読書note|『声が生まれる―聞く力・話す力 』

 図書館でこの本を見つけた時借りて帰るか迷った。気が狂うのではないかと。しかし狂うと考えている時点で狂っているのだ。あとは見つめるだけだ。のりこえねばならん、と思った方が気が楽になるような気がして借りて帰った。というと何か変なことが書いてある本という誤解を招くが全然そんな本ではない。私が「離人症」という言葉を勝手に拾い上げて違うところへ飛んでいっていたからである。それはこの本のテーマはではない。しかし、言語というもの、人というものを考える時、それはどこから考えても結局同じ競技場にたどり着く。声が生まれるとはどういうことか。幼い頃耳が聞こえず、16歳で聴力を獲得した著者がどのように声を、自分の中にあるものを音にするという行為を手に入れるか。それはただ伝達手段がひとつ増えただけの話ではなく、言語というものの根源的な問題に関わってくる。


  • 竹内敏晴「声が生まれる―聞く力・話す力」

  • 中央公論新社2007年1月25日発行

  • 206ページ


 これは風、これは鳥の啼き声、これは靴音、怒鳴り声、くすくす笑い、などと分節してゆくのは、すでに存在あるいは潜在している内的言語によるのであって、それが未発達なわたしのような場合には、その対象そのものがなかなか独立の音としての姿を現さない。

竹内敏晴「声が生まれる―聞く力・話す力」

 著者は16歳の時に開発直後の新薬を投薬したことで聴力が回復した。音が聞こえるということは音がわかるということは違うらしい。最初は一度に色々な音がまとまって流れ込んでくるような感覚のようである。それが次第に既知の言葉によって振り分けられ、選択的な世界に狭まっていくようだ。生の体験から導かれた論理はリアリティがある。この本は全体を通し、著者の体験をもとにした身体的な感覚を通じて声というものが語られているので説得力がある。 

 話すことばというものは、息を吐かなくては生まれない。当たり前のことだ。が、人はこれを忘れている。

竹内敏晴「声が生まれる―聞く力・話す力」

 はっとした。私は普段ぼそぼそと喋っている。言葉を何か文字のようにデータのように扱ってしまっていた。文字はあくまでも表層的なものである。歌う時にはそれは強くわかって、信じている。私は話し言葉にも息を吹き込みたいと思った。

 いつかわたしは相手とちゃんとやりとりできている。相槌を打ち、きちんと答えている。しかし、内なるわたしはくり返しぶつぶつ自分につぶやいている___オレはこうやって返事している、話している。相手は感心して聞いている。しかし、だ、ほんとはオレは、こんなところにはいないんだ。全然別の、カンケイないところにいる。ザマアミロ!ここにいるのはホントのオレじゃあないんだぞ!
 このことは、「ことばが劈かれた」後の歓喜と急速なことばの成長に覆われてすっかり忘れていたのだったが、ある時、ある人の悩みを聞いているうちに突然思い出した。この奇妙な浮遊感のような体感は今も鮮やかによみがえってくる。あれはなんだったのか。ある精神医学者はわたしの話を聞いていとも簡単に、「それは離人症ですよ」と断定したが、そう名付けたからといって、なにかがわかったわけでもない。こう感じているとき「ほんとの自分」はどこにいたのだろう?

竹内敏晴「声が生まれる―聞く力・話す力」

 この引用はこの本のメインテーマではない。私は図書館でこのページをぱらりとめくって、冒頭に書いたことを思ったのである。私は気になることがあると深掘りするが、自分の心が好まぬ言葉で単一的な言葉に抽象化されているようなものは拾い上げないようにしている。現代において増えているとされる精神的な病も、言語に対する圧倒的な信頼感からきているのではないかと考えている。言語は何かと何かをイコールで結ぶものではなく、広大な海から小さなスプーンで少しの要素をすくいあげるようなものではある。どうせすくいあげるなら美しいものだけでいいやと私は好まぬ言葉は避けている。おそるおそるこの本を手に取ったが、この本でこの話はそれがどうした程度に一瞬出てくるだけだったのであぁやっぱそんなもんだよなと思った。

 この本の後半では声を届けるということについて実際に行われたレッスン(ワークショップのようなもの?)に基づいた話が語られ、多くの気づきをもたらしてくれる。今回のnoteはまったく要約の機能を果たしていないが、いい本というのは読む者それぞれを壮大に脱線させてくれるのではないか。それだけこの本がいろんな要素を含んでいると思ってもらえたらと思う。

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