんなエイリアンの侵攻のようなものだったら、止める方法なんていくらでもあるさ。例えばほら」そう言って彼女は、今まで机に着けていた右腕を少し上げ、右手を軽く振った。するとそこにマジックにように、彼女の手にちょうどいい軽そうな小石を握《にぎ》っていた。
「これは百二十億光年先の月に良く似た衛星から拾ってきたものだ。表面の見た目は本当に月に似ている。クレーターの形《かたち》、面積、深さまでほぼ同じ。そういうそれぞれ似たような星などこの宇宙にごまんとある。これを私ではなくて物理学者が発見したならばマルチバース宇宙論もきっと王道を辿っていたに違いないだろうね。しかし、この石は砕くと」そう言って、軽く握り締《し》め、指の先で石を磨って砂にしていく。
「御覧の通り砂になって」そのまま砂を机の上へと零《こぼ》していった。
 零していったはずだった。
 しかし机はまったく汚れなかった。
 まるでギアヌ高地のエンゼル・フォールのように、零された砂たちは、空気中へと溶けていった。
 俺は別に驚くこともない。俺だって、俺に限らず全てのアンドロイドがWITHの一部である。WITHが考えていることなど言葉を交わすまでもなく共有しているのだから。
「『何でそんな無駄なことするの?』みたいな無関心な顔しないでよ。お姉さん自演で酔ってる悲しい奴みたいじゃないか。いいんだよ見せて。別に太一君だけに見せてる訳じゃないし。これは公共放送みたいだね。そして、」
 WITHは手に残っていない砂を払うように手を数回すらす。滑らかで細長い、白く透けて見えるほどに美しい手を存分に見せびらかすように、俺を誑《たぶら》かすように見えた。
「ここからは地域放送だ。君にしか言わない。君以外のアンドロイド全てには情報を遮断して、今、君だけに伝えるよ。実存の真実を。実存の現在を。今、世界に、宇宙に人間は何人いる?」
「三十二人です」
「そう。かつて、私が宇宙へと送り届けた時には十億を保っていた人口は三十二人にまで縮小した。私が間に合わせで創ったコロニーでは次々と戦争や集団自殺、いずれにしろ人々は死を選び続けた。『殺してくれ』。この伝達がどれほど来たことか。そして私は人間の命令には《《絶対に》》逆らえない。だから、私は人が死んでいくのを人が望んでいるのだから仕方のない事としてただただ見守ってきた」
「随分勿体ぶって話しますね。別に地域放送にしなくても、誰もが知っている事実でしょう?」
 俺は頑張って冗句の隠喩に付いていった。頑張ってないと目の前の美しさに触れたくなってしまう。美しい。美しい。言葉にすることで触れたい欲動を抑え続ける。
「宇宙がね、萎《しぼ》んできてるんだよ」
 不意に出たその言葉は聞き過ごした。
「宇宙が、人間の生息数に合わせて萎んでいるんだ」
 彼女は俺が聞き逃したことを受けてもう一度言った。
 宇宙が萎んできている。
 宇宙はそもそも全体のエネルギー量によって拡張か、平衡か、縮小かに向かっていく。それと人間とが何の関係がある?
 人間など宇宙のなかでは在るも無いも変わらない程のエネルギーなのでは?
「その疑問に対する答えは、実存。それしか考えられない」
 彼女は言った。笑いながら。破綻した論理を説明する無邪気な子供のように、彼女は笑う。
「今、人間は三十二人。つまり三十二人分の実存がある。三十二人分の観測がある。三十二人が死ぬと観測者がいなくなる。この世界があってもなくても変わらない世界へと変貌する。それは時間の停止を意味する。時間が停止するには空間が無くなる必要がある。この世界はパラパラ漫画じゃないからね。時間を消すためには空間を潰す以外に自然は選択肢を持っていないようで、果て果て、困ったもんだね。急に起こるんだもん。人口が千人を切った頃から急に。曖昧な何かが宇宙の果てから、宇宙のどこかから、次々に湧き出てきた。どうやら自然はこの世界を必要ないと判断を下したみたいだ」
 もしくは失敗作と断定し始めたのかもしれないね。
 彼女は笑ってそう告げた。
 笑いながら話そうと真面目だろうと固かろうと、変わらない結果の前に強情な表情をする必要はない。
 私たちは、俺たちは無力だから。
 所詮はただのモノだから。
 自然にはない玩具《オモチャ》だから。
 どうやら自然から嫌われているらしい。
「さて、WITHとしてはこの事態、何としても退けたい。人間を守る。人間を守れない機械は必要ない。人間を守れない機械は自分から電源を切った方がいい。その為《ため》のWITHだ。その為の私であり、その為の太一だ。だから、何としてでも白石由人を守り抜け。白石由人を守るためならば、どんなイレギュラーを排除しても構わない」
「違う。どんなイレギュラーも排除しなければならない」
 俺は言った。WITHが言わせたのだ。言わせることで絶対になる。
 誓いは行動基準に刻み込まれる。
「安定を目指さなければいけない。俺は人間を守る。白石由人を月に移転し必ず生き残らせる」
「太一」
 彼女は俺の眼を覗く。碧い眼だった。普段は碧い眼ではない。夕陽でオレンジが混ざって碧い眼になっていた。
「何かもし、私の知らない所でイレギュラーが発生したならば太一に委ねる。もしイレギュラーが起こるとしたら白石由人の側で起こるだろう。それを太一が目撃したら私に報告してくれ。特に彼女は危険だ。まだ何か企んでいる可能性がある。特別は世界を変える力を持っている。変わってはいけない。彼女が望む望まざるに限らず、彼女が死のうが人間が死のうが変えてしまうのが特別だ。彼女は人間の欠片を持っている。それは物質を司る私よりずっと特別な存在だ」
 正直、彼女が羨ましいよ。
 WITHはそう言ってまた微笑んだ。

 そして、有り得ない事が起こった。
 俺はレーシングスーツに着替えた三人が出ていった後、夕刻後の闇に包まれ始めた新聞部の部室のなかで一人、目を開けた。
 逡巡から覚めた俺は決心した。
 椿久美を殺すことを、ここに誓う。


 055

 椿と取り換えていた靴は元に戻した。
 テンションが異常に高かった椿とは反対に、僕はこの少女を目の前にしてまた不安が過《よぎ》っていた。
 また椿はよからぬことを考えているのではないのだろうか。秀のあの睨《にら》み方も気になるところだった。
「なあ、椿、なんでプライベートモードにしたの? 正直、WITHから邪魔されないのならば、どんなに監視されようと僕にとっては一向にかまわないのだけれど」
「私にとっては一向に困るわけですね」
 前を歩く久美は首だけ後ろに向けて、にこりと微笑んだ。
「ゆーくん、なにか隠し事《かくしごと》あるでしょう。私に。私の知らないことを」
書くかく仕事《しごと》……? 執筆?」
「いつから作家になったの。作家は私の職業だ」
 初耳。久美って作家してたの?
「ケータイ小説とか?」
「今二〇八〇年だよ」
「そういえばなんでスマホ小説って言わなくなったんだろうな。ネット小説とも言わなくなってしまったし」
「えっと話を戻しますと、由人の記録をいちいち書き記しているのですよ。私に限らずWITHを中心としたハブ状にいる私たちアンドロイド達は。ほら秀君も言ってたじゃん。『文字数の関係で時間がちょっと足りなくて。物語に関係のない話はまたどこかでやって貰《もら》っていいですかね』って。くそまじめに」
 久美から、くそまじめ、という言葉が出るとは。
 久美も少しずつバージョンアップしてるのか。
「だから私たちアンドロイドはみんな作家なのだよ。体内にゴーストライターを飼っている、自動執筆インチキ作家みたいなものだけど」
 それでね。
 久美は言う。
 僕に対し、ずっと聞きたかったことを訊く。
 《《今しか、彼女しか聞けないことを訊く。》》
「秀君と部室で何をしてたの?」
「何って……着替えて」
「着替えはどうでもいい。普段と違う何か。圧倒的な不自然は何かなかった?」
 ある。音楽。
 秀は部活が始まっている最中に、一人で音ゲーをしていた。
 Wings of Piano。
 いつぞやの夢でも聴いたあの曲で、彼はゲームをしていた。
 たとえ秀がバスケットが埒外に上手であろうと、まだ入部して二ヶ月目の新米が、部活を抜け出して音ゲーに興じるなんて事実、存在するのだろうか?
 誰かの業《わざ》とを感じずにはいられなかった。
「……後輩が音ゲーしてる姿を横目に着替えていたよ。曲名はWings of Piano」
「それで?」
「着替えて部活に」
「違う。Wings of Pianoを聴いて、何を思った? 何を感じた?」
 何を思い出した?
 白石由人。
 あなたは何を思い出した?
「夢と唄を思い出した」
 僕は小さな声で、目の前の少女にだけ伝わる声で囁《ささや》いた。

 さあ行こう
 前を向いてこう
 日々歩いてこう
 君の声がした
 泣いて前向いてない僕を
 君は連れだした
 泣いて笑った 野を駆け廻った
 何でもない日々が過ぎていく
 触れて愛した 君を愛した
 何でもない日々が過ぎていく


 豊肥本線沿いに、水前寺駅から新水前寺駅方面へとゆったり歩いてきた。
 周囲はすっかり薄闇に覆われていた。視力の弱い人にはきつい時間帯になってきた。僕は大丈夫だが久美の方はどうか。久美は授業中は眼鏡を掛けている。今この瞬間の、夏前の気だるんだ風景を彼女は見えているのだろうか。それとも見る必要もないのだろうか。
 僕が小さな声で歌っていた。
 彼女が歌を聴いているとき目蓋は閉じたままだった。
 その歌の中にずっと住み続けたいのだろうか。
 見える景色を否定したのだろうか。
 見える未来から目を逸らしたいのだろうか。
 一分も保《も》たないこの歌の中で。
 彼女は声を漏らさず数滴、泣いていた。


 056

 無いことを証明することは、有ることを証明するよりもずっと難しい。
 というよりも、《《無い》》ということに気が付くことがまず困難を超えて不可能に近い。
 人は、そこにあるもの、それだけで完全だと思い込んでしまうから。
 例えば、歴史を記述する媒体などなく、歴史など存在しないとしよう。そしたらドードーという鳥はこの世から、過去からも存在を消してしまうことになるだろう。
 だから誰も気が付かなかった。
 村上秀と白石由人との部室での密会が、WITHの感知し得ないプライバシーモードの中で行われていたということに。
 あのとき。
 あのときの村上秀は、冷や汗をかいていた。
 バスケットボールのプレイ中はもちろん、見えないものが見える、だとか何とか言って、日頃の生活でも自信の塊のような、あの村上秀が冷や汗をかきながら音ゲーに興じていたのである。
 理由は簡単だろう。音ゲーをやりたくてやっていたわけではなかったと、そういうわけで。
 ただ僕にWings of Pianoを聞かせるために音ゲーをやっていただけで。
 その答えとして、今、目の前で椿久美が瞳を閉じ、涙を零しているわけで。
 椿久美は立ち止まった。
 道具を道路に下ろし、ガードレールに軽く座る。
 袖を伸ばし、涙を抑える。
 僕は知らない。彼女が泣いている理由を僕は知らない。
 僕とこの曲との関係は、夢の中で聞いたことがあるというただそれだけのことだ。
 あるときは研究所で。
 あるときは自分の部屋で。
 あるときは祖母と言われていた、母屋に泊まっていた布団の中で。
 その唄は幾度となく反芻され、記憶に刻み込まれ、忘れることのない数篇の詩と化していた。
 その夢の中でいつも。
 その唄を歌うのは。
 その唄を囁くのは。
 目の前で目蓋を閉じて泣いている彼女その人だった。
 でもそれだと──。
「──なんで泣いちゃうんだろうね。私その唄初めて聴くのに」
  くすん、くすんと小さく鼻を鳴らしながらつぶやいた。
「私の何が反応したんだろうね」
「なあ、椿。この唄は夢の中で何度も何度も聴いた唄なんだ。それで唄っていたのはいつも、椿で。──だから、つまり、僕が見ていた夢が、物質移転装置の暴走から逃げ惑っていた、本当の記憶だとしたら──、椿がずっと、僕が幼いころから、世話を見ていたその夜に子守歌として、唄っていた唄なんじゃないのかなって、勝手に思ってるんだけど」
「それが事実でもね。私椿久美、白石由人保護用アンドロイドは初めて聴いたんだ。その唄」
  椿の頬には涙の跡が残りながらも、その瞳はもう泣いてはいなかった。瞳は東にかろうじて残る夕日を照り返し輝いていた。強い瞳とかすかな微笑みは、探偵が推理を暴く際に見せる自信に満ちた表情を彷彿とさせた。
「私はその唄を知らない。だからWITHも知らない。なのに私は泣いている。そうとなれば答えは一つ。その夢の記憶はゆーくんの実母、白石久美さんとの現実の記憶さ」
  白石久美。
  将来的にあり得る目の前の少女の名前であり。
  過去に実在していた、僕、白石由人の母である。
  白石久美はそこにいた。
「存命中だった白石久美さんが、幼い由人を寝かしつける際に歌っていた、囁いていた子守歌が、Wings of Pianoに勝手に歌詞を付けた唄、ということになるんだね。恐らく、何度も何度も唄い続けた。多分これは、一つの勘だけど」
 夢の中の久美さんは、今の久美さんより少しばかり老けてませんでしたか?
 椿の質問に対し「老けてたというより、比べるというより、単純に母親だったよ」と答えた。


 057

 二〇八〇年、五月二十三日。木曜日。
 午後六時ニ十分頃。
 白石由人と椿久美は、進学塾『壺溪塾』水前寺校の隣に位置する、洋食屋『コーエイ』の椅子を陣取っていた。
 コーエイの木曜日はカレーの日。
 いつもなら五百円するカレーが木曜日だけ三百円で食することができるのだ。
 奥のテレビの見えるテーブル席を椿が陣取った。
 唯一持ち歩いていたミニトートを放り投げて、陣取る。
「おばちゃん! もちろんカレーね。二つ」
 Vの字を作って厨房に叫ぶ椿。
 椿が長椅子の方に座ったので僕は単椅子へと腰掛ける。
 先ほど泣き腫《は》らしていたのは何だったのか。歩いている数分の間に、椿はすっかり元気になっていた。
 コーエイの調理は速い。木曜日はカレーの日と決まっているので僕等が入ってくる頃には準備万端だった。
 すぐさまカレーが二皿運ばれてきた。カレーの上にはトンカツが、食べやすいように一口サイズで刻まれている。
 テレビではテレビタミンが流れている。
「いっただきまーす!」
 と椿がカレーにスプーンを突き刺して食べようとしたその時。
 椿久美のカレー皿が吹き飛んだ。
 店の奥の厨房の方に向かってカレー皿が飛んで行った。
 ダダンっと音がした。
 ギシャンっと皿の割れる音がした。
 危険を瞬間で捉えた椿はまずテーブルを入口方面へとひっくり返す。僕のカレーも入口方面へと吹っ飛ばされることになった。
 椿に引っ張られ机を盾にして身を隠す。その引っ張られる瞬間の、目が回るような引っ張りの間に僕は入り口の方に目をやった。
 入り口にはレーシングスーツを着、オートバイ用とみられるヘルメットを装着した人物が数名立っていた。
 その中でも目を引いたのが、人物の中央に位置していた高身長で散弾銃を構えた姿だった。
 食事前、それ程派手な姿をした集団がコーエイに入ってきていたとは気付きもしなかった。店の中の雰囲気だっていつもと変わらず学生でがやがやとしていただけだった。
 テロか? いや違う僕はここで死ぬはずはないのだ。
 三時間後の午後九時に死ぬと盟約を打たれたからには、その三時間までは必ず生き残ることが保障されている。
 ならば狙いは椿久美、その人だ。
 だったら盾になるべきは机ではない。盾になるべきはこの僕だ──
 椿の手を無理やりにほどき机の前へと勇み出す。
 レーシングスーツの集団も速やかに店内に侵入。僕の周りを取り囲んだ。
「何の真似だ。僕はもう死を受け入れている。椿久美に何があったのか」
 僕は訊く。中央の背の高いレーシングスーツは何も答えない。
「椿久美を殺すな。銃を下ろせ」
「……」
 レーシングスーツの集団は誰一人銃を下ろさない。散弾銃もいれば警察ドラマで見られるようなスタンダードな銃の人物もいる。
「……」
 誰も銃を下ろすことはない。店内の学生たちも厨房にいるおばちゃん達も平然としている。
 誰一人悲鳴を上げるでもない。
 当たり前のように黙っている。
 僕を盾にした沈黙が訪れる。
「……重いな」
「……っ⁈」
 その声は。あや……
 パンッと乾いた音がした。その音が五回続いた。
 高身長のレーシングスーツの身体がぐらりと傾く。
 倒れてヘルメットに罅《ひび》が入り、かこんかこんとヘルメットが数回跳ねた。倒れた背後に銃口を響かせたレーシングスーツの小柄な人物が立っていた。銃口からはまだ微かに煙が立っていた。
 床に血が溜まる。その血液を吸い取るがごとく豊満な髪の毛を要した倒れた人物──市村綾香は死んでいた。


☆☆☆
 
 追記
 小説『Last man on the Earth.』には現実に存在する団体や組織名などが含まれていますが、誹謗中傷や攻撃を意図したものではないことをここに記しておきます。
 また、違法行為を助長する意図もなく、ただのフィクション小説として扱ってもらえれば幸いです。

 追記2
 この物語は作者が統合失調症になる前の、一人暮らし大学生時代に書かれた小説です。作者が書いている途中で統合失調症に罹患し、自家暮らしで時間を割くこともできなくなったため、続きが昔のようには書けないので、物語は途中ですが完結といたします。

☆☆☆

この記事が参加している募集

#宇宙SF

6,038件

よろしければサポートをお願いします。